[短編小説]ベルの訪れ、宴は遠く
***
夜の繁華街に、目を閉じてしまいたいくらい眩いイルミネーションが輝いている。その光に吸い寄せられるように集った人々によって、繁華街の音が形作られていく。
そんな町中を、国木田成実先輩と一緒に歩く。
多くの人が酔って千鳥足で歩いているというのに、歩く先輩の後ろ姿はモデルさながらに整っていた。パンプスのヒールがアスファルトにぶつかってカッカッと鳴り響く音が、やけに鮮明に耳に届く。喧騒に解け込んでかき消されてもいいはずなのに、気になってしまうということは、俺が先輩にばかり意識を向けているからだろう。
誰にも気付かれることなく、小さく溜め息を吐いた。どうしてこんなことになったのだろう。
夜空に舞う小雪をぼんやりと眺めながら、先ほどの数十分前までの出来事を思い返す。
人々の大声で賑わう店内。周囲に漂う、揚げ物やタバコの臭い。気を良くした上司。そんな上司を、更に持ち上げる部下。誰にも気付かれないように笑う、俺。
まさしく飲み会の空気だった。時期的にも十二月だったから、少しだけ早めの忘年会も兼ねての営業部全体での集まりだ。
五か月前に転職したばかりの俺だったが、まだ職場に溶け込むことが出来ずにいた。飲み会の最初の方は、「えっと、ホ、ホリさんは――」とたどたどしく俺に話しかけてくれる人もいたが、次第に仲の良い人同士で話が盛り上がっていく。
話す人も、話しかけてくれる人もいない俺は、誰かの話に耳を傾けるフリをして、必死に相槌を打っていた。
だけど、興味もない話にさも興味があるフリを続けるというのは、自分の心に嘘を吐く行為だ。胸の中に、不満は募っていく。そもそも酒も飲めず食も細い俺にとっては、飲み会はちょっと気まずい場所だ。
いつ終わるんだろう。早く帰りたかった。左手首ばかりに向かいそうな意識を、なんとか目の前の先輩達に強引に向けていた。
そんな状況で、
「明日も早いんで帰ります」
そう声を上げたのが、先輩だった。
先輩は自分の意見を曲げない人だ。どんな時でも、自分が正しいと思った道を歩む。その性格が功を奏し、先輩は部署の中でもトップの成績を誇っていた。
だから、場の空気を乱すような突然の帰宅宣言に対しても、誰も文句を言う人はいなかった。そういう人だ、と皆が認識しているからだ。「おつかれー」「また来週もよろしくー」と、呂律の回らない声で送り出されている。
「お、俺も帰ります」
これ見よがしに、俺も先輩の後について行った。入社してから先輩に面倒を見てもらっている俺は、先輩の後をついて行っても文句は言われない。いや、そもそも俺に注意を向ける人がどれくらいいるかは分からない話ではあるのだが。
コートを手にして、「お疲れ様です」と言うと、俺と先輩は席を離れた。キンキンと耳を劈くような声と、色々な臭いが混ざった空気を、しっかりと扉を閉ざして押し込む。
外の空気は、冷たくて、けど新鮮だった。少しだけ話題に上がるくらいに寂しく降る小雪のせいもあるかもしれない。全身の空気を入れ替えるように、大きく腕を伸ばした。賑やかな声、というのは往来に人々が集まっているから変わらないけれど、自分に関係していないからか、そこまで気にならない。
右手首の腕時計にちらりと視線を落とした先輩は、黙々と駅に向って歩き始めた。解放感に浸ることなく、俺も慌ててついて行く。駅までは同じ方角だから、追いかけるしかないのだ。
そんな経緯があって、俺と先輩は夜の繁華街を歩いていた。
先輩と歩いていても、特に会話が広がるわけではなかったけど、飲み会の席にいるよりはまだマシだった。
しかし、先輩は何を思い立ったのか、急に足を止めた。
訂正。マシな時間は終わりを告げた。先輩が立ち止まったことで、俺のセンサーが敏感に反応する。
「ねぇ。そういえば、あそこのお客、ちゃんと営業取れるの?」
振り返った先輩が、鋭い目つきで俺を見る。
「え、えと、多分……」
蛇に睨まれた蛙状態になった俺は、しどろもどろに答えることしか出来ない。そんな俺の態度が気に食わなかったのだろう、先輩の唇から音と共に白い息が漏れた。
「ずっと思ってたんだけどさ、君、向いていないんじゃない。この仕事」
「……ははっ、ですかね」
面白くも何ともないのに、笑いが漏れる自分が情けない。
先輩は興味を失くしたように、俺から体ごと反らすと、駅に向って颯爽と歩き始めた。溜め込んでいた息を吐き出してから、先輩の後についていく。駅までは、あと少しだ。
