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非認知能力とは、やる気、自己肯定感、協調性、粘り強さなど、個々の成長やパフォーマンスを支える心の土台である。これと対極なのが認知能力、言い換えればテストで測定できる学力である。

自分の人生を振り返ってみても、学力や能力だけでなく、非認知能力が自己実現をの土台となっているのは間違いないと思う。先行きが見通せない社会の中では、認知能力よりも非認知能力の方が汎用性は高いという意見もなるほどと思う。では、この非認知能力は学校教育の中で、どのような位置付けになっているだろう。

小学校の学習指導要領では、国語、社会、算数、理科、生活科、体育、音楽、図画工作、家庭科、外国語の10教科と道徳、特別活動、総合的な学習の時間、外国語活動の4領域がある。かなり乱暴だが、小学校を例に、これを認知能力、非認知能力のどちらを主として育んでいるかに分けてみる。

《認知能力》
国語、社会、算数、理科、生活科、体育、音楽、図画工作、家庭科、外国語、外国語活動、総合的な学習の時間
《非認知能力》
道徳、特別活動(学級活動、学校行事、クラブ、委員会活動)

例えば、小学校5年生の時間割には1週間に30コマがあり、上のカテゴリー別に見れば認知能力に関わるコマ数は週に27時間、非認知能力に関わるコマ数は3時間である。9割がいわゆる「お勉強」であり、認知能力にかける時間が圧倒的に多い。
そのような中、学校は子どもたちの非認知能力を指導・評価することも求められている。年度末に作成する「指導要録」には、個々の子どもたちの「行動の記録」を記入することが通例となっている。その項目は、次のとおりである。

基本的な生活習慣
健康・体力の向上
自主・自律
責任感
創意工夫
思いやり・協力
生命尊重・自然愛護
勤労・奉仕
公正・公平
公共心・公徳心

教育関係者でなくてもどこかで見たことがあると思われるのではないだろうか。これらの評価項目は通知表に反映されていることが多いからだ。
これらの指導は教科のように系統的に行われるのではなく、「学校の教育活動全体」の中で育まれるものとされている。(ただし道徳の授業においては一通り指導することとなっている)

子どもへの強制力をもたない学校生活において、子どもたちが自ら学習に向かう環境をつくるには、認知能力と並行して非認知能力を高める方策は好手であることは間違いない。
僕の経験から察すると、教員が子どもたちに期待するのは「自律」「基本的な生活習慣」「公共心・公徳心」など、学習場面で教員に都合のよい非認知能力であり、「自主」「創意工夫」など下手をすれば授業中の身勝手な行動につながりかねない力は後回しになりがちだ。
また、教室内でのトラブルを抑制するためにも、「思いやり・協力」の大切さは普段から強調してもしすぎることはない。
本来、学校設置者が行うべき校舎の清掃も、「責任感」「勤労・奉仕」の名の下に子どもの教育内容と化している。
また、競争を随所に取り入れ、目標に向かって努力したり、諦めないでとりくみ続けることの大切さを強調する。ただし、これは諸刃の剣で、競争によって自信を失い、自己肯定感を低下させている子どもたちもいる。だがその事実は教員の目には映りにくい。

総じて、どの子にどんな非認知能力がついているかは捉えどころがない。そもそも測定不可能なのが非認知能力である。「1年生の時はやる気があったのに6年生になったらさっぱりだ」というように積み重ねがあるものでもない。学校では控え目で前に出ることがない子が、習い事では別人のように活躍していたということもある。捉えどころがないけど大切だというのが厄介で、「ならば、非認知能力が上がりそうな場面をありったけ入れてしまえ」ということになりがちだ。系統的に育むことはできないが、色々やっておけばどこかで成果はあるだろう。この考え方が部活動や学校行事の肥大化をもたらした。
例えば学習発表会や文化祭は、学習指導要領では「平素の学習活動の成果を発表し、その向上の意欲を一層高めたり、文化や芸術に親しんだりするような活動を行うこと」を目的とした文化的行事の一つだが、その過程で教員は子どもたちが努力したり、心を一つにしたりという場面を強調して、練習に力を入れ、最後に子どもたちから「やっぱりがんばってよかった」という思いを引き出そうとする。保護者からも「感動しました」という声があり、ますます本来の目的が見失われる。
時間割の9割は「お勉強」でありながら、実際にはその時間を侵食して行事の練習が行われているのが学校の実態である。また、そこで培われる非認知能力も「がんばること」に偏りすぎており、がんばっても成果を出せない子どもたちは黙って自己責任を受け入れるしかない。

非認知能力の重要性を訴えた書籍「私たちは子どもに何ができるのか」(ポール・タフ著)では、学校教育において認知能力と並行して非認知能力を高める指導法を取り入れたところ、認知能力までが向上したという事例がいくつも紹介されている。日本の教育は(偏りはあるとはいえ)非認知能力を十分に育もうとしていることは間違いない。例えば、教室の黒板の上に「学級目標」が掲げられている国は世界でも稀有だろう。

問題は、第Ⅰ章でも指摘したように、数々の国際調査において、日本の子どもたちが自己肯定感や自己有用感、幸福度などのメンタル面でのスコアが極めて低いというということである。時間と労力をかけながら結果がついてこないのは、「がんばること」を重視しすぎた偏りと、教員が子どもたちを従順な方向にコントロールしすぎた結果だと僕は捉えている。

本来、学校教育の中心は、その教科ごとの豊かさや楽しさを知り、その中でできることを増やしていくことのはずだ。もちろんその中で非認知能力も育んでいければよいし、よい学びがあれば自然に非認知能力も高まっていくと思う。そして、学校を卒業する時には、自分の好きや得意を知り、社会の中での立ち位置を自ら決めていけるようになればいい。

そしてそれは、現行の制度を無理なくすすめれば自然にできることだ。つまり教員が本務である授業に集中できる環境を作ることこそが持続可能な学校教育をつくり、子どもたちを豊かな学びに導くと僕は考えている。

※執筆中の書籍の原稿の一部を引用して記事にしています。
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