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【鑑賞ログ】デ・キリコ展

前回のつづき。

観たいけど帰りたいという、支離滅裂な心と身体でなんとか上野駅までやってきた私は、上野公園で行われていたフィリピンフェスの誘惑に屈することなく、東京都美術館までやってきた。

鉄板焼きの美味しそうな匂いが、美術館の前まで漂っていた。

帰る時にまだやっていたら寄っていこうかなと思いながら、エスカレーターを下る。

ここのエスカレーターはいつもドキドキする。

中間踊り場付きエスカレーター(?)というやつで、途中、ベルトが水平になる部分があって、何回乗っても楽しい。

入り口のドアを潜り、ロッカーで荷物を預け、目薬とスマホをポケットに突っ込んで、企画展の入り口へ。

電子チケットは、当日券ではなく、平日のみではあるが8/16(金)までであれば、日時指定は不要で、いつでも入場できるようだった。

私みたいに、「当日券買っちゃったけど、やっぱり行くのやめた」ってなっても、別日に行けば良いというわけだ。有難い。

キリコのことは、あまり下調べせずにきたので、音声ガイドを借りることにした。ナビゲーターはムロツヨシさん。


作品リストを貰って会場へ入ると、まず目に入るのは内装。

壁紙がキリコの絵のモチーフの建物のようになっていて、まるで絵の中に立っているような気持ちになった。

協賛に、建築会社や工務店が入っていたからそのおかげなのだろうか。


最初に見たのは、若かりし頃のキリコの自画像。

『自画像』1922年頃

デ・キリコとはどんな人物なのだろうかと思っていたのだけど、自画像を観て、自分に自信のある人だと思った。顎に手を当てて、こちらを見下すような目線になるような構図で自画像を描く人は、ほとんどが自分に自信のある人だと思う。それに左の石膏像も、自身にそっくり。

それはそれとして、実物を観るとトリックアートのように立体的で、手前の果実が飛び出て見えた。この人は、写実的ではなく、立体的に描くのが好きなんだなぁと思った。


続いて、企画展のポスターにも使用されている形而上絵画。

『形而上的なミューズたち』1918年

この絵を観た時、なんで私はこの円弧の組み合わさったものが、人間というかマネキンに見えるのだろうと思った。

これが人間ではない可能性だって十分にあるはずなのに。

褐色の肌がキリコ、白の肌がキリコの弟に見えてしまうのは何故なんだろう。

キリコの、自信がある見下した目線。
弟の、チラリとこちらを覗く愛らしさを感じるのは何故なんだろう。

形而上絵画を通して伝えたいことって、そういうことなのかなと思った。

不思議な感覚だった。


1番好きだったのは、この作品。

『オデュッセウスの帰還』1968年

かわいい。
なんかもう、全てがかわいい。

このオデュッセウスは永遠に帰還できないのだろうなとか、後ろの扉が開いていて、いまにも誰かが踏み込んできそうだなとか、不安に感じる要素はいくつも散りばめられているのだけど、それを打ち消すくらい、かわいい。なんでだろう。ふしぎ。


大回顧展ということで、初期の作品から形而上絵画、古典への回帰、新形而上絵画まで流れをみることができた。

立体作品や舞台衣装も展示されていたのだけど、閉館時間が迫ってきていたのであまり観られず…

終盤は駆け足気味で観て周り、閉館時間ギリギリに出た。
営業時間内とはいえ、毎度申し訳なく思う。


企画展面白かったなぁと、足取り軽くフィリピンフェスを覗いてみたら、どの屋台も店じまいだった。流石にそうだよね、としょんぼりしながら上野駅へ向かった。