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なぜ、何を学ぶかではなく、誰と学ぶかなのか。

「何を学ぶのかではなく、誰と学ぶのか」こんなフレーズを最近耳にしませんか?これに関してまとめておきます。

前提として:情報過多な時代

生活している中で触れる情報量が、とにかく増えています。あれも情報、これも情報といった形で、私達は情報にさらされています。良くも悪くも。

「良くも悪くも」は横においておきまして、とにかく情報が増えています。といわれても「どれぐらい増えているのか」が曖昧なので、総務省による「データ流通量の推移」という資料を参考にします。

記事によると「1年間で15.2%増加とか」「5年間で3倍に増加する」とかいろいろ書かれている。情報がどれぐらい増えているのかを参考にするために、毎年15%増加しているとする。

小学1年生が卒業するまでの6年間で、どれぐらい増加するかというと、1.15の6乗なので約2.3倍。

中学1年生が4年制大学に進学し卒業するまでの10年間で、どれぐらい増加するかというと、1.15の10乗なので約4.0倍。

小学1年生が4年制大学を卒業するまでの16年間で見積もると、約9.3倍。これぐらいの増加速度で、情報は増えていっているのです。

ただでさえ、いまでも情報が多すぎると感じている人がいるかもしれませんが、数年後には何倍にもなっているのは確実性のある未来ですね。

なので、情報はいまでも多いし、これからも増え続けるってことです。数年で倍に増えるぐらいのスピードで。ということを前提にします。

同じものを、違う視点で見ている

「同じものを、違う視点で見ている」当たり前じゃないかと思うかも知れませんが、ぐっとこらえてお読みください。現在の視点で考えるとわかりづらいので、30年ほど前を振りながら、サッカーを題材にして考えます。

たとえば、1993年にJリーグが開幕しました。その翌年には94年アメリカワールドカップが開幕。ロベルト・バッジョ率いるイタリアが、予選リーグ敗退間際で、劇的なゴールを決め、息を吹き返し決勝トーナメントを勝ち進みます。そして、ブラジルとの決勝戦。スコアレスドローでワールドカップ決勝史上初のPK戦へ。そして、バッジョのPKミス。

このシーンを何度も見ました。そして、このワールドカップ後にキングカズがセリエAへ移籍し、デビュー初戦でバレージと接触し鼻骨を骨折。

これをキッカケに海外サッカーも報道される機会が増えてました。そして、98年のフランスワールドカップでは、開催国フランスのジダンが初戦に肘鉄を相手にお見舞いしレッドカード。そこから負けることなく勝ち進んで開催国優勝が記憶に残っています。

2002年の日韓共催のワールドカップ、06年ドイツ、2010年南アフリカ、2014年ブラジル、2018年ロシアと開催されていきます。このあたりになると、注目していた国も人によって違うんだろうなって感じがします。

特に、2014年ぐらいになると、クリスティアーノロナウドに注目、メッシに注目、他にも色々な切り口で見られてたんじゃないだろうかと。個人的には。2010年ぐらいからはサッカーの戦術制が語られるようになっていて、ポゼッション率とか、スプリント回数とか見かけるようになったんです。選手に注目していた人、データに注目していた人、チームに注目していた人も増えてきて、メディアによって注目するデータが異なっているという印象です。

スポーツだけでも見方が違う

最近では、日本でも海外サッカーの情報が簡単に手に入りますし、各国のリーグ戦までDAZNで見ることができます。海外の報道の仕方と、日本の報道の仕方も異なっていて、どこを切り取って報じるかによって、得られるものが違うことを強く感じていて、自分に必要な情報をどこから得るのかを意識して選んでいます。

2018年ロシア・ワールドカップの、日本vsベルギー戦(ロストフの激闘)だけでも、どちらの視点で見るのか、どう切る取るのかだけでも、見え方が変わってきます。

野球でも、バスケットボールでも、他のスポーツでも、最近では取り上げられるようになってきて、それぞれの見方があります。スポーツそのものを楽しんでいるのですが、得られる情報が増えてきたため、どこかでフィルタをしているのではないかと仮説を立てています。そうしないと、スポーツそのものを楽しめないから。ファンの立場でとか、スポーツそのものが好きな立場でとか、立場によって異なる見方をしている。そうすることで、それぞれが楽しんでませんか?

