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東北大演劇部『消失』を観てきた

アンケートに「これまでご覧になった公演は?」という項目があり、演劇部の過去4年分の演目とチェックボックスが並んでいたが、残念ながらその中に観たことがあるものは一つもなかった。

最後に観たのは、僕が大学を5年かけて卒業する間際、2015年度卒業公演『アネモスタットの点検』なので、もう丸4年は観ていなかったことになる。

東北大学学友会演劇部、令和元年度卒業公演『消失』を観てきた。

『消失』について

初演は2004年、劇団ナイロン100℃によって上演。作・演出はケラリーノ・サンドロヴィッチ。2015年の再演時、ケラリーノ・サンドロヴィッチは以下のように語っている。(注1)

登場人物全員が善人で、彼らの善意がもたらす悲劇を書きたかった。
自作で、これほどまでに固唾を飲んで静まり返った客席を体験したことは、後にも先にもない。

今回の公演の演出は竹内新さん。

機会があればぜひ観ていただきたいので、以下、核心的なネタバレは避ける。ちなみに東北大演劇部の公演は2020年2月23日 (月祝) まで。

これぞ悲劇

最高だった。
感想はこの一言に尽きる。

悲しいものって、なんでこんなに心惹かれるんだろう。
観ていてとても悲しかった。それがとても心地よかった。

あと冒頭の兄弟のやり取りでちょっと泣きそうになった。
あまりに純粋な感情がそうさせるのだろうか。

ちょっとだけ内容に触れると、さまざまな消失のかたち、遺された人のかたちが描かれている。一人の人間の消失が、周囲にどれほどの悲しみをまき散らすのか、ましてやそれが戦争や天災によって同時多発的に起きたときのことを想起せずにはいられなかった。

同時に、愛を注ぐことの尊さ。敬虔さといってもいいほどの、その危うさと美しさ。ヴィクトール・フランクル『夜と霧』でも描かれているように、人間は極限まで追い詰められたときにこそ、究極的に神聖な領域に達するのだということを感じさせてくれた。エーリッヒ・フロム『愛するということ』が読みたくなった。

そうそう、ケラリーノ・サンドロヴィッチはこの作品に「シリアス・コメディ」と冠していたらしいが、終始静かな雰囲気の中に、巧みな笑いも多々織り込まれている。人物描写の厚みからこそ生まれる、上質な笑いによって、より作品世界に引き込まれていく。

学生演劇を観るということ

ことさら主観的な感想になるが、学生演劇を観たとき特有の後味がある。
憧れと劣等感が入り混じったような感情。
が、4年前に感じていたそれはもはやほとんどなく、(東北大の) 後輩たちにただただ称賛の拍手を送れたので安心した。

演劇のもつ魔力

思えば演劇を観ること自体、おそらく2年以上ぶりだった。
久しぶりに体感したそれは、とても感動的だった。

同じ時間、同じ空間で、演者の息づかい、観客の息づかいまで聴こえそうな、あの一体感は、おそらくVRでも当面は再現不可能だろう。

演劇は小説や映画に比べて、観る側のコスパが圧倒的に悪いの思うのだが、それでも演劇という表現に惹かれてしまうのはなぜか、ということをこれまで何度か考えてきたけど、おそらく言葉にはできない何かがあるのだと思う。生身の人間同士が、同じ空気を吸っているからこそ伝わってくるものがある。これは演劇を定期的に観る人ならば誰もがわかってくれることだと思う。


ここまで読み返してみると、もともとの戯曲や、演劇そのものばかりを称賛しているようだけど、実際はそれらをかなりの高水準で形にしている演出、演者の皆さん、照明、音響、舞台美術など、まったく学生であることを感じさせない完成度だった。すべてが本当によかった。

演劇という表現のもつ魔力を思い出させてもらうには、十分すぎる公演だった。
東北大学学友会演劇部、令和元年度卒業公演『消失』を観てきた。


(注1) こちらの記事から引用させていただいた。


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