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紫式部に近づきたい ~紫式部の弟、藤原惟規

紫式部の周りをぐるっと

大ベストセラー作家、紫式部さんはどんな人?2024年の大河ドラマ「光る君へ」ではどのように描かれるのかな?平安時代が立体的に再現されるので、とても楽しみです。

史実と違う!と怒り出す人もきっとあらわれるでしょうが、ほほう、アレをそう解釈しますかなどと思いながら観るのも楽しいはず。

そこでいろいろなアレコレを、できるだけ紫式部に近い時代に書かれた本によって、紹介していこうと思います。

今回は紫式部の弟の藤原惟規について、まとめました。

紫式部の兄なのか弟なのか

平安時代の女性は、皇女や公卿の姫君たち(それも一部)を除いて、ほとんど生没年がわかりません。紫式部も同じで、姉がいたことは紫式部集からわかりますが、惟規が紫式部の兄なのか、弟なのかが、はっきりとわかる客観的な資料はありません。

でも、紫式部日記のこんなエピソードから、弟ではないかと推測されています。

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私の身内の式部の丞という人〔惟規〕が、子どもの頃、漢文の書物を読んでおりました時、いつもそばで聞いていて、あの子がなかなか理解できず、忘れるところも、私は不思議なほどすばやく理解できましたので、漢学を専門にしている父親からは、「残念だ、おまえが男の子でないとは、ついていないなあ」と、いつも嘆かれていました。

この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞きならひつつ、かの人はおそう読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞさとくはべりしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞ、つねに嘆かれはべりし。

原文は小学館新編古典文学全集『紫式部日記』による

中野幸一氏いわく、「惟規を式部の兄とする説もあるが、ここではとらない。もし年下の式部が男であって、兄よりもすぐれていたとしても、長子相続の当時にあっては、父の跡目を継ぐことは許されないことであろう。式部が惟規よりも年長であったからこそ、父は式部が男であったならばと嘆いたものと思われる」(小学館新編古典文学全集「紫式部日記」頭注)

なるほど! 本稿も、惟規は紫式部の弟としましょう。

勉強ができない?

姉の紫式部が〈子どもの頃は漢文がなかなか理解できなくてね、すぐ忘れちゃうし〉と日記に書いてしまったがために、惟規には勉強が苦手というイメージがあります。

ところが、惟規の経歴をみると、大学寮〈中央における官吏養成機関〉で文章道を学び、難しい試験に合格して、文章生もんじょうしょうになっています。これは優秀な学生の証。そして、中務省に採用され、さらに、兵部の丞、六位蔵人、式部の丞を歴任。

私、思うのですが、紫式部と惟規の父親は、花山天皇に漢文をお教えした漢学者の藤原為時、だから、〈いきなり難しい漢文の本を読ませたんじゃないの?〉それなのに、すらすら理解できた紫式部が、桁外れに優秀だったということではないかしら。

蔵人になる

惟規が六位蔵人に任じられたときの記事が、藤原道長の『御堂関白記』寛弘四年(1007)1月13日の条にあります。蔵人は、帝のお側近くでお仕えする、花形ポスト。中流貴族にとってのあこがれでした。

くろうど〔クラウド〕【蔵人】
蔵人所の職員。もと皇室の文書や道具類を管理する役であったが、蔵人所が設置されて以後は、朝廷の機密文書の保管や詔勅の伝達、宮中の行事・事務のすべてに関係するようになった。

Japan Knowledge  デジタル大辞泉

『御堂関白記』の、惟規の蔵人任命の記事を、(古記録の解釈は手強いので)倉本一宏氏の現代語訳で紹介します。

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蔵人には兵部丞(藤原) 広政と(藤原)惟規を補した。蔵人所の雑色や非蔵人を差し置いて、この人々を補せられるのは、現在、蔵人所に伺候している蔵人は、年が若く、また、補すべき巡にあたっている非蔵人や雑色たちも年少である。そこで、この二人は頗る年長であって、蔵人に相応しい者である。そこで補せられただけのことである。後世の人に判断を任せよう。この人事の賢愚はわからない。(藤原道長「御堂関白記」上 講談社学術文庫 2009)

兵部丞広政・惟規等なり。所雑色・非蔵人等を置きながら、件の人を補せらるる事、当時、所に候ずる蔵人、年若く、又、任ずべき非蔵人・雑色等も年少なり。仍りて件の両人は頗る年長にして、蔵人に宜しき者なり。仍りて補せらるる所のみ。後人に任せ、賢愚を知らず。

『御堂関白記』摂関家古記録データベース

この記事を読むと、六位蔵人の候補者がたくさんいる中で、惟規たちが抜擢されたことがわかります。実力があったから選ばれたと思いたいところですが、道長は、〈ほかの候補者は年少*だが、惟規たちは年長なので蔵人にふさわしい〉と書いています。え、任命の理由って年齢だけ? それに〈人事が妥当かどうかの判断は後世の人にまかせる〉も、なんか責任逃れのような気がしますなあ。

*非蔵人は、「良家の子で六位の者から選ばれ、蔵人に準じて昇殿を許されて、殿上の雑用を勤めた者」(デジタル大辞泉)のこと、親が公卿なので、若いうちから特別待遇で昇殿を許されています。

