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うらあやか さん「マルチタスク」@gFAL(武蔵野美術大学内,~5月27日)

SNSを覗いていたら、ご本人の告知がたまたま流れてきて(この感じには、風に吹かれてシャボン玉が飛んできたようなところがあって、SNSをつい確認してしまうのはだいたいこの嬉しさの所為だと思う)、他のスケジュールとの兼ね合いで、15日にお伺いしようと早い段階で決めていたところ、これまた偶然パフォーマンスとトークイベントの日であることを直前で知って、ラッキーなこともあるものだと思いながら、しかしその時間に到着できるよう、心持ち焦りながらムサビに向かった。
gFALに伺うのは、斎藤玲児さんの個展を一年半ほど前に拝見した以来で、その時は奥の壁に映像が投影され、入り口側には二列くらい椅子が並んだ上映形式の、照明が落とされガラス面も目隠しされた空間は、場というよりも映像の印象の方が強かったけれど、今回のうらさんの展示は、2号館のピロティを抜けた辺りからでも内部の様子がおぼろげながら窺えて、近づくにつれ、中央から少しずれたあたりに椅子が円形に並べられ、そのすぐ斜め後ろからは青と黄色のライトが向けられ、周囲には、空間を這うようにスタンド看板?(というのだろうか、Zの上の横棒がなくなったようなかたちをしている)がうねうねと点在していて、この時は分からなかったけれど、後で数えると11台あった。そして隅の方には予備の椅子が何脚も積んであって、gFAL入り口に着いたあたりでは、円陣を組んだ椅子の左隣にホワイトボードが置かれていることに気がつき、展示というよりはスタジオ、あるいは会議室のようだった。

中に入って、改めて入り口近くのスタンド看板を見てみると、そこには「行為の予告 2023/5/8(月)12:50 gFAL展示室にて」とタイプされた紙が貼り付けてあって、さらにその下には手書きで、「12:50‐14:30 集まった人たちのTo Do リストの一番上を発表しなるべく今ここで完了させる」と記入され、その時その場にいらした人たちのTo Do リストの一番上と思しき事項(メールの返信をする、ごはんをたべる…)が箇条書きされている。「集まった人たちの…」あたりを読んでいる頃から、この紙を”見た”ことがあるのに気がついて、それは、うらさんがSNSで、その日その日のパフォーマンスについて投稿されているからで、そこに付された画像で見知っていた。
展示室に点在する看板にはすべて同様に紙が貼られていて(中央がほんの少したわんだ貼り方も一致している)、行われたパフォーマンスについては手書きでタイトルと概要が記入され、後日のものについては日付と、さっきは省略したものの「いいことを思いつくための行為を行います。よければ一緒にどうぞ」という文章と署名だけが印字されている。その他にも、「制作についてのトークイベントを行います。」という、本日15日17時からのトークを告知するものや、最終日の27日15時から「片づけを行います」というものもあって、今日の《予告》はまだ同じように空欄のままで、この後すぐの12:50から何かが行われることは把握できるものの、それが何かはまったく分からない。

学生さんと思しきお二方と、うらさんを待ちつつ展示を眺めているとすぐにいらして、「約束についてレクチャーします」と宣言すると、椅子の並びを円形から、ホワイトボードのある左方向に開いたランドルト環のごとくサッと並べ直すと、そのままレクチャーを始めた。
講義は、“現代”という言葉の広さ(70年前も、10年後のことも含みうる)からゆっくりとスタートし、「約束」という、日時と場所(うらさんはそれらふたつを合わせてアドレスと呼んだ)を伴ったものを結び目として、作品や作家、そこで行われるパフォーマンス、そしてそれを見に来る鑑賞者が集うこと、その集いが、オンライン会議のような、ある目的を果たすためのもの(逆に言えば、完了後は速やかに解消される)とは違って、その場にいること自体が目的であり、それが充足感や、「けいけんが(きろく)できている」(カッコは講義後に付け足されて、“きろく”だとカメラやテキストによるものを連想させるということで、「にんしき」と言い換えられた)ことにつながる…と講義は続いた。
そうしたオンサイトの特質は、「約束」の下に集まった見る人の視線から、作品が遠ざかっていくこと(文字にするとネガティブな印象になるけれど、たしかうらさんはポジティブな響きをもたせていた)へとつながり、さらには、パフォーマンスを行う作家自身が、見る人として作品や、観客のいる展示空間を鑑賞し、観客も、参加している自分自身を見て…と、見る側の視線も遠ざかっていくことが導かれた。
そして、「映像作品のモニターが故障していて映像が見られなかったら?」という例を挙げて、その際にも、モニターが故障していること自体が“作品的に”評価されうること、「作品的な場所が、作品以外の態度を作る」という一節が飛び出して、それが後ほど《約束についてのだめなレクチャー(作品的な場所が、作品以外の態度を作る)》というタイトルになり、今日の分の用紙に書き込まれた。

