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写真が好きな僕とそうでもない妻の撮る写真

カメラを手にとって4年程度、2人だった子どもは4人に増えました。

最初にカメラを手に取った理由は成長する子どもたちを記録として残していきたいと思ったからです。
ところがいつの間にか写真が好きであると錯覚してカメラの知識と機材を増やし、写真集を集めて、有名な写真家さんのような写真を撮りたいと奔走する日々を送ってきました。

プリントすべきだという意見を聞いたらプリンターと印刷する紙に拘り、夜な夜な子どもたちが起きないようにパソコンを操作して印刷しては、色の出方が理想と異なる、といって何枚も床に並べ、「まだ寝ないのか」という妻に「あとちょっとだけ」と伝えてほぼ徹夜で印刷していたこともあります。

妻から「誰?」と言われた写真

もともとは家族で楽しい思い出を作り、その瞬間を残すためにカメラを手に取ったにもかかわらず、写真映えしそうな場所があるから一緒に行こう、と目的が逆転し、手段が目的と変化してしまい、職場で後輩に伝えてきた注意を自らが繰り返すという矛盾を生み出します。

そんな中で自分が撮った写真の中でも満足した写真を大きく印刷して、妻に見せたときに「良かったね」という評価を受け、最初はなぜ理解してくれないのか、良い写真だね、と一言だけでも言ってくれないのか、と思っていました。

ただ、冷静になると、家族のためにとった写真ではなく、自分自身のために撮った写真の満足を妻に押しつけようとしているだけだったと考えるようになり、何のためにカメラを手に取るのか、改めて考えた2024年の春の出来事です。

僕の「良い写真」

カメラを手に取ってから、子どもを可愛く写真に残すには、と思って書籍やセミナー、YouTubeなどから、カメラの使い方、撮影方法、構図、機材などについて情報を集めてきました。

所有する事に満足していたカメラたち

自分にとって良い写真は、いつの間にかカメラに詳しい人が見たときに「良い写真だね」と言ってもらえるようなアラのない写真となっていたことに最近になって気がつきました。

望遠寄りのレンズを使って子どもたちと距離をとり、背景をぼかして被写体が浮き出てくるような写真が良い写真だと思い込み、ボケの感じも上位レンズを使った時の上品な感じが良いのだ、とどこかで見たような感想を述べていました。

ただ、写真を保管しているパソコンのフォルダを整理していたときに、撮影のために使っていた標準~望遠のレンズの関係で、一定の距離をとっていたため、シャボン玉で遊ぶ子どもたちとの思い出はほぼ無く、シャボン玉で遊んでいた、公園にいった、という客観的な事実だけが記録されているようでした。

子どもとの距離が遠い

これは、本当に良い写真なのか?疑問を抱くようになります。

妻の「良い写真」

妻はカメラにも写真にもさほど興味はありません。子どもたちの成長をiPhoneで撮りため、みてねを使って祖父母に写真を共有することが楽しいようです。

iPhoneのカメラはもちろん性能が高く、綺麗に写ることは承知していますが、カメラで撮った写真と見比べたときにSNSで良いねをもらえる写真ではないことは、妻も僕も同じ感想を持っています。

でも妻の写真は一緒に見返すと、必ず思い出を語り始めます。
この旅行ではプールの水が冷たくて大変だった。でもその日のホテルの夕食はバイキングで楽しくて、つい食べ過ぎてしまった。翌日は高原にいって遊び回って疲れた~というように客観的な事実ではなく、主観的な感情や記憶が一緒に閉じ込められています。

子どもが撮ってくれた僕

妻にとっては背景がボケた写真よりも、その時にどこにいて、何をしていたのか、記憶を呼び起こす装置のような役割をもった写真こそ、良い写真であると話している中で気がつきました。

写真は無機質だけど、無機質じゃない

表現の方法として絵画や文章、歌などさまざまですが、写真との違いは無機質さだと思います。

絵画を例にとると、その時の見たもの、感じたことを絵に表現する際、情報が一度、人の頭の中を通り、筆を通じて表現されます。表現方法は多種多様で色だけではなく、形も変形させることができ、頭の中を書き出したような抽象的な表現も存在しています。そのため、感情が表現しやすいものであると考えています。

一方で写真はリアルな世界をレンズを通して撮影しています。表現方法としてレンズの特性を活かしたり、ISO感度などを変更して表現することができますが、基本的には他の表現方法よりもリアルさが、カメラらしく、他の表現方法とは異なる点であると考えます。そのため写真は客観的で感情がのせづらく、無機質なものであると考えています。

もちろん現像やレタッチによって、夕暮れのもの悲しい雰囲気を出したり、青空と高校生で学生の楽しさを表現することはできますが、写真1枚で撮影者の感情をコントロールすることは難しいと思います。

ただ、家族の写真は誰かに撮ってもらった写真ではなく、愛してやまない子どもを、その感情をもった親が撮影するので、気持ちを共有することができる人がいれば、客観的なものではなく、主観的な視点で撮影された写真にもなり得ます。

誰のための写真なのか

家族を撮影した写真をまとめた写真集の中に、藤代冥砂さんが家族をとり続けた「もう、家に帰ろう」という写真集があります。僕はこの写真集が大好きで何度も見ています。

写真集として出版されているので、藤代冥砂さんはタイトルの通り、家族の温かさを伝えるような写真を撮っているのだと思いますが、奥様やお子様の自然な表情や成長の記録が、他人である僕でさえも、家族って良いな、大切にしよう、と思わせる写真ばかりです。

写真家の方なので外向きではあるとは思うものの、一番は家族のために撮った写真がほとんどなのだろうと感じています。写真から感じられる距離感などから藤代冥砂さんが家族を大切にされてきたことがよくわかります。

原点に立ち戻ってみると、僕は家族をもっと撮りたい、記録に残したい、と思ってカメラを手に取っています。なのに家族が写っていない街の写真や空、コーヒー、影。

Google photoやiPhoneの写真アプリで表示される「〇年前の今日」という写真を家族と一緒に見て、楽しく話が出来れば良いなと思います。
そして、将来、子どもたちが巣立った後にアルバムを見て楽しい思い出を思い出すおじさんでありたいと願っています。

お父さんもまぜてー

写真を見る事は趣味ではありますが、自らの手で撮影する写真は、写真に興味があるかどうかで見方が変わるものではなく、見てほしい人と一緒に見て感情を共有できる写真を撮っていきたいと思うのでした。


自分が一番好きな写真について書いた記事も良ければご覧ください。


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