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【短編】忘るる年や、いかに

   よく使い込まれたグラブ、バットがアップになった。早朝、街頭ビジョンが映している。約10年前の映像だろうか、まだまだ初々しい彼の笑顔は、スライディングでついたであろう土がその爽やかさを倍増させている。
 当時、高校野球の大スターであった彼は今、日本野球界の生ける伝説となって、世界の舞台でその剛腕を見せつけている。30代を目前にした彼は、唯一持っていない世界チャンピオンの座を掴むべく、さらなるチャレンジをすることを決断した。莫大な契約、圧倒的な期待。彼はこれまで以上に大きなものを背負うのだ。その重圧感は、そう易々と想像し、他人が語れるものではない。誰も成し遂げてこなかったことを自分一人で達成していく。パイオニアという言葉があるが、トレイルブレイザーという方が彼にはむしろしっくりくる。大きな風が吹く荒野を、彼は胸を張って歩いていくのだ。

 そして俺も。自分自身の荒野を歩くのである。今日がその第一歩となると、信じてやまない。






「はーい、一人6000円ねー。明日までにお願いしますよ〜」

 複数人の社員が担当して、年末の催し事の準備が進んでいる。実費参加型残業、つまるところの“忘年会”である。30を目前にした一般会社員の大谷は、その様子を背中で眺めながら資料を作っていた。忘年会という言葉の意味は《その年の苦労を忘れるために年末に催す宴会、新しい気持ちで新たな一年を迎えるために行う》らしい。嫌なことは忘れちゃおうぜ!というポジティブな意識があるのはとても素晴らしいことである。ただそれは、自分一人でも出来ると思う。というか、自分一人でさせてくれ。過去の忘年会を省みると、まぁロクな思い出がないというのが大谷の端的な感想である。大学時代の意味のない焼酎の一気飲みからの嘔吐の連続、新卒から3〜4年は上司や役員への気配りでおよそ楽しむ瞬間なぞ無く、最近は後輩の分をちょっと払ってやらなくてはいけないとかいうこれまた意味のわからない慣習がある———自分が若い時は奢られる側だったので致し方ないが———ため、せっかくの飯と酒の味があまりしなくなった。
 兎にも角にも、6000円である。6000円あれば、結構な贅沢を出来るのではないだろうか。フライドチキンだったら必要もないのにバケツサイズで買えるし、お寿司なら回らないカウンター席で板前さんと談笑しながらおすすめを握ってもらえるし、中華なら七面鳥をまるっとイケちゃうし、フレンチならランチでおしゃれなコースを楽しめるだろう。しかしこの場合の6000円は、そんなに美味しくもない飯と、望んでもないのに次の一杯が運ばれてくるおよそ民主主義からかけ離れたフィールド居酒屋にペイされることとなる。決して、決して同僚や同じチームで働いている彼らが嫌いなどではない。彼らの努力や姿勢は当然評価しているし、予期せぬトラブルに慌てて黒スーツと菓子折りを持って下げたくもない頭を下げたのももはや良い思い出だ。みんなと飯を食って、ねぎらいの言葉をかけ合うのは良いことだろうし、上司の悪口で盛り上がるのもこれまた一興と思う。むしろ大谷からセッティングしようと思っている。しかし、会社をあげて全員で———というのは、ちょっと、必要性に欠けるのではないかと客観的に思う。
 いやもうハッキリ言おう。色々言ったが要は忘年会なんか出たくないのである。そしてそれを、「あの〜、忘年会は今年欠席させて頂こうかなと思いまして」と張り切っている担当に伝えるのが、今日の大谷のミッションである。嗚呼憂鬱ゆううつだ、と進まない資料作りの手を止め、彼は一人、コーヒーブレイクに逃げた。





 エレベーターに乗っている時、なぜ多くの人は上を向いているのだろう。当然、機内で『上を向いて歩こう』が流れているわけもない。だが、今日の大谷は意識がいつもと少し違った。

