見出し画像

「いない人と考える いない人を考える ー 山岡さ希子さんの映像、ドローイング、アンケート作品のための覚書」

 埼玉に通学していた頃、土呂駅は車窓越しに流れるホーム、あるいは殺風景な駅前広場くらいしか印象がなかったくせに、ここ数年は『アーツさいたま・きたまちフェスタ』を観に毎年(それも連日)訪れていて、この日は『アーツさいたま』でこそないけれど、目的地は変わらずプラザノースだ。

プラザノースは、その名の通りさいたま市北区役所でもあり、図書館でもあるし、ホール、アトリエ/スタジオなども有する多目的な文化施設だけど、道路を挟んだステラタウン、こちらも複合的な商業施設とは2階の通路で連絡している。
その連絡通路からプラザノースへと入れば、会場であるノースギャラリーはすぐ目の前だ。ギャラリーをかすめるように左奥へと伸びる通路はさらに左折し、音楽スタジオへと続いていくが、その曲がり角のあたりまで壁面展示ケースが連なっており、この日は『Women's Lives 女たちは生きている ― 病い、老い、死、そして再生』というグループ展の初日、10月9日だった(そして会期は10月22日までだった)。
通路と沿うように並んだ1~7までの展示室(展示室8は飛び地で、通路の反対側にあるが今回は使われていない)がぶち抜きになったギャラリー空間も細長い。山岡さ希子さんの展示スペースは入口すぐの角で、互い違いに置かれた4台の座卓、そのひとつひとつにモニターが置かれており、40分くらいのインタビュー作品4種がそれぞれ上映されている。

各モニターの前には座布団が1枚ずつ敷かれていて、手前から2番目のモニターの前に座ってみると、ちょうど、画面に映る回答者と一対一で向かい合うような距離感だ。テーブル手前には質問紙と鉛筆が置かれており、鑑賞者も、回答者と同じ質問に答えることができる、今、モニター内では回答者のひとりである美秋 Meerkat さんが、「現在のあなたについてお聞かせください。」と尋ねられていて、“最近はずっと自立、経済的に自立することばかり考えています” と答えている。
その返答を受けるように、次の質問は「仕事とはなんでしょうか。」で、村上裕さんは、”仕事とは、たぶん、政治的に許されること” と応じ、“色々な社会の活動をしていても、まず、家族を大事にする” と言うリー智子さんから始まった「家族とはなんでしょう。」という問いは、美秋さんの、”友達のような親だった” という述懐から「親友はいますか。」へと接続される。

その問いかけに対し、野本翔平さんは、“例えば、あのパン屋の主人なんかは親友だと思います” と答えていて、あのパン屋とは誰のことだろうか?私は今この文章を、展示から2か月ほど経った昨年12月に、山岡さんが自身のyoutubeチャンネル上で公開した本作《Public Double A 個人とその社会》(https://www.youtube.com/watch?v=fhOG5yLbX7w&t=696s。後述の《Public Double B 社会に関わる個人》、《アドヴァイザーとしての死 Death as an Adveviser》も公開されている)を見ながらリビングで書いているけれど、目の前の父母が、ちょうど自宅近くのパン屋の話をしていて、こういう偶然はしばしば起こる(と、印象に残るからつい思ってしまう)。その前には、佐野佳子さんが、“理由もなく長い時間一緒にいた人が友だちの範囲に入っている” と答えていたように、「親友はいますか。」という問いでは “時間” がある種のキーワードになっていた、そこから「あなたが属しているコミュニティはありますか。」へ移ると今度は “距離” がテーマとなって、権祥海さんは、“固まりすぎて、つまらなくなることを警戒すべき” と返す。

現在の自分から、仕事、家族、親友、コミュニティと続いた問いかけは「社会に対して何か責任を感じることはありますか。」へとさらに発展し、美秋さんが(右手の立てた指先で、自分の頭をとんとんと触れながら)“脳のこの辺に、アーティストの役割とか考えるんですけど、それを捨てる努力をしています” と逡巡を見せるのに対し、その直後の橋本耕平さんは、“責任はないと思います” と静かに言い切っていて、「はい/いいえ」にはないそのグラデーションが豊かだ。

“一人一人が自分の権利をちゃんと行使することにも、責任があるんではないかと思います。コロナの時などは、すごく思いました” という野本さんの言葉で締めくくられた《Public Double A》、そのもう半分にあたる《Public Double B》は、《A》が上映されているモニター、その半ば背中合わせになった別のモニターに映っている。
席を移り、ヘッドフォンを着ければ、“小さな公共スペースが家の中にある” と語るリーさんの声が聞こえてくるが、これは「公共空間の役割は何でしょう。」に対する返答で、橋本さんは、“(住んでいる人々が、どう使うかを考えられるような)機能のない空間があるといい” と語る。