どの視点で知りたいのか

情報を引き出そうとすれば、検索するだけでいろいろ出てきます。以前は調べることすらできなかったので、情報の出どころが限られていたのではないかと感じています。ロベルト・バッジョの記事に書かれていることは、リアルタイムで見れていたことですし、どんな人が届けてもそんなにズレがなかったんです。

しかし、最近では社会全体が多くの情報を扱えるようになっています。そのため、ロストフの激闘を取り上げたとしても、どちらの国の視点で語られているのか、データの視点なのか、1人の選手の視点なのか、審判の視点なのか。本当に多様な形で取り上げられています。

だからこそ、「どの情報を選ぶのか」を各々に問われていると感じています。こんな情報がある、あんな情報がある、そんな情報もあるの?と1つのモノゴトが多様な視点で語られており、それがありふれているのが現状です。

そして、こんな情報がある、あんな情報がある、そんな情報もあるの?にさらされている人が、モノを伝える側になってもいます。なので、同じものを見ていても、違った視点で語ってしまっている現状があるのではないだろうかと。

ロストフの激闘を選んでも、ボクの視点は「カウンター時の選手の動きが美しすぎて、物理の相対速度を考えるのにいい題材だな」なんです。そんな風に見ることができる映像と、アーカイブされて検索できるからこそ扱えるんです。

そんな切り取り方をするのが「良いのか悪いのか」ではなく、そういう切り取り方ができる・する人がいるということが大切で、その事実を意識するってことが抜けているなと感じています。

誰に聞くかを骨抜きにする学校

学校は「誰でも同じように教えてくれる」と無意識に思い込んでいる気がしています。しかし、こんな情報がある、あんな情報がある、そんな情報もあるの?にさらされている人が、モノを伝える側の教員になってもいます。

誰に聞いても同じだという視点から抜け出せないんですよね。でも、明らかに人によって見ている景色が違うわけです。おそらく、ボクみたいに学校の外側に出没している人と、そうでない人とでは、見ている景色が大きく違う。そこで感じること、考えること、得ている関係する『知』が違ってくるわけです。どちらが「良いのか悪いのか」ではなく。

「選ぶ」という選択肢が足りないんです。人を選ぶ。誰と学びたいのかを選ぶという視点が足りない。同じ情報元でも、情報がこれだけ溢れている時代においては、誰から学ぶのかが大切ではないでしょうか。なぜかというと、その情報をどう編集しているのかに価値があるから。多く溢れ出している情報を、それぞれの人が無意識であったり意識的に編集していて伝えているわけです。「情報を選ぶ」という視点をもっていないと、意図せずに、誰かの編集した情報に支配されてしまいます。だからこそ「各々が考えて、誰と学びたいのかを選ぶ」を意図的に経験しておく必要があるんです。

なので、タイトルにもあるように「何を学ぶかではなく、誰と学ぶか」なんです。

ズレを受け止め、ズレを認める

生徒と話していて、言葉のズレが気になるんです。ボクが思い描いている光景と、彼らが思い描いている光景がズレている。そして、彼らどうしてでも思い描いている光景がズレている。ズレているのが「良いのか悪いのか」ではなく、ズレが生じるのが現代社会においては前提なのだと。ズレが生じるのは、これまで書いてきたように、身の回りに情報があふれていて、それぞれがどんな情報にふれているのかが大きく異ります。そして、大人もすでにズレているのです。

だからこそ、そのズレを認知して、ズレが何かを把握するためにも「何を学ぶのかではなく、誰と学ぶのか」の視点が必要です。あの人は、この人は、どういう立場で意見を述べているのだろうか。ということに触れることで、ズレを認識するキッカケになります。

誰と学ぶのかを選べるといいな。

そんなことを感じてもいるので、オンラインで相談を受けたりしています。

学校では、先生を選べない。偏った情報が子どもに降りてきているという悩みをもった保護者の方の声を聞くようにもなりました。だからこそ、第三者の立場で語れるセンセイとしての活動も行っています。

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また、オンラインで答えの無いことを学べる場の提供も行っていきます。そうすることで、誰もが多様な視点が得られ、視野が広がっていくと考えているためです。よろしければご参加ください。


いただいたサポートは、誰でも教員と会って話せる『会いに行けるセンセイ』の活動に利用させていただきます。