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飯川雄大さん「デコレータークラブ 同時に起きる、もしくは遅れて気づく」@彫刻の森美術館

木の間から覗く《ピンクの猫の小林さん》は枝を染める花のようで、彫刻の森駅を目前にした箱根登山線の車窓からも、ふたつのトンガリが、同じくらいとんがった (しかしフサフサとやわらかそうな) 木々と並んでいるのが一瞬見え、また隠れてしまった。
美術館の入口を抜け、円形広場を臨むと、手前の樹、その太い枝にはロープが何本も巻き付いていて、一方は個展会場であるアートホールへ、もう一方は本館ギャラリーへ、さらに本館ギャラリーの角からも円形広場方面へロープが伸びている。これが飯川さんの作品 (の一部) であり、美術館全体が、その作品世界にひととき呑まれている (そしてあと2日で覚めてしまう) ことだけは察知されるものの、まだそのロープがどこへ続いているのかは分からない。

アートホールに向かう前に、先ほど車窓から見かけた《小林さん》を、大体の方角だけ検討をつけて探しに行く。ロダンの《バルザック記念像》(後ほど聞いたトークにて、ゲストの中ハシ克シゲさんが、この作品の隠喩について語っていた) を通り過ぎ、道なりに進むと橋があって、その左手に《小林さん》の頭が見え隠れするものの、それは《小林さん》に会ったことがあるから分かるのであって、初対面の方にはよくわからない小高いピンクの山だろう。バルーンの《小林さん》に空気を送り続ける送風機と思しき低い持続音が聴こえてくる (近づくとむしろ気にならなくなって、この橋の上辺りが、音を聴くには適したスポットだった)。
橋を渡り終えるとすぐに緑陰広場で、ゆるく蛇行した道に沿って進むと、先ほど見えていたのは《小林さん》の後頭部で、建設現場でよく見かける、鋼製パイプの足場にもたれているのが見て取れる (後で橋の上から再度眺めてみると、木と木の間に張りわたされるように、既に足場が覗いていた)。各部がワイヤーで固定されているのも見えてきて、身体のあちこりに細かなしわが寄っているのもあいまって、隣り合うニキ・ド・サンファル《ミス・ブラック・パワー》の重量感、つるりとした質感との対比が面白い。

よく知られているように、《小林さん》はとてもシャイで、例え正面に回り込んでも、近くの ”塔” (《幸せを呼ぶシンフォニー彫刻》) から覗き込んでも、その全身を、両目を一望することは出来ない。だからこそ、その散り散りにされたイメージをかき集めて、パズルの如く一枚の大きな絵を、《小林さん》の全体像を捉えたいがために、色々な角度から見たくなるのかもしれない。その営みの中では、どんな見え方も、全体像を把握するための情報としては等価 (なはず) で、情報として重視しがちな顔が隠れていることで、逆説的に、どんなアングルも同じくらいの強度で迫ってくる気がする。
もし《ミス・ブラック・パワー》を後ろからだけ見たら、「《ミス・ブラック・パワー》の後ろ側だけ見た」と補足するだろうけれど、正面を見たら「《ミス・ブラック・パワー》の正面だけ見た」とはわざわざ言わない気がする。それはやっぱり、正面を見ないと、全体を把握した気になれないからだろうし、逆に言えば、正面だけでも押さえておけば、側面や背面、ましてやまず見ることのできない足裏を知らなくても、知っていると思ってしまうことに繋がる。
そう考えると《小林さん》は、私たちが見ている、見えていると思っていることにも穴がたくさんあることを、やさしく諭してくれているのかもしれないし、何よりも、色々な角度、距離から眺めることの面白さを教えてくれているのだと思う (個人的には、《星の庭》の迷路から垣根越しに仰ぎ見るのと、しっぽ側から間近に見るのが、同じものと思えないほど違って見えて面白かった)。
一方で、SNSや、館内案内、グッズなどには《小林さん》の全身が惜しげもなく描かれていて、実物の見えなさに対する、イメージの見通しのよさが皮肉。

緑陰広場からアートホールの方へと戻る道すがら、本館ギャラリーの壁を何気なく見ると、楕円形の何かが壁の上1/3ぐらいのところに貼り付いていて、すぐにその光景が、「つくりかけラボ04 デコレータークラブ ―0人もしくは1人以上の観客に向けて」(@千葉市美術館, 2021年7月14日[水] – 10月3日[日]) を思い出させて、千葉市美術館の外壁に吊るされていたように、リュックサックが吊るされているのだと分かった。そのリュックがゆっくりと上がる様子、そして千葉市美でハンドルを回した時の手応えから、ある程度の重量なのは推察されるものの、会場に点在する《ベリーヘビーバッグ》ほど重いのかは分からない。
手でリュックを持てば、その重さを数値には表せないにしろ正確に感知出来るところ、その間にハンドルとロープ、そして滑車が差し挟まれることでどんどん遠く曖昧になって、その感覚は翻って、目の前の人が軽々背負っているリュックが、本当に見た目通り軽いのか判別できない、その得体の知れなさと通ずるかも知れない。

