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waxogawaさん・李静文さんキュレーション「漂流祝祭日」(@横浜市民ギャラリー,2023年4月8~30日)

その日は日差しが強く、坂を上るうちにうっすら汗ばむほどだったけれど、会場である地下1階は窓もなくひんやりとしていて、腕に掛けたカーディガンをはおりながら何となく人を避けていると、Y字に繋がった3部屋のうち、後に「セクションC」と銘打たれていたことに気がつくエリアに入った。その少し手前からも、ごぽごぽという水音(吉川永祐さん《エビスの呼ぶ声》)が聴こえていたものの、さらにそこに、ぼそぼそと声らしき響きも混じってきて、視線を落とすと、だいたい胸高の位置、それも間近に二体のぬいぐるみがあって、それらが吉野俊太郎さんの《Lovers》だった。

ブランクーシの《接吻》がモチーフであることはこの時まだ気がつかなくて、ややミルクがかった白く短い毛並みと、”側面”(《接吻》では正面だけど、分かたれたことで、断面の部分が”のっぺらぼう”の顔に見えてしまう)に施された金糸が横顔を描いていて、全身に対して長めの両腕が、台座のふちを軽くつかんでいるよう。そのまま下に眼をすべらせると、すーっと落ちた台座の辺は、床まであと10㎝くらいのところで一回り大きくなっているものの、継ぎ目なく繋がっていて、縦棒ばかりやけに強調された逆さまの”T”みたいに見える。ふりかえって、人ふたり分くらいの間を空けて佇むもう一体を眺めてみると、やっぱり同じような姿をしていて、かつ、台座も同じように正面がつるりとした逆さ”T”の形をしており、そのことが、《接吻》だけでなく、台座も”まっぷたつ”にされたことを伝えている。
二体の人形はそれぞれにひとりごとを話しているようで噛み合っておらず、その中身をよくは覚えていないけれど、「ロンドン」や「アテネ」という響きを口の中でころころ転がすような言葉遊びをしたかと思えば、「サンタマリア」への祈りめいた一節が飛び出て、日ノ出町駅からここまで歩いてきた道のりにあった(ような気が、その時は強くしていたけれど、Googleストリートビューで探してみても見当たらなかった)マリア像を思い出させる。
勘違いにしろ、本当にあったにしろ、展示室内にはないものが思い起こさせたという点では《接吻》も「マリア像」も近しいように思えて、さらに言えば、《接吻》と《Lovers》の関係は、曜変天目とそのぬいぐるみの関係にも似て、代わりに”まっぷたつ”にする、代わりに所有する、といった具合に、ぬいぐるみ或いは人形(「マリア像」もこの中に含めることができるかもしれない)の持つ代替物としての役割は、本展示の「漂流」、ひととき距離を取ることとも通ずるようで、象徴的な作品だと思う。

ここにないものを想像させるということは、芸術の根幹のひとつのようで、多くの作品にその要素があるけれど、入ってすぐのエリアであるセクションA、そこにあった南壽イサムさんの《パーン型ストリートラップバトルスーツ》は、中でも印象的な存在だった。牧神の頭部は、『わたしからあなたへ、あなたからわたしへ レター/アート/プロジェクト「とどく」』(@東京都渋谷公園通りギャラリー,2022年10月8日~12月18日)内の、そんたくズ(田中義樹さん、井上森人さん)による舞台作品「山羊は手紙を待ちながら」で、田中さんが被っていた悪魔じみた巻き角の「黒ヤギさん」を連想させる(南壽さん制作だったそう)。そこにあしらわれている赤いレースも、「田中義樹のナイトメアー・ビフォアホームアローン」(@NADiff Window Gallery,2022年11月24日~12月25日)に合わせて展示されていた作品(写真立てのように斜めになった、大きさもそのぐらいの木の板に、季節柄、ツリーを模したと思しき量感たっぷりの粘土が盛られ、さらにその上からレースでラップされ、網目から粘土が少しはみ出ている)に使われていたものとおそらく同じで、斜めの板に貼り付けられている感じも近しい。そして、巻き角の先端に付いたスピーカーは、それこそ南壽さんの色々な作品に使われている…と、これまで拝見してきた制作物・作品のイメージが散りばめられている。
頭部、スカート、ブーツと続くその胴体に当たる部分にはモニターとミキサーが取り付けられていて、そのモニターの中では、南壽さんご本人と思しき人が、眼前の衣装を身につけ、ミキサーを画板のように首から前に提げて操作しているシーンが映し出されて、映像中で持っている2本のマイク(コードが頭部から伸びている)、その現物も左右に取り付けられていて、「マイクさわってOK」と書かれている。