「よし、みんなが一様に顎を上げているのであれば、俺は顔を落とそうではないか」

チーン。コンビニのある階に着く。降りようと思ったら部下の水原市子みずはらいちこがそこにいた。

「どうしたんですか、悪いことした小学生みたいなカッコで」

恥ずかしいところを見られた。誰が小学生だ、とつっこむ間もなく、扉が閉まる。仕方ない。建物の外にあるコンビニまで行こうと大谷は切り替えた。

「いや、たまには逆転の発想が必要だと思って」
「は?」
「なんでもない」

 水原は非常に優秀だ。年齢の割に肝が座っていて、大きな取引先に連れて行ってもしっかりと役目を果たしてくれるし、語学も堪能(しかも留学経験ナシで独学らしい)だから外資とのやり取りもスムーズでありがたい。たまに抜けているところがあるが、致命的ではないし、むしろ彼女も人間なんだと思える部分である。

「今やってるゴジラ観ました?」
「いや、まだ観てないけど。面白いんだってね」
「ネタバレになるんで内容については言いませんけど、なんか丸の内を歩いてると“ああ、ゴジラはこの辺を襲ったら壊し甲斐のある建物がいっぱいでさぞ楽しいんだろうな”って思うようになっちゃいました」
「そんなこと考えているの水原だけだと思うよ」

 チーン。地上階に辿り着き、一斉に降りる。水原に聞くとビル内のコンビニはラインナップが微妙だったため外のコンビニに行くらしい。大谷は一緒に歩いて行くことにした。温暖化のせいか、木々の枯れが季節に対して随分と遅れている。寒い日も増えてきたが、イチョウの黄金色は依然としてとても鮮やかで、雨でコンクリートに散らばった落葉も視界に彩りを加える。朝夕は冷えるが、日中はジャケットさえあれば問題無いので外を歩きたくなる人は多いのか、平日のランチタイム後にも関わらず結構な人が街を闊歩していると感じた。ふと、大谷は横を歩く弊社員を見やった。彼女は、忘年会をどう思っているのだろうか。一上司として部下へのヒアリングを怠らないのだと自身に無理やり言い訳をして、それとなく尋ねてみる。

「忘年会、そろそろだなぁ。今年もいつものとこでやるのかね」
「さぁ。私は参加しないのでわからないです。でもあの感じだとそうじゃないですか、新しいお店探すのって面倒だろうし」
「ええっ」
「そんなに驚きます?もう参加しないって幹事の人には伝えてあるんで問題無いと思いますけど」

 大谷は大層驚いた。自分以外に忘年会に出席しない、というかもうすでに欠席の旨を伝えている時点で大谷より先を行っているが、ともかくそんな猛者がいたとは。しかも直属の部下ときた。これは何か聞かなくてはと大谷は前のめりになった。気のせいか水原は若干引いているが関係ない、先人の知恵はいつだって借りるものだ。

「な、なんで参加しないか一応理由とか聞いてもいい?あ、恋人と過ごす日と重なったとか?あっ、いやごめん、セクハラっぽいな今のは」
「別に私はそう思いませんけど、その心がけはとても良いと思います」ニコッと笑う。
「ごめんって。実はさ、俺欠席しようと思っているんだ、忘年会を。でもどうやって言い出せばいいのかわからなくて。」
「そしたら水原が忘年会に出ないって言い出してこりゃラッキーってことですね、なるほどです。」

さすがの水原は理解が早い。大谷はコンビニで好きな飲み物を買ってやろうと心に誓った。

「普通に言えばいいだけですけどね、今年は参加しませーんって」
「うーん、そうなんだろうけどさ。立場とか今まで参加してきたこともあってなんか言い出しづらいというかさ。第一じゃあ何か別の予定でもあるんですかって言われたら別にないし、理由はただ参加したくないからってだけなんだよね」
「そうですか。むーん。…よし大谷さん、では当たり前を疑いましょう。まず大谷さんにとって忘年会とはなんでしょうか」