今度こそアートホール…と思ったものの、本館ギャラリーから円形広場方面へ伸びたロープが気になったので、先にそちらへ向かうと、坂の下へと壁沿いに続いていたので、左の方から回り込む。この、飛び降りでもしないとまっすぐロープを追えないことは、緑陰広場で草地の中に入れない (その為、《ミス・ブラック・パワー》の背中を見るには、緑陰広場をぐるりと回らないといけない) こととあいまって、《デコレータークラブ 配置・調整・周遊》(@ヨコハマトリエンナーレ2020, 2020年7月17日[金]-10月11日[日]) で、重い "壁" を押しながら進んだ時の、見えていても、その見え方ほどには近くない (逆に、見えていないだけで、壁一枚挟んだ向こうだったりもする) 感じとも通ずるよう。
壁に這ったロープはそのまま「きづく」の三文字になっていて、うっすら動いているのが見てとれたものの、その時は動いていることだけがロープの震えで分かっただけで、ロープの色が部分部分で違っていて、動くことでその文字の色が変わっていくところまでは気がつかなかった。夕方見に来ると、「き」の文字は白いままだったけれど、「く」の文字は赤から緑に変わっていた (というのは写真を見たから分かっただけで、やっぱりその時は分からなくて、その見てとれなさが面白い)。

今度こそアートホールへ向かうと、部屋の中にはロープが縦横に張り巡らされていて、先ほどの「きづく」のように、「EXPECTING SPECTATOR」と描かれている。ロープは中央のふたつの箱から伸びていて、それらに3、4本ずつ生えたハンドルを、鑑賞者が思い思いに回している。私も回してみると、その手応えからハンドルの先に何か重いものが繋がっていて、それを動かしていることだけは分かるものの、目の前のロープが動くわけでもないし、他の方と一緒に回していると、同時並行で様々なところが動くため、もはや自分がどれを動かしているのか分からなくなる (逆に言えば、鑑賞者の方が多くいればいるほど、より混沌として面白い)。例外的に、目の前のリュックを動かすためのハンドルがあるものの、それがそのリュックだけを動かすものなのか、それとも、「すみだEXPO2021」(2021年10月1日[金]-10月31日[日])で見たように、また別の機構を同時に動かしているのかはやっぱり分からない。その分からなさは、見上げると空に走っている電線が、途中で途切れていないことだけは分かるものの、どこからどう繋がっているのかは把握できないことと近しい。
アートホール内の「EXPECTING SPECTATOR 」はもちろん、先ほど見た、本館ギャラリーの外壁を上下するリュックも、色の変わる「きづく」も、誰かが知らぬ間に動かしていたもので、私も動かしている間に、やっぱり知らない誰かにそれを見せてあげていて、その見せてもらう/あげるの関係が入れ替わっていくところに、ひとつの面白さがあると思う。その関係の入れ替わりは、《デコレータークラブ 新しい観客》のキャリーバッグを転がすこと、ひいては、配布されているポスターを丸めて持ち帰る (そしてバッグからはみ出した筒を道中目撃される) こととも通じていて、知らず花粉を運ぶミツバチにされた心地。

13時半頃からのトーク「7割くらい失敗していい!」は、《時の演習用時計》シリーズが映し出されたモニター4台 (壁掛けであることも、時計と通ずるよう) がある一角で行われた。会場は盛況で、頭と頭の間から飯川さんは見えるものの、中ハシ克シゲさんのお姿は見えづらくて (もちろんトークはしっかり聞こえていた)、その見えなさは、緑陰広場で恥ずかしがっていた《小林さん》とも通じて、翻って、《小林さん》が、単に《小林さん》自体の見えなさではなく、物を見通すことはそもそも出来ないということを扱っていたことが感じ取れる。
飯川さんの向こう側に掛けられたモニターにはバスケットゴールの一角が映し出されていて、時折、そのゴールにシュートを決める人がいたり、散歩なのか、画面を通り過ぎる人がいて、部屋の窓から外の光景を眺めている心地。トーク終了後に再度作品を眺めてみると、トークの背景として、見るとはなしに見ていた時の印象よりもずっと変化がゆったりで、時計を見れば見るほどにその歩みが遅くなったり、一方で、家々から漂い始めた夕餉の香りで改めて夕方を感じたりと、そんな日常的な時間の伸び縮み、感じ取り方が、そのまま閉じ込められているよう。
一方で、24時間ある《時の演習用時計》を開館時間中に見切れないことは、《小林さん》の全身を一望できないことや、空気の抜けた状態を見られないこと、そのピンクの肌に落ちる光のうつろいを、ロープの動きを、ひいては彫刻の森全体を見尽くすことの出来なさと通じていて、見るほどに、見ることの途方もなさを感じさせる。
そしてこの感想も、そんな見尽くすことのできないものを、両手で掬える分だけでも留めたいという ”衝動” によるもので、その至らなさは、《デコレータークラブ 衝動とその周辺にあるもの》で、デコレータークラブと遭遇し、その綺麗さあるいは奇天烈さを表現しようにも表現できないもどかしさと通ずる。蟹の姿を正確に伝えることこそ出来ないものの、それを伝えようともがく姿はそれ自体がひとつの作品だろうし、私の感想も、そうであったら嬉しい。

帰り際に空を見やると、本館ギャラリーの角から幾重にも伸びたロープと並ぶように、飛行機雲が走っていた。


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