夜の繁華街は、色々な人がいる。
飲み明かすために町を闊歩する人。サンタの服装に身を包みながら、誰かに絡む人。大きな声で破滅を叫ぶ人。声高らかに歌う人。人々の興味を集めようと両手から花を咲かす人。色々な人が、声を上げて叫んでいる。
だけど、先輩と一緒に歩くと、この賑やかな音も心に響かない。
人とぶつからないように、そして先輩とはぐれないように、ただただ一心に歩いていく。
そして、ようやく駅の改札口の前まで辿り着いた。多くの人が、自分の目的地に向かおうと、黙々と定期をかざしていく。
先輩も自分の鞄の中から、定期を取り出した。
「じゃあ、また来週」
「はい。お疲れさまでした」
先輩が人波に紛れ、ピッという電子音が鳴るまで、頭を下げ続けた。先輩の気配を感じなくなったので、顔を上げると、改札に背を向ける。
そうして、俺の長かった一日は、終わりに近付いていく。残されたやるべきことは、駅から徒歩十五分ほどの1Kのアパートに帰るだけだ。
再び繁華街の騒音をBGMにして、道を歩いていく。笑い声や歌声が耳に届くが、見向きもしない。足を止めたいと思うことすらなく、ひたすらに進んでいく。
先ほど言ったことを、修正する必要がある。
先輩と一緒に歩いても歩いていなくても、誰かの楽し気な声は、俺の心には響かない。
ただ寂しさが一層募るだけだった。
冷たい風が、身も心も撫でた。寒さに耐えるように、ポケットに手を突っ込んで、背中を丸める。何にもない1Kのアパートに向かって、一心不乱に足を出す。何もない部屋だけど、無機質なエアコンで暖を取ることくらいは出来る。
「……早くあったまりたいな」
いつの間にか、耳に届く音がずれるようになっていて、いつしか何の音も響かなくなっていた。自分の歩く音さえも聞こえない。
ああ、またあの感覚か。
いつの間にか耳に届く音がずれるようになっていて、最終的には何の音も響かなくなっていく。自分の歩く音さえも聞こえない。
こういう時は、全ての感覚をシャットダウンして、布団の中で丸くなって眠るに限る。
そうしなければ、言葉に出来ない衝動に自分が襲われてしまうことを分かっているからだ。
ふらつく足取りと、朦朧とする意識を抱えながら、なんとか家に向かった。
***
ここでちょっと、昔の話をしよう――。
自分で言うのも変かもしれないが、昔の俺は純粋な人間だった。友達の軽い冗談も冗談と受け取ることが出来なかったり、誰かに助けを求められたら後先考えずに手を差し伸べる。人が喜ぶ顔を見るのが、好きだった。そんな風に、人を疑うことを知らない子供だった。
周りからはよく、気の利いた優しい奴だと言われていた。
その性格は、社会に出た後も変わらなかった。
初めて入社した会社では、今の営業職とは違って、クリエイティブな仕事をしていた。誰かが自分の考えたことで喜んでくれることに、とてもやりがいを感じたからだ。
俺は持ち前の性格を活かして、頭に浮かんだ構想を惜しみなく言葉にしたり、悩んでいる人には声を掛けたりしながら、仕事に臨んでいた。休みの日だって、何かを目にする度に仕事に還元できないかと考えていた。とにかく自分の限界もかなぐり捨てて、全力で仕事に打ち込んでいたのだ。
それが、会社の役に立ち、周りの役に立ち、巡りにめぐって自分に還って来る。そう信じてやまなかった。
実際、俺は会社の中でも一目置かれていたように思う。周りの皆は、「佑真ぁー」と俺を頼るに声を掛けて来た。
だけど、ある日、事件が起こった。恐らく周りにとっては、すぐに忘れてしまうくらいにどうでもいい出来事だけど、俺にとっては人生を揺るがすような一大事件だった。
その時は、会社全体を上げた事業に取り組んでいた。社運を賭けたこの事業に成功すれば、会社の経営は更に堅固となり、また功労者は出世コースを歩むことが出来ると言われていた。みんな目を輝かせながら働いた。俺も更に力を入れて仕事に臨んだ。
もちろん俺が興味があったのは、出世の方ではなく、事業を成功させて会社を大きくすることだった。会社を大きくすれば、多くの人に更に良質な娯楽を届けることが出来ると思っていた。
今までのノウハウを活かして、力を合わせれば、何でも出来る。
みんなも同じ思いをして働いている。