"ホーム" を飛び出した、あるいは出ざるをえなかった、または失った…と、書き尽くせないほどの理由で日本に暮らす人々にもある意味それらは当てはまる。 「『外国人』とは。」という質問に、権さんは、“今の日本は主流側の(日本に来て、ちゃんと経済的に役に立つ)外国人にだけフォーカスしている。僕が、ビザをずっともらえているのは、そういう側にいると言えます” と応じて、次の「国家や社会の役割は何でしょう。」に、 藤原伸介さんは、“みんなが働く場所だったり、住む場所だったりを、提供する立場の組織であってほしい” と答えたが、そうした願いはまだ聞き届けられていないのかもしれない。
そこから「世界はどうなっていくでしょう。」へと発展した問いは、“むしろ、地域とか国とか文化とかが違った方がいいのだと思っています” と言う野本さんによってローカルへと繋がって、ここまで《Public Double A》《B》を見てきて思うのは、問いかけを起点に、一見、反対のように感じられる概念と概念とが繋がっていくということだ(例えば外国人を考えることは日本人を、公共を考えることは私的空間を、グローバルを考えることはローカルを考えることが包含されている)。

《Public Double》は、2012年の同名ビデオ作品に、2023年撮影のインタビューが統合される形で制作されていて、村上さん・橋本さん・藤原さんは2012年、その他の5名は2023年にインタビューを受けているが、「あなたがこれからの人生でやりたいことは?」と、個人的な方向へと翻った問いかけに、"テクノロジーの勉強がしたい。"と答えていた村上さんは、2023年10月12日(すなわち、『Women's Lives』展の会期4日目)の夜にはアートセンター・オンゴーイングの『ニュー』というイベントで、酒井風さん・松岡はるさんと共にプログラミングを用いた即興パフォーマンスを行っていた。

最後の質問「芸術はこれからの世界に何かできるでしょうか。」に、“世の中の主流、というより日本社会の主流の(中略)価値観ではない、別の価値観を提示できているところが、拠りどころになる人もいる” と返答したのは佐野さんで、そもそも回答者が8人いて、そうした各人が、路上・公園・店内・回答者の自宅(と思しき室内)…と異なる場所(そうした選択にも、山岡さんと回答者一人一人との関係性や、その日の都合なんかが磁場のように干渉し合っているはずだ)でインタビューを受けていること自体が、それぞれの回答を、それぞれに対するオルタナティブ(この言葉自体、作中で橋本さんが言っていた)にしているし、質問事項のあらかじめ決まったインタビューではあるけれど、もっとやわらかな、それこそ雑談とか、茶飲み話が、ふいに核心的な話題へと接続した時のようなリラックスした真剣さ、みたいなものがあって、藤原さんがこぼした、“魂の救済”、というものは、案外こうした “日常的な” 営みからもたらされるのかもしれない。

救済という言葉が、壁に掛けられた7枚組のドローイング《板の上》と通ずるようなのは、シンプルな筆致で描かれた、“板” の上にねそべるひとりと、その板の傍らにいるもうひとりの姿に、『小栗判官』の物語が重ねられているからだ。
地獄から生還したものの、自力では動けない、物も話せない “餓鬼阿弥” となった小栗は土車に乗せられ、通りがかりの人たちに順々に引かれ、ついには熊野・湯の峰温泉まで辿りついて湯治の効能によって元の身体に戻るが、そもそも、通りがかったという時点でおそらく無縁ではない(夫と知らずに引いていた照手姫は言うまでもなく)。きっと彼らの多くも熊野詣の途中だったのだろうし、小栗=餓鬼阿弥の首には「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」の札がかかっていたから、小栗を助けることは、すなわち自分(と近しい人)を救済することだった。
そう考えると、山岡さんのスペース、その一番奥まったモニターで流れていた《The Body Maintenance》は、“自己救済” 、最小単位の救済にまつわる作品と言えるかもしれなくて、

「身体のケアやトレーニングを何か行っていますか?」
「食べるもので気をつけていることはありますか?」
「メンタルや身体の不調についてお話いただけますか?」
「服装や身に付けるもので何かこだわりはありますか?」

