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『平家物語』をさらっと読んでみましょう 木曾最期(巻9)

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『平家物語』を、読みやすく現代語に訳しました。原文といっしょに味わうことを目的にしているので、訳文には、説明的なことばをあまり付け足さないようにしました。

ただし、読みやすさを大切にして、次のようなアレンジを加えています。

  • 敬語は、会話文など、敬語を活かした方が良い場合を除いて、普通の言い方にしました。

  • 会話が続くときは、〇〇:「   」のように整えました。

  • 話を小分けにして、小見出しをつけました。

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木曾最期

義仲は信濃から、巴、山吹といって、二人の美女を連れてきた。山吹は体調がすぐれず、都にとどまった。中でも巴は、色白で髪が長く、顔立ちがとても美しかった。引ける人がめったにいないほどの強弓を引く優れた武者で、馬の上でも徒歩でも刀をとっては、鬼とも神とも対等に勝負しようかという、一人当千のつわものである。きわめて気の荒い馬も乗りこなして、険しい坂道も駆け下り、いくさになると、頑丈な鎧を着せ、大太刀、強弓を持たせて、まっさきに一方の大将に差し向けられた。たびたび戦場で手柄をあげ、その功績は肩を並べるものがいない。だから今度も、多くの者が敗走し、討たれた中で、残り7騎になるまで、巴は討たれなかった。

感動の再会

義仲は長坂を通って丹波路に向かうと噂された。また、竜花越を通って北陸へとも噂された。だが義仲は、今井の行方が知りたいと、勢田の方へ逃げていき、今井四郎兼平も、800余騎で勢田を守っていたが、わずか50騎ほどになるまで討ち負かされ、旗を巻かせて、主の義仲のことが心配で、都に引き返すときに、大津の打出浜で義仲に出会った。たがいに100メートルほど手前からそれと気づいて、主従が馬を早めて近寄った。

義仲が、今井の手を取って言うには

義仲:「私は六条河原で討ち死にするはずだったが、おまえの行方が恋しくて、大勢の敵の中をかき分けて、ここまで逃げてきたのだ」
兼平:「仰せまことにかたじけのうございます。私も勢田で討ち死にするはずでしたが、あなたの行方が気がかりで、ここまで来ました」
義仲:「われらの誓いはまだ朽ちていなかった。わが軍勢は敵に押されて、山林に逃げ込んで散らばり、このあたりにもいるだろう。お前が巻かせて持たせている旗を挙げさせよ」

と言えば、兼平の旗をさし挙げた。京から逃げてきた軍勢か、勢田から逃げてきた軍勢かの区別なく、兼平の旗を見つけて300余騎が集まる。義仲はとても喜んで、

義仲:「この軍勢がいれば、最後のいくさができる。このあたりにかたまっているのは 誰の手のものか」
兼平:「甲斐の一条次郎殿と聞いております」
義仲:「軍勢はどのくらいいるのだ」
兼平:「6000余騎との噂です」
義仲:「それならちょうどよい敵だ。同じ死ぬのなら、よい敵と互いに攻め合って、大勢のなかで討ち死にしよう」

と言って、まっ先に進んだ。

義仲と兼平が感動の再会をした打出浜のあたり。現在は大津湖岸なぎさ公園

朝日将軍源義仲なり!

木曽左馬頭義仲、その日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て、鍬形を打ち付けた甲の緒を締め、いかめしげなこしらえの大太刀をさし、その日のいくさで射て少し残った、石打の矢を頭より上に出して背負い、滋籐の弓を持って、名高い木曽の鬼葦毛という、実に太くたくましい馬に、黄覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙ふんばり立ち上がり、大声をあげて名のるには、

義仲:「昔は噂にきいた木曽の冠者。今は見ているな、左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲だ。甲斐の一条次郎と聞く。たがいによい敵だ。私を討って兵衛佐頼朝に見せよ」

と言って、大声をあげて駆ける。

一条次郎:「ただいま名のったのは大将軍だ。もらすな者ども、逃がすな若党、討て」

と言って、大勢で取り囲んで、このおれが討ち取るぞと進んだ。

木曾300余騎、敵の6000余騎の中を、たて、横、蜘蛛手、十文字にかきわけて、後ろにつっと出たところ、50騎ぐらいになってしまった。そこを破っていくうちに、土肥二郎実平が2000余騎で行く手を阻んだ。それも破っていくうちに、あそこで400~500騎、ここでは200~300騎、140~150騎、100騎ぐらいの中を、かきわけ、かきわけ行くうちに、主従5騎になってしまった。5騎になっても巴は討たれなかった。

