不器用にしか生きられない
高校のときの友人と、スイーツ会をした。
スイーツ会と言っても、ただ甘いものを気が済むまで食べて、帰り道の数駅を歩いて帰るだけのものだ。
いつものドーナツ屋の前で待ち合わせをした。
私は待ち合わせ時間の10分前に到着したが、彼はいつも待ち合わせ時間通りに来ることはないので、ドーナツ屋の前のベンチに座りながら、ぼんやりと空を眺めた。
しばらくして、視界の下の方でこちらに小走りで駆けてくる人影が見えた。
その人影はまだ10mくらいあるのに、「いやぁ、ごめんなさい、ごめんなさい!」と結構大きな声でこちらに言いながら、でもその割には、全然悪びれる様子もなくやって来た。
とりあえず睨んで、「もー、遅いよ」とだけ返して、ようやくドーナツ屋に入店した。
以前、どうして待ち合わせ時間までに来られないのかを問い質したことがある。
いくつか質問してわかったことは、ただ単に時間にルーズだから遅れてくるわけではないということだ。
彼曰く、「こんな都会で、待ち人がやってくるのを、1人で待っていることに耐えられない」のだそうだ。だから、「それをするくらいなら、遅れてやってきて、待ち人に怒られる方がましだ」と言うのだ。
大多数の人が何とも思わないようなことができない彼に、なんだかとても同情した。
ドーナツを齧りながら、同級生の話になった。
Aくんは、高校生の時から車が好きだった。車好きの若手デザイナーとして複数のメディアにも取り上げられたほどだ。
学校を卒業した後はカーデザイナーとして働いていたが、他業種のデザイナーに転職したと聞いた。
Bくんも、テレビ番組が好きで、テレビ局のCGデザイナーをしていたが、「好きじゃないものを作るのがつらい」と言っていて、辞めてしまった。
好きすぎて、耐えられなかったのだ。
自分が好きなものが作れず、求められているものを作ることに。
たぶん、自分もそうだったのだろう。
以前、そのことを人に相談したとき、「でも、好きな仕事してるんだからさ」と言われたことが、酷く突き放されたように感じた。
好きなことをしているんだからと自分に言い聞かせるたび、普段気にも留めないようなことで過剰に感傷的になったりしていた。
だから、何も感じないように心を閉じ込めて、無理がきた。
結局、私がデザイナーを辞めた1番の理由はそれだったのだ。
noteを始めてすぐの頃に画家になりたいと書いたが、最近そのことについて疑問に思うようになった。
好きなように作って描いて生計を立てられるのなら、それは願ったり叶ったりだが、実際はそうもいかないだろう。
一本化するために「なんでも描きます!」と頑張って営業して仕事をいただくくらいなら、好きなように描いて、たまに個展を開いて、運よく買ってもらえたりしたら吉くらいのスタンスでやっていた方が幸せな気がする。そのために別の仕事をしながらでも。
甘ったれるなよ、と自分でも思う。
でも、趣味と呼ぶにはあまりにも本気すぎるのだ。