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稲垣吾郎と新垣結衣の演技対決が白眉の、映画『正欲』

岸善幸監督の映画『正欲』。試写で拝見したのは随分前だけど、公開が迫ってきたのでもう一度まとめておきたい。
この映画は、他人に理解されないような特殊性癖を持つ人々の生きづらさ、自分のことを他人に説明することの面倒さ、そういうものを描いた同名小説を原作にしている。
検察庁に勤務する検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)。彼には不登校児童の息子がいる。ショッピングモールの寝具売り場で働いている桐生夏月(新垣結衣)。彼女は1人でいることが好きなので、同僚から話しかけられることさえストレスを感じる。大学生の神戸八重子(東野絢香)は男性恐怖症で、道行く人が親切で声をかけてくれただけでも過呼吸に陥ってしまう。
夏月は中学時代の同級生・佐々木佳道(磯村勇斗)と、八重子は同じ大学のダンススクールに属する諸橋大也(佐藤寛太)と出会ったことで、自分の生きづらさを分ちあえそうな気になる。

原作小説では、冒頭から小児性愛者の男性3人が逮捕されたとニュースが報じられ、物語の進行と共に彼らが何者であるかが明かされて行くのだが、映画化に際してこの構成を入れ替え、登場人物の人となりをじっくり描き込んで行くことで、後半の悲劇性を際立たせるシナリオになっている。

寺井は法を守る検事であるが故に、些細な犯罪を許せない。特に自分の不登校の息子がやっているYouTube活動を通じて、歪んだ性癖の大人が児童を見る目の異常さを知ってからは、小児性愛者への個人的な怒りも留まらない。
「社会のバグは本当にいるの! 悪魔みたいな奴がいるんだよ! これが現実なの!!」と激昂する稲垣吾郎の姿が予告編で見られるが、小児性愛者に対する彼の凄まじい感情は、検事の職務を超えた個人的な怒りの発露でもある。
一方の夏月と佳道は、勢いよく噴き出す水を見ると興奮する特殊性癖があるのだが、あるものを見ることでゾクゾクする、興奮するという性癖や性欲というのは他人に話しづらいし、そのジャンルが特殊であるほど理解も共感も得られにくい。そのために説明することさえ面倒くさい。同じ趣味の人同士で秘めやかに共感しあうだけで充分なのだ。

弾ける水が好きな人々は、その趣味を共有して楽しんでいただけなのに、端から見れば良い歳の大人が子供を相手に水遊びではしゃいでいる、という図式になり、当然世の誤解を受ける。原作冒頭で逮捕されている、この人々が、いかに世間から身を隠して普通の人間のふりをして溶け込もうとしていたか、それを映画で順序を追って積み重ねられるだけに、その先に待つ展開がつらい。検事の寺井も、共通の秘密で繋がる夏月も佐々木も諸橋も、決してそれぞれは悪い人ではないことが観客には分かるため、人物同士の”分かりあえなさ”という断絶に深い虚しさが残る。新垣演じる夏月の静かな問いかけに、稲垣の検事が「はい?」と不快そうに返す場面が予告編にあるが、まさにアレだ。人は分かり合えない。

本作を見ていて凄いなと思ったのは、根は善人でありながら、何故か作中で一番歪んだ人物に見える寺井役の稲垣吾郎と、終始死んだような目をして、世間の人に分かってもらうことを諦めて生きている夏月役の新垣結衣だった。
稲垣は近作『窓辺にて』(2022年)の、喫茶店でパフェをつついている穏やかな男と対極の役柄で、『十三人の刺客』(2010年)での狂える暴君に近いテンションを感じる。いや、あそこまで異常ではないけどね。
新垣結衣は、松竹の『フレフレ少女』(2008年)のような他愛ないアイドル映画の頃から観ているが、この映画で一皮むけたなぁと感じるような大人の芝居を見せている。特に映画のタイトルインの辺りが素晴らしいのだが、ここは実際に本編を鑑賞されたし。原作にあるシーンを、こういうニュアンスの芝居でやってのけたか、と感心した。
『正欲』は、公開されればおそらく大きな反響を呼ぶと思う。原作小説の見事な脚色と、出演者が過去の作品で見せてきたことがない新境地の演技等々。今の世の中に多く使われている「マイノリティ」「多様性」とは何かを、普通の人々に突き付けて来る問題作だ。