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【一首評】味噌汁にバケットがあふ昼餉ただあと一匙の勇気が足りぬ ~「短歌人」2022年4月号より~

味噌汁にバケットがあふ昼餉ただあと一匙の勇気が足りぬ 栁澤愛

「短歌人」2022年4月号 P72

この歌を読んで思い出したのが、ある日の妻の様子である。結婚前でまだ妻でなかった彼女と家で夕食を共にしていると、彼女が突然「お味噌汁をご飯にかけていい?」と聞いてきた。僕は、何の問題もない、気にせず食べたいように食べるべきだと返答した。すると彼女はうれしそうな顔をしてご飯茶碗に味噌汁をかけて美味そうに食べた。

誤解のないように言っておくが、僕は決して亭主関白なタイプでも、何事にも許可を強いるようなモラハラ男でもない。むしろ家庭内におけるパワーバランスは彼女の方が若干高いように思う。そんな僕にご飯の食べ方の許可を求めたのが不思議だった。聞けば、彼女はこの食べ方が好きなのだが、決して行儀の良いものではないので躊躇してしまったらしい。同棲も始めたし、そろそろさらけ出してもいいかな、というタイミングで一応聞いてみたのだという。

歌に戻る。<味噌汁にバケットがあふ>という言い切りには、この作者なりのこだわりが見て取れる。この歌の前にある

泣きたいほど優しいパンが私に生きてていいと事もなげに言ふ

という歌からも分かるように作者にとってパンそのものが特別な存在なのだ。だからこそ、<バケット+味噌汁>というパンの可能性を広げた食べ方を知っている。しかし、それは自分ならではのこだわりであるため、他人と共有できるのかという不安がつきまという。それは、妻の言ったように他人に自分を<さらけ出す>ことへの不安なのだと思う。まさに「ただあと一匙の勇気が足りぬ」ということだ。

そのように考えると、この歌は恋の歌のように思えてくる。バケットを味噌汁につけるというオリジナリティ溢れる食べ方をあなたにも知って欲しい、もっと言えばこの美味しさをあなたと共有したい、けれどそれができない。そんな歌に私はとった。
味噌汁とバケットという取り合わせは決してあるあるではない。しかし、それを「あふ」と言い切ることでこの作者(主体)の生活の一端がリアリティをもって描写される。それにより下句の感情が際立ち、共感を生む。人によって像はまちまちだと思うが、僕にとっては恋する人としての共感がそこにある。

ちなみに、句ごとに分けてみると「味噌汁に/バケットがあふ/昼餉ただ/あと一匙の/勇気が足りぬ」となる。二句に言葉を足して、三句を「あふ昼餉」とできたところを「昼餉ただ」と句を跨がせたことで詰まった印象を与えている。自分の不甲斐なさを悔いる気持ちというのは、ふとしたきっかけで突然あらわれるものであり、ここの詰まり具合はそれを巧みに表しているといえる。

バケットに合う味噌汁とは、どのような味噌汁なのだろう。赤味噌か、白味噌か。出汁や具材はどんなものが良いのか。僕はバケットの種類にはてんで無知なので、気づけば味噌汁の方に思いを巡らせていた。

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