『偽書『本佐録』の生成』と『和本のすすめ』

 『本佐録』と書いて〈ほんさろく〉。江戸時代に読まれていた政道論書のタイトルで、〈本多佐渡守正信さんが記録したもの〉を縮めて、本・佐・録。
 近所の図書館の〈新しく入った本〉コーナーに面陳されていた本書と目が合って、〈偽書〉の2字にココロが揺らいで思わず手に取りました。なぜか偽書に弱い私。でも肝心の「本佐録」の読み方すらわからないので「まえがき」を見ると、フリガナが振られていました。そして、高校の日本史で、江戸時代の農民を統制するための心得として「百姓は財の余らぬやう不足なきやう」治めよという方針があったこと、その出典が『本佐録』だったことが紹介されているのを読んで、ああ、なんかあったなあ、生かさず殺さずみたいなミもフタもないヤツが……ぼんやり思い出しました。その『本佐録』が、偽書。……素敵じゃないか。
 ぱらっと見る限り、明らかに専門書寄りの本なので私に読めるかどうか自信はなかったですが、でもかなり親切にフリガナを振ってくれているようだし、ここはありがたくも図書館ですから、ダメなら諦めて返せば良いか……ということで、借りて帰ることにしました。
 するとこれが、めちゃくちゃおもしろい本なのでした。


 構成は3章立てになっていて、第1章が「『本佐録』の成立時期をめぐって」、第2章が「『本佐録』の思想的特質をめぐって」、第3章が「偽書『本佐録』の成立とその意義をめぐって」。
 まず最初の1章で同時代周辺の書物・資料と文章を比較して、書かれた時期を探ります。『本佐録』が、引用というか参考資料的に扱っている本がいつ頃の成立であるのなら、『本佐録』はそれ以降に書かれたことになるから、早くてもいつ以降の成立になるはずで……と、絞り込んでいきます。

 続く第2章では、どういう時代背景のもとにどんな主張をしている本か、の視点で『本佐録』を考えます。一般に言われ、また高校日本史でも取り上げられていた解釈を聞くと、「農民は生かさず殺さず」ギリギリを狙えよ的な、いかにうまく年貢・労働力を巻き上げるか、〈ブラック大名のための搾取指南書〉みたいな印象だけど、全体を通して読むと真反対の解釈をするほうが自然で、「農民をムチャクチャにこき使ったりするな。ちゃんと休ませてやらにゃイカン」、〈江戸時代版労働基準法のすすめ〉に近い。
 そしてもう一つ取り上げられるのが武士のありようで、戦国の世から太平の世への転換点と説明されます。能力のある大将が能力のある武将と個人的・情緒的に結びつく戦国的主従関係から、永続する大名家に永続する家臣の家が仕える、身分固定的・イエ的な主従関係へと切り替えたい。そんな思惑の下に〈イマドキ武士の作り方〉みたいな側面が紹介されます。いまのご時世、太く短くはもう時代遅れなんだぜ、みたいな。

 最後第3章では、1・2章を踏まえて、じゃあいったいどんな立場の人がどんな意図をもって『本佐録』を作ったのか、が検討されます。これがおもしろいのは、偽書に対する偽書返しだったのではないか、という著者・山本さんの推理です。ある本が、当時有名な学者だった熊沢蕃山さんの本として出版された。それに対して別の学者が猛烈な批判書を書く。びっくりしたのは熊沢さんで、自分が書いたわけでもない本の著者にされるわ・それがメチャクチャに非難されるわで、しかもその影響が拡大すると時期的・立場的に、非常にまずい。こりゃイカン、もちょっと昔の偉い人が書いたらしき本が見つかった態で非難をかわそう、と企んで作られたのが偽書『本佐録』ではないか……。


 本の全体が丁寧な検証の積み重ねで書かれているので読み口は地味で、しかも引用される江戸時代の文献は候文(そうろうぶん)だったり漢文混じりだったりで、私はたぶん、半分も理解できていないと思います。でも、それでもめちゃくちゃおもしろい。
 扱っている内容はコピペの追跡、働き方改革、ジェネレーションギャップにフェイクと炎上への対策、と、現在とひとつながりのあれこれです。そしてそれを読む私は、堅実に丁寧に思索を進める名探偵の推理の跡を、名探偵本人に親切に案内してもらう贅沢が十二分に味わえて実に愉しかった。国文系の本を読むのに不慣れなので、『大辞林』引いたり『岩波漢語辞典』引いたり、読了までにとっても時間がかかりましたが、返却日までにはまだ少し間があるので、いまからすぐにもう一度読み返そうと思います。



(2023年5月30日追記)
 『偽書『本佐録』の生成』からのつながりで『和本のすすめ』を読みました。主に〈江戸時代の本〉に関するあれこれが、広く・そこそこ深く、コンパクトに書かれた新書です。
 和本については知らないことばかりで勉強になった上に、著者の語りに誘われて、変体仮名が読める人になってみたい!と好奇心が湧きました。どこまで本気で続くかはともかくとして、まずはちょっとかじってみようと思います。

 ところでこの本には、読んでいると、知らない言葉がちょいちょい出てきました。著者の造語か古語なのかもしれませんが、手元の『大辞林』には載っていない言葉がちらほら。
 でその中に、「地縁や人縁」という言い回しが出てきて、しびれました(68ページ)。地縁は聞いたことがあるけれど、〈人縁〉ってのは良い言葉やな……。ちょっとギラギラした感の強い〈人脈〉より、〈人縁〉は、お陰さま感というか深みがあるように思えて素敵です。読み方として〈じんえん〉を採るか〈ひとえん〉を採るかは微妙なとこですが、お世話になった人を表すには、私は〈人縁〉と言いたいなあと思いました。



 『偽書『本佐録』の生成 江戸の政道論書』 山本眞功(しんこう)
 平凡社 2015年
 『和本のすすめ 江戸を読み解くために』 中野三敏
 岩波新書 新赤版1336 2011年

(2023年5月15日ブログで公開。
また最近じわじわ読み直したい思いが湧いてきましたので
再録してみました。)


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