このころ、道長の強い要望にこたえて、紫式部が中宮彰子〔道長の娘〕のもとに出仕しています。ということは、紫式部が弟の任官をお願いした可能性もある?むしろ、大あり? 惟規は、蔵人と兵部の丞を兼任しました。

蔵人惟規

『小右記 』は藤原実資 の日記です。彼の通称野宮大臣から書名がつきました。紫式部の雇用主、藤原道長の時代のことが詳しく記された貴重な資料です。皇太后になった彰子と実資の取り次ぎを、紫式部がしていたことも書かれています。

さて、『小右記 』寛弘五年(1008年)12月25日の条によると、12月15日に宮中で行われた御仏名の時、導師と弟子の僧たちに、「綿」を褒美として与える際に、惟規たちは、ちょっとしくじったようです。

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五位蔵人の広業、六位蔵人の惟規と惟任が、綿を盛るはこをもち、御導師の座の下で分け与える。ただし惟規と惟任が筥をもつ。先例では、一つの筥に御導師の分の綿を盛り、もう一つの筥に弟子僧の分の綿を盛る。だが両方の筥に御導師の分の綿を入れた。惟規は、そのうえ簾の下に座り、弟子の綿を盛る筥をもつ、そして全部、弟子に授ける。当然、全員に渡るように分け与えなくてはならない。しかし、数帖の綿を一人だけに授けた。他の僧たちがそれを奪い取るので、ひどく騒がしかった。蔵人は、先例に従わなかったようだ。居合わせた公卿たちは、首をかしげ不審に思った。(私訳)

五位蔵人広業・蔵人惟規・惟任、綿を盛る筥を執り、御導師の下に就きて頒ち給ふ。但し惟規・惟任、筥を執る。先例、一筥に御導師の綿を盛り、今一筥に弟子僧の綿を盛る。而るに二筥ながら御導師の綿を納む。惟規、更に簾下に就き、弟子の綿を盛る筥を執る。皆、弟子に給ふ。須く普く頒ち給ふべきなり。而るに数帖の綿を以て一人に給ふ。他の僧等、奪ひ取る間、極めて以て狼藉たり。蔵人、古実を失するに似る。諸卿、傾き奇しむ。

『小右記』摂関家古記録データベース

先例を守ることがとても大切なこの時代に、先例と違うことをして、混乱させてしまいました。失敗が記録に残ってしまいましたね。

大晦日の夜の宮中引きはぎ事件

紫式部日記には、大晦日の夜、宮中で、女房ふたりが引きはぎに着物を奪われた事件のことが書かれています。追儺ついなが終わり、弁の内侍、内匠たくみの蔵人と紫式部がくつろいでいたときのこと……

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中宮の彰子さまがいらっしゃるあたりで、はげしく騒ぐ声がする。弁の内侍を起こすけれど、すぐには起きない。人が泣き騒ぐ声が聞こえるので、とても不吉な感じで、なにも考えられない。火事かと思うが、そうではない。「内匠の君、さあさあ」と前に押し出して、「ともかく、中宮さまが下のお部屋にいらっしゃいます。まず参って様子を拝見しましょう」と、弁の内侍を荒っぽく揺すって起こし、三人でふるえ、ふるえ、足も宙に浮いたように参上すると、裸の人がふたり座っている。なんと靭負ゆげひと小兵部だった。

御前のかたにいみじくののしる。内侍起こせど、とみにも起きず。人の泣きさわぐ音の聞こゆるに、いとゆゆしく、ものもおぼえず。火かと思へど、さにはあらず。「内匠の君、いざいざ」と、さきにおしたてて、「ともかうも、宮、しもにおはします、まづまゐりて見たてまつらむ」と、内侍をあららかにつきおどろかして、三人ふるふふるふ、足も空にてまゐりたれば、はだかなる人二人ゐたる。靭負、小兵部なりけり。

原文は小学館新編古典文学全集『紫式部日記』による

中宮の身を心配して、内匠の君を先立て、ふるえながら見にいったようです。ーーこんなとき紫式部は、先頭に立ってずんずん行くのかと思えば、そうではないのね(メモメモ)。

同僚の女房がふたり、着物をはぎ取られて、はだかでふるえていました。

「靭負、小兵部なりけり」の文末の〈なりけり〉は、「~だ」という断定の助動詞と、「~だったのだ、今気づいたよ」という過去(詠嘆)の助動詞、別名〈気づきの けり〉の合わせ技です。

とつぜん古典文法レクチャー

宮中を警固する人たちは退出していて、手をたたいて呼んでも返事はない。紫式部は「殿上にいる兵部丞という蔵人を呼んで!」(殿上に、兵部丞といふ蔵人、呼べ呼べ)」と弟の惟規を呼びに行かせます。でも、惟規は退出したあとでした。

〈緊急事態に、どこに行ってたのよ、もう、頼りにならないんだから〉などと、惟規はきっと怒られただろうな(想像)。

おそろしく優秀な姉と、ふつうに優秀な弟

以上、みてきたところによりますと、惟規は、お仕事の面では、ふつうに優秀といってよいのではないでしょうか。多少の失敗は記録されてしまいましたが、ドンマイ。

惟規の浮いた話については、また今度。


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