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短編小説『水槽と海原』

「続き、まだ見てるんだ」
今日もサブスクアカウントの履歴を見て、元同居人の生存確認をする。
共有で使っていた某動画サイトのアカウントは、別れて3ヶ月経った現在も稼働し続けている。
履歴には、あの頃一緒に見ていた昔のアニメシリーズが表示されていた。サムネイルでは、少し汚れたオーバーオールを着た少年と赤いワンピースを着た少女が青空を背景に原っぱを元気に駆け回っている。全部で52話。有名な名作シリーズで、私たちが子供のころは再放送をよくテレビでやっていた。私たちはそれを20話まで一緒に見た。そして現在、再生されていたのは25話だった。

「このシリーズ実はみたことないんだよね」と動画一覧を見ながら何気なく言ったひとことに、彼は「実は、俺も」とはにかんだ。そんなこんなで、そのアニメシリーズの第1話の再生ボタンは押されたのである。
それから、時間が合えば2人で毛布にくるまって、ちいさな液晶をじっと見ていた。一人暮らしの狭いスペースにはもちろんテレビなんてものはなかったからである。時には、ありえない展開にツッコミを入れたり、美しい風景に息を飲んだりした。あたたかいミルクがたっぷり入った紅茶の香りと、元同居人が好きだったキャラメルと塩の両方入ったポップコーンの味、そして、肩から伝わる体温。どちらからともなく再生ボタンを押すとはじまる。その時間は私たちの休日のひそやかな楽しみだった。

きっかけはよくある些細なケンカだった。家事を後回しにするとか、女友達が多いとか、何時までに帰るとかいう約束を破ったとか、そんなよくある話。それでも、私にとって、彼との未来が見えなくなるには十分な事柄だった。記念日は忘れないし、連絡もまめで、私のことが好きなのは伝わっていたが、2人のその先を考えた時に一生付きまとってくるような、そんな些細な問題の積み重ねを無視することはできなかった。

「逃がした魚は大きいぞ〜」
同じゼミの久美子が、焼き鳥を頬張りながら言う。今日は、私が彼氏と別れたことを聞きつけた久美子が、「また次があるさ会」を開いてくれたのである。実際のところは、私を励ますと言うより、円満に見えた話題のカップルが別れることになった経緯を根掘り葉掘り聞きたいだけなのだろうが、私も誰かと飲みたい気分だったので、今日のところは、久美子と飲むことにした。

久美子は早速と言ったふうに、箸を置いて率直な疑問をぶつけてきた。
「で、なんでまた恭平くんと別れちゃったのさ」
久美子に話せば次のゼミまでには全員に知れ渡ってしまうだろう。私は一瞬迷ったが、お酒の勢いもあったし、変に憶測が飛び交うのも嫌だと思ったので、今日は全て話そうと思った。
「簡単に言うと、恭平とは結婚は無理かなって思っちゃったから、かな」
原因となった出来事はいくつかあるものの、1番はこれだった。
すると、意表を突かれたというように、久美子は噴き出した。
「結婚って、うちらまだ大学4年生だよ。卒業したら別にゼッタイ結婚しなきゃってわけでもないんだし、そんな理由で今すぐ別れるとかなる?」
そのところ、結婚は私たちにとってリアルだった。なぜなら彼がそれを望んでいたからだ。大学3年生の時に、付き合い始めてもうそろそろ2年となったところで、彼から「卒業したら結婚したい」と言葉にして伝えられていた。彼は若いうちに結婚したいようだったし、私はそれにすぐ頷くことはできなかった。そういう意味では、いつまでも彼を引き留めずに、今すぐ別れるというのは、彼に対する誠意でもあった。
「それに意外だなあ、恭平くんって、ゼミでも率先して面倒見てくれるし、いいパパになりそうなのに。結婚相手として最高じゃない?」
そうかもしれない。子供が出来たら積極的に遊んであげるだろうし、子供が迷った時はとことん話を聞いて、多すぎないアドバイスをするだろう。だけど、私のことはどうだろう。深く話したことは無いが、彼は卒業後、私が専業主婦になることを望んでいたし、「頼る」といえば聞こえはいいものの、家のことは私がやることが多かった。私は2人で働きながら支えあって生活していきたいと思っていたから、そんな未来は受け入れたくなかった。
「そうなんだけど、なんていうのかなあ。よくバンドが「音楽性の違いで解散します」みたいなこといって解散するじゃない。そういう感じで目指す場所が違ったんだよ。私は卒業後も働きたかったし、恭平は私にそうしてほしくなかった」
私はそう言って、手元にあるライムサワーに乗っていた薄いライムのスライスを見つめた。この可能な限り薄くスライスされたライムのように、もはや私の中の悲しいとかつらいとかいう感情は切り落とされつつあり、破局のことも、どこか他人のことのように、率直に言葉にできている気がする。
「それでもさ、由美が働きたいって言えば、恭平くんも止めはしなかったんじゃない?だって今は令和だよ。女も男も関係なく働く時代!」
久美子はさっき届いたばかりのあつあつのつくね串をほおばりながら、そういった。
もし、私が働きたいと望んだなら、止めはされなかっただろう。私が就活を始めた時も、止めはされなかったから。でもなんとなく、私と違って彼は「由美の分まで稼げるように」と就活を頑張っていたように思う。それが私は息苦しかった。彼に「いつ辞めてもいいよ」と言われながら働く未来が見えてしまった。そして、私もそれに甘えてしまいそうな気がして、そんな未来は私には苦しいと思った。ただ、久美子に話すにはすこし複雑な胸の内だったので、適当に「そうかも」と苦笑いして返した。

