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初めてLGBTを見たとき、ポケモンのことだと思った。

「女みてぇな声しやがって!!」

誰かのこころが踏みにじられて、止まってしまった瞬間を、その時初めて見た。

耳元で叫ばれた言葉の威力を、ぼくは今もわかっていない。

というより、たぶん、ぼくは気づいていない。

これは怒られるかもしれないけれど、と書くと語尾語頭ぜんぶに保険掛けたくなるので一度しか書かないけれど、

(これは怒られるかもしれないけれど)初めてLGBTの文字をみたとき、ぼくはポケモンの新作だと思った。

さっとウェブニュースの見出しだけみて、おおー!新作でるー!?あとで調べよう!と保存しておいたら、全然違った。リーフグリーンとブラックサンダーじゃなかった。

LGBTは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの頭文字をとったセクシャルマイノリティを表す言葉。

今はLGBTQ+になったりしてるけど、名前がつく前からきっとみんないたんだと思う。そしてこれからも、呼称や名前がどう変わっても、マイノリティによる差別や偏見がある限り言葉は存在する。

この言葉の意味や重みや歴史は、付け焼き刃でわたしが説明するより、わかりやすい記事がたくさんあるので調べてほしい。

明石市のこれがわかりやすかったので貼っておく)

このnoteで一番伝えたいのは、ぼくはそれに全然気づいていなかったということだ。

わたしはLGBTQ+の当事者じゃないし、誰かが無理解で傷ついたところに直面した覚えもなかった。そして、それが良いことなのか悪いことなのか、そもそも、そういうものさしで測れることなのかすら、よくわかっていない。

一説には、LGBTQ+のひとは佐藤姓や鈴木姓と同じくらいいるらしい。これまで生きてきて、佐藤さんや鈴木さんと出会わないことってあり得ないと思うので、割合だけで考えれば、どこかで出会っていると思う。知らないうちに。

大学のころ、サークルの知り合いで音楽の趣味が合うやつがいた。

ある時飲みながら、くだらないことを話すだけ話して、話し尽くした終わりに、そいつがふとつぶやいた。

「俺、男も好きなんだよね。」

そのときのぼくといったら、冷えてカチカチになったなんこつ唐揚げを箸で弄びながら「ふーん、そっかそっか。そうなんだね」と思った。と同時に思ったのをそのまま口に出していた。

「ふーん、そっかそっか。そうなんだね。」

それで何かが変わるような気はしなかったし、ほんとにそう思ったから口に出たんだけど、そのまま何故かプッと吹き出して、またくだらない話に戻った。(くだらない話の内容はまったく覚えていない)

それから卒業間近になって、また何人かで飲んでるときに、

「お前はなんか、なんでもそういうのもあるよねって言うから、救われたような、ちょっと悔しいようなそんな気がしたんだよな」と言われた。

もしかしたら、気がついていないうちに傷つけるような言葉を使っていたのかもしれない。
わからないし、全然覚えていない。

「女みてぇな声しやがって!!」

大学を卒業してから、しばらくコールセンターで働いていた。

その頃ぼくは、オペレータさん(お客さんの電話を対応する人)を管理するリーダー業務をしていて、一部のクレームに対しては対応を交代することもあった。

その電話を受けたのは、めちゃくちゃ優秀なオペレータさんで、声質や調子から機微を察知して、スムーズに会話できる頭の回転モンスターの超人みたいなひとだった。

ぶっちゃけぼくなんかが交代するよりスキルも高くて、どうしようかなと迷って、

ふとそのひとを見ると、口をポカンと開けて止まっている。

ほんと、一時停止した動画みたいに止まっていた。


その人は、体は男性で心は女性。

言われて気がつくくらいだったので、伝えられたときもやっぱりわたしは「そっかそっか。」と思っただけだった。人柄も素晴らしくて、部署内で信頼されているメンバーさん。

その人が、マンガみたいに言葉が出なくて、ただただ口をパクパクさせている。

見かねた別のリーダーの男前さん(この人については別の機会で書きたいくらいの男前さん)が、ひゅっと飛んできて、電話を保留にする。
事情を聞くと「オーケーオーケー任せて」とヘッドセットを受け取った。

んで、電話にでる直前に一言、
「俺、今めちゃくちゃ怒ってるけど、今は仕事するからね。ごめんな。」と言った。

男前さんはその後電話に出ると、謝りに謝りに謝り倒した挙げ句に、最後にはしっかりと収めて、終わりに「ありがとな」までもらって電話を終えた。でも、オペレータさんの声については一言も謝らなかった。すごい。

ぼくは未だに何がごめんなのか、ちゃんとわかってない。


ちなみにオペレータさんはその後、ご結婚されて退職していった。思い出すと笑顔しか覚えていない。めちゃくちゃ幸せそうだった。だから、これでよかったんだと思う。

そう、たぶん、ぼくは気がついていないだけだ。

明確な悪意や目的を帯びた言葉なら、わかる。
でも、小さな声には気がつかないかもしれない。わからないかもしれない。自分が傷つける側になるかもしれない。

何かを変えたり、大きなことをしたり、影響力があったり。それはすごいことだし、そういう発信を通じて私達は考える機会をもらう。

でも、みんなが国連でスピーチして、いろんな人に訴えて、世の中を変えられるわけじゃない。

変えられり、変わったり、良くなったり。変化していく世の中のなかで、ちょっとずつ違いを飲み込んで、飲み込めないところは「ごめんな」って添えてるひとがいる。

そういうひとのことも、すげえなぁって思う。


当事者にはなれなくても、対峙したときに。
何かを変えられなくても、その接点をやさしさでつなごうとすることはできる。はず。

人類の叡智を巡ってガンダムで殴り合ってるやつより、たまたま居合わせたときにやったろうって言えるザクのほうがヒーローだと思うし、ザクが社会をつくる。たぶん。

「この言葉は誰かを傷つけるかもしれない。」

そういう想像力と「そっかそっか」と受け止められるほんのちょっとの心の余裕をいつも持っていたい。

そんで、いざ誰かが傷ついたり、傷つくような言葉に直面したり、自分が当事者になったときに、すぐに何かを変えられなかったとしても。

「ぼくは、めちゃくちゃ怒ってる。ごめんな。」

そう言えるように、なりたいなと、ずっと思い続けている。今日も。

待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!