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#16 ブラック校則の見直しが意味すること

僕は、子どもたちの人権を無視したブラック校則を廃止することは当然だと思っている。一方で、ブラック校則ができた背景も理解できる。

そもそも、学校はなぜブラックと揶揄されるほどの理不尽な校則を作ったのか。日本の教員は、子どもたちの成長のために、献身的な長時間労働をしている。血のつながった我が子より、学校の子どもたちに生活時間を捧げるような生活をしているのだ。そこまで子どもたちを大切にしている教員が、人権を無視したようなルールを作らなければいけなかった理由は何なのか。

この理由を理解してもらうためには丁寧な説明が必要だ。まず、ご自身の思春期を思い出してほしい。僕は、自分の思春期は人生の中で「最も不安定」で「異常」で「御し難い」期間であったと思う。僕に限らず多くの方が、小さなことで落ち込んだり悩んだり、親や教員に反抗したり、社会を斜めから見て憤りを感じたりと、実に多感であったと思う。こんな「異常事態」である人間を数百人預かる学校の苦労は相当だ。
特に中学校に課せられた任務は厳しい。思春期に入った子どもたちを統制し、着席させ、大嫌いな勉強をさせるというのだから、普通に考えて離れ業である。しかも、学習指導要領が示す大量の学習内容。それに学校が独自で付加する行事や部活動などが合わさってできた膨大なカリキュラム。これらを確実に「こなす」ことが求められる。
そしてこの離れ業を世界で最も成功させていると言っても過言ではないのが日本である。ブラック校則だけ取り上げれば非人間的な教育に思えるが、日本ほど子どもたちに優しい国はないのではないかとも思う。過ちを犯した子に対して厳罰で対応せず、粘り強く教え諭す。体罰はもちろん禁止されており、子どもに対する強制力は何ももたない。公立の小中学校には退学も停学もない。実質的な停学処分と言える出席停止も執行させることはほとんどない。

また、あらゆることを学校が決めることは、子どもたちにとって不自由なことだが、別の見方をすれば「すべて決めてもらって楽」でもある。教員の言うことさえ聞いていれば常に「安全圏内」にいられるのだ。保護者にとっても、子どもたちが学校で大人しく過ごしていれば安心だし、すべて決められた方が考えなくてよいので楽である。つまり、細かなルールで子どもたちを個性化させない仕組みは、現在の学校では一つの適性解なのだ。

このブラック校則の見直しは、子どもがそれぞれの意思で自己決定する機会を与え、多様性への道を拓くことになる。
ただその道のりは簡単ではない。例えば、ブラック校則と言われるものの一つに、「カバンにつけるマスコットは1つまで」というものがある。僕なら「カバンにマスコットはつけない」というルールにしたいくらいだが、このルールをやめたとして、次のような状況が発生したらどのように対応するだろう。

ある子どもが、ランドセルに人気キャラクターのマスコットをつけてきた。するとその友達がそれをまねして、教室内で一気に流行が広がった。多い子は5個も6個もマスコットをつけて来る。ある日、ある子が担任に訴えた。「私の大事なマスコットがなくなりました。今朝、教室に来た時は確かにあったのに」

さてどうすればいいだろう。
「そんな物、持ってきたあなたが悪い」と取り合わないという方法がある。それは、一方で教室の中での盗みを認めるということだ。
クラスの子ども全員のポケットと机の中とランドセルの中を調べるという方法もある。今度は逆に全員を盗みの犯人と疑うことになる。
全員に紙を配り、「やった人は×、やっていない人は○を書いて、小さくたたんでこの箱の中に入れなさい」とゆるやかに自白を求める方法もある。やった子が×を書くまで授業が始められない。「刑事のような仕事をするために教員になったんじゃない!」と思うのは僕だけではないだろう。
これを機会に、ルールを子どもたちに決めさせる方法もある。
「ランドセルにマスコットをつけるのは禁止」
「マスコットは一つまで」
「マスコットをつけてもよいが、無くなっても文句は言わない」
などのルールを子どもたちが話し合って決める。では、例えば「無くなっても文句は言わない」というルールになったとして、実際になくなった時に何もしないという選択が教育的に適切と言えるだろうか。
「自分たちで決めたルールだから自分たちで解決しなさい」と子どもたちに返すという方法もある。子どもたちは犯人探しを始めるかもしれない。友達全員のポケットと机の中とランドセルの中を調べるのだ。教室は疑心暗鬼の最悪の状況になるだろう。その結果、犯人が見つかってしまった時の衝撃は想像を絶する。真犯人がマスコットを誰かに押しつけていたかもしれない。「僕はやっていない」という声が教室に虚しく響くのだ。
この校則について再度、子どもたちが話し合う時間が取られることもあるだろう。このような事件こそが「生きた教材」と考えるのであればそれも一つだ。しかし、年間1015コマの授業をこなしていかなければいけない逼迫した指導運営の中では、授業時間を犠牲にしなければそこに費やすことはできない。
子どもたちが校則を決めるという手続きは、子どもの権利条約で認められている「意見表明権」を保障した好手だと思う。しかし、次の年に入ってきた1年生にとっては「誰かが決めた」校則でしかない。これは毎年、時間をかけて、しかも全ての子どもたちの参加する議論によって決めていかなければ、学校が勝手に決めた校則と大した違いはなくなっていく。

マスコット一つでも、これだけの混乱が予想ができる中で、髪型、髪の色、靴下、下着、文房具、廊下の歩き方などあらゆる分野でこの混乱と向き合うことになる。
しかし、ブラック校則の見直しというパンドラの箱を開けてしまった以上、学校は多様性を認める方向に舵を切らざるを得ない。

もちろん多様性がもたらす恵みは大きい。学校現場における基本的人権の尊重、自主性や自立・自律、主体者意識、自尊心など、これまで抑圧されてきたさまざまな側面に陽が当たる。これは日本人の心を幸せな方向に導く大きな起爆剤になると僕は期待している。

ただ、明治時代に人間の均質化を目指してできた学校の建てつけはそのままに多様性を導入することは実は相当な無理がかかる。明治時代の旧車のフレームに800馬力の最新エンジンを積んで走るようなものだ。それはタブレットの導入でさらに加速する。(続く)

※執筆中の書籍の原稿の一部を引用して記事にしています。

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