見出し画像

街中

 波子は、鞄の中に手を突っ込んで弄るように携帯を探している。書きたい衝動に駆られて、衝動が去っていく前に、何かを記したいのだ。「書きたい」。口を衝いて出た。大通りの人が行き交う今、この場所で、なにかに突き動かされ、導かれるかのごとく書きたいと身体の胸辺りから湧き上がってきた感情。
 なぜ今なのかは分からない。人が前から何人も何人も歩いてくる。後ろからも同じだ。流動的な流れの中、逆らうかのように波子は立ち止まり、今こうしている。鞄の中に、四角いメタリックな物体が手の甲に当たった。それを掴むと、波子は歩道の脇に進み、立った状態で携帯を開く。空を見上げる。ビルとビル、看板、電灯、標識、青い空と少しの白い雲。
 なんの情緒もないこの状態で書きたい衝動に駆られた波子は、この心を動かされることのない、視界に入り込む現像から何を得て、書き残すつもりなのか、自分でも分からない。ただ、書きたい衝動に逆らう事も出来ない。
 人の行き交う様子を立ち尽くして見ていると、口々に身体を乗り出して会話をしながら歩いている4人の女子高生。風に髪の毛がなびき、まだこれから起きるであろう、厳しい社会のしがらみや、見なくていいものを見てしまうこと。美しい事ばかりではなく、貧困や憎悪、嫉妬。そんな、知らなくても良いことをまだ知らないでいるであろう少女達の笑い声。
 ベビーカーを押しながら歩く、スタイリッシュな女の人。子供を産んで、一年経つか経たないか定かではないが、気高く前を向いて、腰を伸ばしながら歩く様子は、母親である前に、女性でありたいと願っている心情が伝わってきた。波子は内心、プライドが高く、自分への美意識に対する自己肯定に厳しい人だなと思ったのだ。なぜかと言うと、自己肯定に達するまでの自己の基準が高くないと、あそこまでの身のこなしはできないと思うからだ。子供を産んでからなおさら厳しくなり、人混みの中に自分を投じて、さらに自分にプレッシャーを与えている人だなと感じた。彼女は疲れないんだろうか、疲れてもいいから、自分が目指す自分を体現しているのだろうか。家に帰っても綺麗にしているのだろうか。家の中のインテリアまでも、自己実現の材料として、存在しているのだろうか。私のように買ってきたままコンビニの袋がテーブルに置かれているような怠惰な生活はしないのだろうかなど、ぐるぐると疑問が頭をよぎった。彼女を見ていて、勝手な妄想を巡らせて勝手に疲れてしまった自分にふと鼻で笑ってしまう。
 歩道の脇に点在する石造りのベンチに移動し、波子は腰を下ろした。定点観測とでもいうのか。
 行き交う人々はまさに千差万別。ズルズルとジーパンの裾を引きずり歩く若い男性。百貨店で買い物した紙袋を持った老女。流行の洋服を身に纏い、美しい肌と、細い身体を誇りに思っているかのように背筋を伸ばして歩く女性二人組。赤子を抱っこ紐で抱っこし、3歳くらいの男の子の手を引きながら、しかめっ面で歩く母親。部屋着のまま出てきたかのように、身なりに清潔感がなく、だらしのない生活をしているのではないかと連想させる中年男性。
 定点から観察していると、数秒で自分の前を通り過ぎていく人々が、一瞬の外見の印象でどのような人間の部類に入るのかを選択していっている自分がいる。ふと、自分は何様なのかと自分にツッコミを入れていた。
 人間観察をしていても、特に書きたいことが分からない現状に、いつの間にか書きたい衝動も薄れてきていた。書きたいことがないと書けないのだ。そんな、自分の才能の無さというか、不甲斐なさに、肩を落としながら、重い腰を上げた。
 街を歩いていても、特に買いたいものも見当たらない。家に居ても、特にすることもなく、身体の重さも感じなかったため、人混みに出てみようと思い立って、街に繰り出した。しかし、物欲もなく、街に陳列されたショップもどんぐりの背くらべ状態で、今の私には何も心の中に入ってこなかった。
