一番ロックから遠いけど、ときどき、でも。

チバユウスケが死んだ。

なんでだろう。いつもなら「亡くなった」と思うところを、ロックスターやミュージシャン、もう取り返せない「あの時」に聴き込んだ音楽には、死んだと書いてしまう。思ってしまう。瞬間、途切れた感覚があるんだろうか。強く、強烈に、まさに突風のように価値観を吹き飛ばされ、奪い去られ、塗り替えられ、安いイヤホンとからがなり立てる衝撃の残響が未だに消えないからだろうか。「亡くなった」が合わない。よくわからないが、死んだ、と思う。死んでしまった。

ぼくは今も昔もぜんぜんコアな音楽ファンじゃない。フェスにも行ったことないし、音楽はタワレコでもディスクユニオンでもなくてTSUTAYAで一番聴いた。高校生のとき、はじめてミッシェルガンエレファントを聴いたのもクラスの尖ったかっこいいあいつが聴いてたから。「なんかかっこよさそう」が理由だった。そしてかっこよかった。ただひたすらに。

MステとカウントダウンTVを聴いてるやつが音楽好きくらいの世界で育ったぼくの耳すら吹き飛ばした。その時にはミッシェルガンエレファントはもう成熟した音楽で、解散間近だったか解散してたかどっちだったっけ。たしか解散してた気がする。

チバユウスケはミッシェルのあともあらゆるところでかっこよかった。いつ見かけてもロックだった。ROSSO、スカパラとの演奏、バースデイ。音楽を聴かなくなって、ときどき街で見かける一瞬。それですらかっこよかった。

かっこいいって書きすぎた。でも、常にかっこいいでいるって、すごいことだ。だって、人生すぐに落ちれる。大転落じゃなくても、日々日常でほんのちょっとの妥協なんてありふれてる。貫く、貫き通せるって凄まじい。ロックから遠い、ただのふつうの人にもそういうふうに見えて、届いて、それってたぶん最高にロックで。


ぼくはほんとふつうで、ホテルのジャグジーでみそ汁つくったりしないし、窓からテレビ投げないし、プライベートジェットで世界を飛び回らないし、真似してギターを投げたときは割賦金のことが最初に浮かぶくらいふつう。でも、ミッシェルとチバユウスケがいてくれて、かっこいいをしてくれて、今でもサブスクでときどき唄って、毎日毎日「まあいいや」とか「これで」とか仕方ないの連続に埋もれていきそうなとき、100回に1度、1,000回に1度くらいは「いや」とか「それでも」と思えるのは確実にチバユウスケに出会ったおかけで。そういうときにロックとか音楽とかの力を感じる。今日もまた耳だけは「あの時」に帰って、ときどきほんのちょっとを貫くんだ。あとは飛ぶだけって。サンキュー。バイバイ。すごくさみしい。



おわり。

待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!