見出し画像

寂しさと長四角にぶら下がり揺られて映る弱さと目が合う時はあなたを思い出していた

どこかに言葉として残しておきたかった。noteを始めたのも残す場所にしたかったからだ。
2020年9月21日、祖母が亡くなった。
自分は祖母が大好きだった。小学生の頃からずっと(大学の4年間以外)いっしょに暮らしていた。どこに行くのもいっしょだった。
祖母は優しく見た目も若く綺麗で可愛らしく強い女性だった。他にこんなおばあちゃんはいないとおもうほど自慢の祖母だった。そんな祖母が亡くなった。三回忌が終わり次は七回忌まで時間があるので記録を残しておきます。

2019年の夏頃から食事の量が減っていった。元々そんなに食べなかったのでその時はあまり気にしていなかった。昔からどこかで食事をすると自分が祖母のごはんを半分くらい食べていたからだ。ハリのあった肌がどんどん痩せていった。いつもいっしょにお酒を飲んでいたのだが大好きなウイスキーの量も減っていきそのうち飲まなくなった。

2020年1月
新年を迎えたがやはりお酒を飲まない。咳をよくするようになった。毎日料理も作ってたが作るのも辛くなってきた。
昔から心臓が弱かったのだが流石にこれはおかしいと思い始め病院に行くことを勧めたが拒む。

2020年2月
ますます体調が悪くなり、なんとか病院に行くことを決心してくれた。すぐ近くの病院では結核だと言われ国立病院に行くことになった。何年か前にも結核だと診断されたがその時はとくに何もなく元気だった。
こんどは肺炎と診断され祖母が入院することになった。ほぼ呼吸不全の状態だったらしい。
2月は仕事の繁忙期で面会終了時間までに行くことができない日が続き何日からして仕事終わりに面会に行く。病室も隔離病棟で厳重な扉の先だった。何日かぶりに祖母を見たら思わず泣いてしまった。酸素を送る管をつけて入院服を着てベッドにいる痩せこけた祖母。あんなに元気で若々しかったのに。たぶん相当ショックだったのだと思う。看護師さんも自分が泣いてたのには驚いてた。泣いてる自分を見て祖母も泣いていた。
2月28日、コロナ対策のため面会ができなくなる。スマホを持たせていたので電話で話すことはできた。すごく寂しそうだった。しばらくの間、電話とLINEでのやりとりになる。

2020年4月
保健所から連絡があり指定難病認定される。特発性肺線維症。肺血膿。
4月25日 退院。久しぶりに家に祖母が帰ってきた。
この日はスーパーで寿司を買って退院祝いをした。祖母も久しぶりに家族みんなと食事できて嬉しそうだった。誕生日までに帰ってこれて本当によかった。
この日から家には酸素注入機の音が静かに響くようになった。
停電になったときが心配だった。酸素注入機が動作しなくなるので直接酸素ボンベから酸素を送らなければならない。もし深夜のみんなが寝てる時に停電になったらと考えると・・・

2020年5月20日
定期健診の結果、また入院したほうがいいとなる。治ったほうの反対の肺に空気が入ったらしい。空気が首のところとか顔にまできたら大変ということとのこと。
祖母は入院を拒んだ。医者が言っても拒否。家族が誰もいないのが寂しいのだろう。夜、家族全員で説得してみる。
5月21日
再び入院。今回は1週間ほど。
5月27日
退院。お風呂にも入れなくなり何日か一度に体を拭いてあげたり髪を拭いてあげるようになった。酸素が脳のほうまで行きにくくなったからか痴呆が進む。すごくショックだった。

2020年7月
1週間入院。
症状が悪化し酸素濃度が4に上がる。この時くらいから歩くのが困難になり始める。筋肉や脂肪がほとんどなくなり骨と皮だけみたいになる。

2020年8月
入院をしたほうがいいのだが病室に空きがなく入院できず。

2020年9月16日
最後の入院となる。
2020年9月17日
容態が悪くなる。
2020年9月18日
昨日と変わらず良くならない。
2020年9月19日
父親が祖母はもうもたないだろうと悟る。
2020年9月20日夜
危篤状態になり家族全員で病室へ。祖母に向かって話しかけ続ける。反応はないが聞こえてるはずだと。
日付が変わり数時間経った頃、安定状態になり父親兄弟が病室に残り他のみんなは一時帰宅。医師からはしばらくは大丈夫だろうと。

