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杉野晋平さん「Home Listening」(TOMO都市美術館,2023年5月13日 15時~22時)

その日はオンゴーイングでAokidさんと東野哲史さんのトークがたしか16時半頃まであり、それから30分ほど歩いてTOMO都市美術館に着いた頃には、杉野さんの演奏が始まってすでに2時間経過していた。

演奏、といっても杉野さんがおひとりでずっと楽器を奏でているわけではなく、館内中央に鎮座した冷蔵庫の常時稼働する音が流れているということで、冷蔵庫の頭にはアンプスピーカー(で合っているだろうか?まったく疎くて、検索しながら書いている)が載せられ、そのスピーカー部分へ密着するかのようにかざされたピックアップマイクが、稼働音をドローン音楽に仕立て上げている。
冷蔵庫の前には8台くらいのエフェクターやらイコライザーやらペダルが広げられ、それぞれから出たコードがその間を結ぶように這っていて、その内の何本かはスピーカーキャビネットの前面へ接続されている。そして後部から出たケーブルは、冷蔵庫の側面にくるくるとまとめられながら、おそらく冷蔵庫の背面に養生テープで貼り付けられた木片へと繋げられていた。

木片は、壁面のモニター4台にそれぞれ映し出されている《パイルドライバー》、杭型エレキギターをハンマーで叩いて演奏するパフォーマンスを収めた映像作品とのつながりをすぐに感じさせる。モニターから音は流れていないものの、新しいお客さんが増える度に、冷蔵庫が置かれた展示室側と、水回りのある向こうもう一部屋とを隔てるようにスクリーンが都度立てられ、そこで即席の上映会が始まり、4台のモニターに分けられた4つの記録を一連の映像として眺める心地は、この3月の「文華連邦国際映像祭2023」を思い出させて、そう言えば同作はこの映像祭で最高賞の“金ハクビシン賞”に輝いていた。

木材の一端が鋭く杭状にされた“ギター”は、それゆえ地面に、砂浜にたやすく突き立てられて、そうして自立したギターめがけて振り下ろされたハンマーとの衝突で、木材前面に張られた弦が振動し、その振動が、真ん中あたりに取り付けられたピックアップによって電気信号に変換される。そして側面に開けられたジャックからケーブルを伝ってアンプスピーカーへ届き音となる…という仕組みはまさにエレキギターのそれで、音も、特に1音目はエレキギターっぽい響きだけれど、地面へ沈んでいくにつれて音はひずみ、スタッカートのように切れ切れの音になっていって(弦の部分もろとも地面に入り込み、押さえられてしまうからだろうか?)、むしろハンマーのにぶい打撃音と、その衝撃に耐えきれず爆ぜていく木材の音が優勢になっていく。
スクリーンから見て左には、特製ケースに入った《パイルドライバー》とハンマーがあって、上映終了後に間近で眺めてみると、エレキギターのペグ?にあたると思しき上部、その表面にはふたつの小さな長方形が横並びに抉られ、そこで弦が固定されていたりと映像から受ける印象以上に作り込まれており、造形物としての強度が、あの音を支えていたことが見てとれて、それはギターはもちろん、ヴァイオリンなどとも通ずる。

ヴァイオリンの弦が演奏中に切れたりするように、奏でることでコンディションが変わっていくのはどの楽器でも避けがたいことだけれど、《パイルドライバー》はそのサイクルがずば抜けて早くて、一打毎に楽器としての形状すら変わり、それに伴い音も変わっていく。似たような音の変容として、防火服姿の山下洋輔さんが、火を放ったピアノで行った演奏、そのひずんでいく旋律が思い浮かぶ(Wikipediaにも“Piano Burning”というページがあって、割とポピュラーらしい)けれど、《ピアノ炎上》が、あくまで燃え進む火の手によって音が刻々と変化していき、打鍵自体には、熱で弱った弦を切るくらいはあるにしろ破壊の要素がほぼないのに対して、《パイルドライバー》は演奏=破壊であって、その点で、むしろマウリシオ・カーゲルの《ティンパニとオーケストラのための協奏曲》終結部で、ソリストがティンパニに頭から突っ込んで「パンッ」と破り鳴らすことと近いかも知れない(このためのティンパニとして、紙の鼓面を張った特注のものが用意されて、このラストの1音まで温存される)。
そして、チェロなどに備え付けられたエンドピンが、楽器本体と地面とを隔てつつ自立させるのに対し、《パイルドライバー》は地面に刺さることでその身を立たせており、それは大地に対する不遜な挑戦でありつつ徹底した依存、他律ともとれるし、そもそも地面自体も楽器の一部として共鳴しているようで、たとえば砂浜なら、そのやわらかさゆえか音も響いてまさしくエレキギターっぽいのに対し、芝生に覆われ詰まったような地面ではむしろ鐘のように硬質な印象を帯びる。さらには海岸だったり、街並みが遠く一列に見えるような場所だったりと、見通しのよいロケーションなのも、ハンマーを振る空間があって(雑木林の中とかは、様になりそうだけど難しいかもしれない)、《パイルドライバー》を刺せるような地面が露出していること(舗装されていては当然できない)…といった必要に即したものだろうけれど、水平線、と呼ぶには起伏があるものの、それでも横に連なるラインと、垂直に立つギター、そして“逆立ち”で立つハンマーを手に取り、振り下ろす杉野さんという縦のラインとの交錯がぶつかり合いをより劇的にしているし、《パイルドライバー》を演奏できる場所から、(おそらく)できない場所を見やるという構図自体、郊外と都市、自然と管理…といった対比を思わせる。

