馬鹿になるということの真の意味を考える

わたしには、いっときだが学問の探究に心血を注いだ、心のうちに反骨精神を秘めた友人が、少なからずいる

就職したての頃、飲み会の場などで、「勤め人は時として馬鹿にならないとやってられない」と教えられたが、飲み会で羽目を外すというストレス解消法(?)には疑問を抱く 省庁という職場においてもそうなのかと落胆すると同時に、どうしてこの人たちは一流大学を出ているのにこんなことしか考えられないかと思った

それにしても、官庁勤めだと国会議員からの無理難題を捌くため、その他諸々で、どうしても超過勤務が発生する 質問の通告は期限があると突っ張ればいいのだが、パワーバランスなどから、そうもいかないのが現状だ

これも就職したての頃、研修の講師に、身近に起こるすべてのことに疑問を持ちなさいといわれたが、職場に蔓延る古い慣習、どうしてそれを誰も改めないのか、そういうことに疑問を配っていると、身が持たないのではないかと感じる 馬鹿になって着実に仕事を捌くことが求められる

冒頭で述べた友人たちと食事などをしていると、「働くということは、一種、馬鹿になること」、という見解が出てくる 大学に入学したときも「学びて問う、これが学問だ、常に疑問を持ちなさい」と言われたが、そしてその姿勢が尊重されるのは真実だったが、社会人に真に必要なのは、うすっぺらい疑問を持つ姿勢ではなく、馬鹿になる必要性なのかもしれない

しかし、と思う こんな感じでみんなが働いていると、国は間違いなく悪い方向にいってしまうのではないか 

よく友人たちの集まりで話題になるのが「勤め人は悪、なぜなら社会、国家が悪だからだ」という、ちょっとぶっ飛んだ意見だ あながち間違ってないかもしれない

わたしは法律家として半分自立しているので自由度は高いが(といって仕事は押し寄せてくるので矢張り超過勤務は発生するが、かつての国会待機ほどに虚しいものではない)、それでも思うのが、馬鹿になる必要性である 生きていくには、仕事をしなければならない 仕事をするには、残念ながら馬鹿にならなくてはならない

わたしには、いっときだが学問の探究に心血を注いだ、心のうちに反骨精神を秘めた友人が、少なからずいる その友人グループを構成する一員として恥じない生き方をしたいと思うが、現状、飲み会などで羽目を外すといった意味の”馬鹿”ではなく、もっと根本的に”馬鹿”になることが大方の社会人に求められている

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