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 彼を見かけた。
いや、もしかしたら私の見間違いかもしれない。めったに行かない街なかのコンビニで。
 彼はもしかしたら、あの人なのかもしれない。もしかしたら違うかもしれない。あんな風貌だっただけで、近くで見たら違うのかもしれない。
 よく考えたら、2秒以上彼の顔を直視したことがないかもしれない。もしかしたら私が勝手に彼の顔を作っているだけなのかもしれない。    
 本当の彼を見たら、私は何を思うだろう。意外とへんてこな顔だった。よく見たら、そんなにかっこよくない。
 だけど、私がコンビニで見た彼は、私が思っているよりも、骨格がはっきりしていて、目鼻がはっきりと浮き出て見えた。大きな二重まぶたに上向きにカールされた長いまつ毛。5メートルは離れていたのに、くっきりと見えた。
 息をするのを忘れて凝視していたのに、心臓は何度もばっくんばっくんと大きく動いていた。3秒ほどして、私は我に返り、彼に見つかりたくないと瞬時に思った。横に流した髪の毛で彼に顔が見えないように、髪の中に隠れた。
 そこからは、何を思ってなのか思い出せないけど、かつかつかつかつ。買ったばかりのローファーで早足に公園まで歩いて、私は彼から見えないように逃げた。
 歩行者から顔が見えないようにして、私は肩に掛けていた布のバックに手を入れて、ライターと煙草を手で探った。四角い物体はあるけれども煙草の箱の手触りと違う。早く煙草とライターを探り当てたい一心でバックの中を弄り回す。こんな時に限ってすぐに見つけられないもどかしさに苛立ちも感じる。
 こんな滑稽な姿を万が一通りすがりの彼に見られでもしたら、私はコンクリートにドリルで穴を掘ってでも隠れたい。阿呆なことかもしれないけれども、そのくらい私は彼に見つかりたくないと思うのだ。
 恋い焦がれた彼に、私は何を求めていたのだろうかと考え始める。2秒以上目を合わすのも困難。恥ずかしさ紛れにユーモアを見せつけるのも困難。もし、手を触れられでもしたら私は間違いなく、私ではなく、ただの阿呆な女になってしまうだろう。ただただ、夢見心地な宙に浮いたような世界に逝ってしまう。寝ても覚めても、夢の中でも、ただただ彼のことばかり考え、視界に入れば目で追ってしまう。が、あちらがこちらに気づいてしまえば、私はコンクリートの中にでも隠れたい気分になるのよ。
 全く子供じみた、恋慕といえば聞こえはいいけども、下手したら三十路を超えた女が、このご時世の小学生女子よりも恋慕う行為ができていないんじゃないかと思う。どうしてできないんだろうと思いながら、やっと見つけた煙草にライターで火を点ける。大きく鼻から息を吸い込み、肺いっぱいにニコチンが行き渡っていくのが感じられる。この感覚が堪らなく好きで、古びた店舗が入るビルを視界の一角に入れながら空を何も考えずに瞬きすることも忘れて見ている。少し肌寒い空気と太陽が傾き、ほんのり青とオレンジがせめぎ合っているこの曖昧な時間帯。高校生達が制服姿で自転車を漕ぎながら何人も私の前を通り過ぎていく。煙がかからないように注意しながら灰皿に煙草を捨てた。
 かつかつかつかつ。ローファーで早足に歩く。品よく歩くために、膝を伸ばして踵から着地する。そんなことを考えながら歩いていたら、歩道のマス目を踏まないようにすることに注意がいく。夢中になるけれども、人から見てそのことが決してばれないように自然にマス目を避けて歩くことに集中する。
 前から男女が歩いてくる姿が見えた。一層注意して自然に歩こうと思った。その時、心臓がぎゅっと、身体の毛穴全部が閉じる。そんな感覚に駆られた。私は一層歩道のマス目に集中して、下を向いて男女との距離が縮まる瞬間から横を通り過ぎる瞬間まで顔をあげることができない。
 通り過ぎて1メートルほど離れてから立ち止まり、後ろを振り向く。あちらは私が振り向いていることさえ気づいていない。しばらく動けない私は、まだ心臓が大きく鼓動している。
 彼の顔を至近距離で見ることもできない。彼かどうかも確認することさえできない。果たしてあれは本当に彼だったのか。彼だったら、私だと気づいてもらいたくない。なぜなら、自分がこんなにも些細なことで動揺していることが許せないのだ。
 私は恋をすると、全くの阿呆な女になってしまう。そんな自分が滑稽で、そんな自分を見たくない。
「めんどくさい」
 私はまた、下を向いて歩道のマス目を踏まないように歩き始めた。

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