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創作の裾野は広い。

会社員になって4年経った。

そのときからずっと「諦めた」「降りた」「やめた」という感覚が残っていたのだけど、最近少しずつ変わってきた気がするから、振り返って書く。


売れる領域、表現の領域、そして才能。

声優やナレーターになりたかった。声で何かを表現する人になりたかった。そう思って、がんばってた数年前。声の表現職は目指す人も信じられないくらい多いし、椅子はめちゃくちゃ少ない。なれなかった。

声優やナレーターを含む俳優業は、仕事のたびに失業するのが前提のお仕事。次につながっていく人、生き残っていく人は一握り。しかも、あらゆるコンテンツの消費スピードはどんどん早くなっているから、常に対応していかなくてはならない。ほんとうに厳しい世界だ。

人生を掛ける。全身全霊でやる。生活のすべてを表現に捧げる。もがいてもがいてがんばってた(と思う)けれど、今思い返すと全然ダメだった。何がダメかって、才能がないのに、才能がないと売れない戦い方しかしてなかったから。しかも、それに気がつく余裕もなかったんだ。

そう、エンターテイメントがコンテンツとして消費される以上、売れる領域がある。そして、それが自分が表現したい領域と一致するとは限らない。
やっぱりどの世界でも圧倒的な才能を持った人っていて、才能自体に価値がある場合はそれがイコールだ。その人が表現すること自体が売れる。売れる領域も表現する領域も関係なく、凌駕していく。
でも、ほとんどの場合は別だし、一致しても一部だ。思えば、尊敬する先輩やすげぇなぁと思う方はそこの感度が高くて自分自身をしっかり理解していた人が多かった。
売れる領域、求められる役割を演じられる。表現したい領域に挑戦するときの研鑽は厭わない。自分のスキルのうち、安定に寄せる部分はどこなのか。どのくらいなのか。そういうバランス感覚のよさ、クリエイティブの区分けがある人が、残る。

繰り返しになるけれど、わたしは才能がないのに、才能がないと売れない戦い方しかしてなかった。がんばるしかしてなかった。だから、売れなくて当然だった。売れないとお金もないし、余裕もなくなるし、余計に躍起になってがんばる。負のスパイラル。

「お名前覚えましたよ。次は現場で会いましょうね。」と言ってくれた大先輩には申し訳なく思うし、今もときどき思い出す。(たぶん一方通行だけど……)でも袋小路のまま、子供が生まれたり人生のステージが変わったタイミングで、挑戦をやめた。

書くということ。

noteは、会社員になってから書き始めた。安定を選んで、自分が出来ることの延長で就職した会社。育休を取って、寝かしつけの合間に親指だけが暇だったから書き始めて、なんだかんだ4年書いている。

書く、という行為はスローだ。自分で自分と向き合って文字にする。仕事でライティングしたりは別だけど、基本的にすぐに書き上げなくていい。
声優やナレーションはだいたいその場で対応を求められるし、演技は都度感情をつくる。一定のクオリティで、求められるものにすぐに答えねばならない。舞台とかじゃないかぎり、同じ役に長く付き合うのは少ないと思う。即時即応で人物の人生を創る。
けれど「書く」は、自分の速度でいい。追いついてからでも大丈夫なのがうれしい。

例えば、あのとき言えなかったことばだったり、そのときにはわからなかった自分の感情でも、あとから反芻して、繰り返して、文字にするタイミングを選べる。創作なら、「これを伝えたかった」とか、「あのときこう思っていた」とかを表現にできる。好きなだけ時間をかけてもいい。

追いついてきたから、書く。この速度が心地よくて、合っていたのかもしれない。

そんな感じに数年書いてきて、お陰様でたくさん読んでもらえた。たぶん、声のお仕事のときよりも書いたもののほうが知ってもらえてると思う。

でも、もしもわたしが「書く」を仕事にしたくてがんばってる人だったら、きっと同じように余裕がなくなってただろうし、たぶんこの作品も生まれなかった。

会社員で書くから、書けた。
きっとこれって、安定が発露させてくれたクリエイティブの部分だ。

人生を掛ける。全身全霊でやる。生活のすべてを表現に捧げる。たぶん、そうしないと辿り着けないような表現って、あるんだと思う。
でも、安定を確保したうえでつくる表現も創作だ。どちらも尊い。なんとなく、ぜんぶを創作に費やしてるほうがえらいような気があったし、わたし自身数年前までそう思っていた。でも、違った。生活のための「売れる領域」と、創作のための「表現する領域」は別でいいし、ぜんぶを掛けなくても、創作はできる。

そう思ってから周りを見ると、景色が違った。クリエイティブって、いろんなところにある。
例えば、滑舌や抑揚は声優やナレーターじゃなくてもめちゃくちゃすごい人がいるし、会社組織の中にもそういうスキルを存分に使える場所もある。やり方、伝え方、アイデア。会社の中にもいろんな創作がある。犬も歩けばだった。
そう、テレビであるリアクション芸人さんが「一般の人にわからない」じゃなくて、「テレビを観てくれてる人に伝わらない」という言い方をするのを思い出す。特定の輪を括ることで、その輪の中を特別にしておこうとすると、途端に伝わらなくなってしまう。そんな、たった一言にも込めるスタンスが好きだった。表現する人とそれ以外、その他大勢の「一般」なんて、ない。

情熱はリソースだ。人それぞれ、持てる限度がある。週5フルタイムで働きながら創作する人も、表現の最前線を切り開く人も、どんな形でも。挑戦し続けるすべての人はすごい。創作は尊いし、いろんな表現があるし、量も質も変わっても熱を持ちながら「それでも」って続けるのは、やっぱり強さだ。

創作の裾野は広い。 

お芝居をやっていたときに、演出家さんが言っていた「芝居の裾野は広い」ということばが好きだった。芝居をやめても、どんな形でも、関わり方は無限にある。
当時は「やめたあともやってもいい」という、やさしいことばに聞こえて、たんに間口が広いという意味くらいに思ってた。

たぶん正解だけど、今はもう少し違う意味に思える。

きっと、一度表現をした人、目指した人、創作をした人は、量を変えて、方法を変えて、質が変わっても止められないのかもしれない。だから、どんな形でも続ける、続けられる場所を求めてしまう。そんなことがわかっていて、口に出たことばなのかもしれない。

もしかしたらこの春、新しい生活になって、わたしみたいに「やめて」しまったと思ってたり、何かを諦めたりして迎える季節って人もいるかもしれない。

でも、もしも創作を止められなかったら。
生活が落ち着いてから、余裕がでてきてから、 少しずつでもなんでもいい。続けるのってすごいから。んで、もしかしたら安定が新しい表現をつくるかもしれないから。
無理しなくていいけれど、無理に止めなくてもいいじゃん。そこに「書く」という選択肢だってある。会社員で、クリエイターでいい。やろうよ。誰でもない、自分のために書いて、やって、それでいいじゃん。

やさしくて、少し怖いことばを抱えて、きっとわたしは明日からも書く。書いていく。だから。

創作の裾野は広い。

待てうかつに近づくなエッセイにされるぞ あ、ああ……あー!ありがとうございます!!