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向井ひかり さん「リンクスケーター」@WALLA

舞い落ちた花びらの濃淡が、桜の居場所を教えてくれるように、シャーレに丁寧に取り分けられた 《マツ》は不在のパイナップルを、薄桃色の平べったい《ピングーのサーモン》は、それを咀嚼し飲み込むピングーの存在を感じさせてくれる。
その間に置かれた《flat and smooth》は、元はシャーレらしいけれど、イカの軟骨 (引き抜く度に、人工物でないことを訝しく思ってしまう) のようでもあり、人工物、作品でありながらどこか自然物めいた美しさ、元々そのかたちだったような佇まいを感じさせるところは、何も本作だけでなく、この場に散りばめられた向井さんの作品群に通底する気がする。
《ザラメピッドマン》の付けられた結晶も、むしろ降りた霜のようで、窓辺に並んだ《コーニア》の、ささやかに光る表面は、窓越しに降る花時雨を数滴ずつ抱いたみたい。

《コーニア》の置かれた窓が、透明で、外の風景を切り取っているのに対し、畳の部屋の窓は磨りガラスで、すぐ向こうに生えた植物の輪郭を、墨絵の如くにじませている。そこには《銀幕》が立て掛けられていて、雨降りの光の下では眩い。晴れの日の見え方は想像するしかないけれど、きっと、窓は墨絵から水彩のように軽やかになって、その鮮やかさに、《銀幕》の眩さも少し溶けていくのだと思う。そう考えると、《銀幕》は、窓から入り込む光とシーソーでもしているのかも知れない。
その窓と《銀幕》の関係は、熱した鉄の "表情" を、《光り始める位の赤》のカラーチャートと照らし合わせ読んでいくこと、さらには、太陽光の強さを、透かせた肌の色で測定することとも近しくて、向井さんは、世界を測るものさしを作っていらっしゃるのかも知れない。

その印象は、《車内の点滅する本》にも通じていて、たわんだ頁の上で游ぐ光に対して、その本を持つ手の桜貝みたいな爪には、もっと鮮明な、それこそ映像のような反映が過ぎ去っていて (一瞬、窓外の植え込み? のような濃い緑が走る)、ここでも、光を鮮明に反射するものと、その運動を捉えるものという、ふたつの性質の違うものさしを使って、測定しているよう。

《電気が走る》も、魔法のじゅうたんのように頭上を飛んでいるけれど、そこから伸びる金糸は天井の斜面に接続していて、地面と平行に飛ぶ "じゅうたん" が、むしろその傾きを可視化している。
ふたつの展示室を繋ぐスロープ (制作: 吉野俊太郎さん) の上では、鑑賞者そのものが水準器と化して、何度も行き来する中でその勾配が身体に刻まれるけれど、スロープ自体には何も残されない。
それに対して、《帆立》の白い面には "轍" が描かれている。サクッサクッ…という砂地を滑る音 (雪を漕ぐ音にも聴こえる) が《帆立》たちの歩みを表しつつも、サッカー盤の上を走る人形の如く、"轍" の外へ飛び出すことはできなくて、それは、WALLA の玄関から入り、和室を経てスロープを下り、ホワイトキューブエリアを見て、スロープを上がり帰るという鑑賞者の動線とも通ずる。
しかし、 "レール" が決まっているからこそ、行きと帰りの風景の違いを見比べることが出来て、その面白さは、出発点でもあり終点でもあるところに掛けられた《wire mesh》で、景色を透かす金網の白が、あるところから墨色に転じていることに気づいた時の、小さな喜びに近しいかも知れない。

向井さんの作品からは、普段だったら気づく間もなく過ぎ去っていく一瞬を、ひとつひとつ掬っては宝箱に収めていくような手つきが感じられて、作品が小ぶりであることも、その出来事としての "小ささ" (重要でないということではなく、目につきにくいという意味で) を尊重している気がする。

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