2020年9月21日
5時前後、父親から家に電話があり容態急変との連絡。急いで向かうが病室に着いた頃には息を引き取っていた。
午前5時16分永眠。死因は慢性呼吸不全。
病室には心電図の音が鳴り響いていた。祖母の最後を見届けてあげれなったのが悔しい。最後に話したかった。声を聞きたかった。もっと生きていてほしかった。
そのまま葬儀場に運ばれた。家に帰らず葬儀場に泊まる。この時はいくら酒を飲んでも美味しくなく酔えなかった。家族がみんな寝ても自分は寝れず棺を顔の部分だけ開け祖母が大好きだったサントリーのウイスキー角瓶を飲んだ。いろいろと話しかけた。もう何も答えてくれないのに。もう笑ってもくれないのに。一人だったからかわからないけど、泣いた。何度もごめんねと言った。何もしてあげられなくて。祖母の頬は固く冷たかった。
ずっと10-FEETのFinとアンテナラストを聴いていた。泣いた。こんなにも歌詞が心に刺さるなんて。

2020年9月23日
葬儀。祖母の体を洗ってもらい髪を整え化粧をしてもらった。身なりをきちんとしてた祖母なので最後も綺麗なままで送れて良かったと思う。
髪を伸ばしてた自分は葬儀なのでオールバックにしようと思ったが親戚の提案で編み込みにした。普通の人ならあんまり良いイメージが湧かないと思うが祖母だったらカッコいいと褒めてくれただろう。

親戚の叔父にやってもらいました。前から見ると普通だけど後ろから見るとすごい。


棺桶には祖母の好きな食べ物、よく使ってた物、手紙、写真などを入れた。向こうに行っても寂しくないように。姉と従妹は手紙を書いていた。いくらの軍艦巻きや父親が作ったお好み焼き、たこ焼き、焼き鳥、ビール、ウイスキーなど。(焼いたら美味しい匂いがするだろうなぁ~ってみんな言ってた)
最後にその冷たい顔を触り、さよならと感謝の言葉を言った。

コロナ禍で火葬場には10人しか行けれなかった。
火葬が終わり骨と灰だけになった祖母を見て本当にいなくなってしまったんだなって思ったら少し涙ぐんだ。

ちなみにリムジンで運ばれました。

しばらくはSNSもやれなかった。見れてもリプしたりできず、ツイートすることもできず。喪失感ってこうゆうものなんだね。なんか酒も増えた気がする。一気に老けた気がする。

49日の法要や初盆の時に祖母の話をすると涙が出てきてしまっていた。昔なんか痛い時や悔しい時にしか泣かなかったのに。弱くなったのかなぁ。今でも泣きそうになる。このnoteを書いてるときも泣いた。
よく大阪に遠征するときに神戸のカレー屋に行くのだが夜行バスなので早朝に着き開店時間まで神戸の街を散歩している。散歩していると高校生のときに祖母と2人でツアーバスで神戸に来たことを思い出す。異人館とか中華街に行ったなぁって。入院中や退院して自宅療養してたときに元気になってコロナが落ち着いたら自分がまた神戸に連れて行ってあげるねって言ったのに。また美味しいもの食べようねって言ったのに。約束を叶えることができなかった。悔しくて神戸の街並みを見ると泣いてしまう。だから祖母の代わりに両親を神戸に連れて行ってあげたいなと思っている。県外に行くことについて偏見が多い県に住んでるのでなかなかできないが、いつかは。

祖母にはいろいろと教わった。女性の顔は傷つけてはいけないとか、自分のことをよく想ってくれてる人には良くしなさいとか、挨拶は自分からしなさいとか、誰にでも優しくありなさいとか。祖母がそうだったように自分もそうしてきた。

自分は派手な色やイラストが好きだ。思えばそれは祖母が白内障の手術で視力が悪くなった時、派手な色の服を着たり派手な髪型をし始めた。自分が遠くにいてもわかりやすいように、離れても見失わないようにと。それは祖母がいなくなった今でも続いてる。ピンクの髪にしたり派手なマスクをしたり。そのおかげで人に覚えてもらいやすくなってる。特徴的なマスクだからすぐ見つけられるよって言われた。

どうしてもこれだけは最初に、祖母の命日に投稿したかった。
弱い人間の昔のただの長い記録を最後まで読んでいただきありがとうございました。


命日だから祖母の好きな角瓶のハイボール濃いめを持っていきました。のどごし生は父親が持ってきたもの。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?