衣装という“皮”だけが展示され、そのパフォーマンス映像が、本来演者の身体があるはずの胴体(のモニター)で流されていることは、不在の印象を強く与える。その印象は、壁にピン留めされたリボンの「どっか」と、配られたハンドアウトの描写が、作者である光岡幸一さんの手つきを想像させることや、伊藤道史さんのVR作品《WRITE YOU:忘れるためのコキュートス》が見せる、林立するビルと思しき光景が仮想のものである(それに対して、“進路”の果てに配置された toniiさんの作品は、ゴーグル越しには見えないものの、「その先作品あります」という声がけで、突如意識される)こととも通ずるよう。ちなみにこれらの作品は、全てセクションBにあった。

しかし、この日は南壽さんがいらして、お客さんの応対をしたり、他の作家さんとお話されていたりするのは、不在を“不在”に変えるようで、ご本人がいるけれどパフォーマンスはしていない、違う在りようをしているということは、過去作の《りあくしょん》で、映像中の登場人物(全て南壽さんが扮している)がそれぞれに感動を表現しているインタビューを、ご本人が展示室内で寝そべりながら見ている[という記録映像を、南壽さんのyoutube(https://www.youtube.com/watch?v=FguJTwqAcMg&t=22s)でこの機会に拝見した]に通ずる気がする。加えて、映像中でミキシングしている音楽が、その撮影中には不在の観客に向けて発せられていて、この場の観客がマイクを持って応えることを待ち構えているようなことも、お祭りが、来訪者を待ちわび続けることとも繋がる気がして、その隣で、1日限定で行われていた鷲見友佑さんと村松珠季さんのパフォーマンスが、在廊中の作家さん、私の目撃した時にはAHMED MANNANさんと粘土を使って即興的に制作をされていたこと、”不在”の南壽さん作品が来場者を歓待する一方、お三方の制作には、一種の神事めいた不可侵のところがあって(なので遠巻きに見ていた)、そのモードの違いが、”祝祭日”という大きなハレの中に生まれた、より小さなケとハレのようだった。
そして、中谷優希さんの作品を拝見できなかったことは残念で、まさに大きな不在ではあるけれど、その事実自体が痕跡として展示室内に残されていることは、「漂流」が持つ、ある地点からある地点へという一方向の流れではなく、あたかも海に放たれたおもちゃのアヒルたちが、まとまりを保ちつつも徐々に何群かに分かれていくみたいに、ひととき袂を分かつイメージをも含んでいるようで、また潮目が変われば合流することもあるのかも知れない。

この感想を書くにあたって、なんとなく『移動祝祭日』について検索してみたら、読みたいとは思いつつまだ読んでいないはずなのに、細部の出来事に見覚えがあって、不思議に思いつつもう少し検索していると、数年前に見たウディ・アレン監督・脚本の『ミッドナイト・イン・パリ』が、『移動祝祭日』を下敷きにしていたらしい。
加えて、「漂流」というとまっさきに『漂流教室』が思い出されて、主人公たちが生存の果てに悟ったように、作品も、未来に蒔かれた種で、『移動祝祭日』の遺伝子が、『ミッドナイト・イン・パリ』や「漂流祝祭日」へと受け継がれたように、「漂流祝祭日」や個々の作品も、そのDNAを後世になげかけていくのだろうし、いつまでも見届けたいけれど、人の一生では足りないかもしれない。









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