『平家物語』 石母田正

 私的に、読み応えの深い、なんともしびれる本でした。図書館で借りて読んで感激し、あまりに感激したのですぐに書店に買いに走りました。で、すぐに再読し、読了。飽き性の私が、珍しくおなじ本をくりかえして読んでしまいました。

 本文は200ページほどです。厚くも薄くもない新書ですが、きりっと締まった無駄のない文章で改行少なく書かれていることもあって、中身はひじょうに濃いです。そして大きな論題以外の、さらっと書かれた一文にも意義深い視点が散りばめられていたりしますので、一度通読しただけではもったいない!と感じます。
(以下、古典の『平家物語』=「平家物語」、本書=『平家物語』と表記します)

 最初に読んだときに印象に残ったのは、「平家物語」が書かれた意義について、でした。
 武士が台頭した当時の内乱があまりにすさまじかったため、圧倒的な現実に傷つき・衝撃を受けた人々にとって〈ファンタジーとしての物語〉はもはや必要でなかった。断絶した日常に〈納得〉し〈適応〉し〈生きていく〉ためには、自分たちが体験した〈断片的な現実〉に大きな意味・流れを持たせる〈記録としての物語〉が必要だった。そのために、新しい文体〈年代記的叙述形式〉が一人の作者によって作られた。
 その「平家物語」の原型は、〈語り物〉として琵琶法師が語り、聴衆に受け入れられたけれど、それでも描き尽くせない悲惨・無残な体験は、「平家物語」原型だけでは収めきれなかった。だからそこに聴衆・読者が自分たちの体験・思いをどんどん書き足していき、補った。現存する「平家物語」に記述形式が混在し、異本が多数生まれたのはそんな事情があったのだ……。

 そんな見解を読みながら、これは今風に解釈すると「社会的規模で生じたPTSDをどう癒やすか」という話につながりそうだな、と、そんなことを考えていました。
 ある一人の人が悲惨な体験をしたときには、その周囲の、〈悲惨な体験をしていない人たち〉がその人を包みこんで、慰めることができる、かもしれない。けれど社会全体が大きな災厄に見舞われ、その社会のみんなが被害者・被災者となったときには、だれがその体験を包み慰めることができるのか。「平家物語」の時代には、それを物語・語り物で克服しよう、慰撫しようとしたのだろう……。

 それが2回目に読んだときには、『平家物語』本文の最後の数文が強烈に響きました。
 「平家物語」で描かれるのは平家の滅亡にまつわる悲観・無常観・宿命観であるけれども、平家は勝手に滅んだのでなく滅ぼされたのであり、そこには、滅ぼした側の人間がいた。つまり平家滅亡のえげつなさは、えげつないことをしうる人間がいなければ起こらなかったのだ、と。
 終始学者らしい、端正な文章で書きつづられた本書は、当時の武士階級・時代状況に対する石母田さんの痛烈な批判・怒りの書でもあったのだと今更ながら気づきました。

 3回、4回と読み重ねれば、また違う深みに気づけそうです。日を置いて、読み返したいと思います。



 『平家物語』 石母田正 岩波新書 1957年

(2019年2月16日ブログで公開)

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