忘年会とは。むむむ。大谷はパッと答えることができなかった。しかし、ちょうど今日通勤中の電車でググったので定義的な答えは知っていた。それを伝えてみる。

「その年の苦労を忘れる、ですか。でもその感じだと大谷さん、その忘年会自体が忘れたいイベントになりそうじゃありませんか?」
「ほんとにね」
「忘年会における要素で、なんだかんだ金額がネックだと思っているハズ、ですよね」
「うーん、まあそうだな。6000円って結構高いよやっぱり。ありえないってわかってるけど、4000円ならもう少し検討したかもしれん」
「もしもの話は置いておいてですね、ここで大切なのは大谷さんにとって、忘年会は6000円の贅沢に適ってないイベントってことです!ではここから発展させてより考えていきましょう」
「わ、わかりました」

 ウィーン。コンビニに辿り着いた。迷わずブラックコーヒーを取りに行くと、水原は紙パックのドリンクを見ていた。なるほど、こういう瞬間でさえこびりついた当たり前を疑ってみるのは必要かもしれん。えいやっと紙パックのコーヒー牛乳を掴むと、「可愛いの飲むんですね」とちょっと引かれた。やはりブラックにすべきだったか。

 ウィーン。サクッと買い物を終え、今きた道を戻る。

「飲み物ありがとうございました。さて、先ほどの話に戻りますが、大谷さん。贅沢、ってどんなことを考えますか」
「高い肉を食うとか、回らない寿司とか、旅行とかだと思います」

それを聞いた水原は会社に戻る足を止め、こっちをまっすぐ向いてニヤリと笑った。

「まあ当たり前の考えですね。では、私にとって贅沢とは一体どんなことか、教えてあげましょう。———それは、高いお肉を買うことでも、良いシャンパンを飲むことでもありません。餃子をわざわざ作って、それをスープに入れて副菜にしてしまう、みたいなことです」

 大谷は、感動した。そうか、これが“当たり前を疑う”ということの根源的行動なのかと。確かに、餃子を作るということは、それなりに労力がいる。人数に合わせた材料を買い、次の日の予定があるならニラを抜き、そしてタネを作り、皮で包んでいく。これだけのことをするのだし第一、餃子の料理界におけるヒエラルキーは完全に【主菜】側、かなりふんぞり返って大笑いしているような安泰ポジションである。その餃子、いや餃子様をアッと驚かせるような事態———まさか焼かれずにスープにぶち込まれるなんてことが起こるとは餃子様自身、微塵も思ってないだろう。ちなみに冷凍餃子はまた向き合い方が微妙に異なるので、やはり手作りのもの、という点が大切だ。なんの補足だコレは。兎にも角にも、大谷はとても感動したのだ。

「…おお。おお、おおお!凄い発想だ!!」
「どうでしょう、これまでの視野では見えてなかった世界がばっと見えるようでしょう」
「うん、こりゃ凄いぞ。俺は今まで何を考えて生きてきたのか、恥ずかしくなってきたよ」
「今からでも間に合いますよ。新しい感性を持つ。角度を変える。もし前例がないことなら、大谷さんが作れば良いんです」

 そうだ、俺は名もなき荒野を往くのだ。誰の足跡もない道を、自分で進んで行くしかないのだ。今朝誓ったはずの思いを早速忘れていたが、優秀な部下のおかげで思い出せた。自分のすべきことは何なのか。大谷は今まさに、それを天命が降ったかのように全身で感じたのである。

「Oh,サンキュージーザス」
「誰に感謝してるんですか」








「俺、今年は忘年会欠席しようと思う」
「何かご予定でもあるんですか?」
「———斜めがけのショルダーバッグにとって、真っ直ぐってなんだと思う?」
「はっ?」
「そういうことさ」
「はっ??」
「へっ?」
「…結局出るんですか、出ないんですか?」



「………出ます」
荒地を歩くのは、まだ早かったと大谷は悟った。

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