 私は、煙草が吸いたくなった。今いる場所から、一番近い喫煙所は、大通りの脇に作られている広場があり、そこが一番近いことを憶えている。お寺と幼稚園が隣接する、街中の脇道を真っ直ぐ歩くと大通りに突き当たる。お寺の敷地内には、青々と茂った若葉たちが塀から顔を覗かせている。波子は、前を見ることを忘れてその光景に見入りつつ、足を運ばせていく。大通りの交差点から、喫煙所のある広場が見えた。繁華街から一本道路を挟むだけで、人通りは減るように見えた。横断歩道を歩く。横断歩道を歩くときはいつも少し緊張する。その緊張は何から来るのかというと、信号で停車している車から観察されているのではないかという自意識過剰な緊張からであった。だから、どうしても早足になり、横断歩道のマス目に集中しがちになる。横断歩道を渡り終え、右手にある広場へ向かって足を前に進める。広場には、木陰になっているベンチに座って休憩している人が数人いた。子連れの家族もいる。
 私は、まるで犯罪者のように塀で隔離された小さな喫煙エリアに進んでいく。入ると、1人中年の男性が葉煙草を蒸していた。私が来たことで、少し壁よりに身体をずらしたのは彼の気遣いか、ソーシャルディスタンスを保つ為かは定かではないが、私にはありがたかった。
 またもや、鞄の中に手を突っ込んで電子たばこを手探りで探していく。手で探るものの、なかなか手の感触では確認できず、情けないと思いつつ鞄の中を覗き込むように、顔に鞄を近づけて電子たばこを見つけようと必死になっている。やっとたばこを見つけほっとする。身体がニコチンを欲している。焦る気持ちを見透かされないように、ゆっくりと電子たばこを、セットする。蒸している間、塀をぼんやりと眺めて何も考えずに過ごすが、心は早く吸いたいと速る。蒸し終わることを確認して、私は最初の1吸いを大きく吸い込む。肺を通じて、全身の血流に乗ってニコチンが運ばれていく様子が分かる。脳にニコチンが伝わると、満たされた気持ちがして、煙を吐き出す。少し顎を上げて吐き出すと、若葉が喫煙所の塀を乗り越えて、ひょっこり見えた。そのまま目線を上げると、四角い空に名前の分からない若葉たちが覆いかぶさるように視界に入ってきた。私は改めて、季節が春から夏に少しづつ移行してきていることに気づいた。
 煙草を吸い終わると、白い塀で囲まれた空間から、風の流れる場所へと足を踏み出した。その途端に、また何かに駆られる思いに突き動かされ、私は携帯を探し取り出した。小説アプリを開き、さっきまで眺めていた景色たちが、一気に脳内を駆け巡る。気高くベビーカーを押しながら歩く女性、苛つきながら子どもと歩く女性、めんどくさそうに歩く男性、それらの人生が波子の体内で歩きだしていく。
 喫煙所の出口から、携帯の画面を指でなぞりながらベンチに移動していく。速る鼓動。形態パネルをタッチする速度が上がっていく。背中を丸めて、携帯をなぞった。
 車が走る音。子どもたちが泣き叫ぶ声。男女が笑い合う声。工事現場から聞こえてくる騒音。それら全ての外界からの音たちをシャットアウトされた状態で書いていく。最後の一文を書き終わり、顔を上げたときに、生い茂り覆いかぶさる木々の隙間から、ビルの間から、オレンジ色の空が見えた。
 波子は、どこに焦点を合わせるでもなく、景色を視覚から入れている。ふうと息を吐き出しながら、雑踏の中に身を委ねていく安寧感。波子はしばらく、雑踏に包まれながら、ベンチで眠りについていく感覚に陥った。実際には眠っていないが、そう言うことが一番近かった。波子はそこから動けなくなり、夕方から夜になる時空に溶け込んでいくのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?