《パイルドライバー》の音は、何もハンマーの打撃だけで生まれるわけではなくて、杉野さんがギターを土へ突き立てる時にも薄く「シャン…」と響くし、なによりアンプスピーカーの電源が入った直後から「ジーィ…」と通電音とも言い表したくなる音が鳴り続けていて、その音は、ハンマーの打撃に応じて波うったり、時に接続が断たれるのかふいに止んだり、そしてまた当たりどころによっては復旧したりと変化に富んでいて、この持続と変化は、ひるがえって展示室内に鎮座する冷蔵庫の“演奏”と通ずる。
冷蔵庫の演奏は“上映会”の最中も続いているはずだけれど、《パイルドライバー》の音量にも、そもそも向けられる注意の強度としても負けていて、上映中はあまり意識にのぼらないけれど、終わるとにわかに「ンー…」とも「ムー…」ともつかない持続音が耳について、その感じは、海岸で行われた《パイルドライバー》(上映順で言えば1本目と3本目)の演奏が終わった直後に、波の寄する音に気がつくことと似ている。

そして冷蔵庫には、この場で提供されている食材やらビール(ジョッキまで冷やされている)やら、そしてなにより、杉野さんの食生活を連想させる調味料のチューブなども入っており、そもそもこの冷蔵庫は当然演奏用などではなくて、杉野さんが10年以上使っており、演奏の度にご自宅から会場へと運び込まれるのだそう。そのためこの場でも、折に触れて冷蔵庫は開けられ、それに伴って持続音も束の間停止する(ファンが止まるからと思われる)一方、扉が閉められるとすぐに、バイクを吹かしたように低い音が大きく高まっていくのは、コンプレッサーが庫内を冷やそうと稼働するからだろう。
コンプレッサーは何も扉を開けた時だけ作動するのではなく、前触れもなく音が高まることもあって、これはもちろん庫内の温度上昇を抑えるためのものだろうけれど、その上昇の理由は、この場に集う人々の数が日の傾きと共に増え、台所ではお湯が沸かされたり料理もされたりしていて、何より“演奏”の進行につれて館内の熱気も高まり…ということの現れのようでもあって、観客自体も、注文したり、なんならその場にいるだけでも、実は演奏に参加しているのかも知れない。

加えて、演奏としては長く、個展としては短い1日という時間は、人間側にも、疲労といったコンディションの変化をもたらしていて、それは《パイルドライバー》で、たび重なる打撃のために割れたり、時に木片が飛び散ったり…とギター本体にダメージが蓄積されていくのと同時に、演奏者である杉野さんご本人にも疲労が蓄積されていき、それに伴ってハンマーの空振りや軌道のずれも生じ、その積み重ねとして音、さらには地面に対するギターの角度も変化していくことと通ずる。
今回の個展でも、15時から22時の7時間、杉野さんは演奏だけでなく、注文を受けてコーヒーを豆から淹れたり(その際、ミルで挽く音がひととき冷蔵庫と共演する)、丼もの(肉、たぶん豚肉が豪快にのっていた気がする)をこしらえたりと、会場全体をトモトシさんと共に回し続けているものの、おふたりは疲労を感じさせない。それでも時間にともない疲れは進行しているはずで、観客にしても数時間滞在する内に、疲れたり、場になじんできたり、あるいはお酒を飲んだりすることで、感受性や注意力が変動していく。そうした揺らぎは、ささやいたりうなったりを繰り返すことで温度を保とうとする冷蔵庫や、《パイルドライバー》で、通奏低音のごとく流れ続けるノイズが、ハンマーのリズムに応じて波うったり止まったりすることとも近しくて、ひいては、冷蔵庫がこの先さらに経年変化していったらどう音が変わるのか、そして、これはいらしていた秋山佑太さんがおっしゃっていたことだけれど、杉野さんご本人が年月を重ねていったらどうなるのか…という、より大きな時間の流れ、それに伴う変化をも連想させる。

毎時30分ごろになると、杉野さんは冷蔵庫正面、たくさん広げられた機器類の前に座りこみ、おもむろにそれらを操作し始めて、そうした演奏を計3、4回聴くことができたけれど、その度に音は変わり、特に22時過ぎ、個展を締める最後の演奏では、ハミングやヨーデル、そしてホーミー…と、もはや音ではなく声だった。杉野さんは、冷蔵庫が鼓動のごとく刻み続ける稼働音を拾いあげ、増幅し、そこに抑揚をつけていくことで歌に仕立て上げていて、はじめてのひとり暮らし、その孤独を否応なく増幅する“騒音”を、それでも愛す技法として生まれたというこの演奏は、他者と共存するひとつの実践であって、冷蔵庫とのセッションだった。



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