このレクチャーパフォーマンスは、17時からのトークイベントでも、トークのお相手である小林耕平さんからの要望で再演された。
そして小林耕平さんは、先のレクチャーにも、始まって少し経ったあたりからいらしていて、展示室の空調が賑やかで、うらさんの声がところどころ聞こえづらかったその時に、スッと空調を切ってくださった姿が印象的だった。そのことは、レクチャーでも重要な概念として登場した「展示のコンディション」、これは雰囲気とかそういうものではなくて、この展示なら作家であるうらさんや、gFALを運営しているムサビ、その大学の安全を確保している警備、そしてそもそも電気がちゃんと通っていること…といった様々な主体(鑑賞者も主体として含まれるらしい)が、うらさんが言うところの「態度をそそぐ」ことで醸成されていくもの、そのひとつの要素としての空調を操作したようで、うらさんのレクチャーの行き着く先が、あらかじめ実践として現れたようだった。

とにかく、急遽再演することとなったうらさんは戸惑い気味ではあったけれど、それでももう一度講義してくださって、そして当たり前ながら、その進行や、板書される図のかたちや概念が布置される場所なんかは変わっていて、そのことが、むしろ真に迫っていたようでうれしかった。それは、二回目だから洗練されてわかりやすかった、という意味ではなくて、たしかに、板書される概念の配置は一回目より整理、というよりなんとなく当てがある感じではあったけれど、では一回目が分かりにくかったかと言うと、探り探り講義が始まって、概念同士がふいにつながり、ホワイトボードの端と端の概念が線でヒュッと結ばれるその動き自体に論理性が生まれたりと、上から下へ順々に板書されるのとは違ったダイナミズムがあって、目指すところ、あるいは中心は一貫していても、そこへのアプローチが都度変わっていくことは、小説論が突き詰めると小説自体になってしまうように、制作論であり制作だった。
そして、その講義の中心、語りのルートが変わってもなお追い求められているのは、「約束を破る」ことで、それは、昼のレクチャーでも出ていた「映像作品のモニターが、故障で消えている」という例のように、その作品めがけて、あるアドレス(時+場所)にやってきた観客が目的を失い、オンラインならパソコンを閉じてしまうところを、現にその場に私自身という観客がいて、故障中のモニターが置かれているという「けいけんがにんしきされる」、うらさんの展示で言えば、パフォーマンスが行われる(○)でも、パフォーマンスが行われない(×)でもない、パフォーマンス△(板書では「パ△」)の事態、うらさん曰く「やくそくの所にはいるんだけど なんかちがう とか?」な瞬間を呼びこむべく設えられた空間のよう。

うらさんのレクチャーの中には、前述のように「主体」がたくさん出てきて、それらがひとつの展示、あるアドレスでの出来事に関わっているけれど、当然ながら自分以外の主体はブラックボックスで、うらさんの講義を聞いていると、鑑賞者である自分自体がどこか謎めいた存在のように思えて面白い。それは、同時期の六本木アートナイト2023、国立新美術館にも展示されている《〈欲望〉について(生きることについての憶測:ホイアン(ベトナム)の犬の場合)》《蜂と関わろうとする身振り(適正な関係は壊されてしまった..)》(新美術館のバージョンはまだ拝見できていないけれど、昨年、駒込倉庫で行われたグループ展「(((((,」でこの2作品を、後者については加えて、コロナ禍にネットプリント経由で行われたProject le Bosquetでも、3枚の連続写真として見ていた)に出てくる犬や蜂のように他者で、それを象徴するかのように、この展示室にも、拡大された蜂が窓辺に踊っている。

犬や蜂、鑑賞者がどう動くか、そもそも訪れるのかは、うらさんにとって動かしようのないことで偶然に属することだろう(蜂には蜂の論理、鑑賞者には鑑賞者の都合があるから、その視点から見たら必然だけれど)。そうした偶然は、なにも外からやってくるだけでなくて、たとえば、展示室入口から見て右奥の壁に貼られた写真《big tiredness》は、うらさんの顔をアップにしたもの(頭頂部は切れている)を分割したもので、現在は11枚貼り付けてあるけれど、4枚ずつ3段に並んだその最上段、右から2枚目、おでこから生え際にあたる部分の写真が貼られていない。そのことは、《予告》の紙が11枚であることと関係があるのかと思いきや、当初は12枚すべて貼られていたらしく、うらさんのSNSに投稿された展示室の様子を見ると、たしかに1枚も剥がれていなくて、それは単に偶然剥がれただけらしい(その落ちたと思しき1枚が床置きされていて、隣には、最上段のさらに上の段、切れた頭頂部にあたる部分のうち1枚が置かれ、他3枚?は壁に立てかけられている)。しかし、その偶然をうらさんがよしとしたから、そのまま保存されているのであって、作家さんの受け入れた偶然が、鑑賞者には必然に見えることは、まさに「パ(フォーマンス)△」の事態にも思えるし、時折向きの変わる石のCGが延々モニターに写されていることも、もしかすると、故障して見られなかったり、それこそ予期できないアクシデントを呼び込むためのフックなのかもしれない。
そして、この辺りを書いている時に、ふと他の方の展示風景写真をSNSで眺めていると、11枚の写真は、さらに最上段右端の部分と、最下段左から2枚目、ちょうど口元のあたりが剥がれて9枚になっていて、それはモニターのドットが少しずつ抜けていくみたいで、ゆるやかに見られない状態に近づいていると言えるかもしれない。