という4つの問いかけで形作られている。
私は『Women's Lives』を結局3度見たが、それはこの展示のボリュームのためでもあるし(山岡さんの作品を見て、質問紙に回答するだけでたっぷり1日はかかる)、プラザノースの正面広場で、10月14・15・21・22日と開催された『【アーツさいたま・きたまち】ART-Chari 2023』からハシゴしたためでもあって、“アート+チャリ” という題の通り、自転車を使った作品が広場では周遊していた。そして一部の作品は公道にまで出られるものだったから、作家と一緒に盆栽美術館→漫画会館→鉄道博物館と巡って、またプラザノースに帰ってくるというツアーも各日2回行われていて、7年ぶりくらいに自転車に乗った(持ってすらいなかったから、アプリで借りた)。そうして1時間くらい、よろよろとツアーに参加して、その後2時間くらい、作品を見たり(その中でも、佐塚真啓さんの作品は自転車の周りに板を括り付けた、武骨な “空飛ぶ絨毯” みたいで、荷物を、人をその上に乗せて運ぶのは小栗の土車を引っ張るのと似ていた)、作家さんと話したりして17時過ぎに『Women's Lives』へ滑り込むと(閉場は18時だ)、山岡さんから、“颯爽と入ってきましたよ” と言ってもらえたのでツアーのことを話すと、“やっぱり身体を動かしてきたからでしょうかね” と返ってきてこの一幕が《The Body Maintenance》みたいだ。

《The Body Maintenance》は、一番奥のモニターで見ることができたけれど、もう1か所、出入り口の壁面展示ケース内モニターでも上映されていて、音声は(聞こえ)ないから字幕を読むことになる。しかし、そこは通り道だから見ている内にも人が通る(習い事だろうか、3組の親子連れがわいわいと通り過ぎた)、カップルと思しきふたりは隣、少し後ろのあたりで立ち止まって、“この人おしゃれだね”、“うんうん”、“あーわかるなー” …と囁きあって見ているから小鳥みたいで、“副音声” 付きで見るのは、ひとり集中して見るのとはまた違う面白さだ。

《The Body Maintenance》が展示室の内外を結びつけていたように、《板の上》も、ぶち抜きになった長い展示室を繋ぎ合わせていた。というのも各作家のスペースに1点ずつ掛けられていたからで、土車の小栗が引かれていったように、導かれつつ展示を巡ると、地主麻衣子さんの《わたしたちは(死んだら)どこへ行くのか》、その最終章において、 彼岸花の写真の上をまっすぐ走る炎の軌跡は、和紙に電気ペンで、(おそらく)ゆっくりと焦がし描かれた《板の上》の、縫い跡のような線と通ずる(その後、彼岸花は真っ二つになり、その向こうには真っ白な “空間” が広がる)。

そうして辿りついたのは須恵朋子さん描く《ニライカナイを想う》で、そこからは生き返るように引き返すことになる。山岡さんのスペースに再び近づいていくと、壁一面に散りばめられた、200もの “顔” が段々と見えてくるけれど、これは《会ったことのない人々》というドローイングのシリーズで、皺を伸ばしたAmazonの梱包紙?に、鉛筆で描かれているこれらの人物たちは、書いている内に湧いてくるらしい。
だから当然、山岡さんも、私を含めた来場者も、彼らと会ったことはないはずだが、間近でひとりひとり眺めてみると、例えばくるんと跳ね気味な短髪で、口ひげを薄く蓄えた男性は、知り合いでもあり、好きな美術家でもある田中さんに似ている。もしかすると、訪れた人は誰かしら、似た人物をこの中から見出しているのかもしれないし、そこから、本物の○○さんだったら、《Public Double》や《The Body Maintenance》の質問にどう答えるだろうか…と想像することはきっと遠くない。

そして、《会ったことのない人々》と混じりあうように、来場者が映像作品を見ながら答えた質問紙も逐次、壁に貼り付けられていく(だから行く度に増えて、顔が覆い隠されて見えなくなったりもする)が、鉛筆で記入されたこれらもある意味でドローイングだし、自画像とも言えるだろう。
振り返れば、後ろの可動壁から横壁まで、整然とL字に伸びた掲示物もすべて質問紙だが、これらは《アートに関するアンケート》という別の作品で、1992年、山岡さんがメールアートの形で1000人ぐらいに送付し、返ってきたものの内150通ほどが公開されている。
「あなたの好きなアート(芸術)はどんなものですか?」「具体的に今までにあなたの心に残った作品を書いてください。いくつでも」…と続いていく質問に対する回答のひとつひとつが、ある見知らぬ人の思考・人格・教養の現れでもあるけれど、項目は全部で35近くあるから答えるのも長丁場で(来場者は実際、これらの質問にも答えることができた)、だからこそ、文字もだんだんと勢いがのってきたり、あるいは疲れがにじんできたりするし、回答の最中に飲んだであろうコーヒーのひとしずくや、角の折れ目といった痕跡がむしろ雄弁で、これらもやはり自画像と言えるだろう。