「要は、価値観が合わなかったってことなのかな~」
久美子はなにやら思うところがあったようで、グラスに5分の1ほど残っていたみかんサワーをグイっと飲み干した。そして、メニューを手に取り、次の飲み物を選んでいる。そして、「すみません、このパインサワーってやつを。はい、1つお願いします」と注文をしたのちに、こちらに向き直った。
「いや、由美と恭平くんってさあ、ザ・円満なカップルって感じだったからさ、卒業後も付き合って、それこそ結婚とかしちゃうんじゃないかって勝手に期待してたんだよね」
「期待?」
「つまるところ、2人はみんなの「モデルルーム」だったわけ。綺麗で雰囲気の良い家具や家電が、無駄なく配置された、それこそ理想のお部屋。2人を見ると「幸せ」ってこんなものだなって安心できたのよ」
私と恭平は大学1年生から付き合っていて、大学内でも有名な「熟年カップル」だった。確かに、久美子のように、私たちはいずれ結婚するのだろうと思っている人は多かったんじゃないかなと思う。それくらい、私たちは外面が良かったし、目立つ存在だったことは自覚している。なにより恭平は学年内でも指折りのイケメンで、優しく、友人も多い人気者だった。その分ファンも多かったため、私は彼女たちに有無を言わさないように、「完璧な彼女」を演じていた。そういうところが、久美子に「モデルルーム」を見せていたのかもしれない。
「実際のところは、きっと、私たちは理想なんかにはなりようもなかったんだよ。ただ煩わしいところを見せないようにしていただけだから」
「完璧」なように見せていただけで、恭平も私も完璧じゃない。それでも2人して、みんなの期待に応えようと「完璧に見せよう」としていた。結局のところ、私にはそういう見栄が性に合わなかったのかもしれない。モデルルームという言い回しが妙に2人を言い当てているようで少しおかしかった。
「私たちが、モデルルームだったっていうのはさ、ある意味ではそうなのかもしれないね」
「どういうこと?」
「本当のところは、だれも住んでいなくて、生活感がないってこと」
久美子にはよく伝わらなかったようで、不思議そうな顔をしていた。ただ、私と恭平の関係の多くが「見栄」であったとしても、それを久美子に明かしても信じてもらえないほどの強い幻であったというのは、なぜか嬉しかった。2人の「見栄」はリアルとして、久美子の中に確かに存在し続けている。私たちは今までも、これからも「モデルルーム」でいられるということだ。少し間があいて、久美子の頼んだパインサワーが届く。久美子は「ありがとうございます」とにこやかに受け取って、グラスをこちらに近づけた。
「まあ、勝手に期待してたのはこっちだし由美は気にしなくていいことだよ。とにかく、由美には「また次があるさ」ってことで。かんぱーい!」
久美子は一方的に私の飲みかけのグラスに「乾杯」をすると、グイっと清々しいのど越しでパインサワーを飲んだ。私は久美子のこういうところが案外好きだった。
その後は、恭平との些細な喧嘩の内容を聞いてもらったり、他のゼミの誰々も別れたらしいなどの、噂好きの久美子の最新ニュースを聞いて、解散した。また一つ、私の中で何かつきものが落ちたような気がした。

「逃がした魚は大きい、か」
帰り道、アルコールでおぼつかない足を進ませながら、久美子の何気ない一言を思い出す。
たしかに恭平は私にはもったいないくらいのいい人だったのかもしれない。けど、私には大きすぎたのだ。釣ったはいいものの、水槽に入り切らなかった。私の水槽で飼えないなら、魚のためにも次の人のためにも、放流してあげるのがいいだろう。
きっと恋ってそれの繰り返しだ。自分の水槽に合う魚を見つける旅をしているんだ。水槽の形とか色とか、中の水分の塩分濃度とか、空気の量とか、冷たさとか、人それぞれいろんな水槽があって、その中で生きていけるとか、生きていけないとか、息苦しいとかそういう話なんだ。魚によって、水のいろいろを調整したら解決する場合もあるかもしれない。場合によっては、水槽の形も変化させられるかもしれない。私はそういう努力は惜しまないようにしたい。
でも、無理をする必要なんてどこにもないんだ。
私は、海原からたった一匹のパートナーに出会った。ただ、少し無理をしないと私の水槽には入らなかった。だから、海に還した。それだけ。
きっと、私たちは大きな流れに身を任せながら旅をするうちに、様々な魚に出会う。その中で、自分の水槽に合うぴったりな魚を探せばいいんだ。
じっとりと海水をふくんだ風が赤らんだ肌をなぜて、吹き抜けていった。もう夏が来る。水は止まることがなく、流れ続けている。

家に着いて、さっさと寝る支度を終わらせて、サブスクを開く。履歴では例の名作シリーズの30話が再生されていた。
サブスクで繋がっている間は、まだ、関係が切れていない気がする。別れたことに後悔はないが、まだ相手の心の中に私がいることに、どこか安心している。自分から振っておいて、虫のいい話かもしれないが、相手が元気に過ごしているだろうことが察せられて嬉しい。
私たちはどこかいつも「理想」を演じていたけれど、2人で縮こまって小さな画面を見ていたあの時間は、確かに2人だけの心地よい時間だった。私は今日もそんな時間に思いをはせて眠りについた。

いつか、サブスクから相手の履歴が無くなったら、次の恋を始めよう。せめて、あなたがアニメシリーズの最終話を見届けるまでは、まだこの恋を覚えていたい。

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