さらに、11枚の《予告》は、ムサビの展示情報ページに掲載されてはおらず、この場に来ないとわからなくて(学内の他の場所に《予告》があったりはしたのだろうか)、あるいはうらさん個人のSNS経由にしても、べつに一覧になっているわけでもなく、ひとつずつ、直前に告知される。そのやり方も、「パ(フォーマンス)○」と「パ×」をぎりぎりまで曖昧にしておくことのようだし、この展示室に一度来て、たとえば「27日に片づけをやります」という新しいアドレスを入手してその日まで待つ、そして当日のよい頃合いを見計らって再訪するみたいな動きも生まれているはずで、それは、歯医者さんに行ったら次回の予約をするように言われた…という体験よりは、来週も面白そうだから講義に出席してみようと決めることに近い気がして、そういう点では、観客側にとってフレンドリーだけれど、待つ側にとっては過酷だと思う。加えてそこには、行きたかったけど行けない、来たけど次の予定があるから途中退席する…みたいなバリエーションもあるはずで、そうして、展示室が次のアドレス(=再訪)を生んだり、あるいはまったく別のアドレス(次の授業かもしれないし、仕事かもしれないし、単に疲れたから帰るのかもしれない)へつながっていったりする様は、目的地というより中継地のようだ。

レクチャー1回目の板書で、うらさんは、ホワイトボード中央やや左上に約束の「や」を書いて、それを○で囲った後、「約束を破る」ことを話しながら、その○の中に点々をぐるぐると描いていた。点々がたくさん描かれた「や」はなんだか破裂しそうな印象で、「約束を破る」とは、展示という”殻”を揺るがすこと、日常や生活の方へと流失したり、あるいは、逆にそちらからの流入を受け入れることで、中継地点として安定した場ではなく、あたかも潮目や前線のごとく、濃度や温度の異なるものがせめぎあって常に移ろうその渦中にい続ける実践なのかもしれない。
各人のタスクをこの展示室内で解消することがしばしば試みられるのも、複数人の生活をこの場に持ち込む、ひととき日常空間に仕立て上げることで、鑑賞者にとっては、展示を見に来たのにいつの間にか職場にメールしている…みたいな事態がもたらされ、うらさんにとっても、パフォーマンスの中で日常、あるいは別の展示のタスクを進めたり、パフォーマンスのために毎回ムサビまで通ったり、新美術館やBankARTで同時期に開催される/された他の展示と並行して運営したりすることが求められ、そして、特に学外の者にとっては展示の場でしかないgFALが、学生さんにとっては先輩作家に習う場でもあり、もしかしたら次の講義までの時間つぶしでもあって、作家さんにしてみたら職場である…みたいな当たり前のレイヤーが、当たり前のようにさらけ出されている。

展示の場であれば、鑑賞者はふらっと来て、満足したか疲れたか、あるいは1日の予定に従ってそこを立ち去るだろうけれど、作家さん、特に今回のうらさんにしてみたら、決まった日時に来て、一定の時間をそこでパフォーマンスしなくてはいけないし、大学職員の方なら、それこそ日々をムサビで過ごさなければならなくて、異なるレイヤーが共存するということは、異なる時間軸が存在するということだろう。そのことは、今年のGW中にBankARTで開催されたグループ展『Platform || Pause rest+restore 休日のプラットフォーム「休養と回復」』、その中で行われたワークショップ《アンアトラクティブ・ダイアリー/ワンデーコンタクト》(タイトル自体は変更の可能性が高いそう)で、私は参加したわけではないけれど、残された記録に、「早く決めて、次のステップに行きたそうだったが、場がうんざりし始めるまでその合図を出さないでいてみた。」という記述があって、その“うんざり”と、タスクが終わらないから、まだ時間じゃないから、帰りたいのに帰れないといううんざりは通ずるよう。今回の個展で、各自のタスクを展示室内で完了させる場合にも、思いのほかタスクが終わらない…みたいな参加者もいるはずで、楽しそうだから来て、楽しくなくなったから帰る、ということを一旦できなくして、「うんざりし始める」まで過ごしてみることは、期待や緊張で膨らんだ気持ちを落ち着かせて、また別の視点から作品を、空間を見ることにつながって、それがひいては、「パ△」な事態を招くのかもしれない。

「マルチタスク」という展覧会タイトルにも、一般的な意味よりもむしろ、居合わせたみんなでとりあえず手札を見せあったら、トレードしたりペアを作ったり、もしかしたら予期せぬ何かが生まれるかもしれない…という試みのニュアンスがあって、都賀めぐみさんとやっておられるfemale artists meetingの《ウィッシュリスト》、来場者が、自分の「求めているもの」「譲れるもの」「保つもの」を思い思いにカードにしたためて、それを共有することで、うまくマッチングされることもあるかもしれないし、何かのヒントになるかもしれないし…という場づくりにもやはり通じていると思う。そしてうらさんは、そのファシリテーターでもあり鑑賞者でもあり、なにより生活者なのだろう。


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