いない人を考える、ということは、今回の山岡さんの作品に隠されたテーマなのかもしれない、映像を見ていても、《会ったことのない人々》を眺めていても、私の知っているあの人だったら、あるいは描かれたこの人だったら、こうした質問にどう答えていたのだろう…と思わず想像してしまうし、残された質問紙を読んでいても、今ここにいないこの人は、一体どんな顔の、姿の人だったのだろう…とやっぱり気になってしまう。

そして、そうした “いない人” の射程には、今この世にいない人も含まれているのだろう…と感じるのは、《アートに関するアンケート》が1992年に制作されていることもあるし(だから、来場者の回答とは30年超を隔てていた)、《Public Double》が、2012年と2023年にまたがって撮影されていることもあるが、もっと直接的には、《アドヴァイザーとしての死》という、これまたインタビュー作品の存在が大きい。
《アドヴァイザーとしての死》は、点在する4つのモニター、その内もっとも出入口寄りのモニターで上映されていたからそこでも見たけれど、『Women's Lives』が閉幕して2週間足らずで開幕した『プチ蔵現代美術展2023 ― 響き合う空間 ―』でも、会場のひとつである旧山崎家別邸、その床の間に設えられたモニターで流れていたから、(そんな家はないけれど)田舎の親戚宅に来たような心地でまた見た。

この作品は、複数の質問で構成されていたそれまでのインタビューとは違って、「『死』について考えたり、感じていることを話してください」というただひとつの質問を起点にしていたけれど、死とは何か?という疑問は逆に、生きるとは何か?人間ははどう生きるべきなのかという自問に繋がる。そこから、生きていることと死んでいることの差は何なのか?自分の運命を自分で決めることはできるのか?死んだら何もかも消えてなくなるのか?そもそも自分とは何なのか?

…というところまで広がるが、私が《アドヴァイザーとしての死》を見ていたその和室は、案内板によると山崎家の居間に当たる、“日常最も使用された部屋” だったらしいし、座っているこの畳も、しばらく前にくぐった低めの鴨居も、人ひとり収まるという点で棺桶と近しい(というより、人の尊厳を生存と同じく保つ意味で、むしろ棺桶のほうがこれら “普段づかい” のものに近しいのだろう)。さらに、案内板の傍らには、「平安御所車」と札が付いた置物があって、河鍋暁斎が、幼い娘を亡くした依頼主のために描いた《地獄極楽めぐり図》、そこで娘・田鶴が乗っている車を思い出させる(正確には、お輿というより人力車だが)。

モニターから少し目を上げれば、「鋤禾日当午汗滴」から始まる青淵(渋沢栄一の雅号)の書(の複製)が掛かっている。これは李紳の『憐農詩』で、「粒粒皆辛苦」で終わるこの詩こそ、“粒粒辛苦” の由来らしいが、それはちょうど、終わりに差しかかったインタビューで語られた、太田喜八郎さんの、“自分がやっていることを、周りが馬鹿馬鹿しいと言っても、やったことがあとで、自分のためになるかもしれない” という言葉にも通ずるようで、やっぱり、死を考えることは、ある地点から生を考えることへと反転していくのかもしれない。
そんな苦しさ、こわさを乗り越えるおまじないとして、太田さんは “チャック・チャック・イエーガー” という、音速の壁を初めて突破した人物になぞらえた言葉を教えてくれる(バイク乗りには有名らしい)が、小栗の首に「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」の札をかけてやった高僧のように、見つけた、あるいは作り出した “呪文” を惜しげもなく分けてしまうことが、芸術、というより美術なのかもしれない。

立ち上がって、梁と平行に走る細い竹の棒、そこに白いリボンで結わかれた《会ったことのない人々》(シリーズの内2枚)を横目に鴨居をくぐるとそこは廊下のようだが、右手には一抱えはありそうな、大判のドローイングがある。
黄色く塗られた紙に描かれているのは、腹部から “蛇” (こぼれた腸のイメージらしいことを、たしか山岡さんと道すがら話していた時に教えてもらった)を踊らせた、魔女めいた帽子で目元を隠した人物だが、《蛇使い》と題されたそのドローイングは、あたかも、死をも癒した医術の神・アスクレピオス(そして彼が治療に使った蛇)をモチーフとした “へびつかい座” とも繋がっているようだ。
しかし、アスクレピオス自身は、冥界を支配するハデスと、ゼウスによって危険と見なされ殺されて、だから今も、“私たちの肩には、アドヴァイザーとしての死が座っている”(作中に登場したこの一節は、作家で人類学者のカルロス・カスタネダの引用らしいが、リー智子さんの口をついて出てきたように、人ひとりの中には、大勢の “いない” 人々が、きっと、宿っている)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?