巴、戦場を去る

義仲:「おまえは、はやくはやく、女なのでどこへでも行け。おれは討ち死にしようと思うのだ。もし人手にかかるようなら自害をしようと思うので、木曾殿の最後のいくさに、女を連れていたなどと言われるのもしゃくにさわる」

と言ったが、巴はなかなか逃げて行かなかったが、あんまりな言われように、

巴:「ああ、よい敵が現れてほしい。最後のいくさをお見せしよう」

と思って、待っているところに、武蔵国で評判の大力、御田八郎師重が30騎ぐらいで出てきた。巴はその中に駆け入り、御田八郎に馬を寄せて、むずとつかんで引き落とし、自分が乗っている鞍の前輪に 押しつけて、まったく動けなくして、頸をねじ切って捨ててしまった。その後、武具を脱ぎ捨て、東国の方に落ちてゆく。手塚太郎が討ち死にする。手塚の別当は逃げていった。

鎧が重くなった‥

今井四郎兼平と義仲が主従2騎になって、

義仲:「日ごろはなんとも思わない鎧が、今日は重くなったぞ」
兼平:「お体はまだ疲れていらっしゃいません。あなたの馬も弱っていません。どうして一揃いの鎧を重いと お思いになるのです。それは味方の軍勢がいないので、臆病になってそのように思うのです。兼平一人で、ほかの 武者千騎分と思ってください。矢が7つ8つあれば、しばらく敵を防ぐために矢を射ましょう。あそこに見えるのは粟津の松原と言います。あの松の中で御自害なさいませ」

と言って、攻め込んでいくうちに、また新手の武者が50騎ぐらい出てきた。

兼平:「あなたはあの松原にお入りください。私はこの敵を 防ぎましょう」
義仲:「わたしは、都で討ち死にするはずだったが、ここまで逃げてきたのは、おまえと同じ所で死のうと思うためだ。別々に討たれるよりも、同じ場所で討ち死にをしよう」

と言って、馬の鼻を並べて駆けようとしたので、今井四郎は馬から飛び降り、義仲の馬の口をつかまえて言うには、

兼平:「弓矢取りは、常日頃どのような手柄を立てようとも、最期の時に不覚をとれば、ずっと人から非難されます。お体が疲れていらっしゃるのです。あとに続く軍勢はありません。敵に無理に引き離されて、たいしたことのないやつの郎等と組んで落とされて、もし討たれてしまえば、『あんなに日本国で評判だった木曾殿を、私の郎等が討ち取った』などというと思うとがっかりです。ただあの松原にお入りください」

と言ったので、義仲は「それなら」と言って、粟津の松原の方へ駆ける。

誇り高く死ぬために

今井四郎はただ一騎で、50騎ぐらいの中に駆け込み、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名のったのは

兼平:「日ごろは噂に聞いてただろう、今はその目で見られよ。木曾殿の乳母子、今井四郎兼平、生年33になる。そのような者がいるとは、鎌倉殿までもがご存じだろう。私を討ってお見せせよ」

と言って、射残した8本の矢を、さしつめ引きつめ、さんざんに射る。死んだのかまだ生きているのかはわからないが、すぐに敵8騎を射落とす。そのあと刀を抜いて 馬を走らせ、あれに向き合い、これに向き合い、斬って回るので向かってくるものはいない。敵の首をたくさん奪い取った。とにかく「射取れ」と言って、中に取り囲み、雨の降るように射るけれども、鎧が頑丈なので裏まで貫通しない。すき間を射ないので、けがもしない。

義仲死す

義仲はただ一騎で、粟津の松原に向かって駆けたが、1月21日、日暮れごろのことなので、薄氷がはっていた。深田があるとも知らず、馬をざっと入れたところ、沈んで馬の頭も見えなかった。馬をあおれども、あおれども、打てども 打てども、動かない。今井兼平の行方が気がかりで、振り仰いだ甲の内側を、三浦石田次郎為久が、追いついて、弓を引いて、ひゅううと射る。傷は深く、額の真ん中を馬の頭にあてて、うつぶせになったところに、石田の郎等二人が一緒に来て、とうとう義仲の首を取ってしまった。太刀の先につらぬき、高くさしあげ、大声をあげて、「近ごろ日本国で評判の木曾殿を、三浦石田次郎為久が討ち取ったぞ」と名のったので、今井四郎兼平はいくさをしていたが、これを聞いて、

兼平:「今となっては誰をかばおうと思っていくさをするのか。これをご覧ください、東国の方々。日本一の剛の者が自害する手本」

と言って、太刀の先を口に含み、馬から逆さまに飛び降りて、貫かれて死んでしまった。

だから粟津のいくさはないのだった。

原文と現代文の対訳→ダウンロードできます

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