そう思っていたのに、どうやらそれは俺だけの思い過ごしだったようだ。周りの考えは違っていた。
先輩や同僚の興味は、出世にしかなかったのだ。俺が出す意見は、コストとか再現性とかそれっぽい意見で否定されて、悉く却下された。却下されるならまだしも、酷い時は取り合おうともしなかった。そのくせ、裏で俺の意見を聞いては、あたかも自分が思いついたように提案する。俺の意見のいいところだけを取ったそれは、名前を変えて、どんどんと上に展開されていく。
ここまで来れば、人を疑わない俺でも分かる。
裏切られた。利用されるだけ利用されて、自分の昇進に邪魔になった瞬間捨てられた。
周りの同僚にだけではない。いいことをすればいいことが還って来る、そう子供のように純粋に信じ切っていた自分自身にも裏切られた。
社会はそう甘くない、と叩きつけられたような気分だった。
いつしか俺は、会議中に発言をしなくなっていた。誰かに個人的にアイディアを求められても、何もないと首を横に振った。
朝起きて、出社して、適当にキーボードを叩いて、退社して、寝る――。自分が何もせずとも、ある程度の給料は貰えるのだと割り切れば、なんとか耐えることが出来た。
だけど、なんとか耐えることが出来ただけで、心身は限界を迎えていた。
裏切られた会社に足を運ぶ度、胸が締め付けられるように痛み、思考も上手く回らなくなった。水に流して忘れようと思っても、鮮明に先輩や同僚の顔が浮かび上がってしまうから、忘れることは叶わなかった。
ここまで自分が弱く脆い存在だということに、生まれて初めて気が付いた。
どんなことがあっても、それが人のためになって、いつしか自分のためになるのならと思えば、最後まで行なうことが出来たはずなのに。
自分が痛みを受けることで、俺はようやく自分の本質に気が付いた。
俺は純粋なんかじゃなかったのだ。気が利くわけでも、優しいわけでもない。ただ自分が傷つくことを恐れていただけだ。だから、誰にも非難されないような、純粋な優等生であろうとした。
しかし、今は違う。
誰からも認められる優等生という立場が、周りとの確執になってしまい、逆に仇となってしまった。
会社の端っこのデスクで、ぼんやりとすることに、何も感じなくなって来た。心に浮かぶ思いは、どこかで似たような経験をしたことがあるな、ということだった。どこだっけ、と考えている内に、すぐ答えに至った。
ああ、そうだ。まだサンタの存在を純粋に信じることが出来た、子供の頃に似ているんだ。
幼稚園くらいまでは誰もが純粋に信じられたものも、小学校に上がり、高学年になるにつれて疑いの目を持つようになる。だけど、直接的に指摘されるまで、俺は信じていた。人に笑顔を届けるサンタに憧れに似た感情を抱いていた。
けれど、中学校に上がったくらいのタイミングで、サンタを信じていることを揶揄されるようになった。心の最奥に隠していた一番大切な宝物を、強引に引きずり出されて、強引に壊された気分を味わった。これ以上自分が傷つくことを恐れ、周りに合わせるようになった。
胸に疼く不満感を抑え、何も感じなくなるまで、長い時間を要した。
あの時と、似ている。
信じて、裏切られて、でもまだ信じたくって、挙句は馬鹿にされて。
昔も今も、俺の根底は変わっていない。
だけど、そんな子供の頃と今とで違うこともある。
サンタを純粋に信じていた、あの頃の感覚なんてもう思い出せないということだ。今になると、本当に信じていたのか疑わしいほどだ。
急に、この会社に留まり続けることが虚しくなって、俺は逃げるように辞表を出した。
それから、何年か引きこもりのような生活を送って、なんとか今の会社に転職することが出来た。
だけど、まだあの時の傷が、完全に癒えたわけではなかった。
裏切られたあの日から、自分から行動することが出来なくなった。更に、誰かを信じ、誰かのために行動することも出来ない。
一番決定的に違うのは、いつも胸の左奥あたりに違和感が走り、更には耳が遠くなり音の感覚がなくなるようになったことだ。
まるで世界と自分はズレているのだと突きつけられているかのようだ。
元凶となるあの場所を離れた今となっても、もう調子が良かった時の感覚なんて分からなかった。
力を出したくても出せない。笑うってことが分からない。今どうしてここにいるのだろう、という疑問が、頭から離れない。
このことは、誰にも打ち明けたことはなかった。
誰かに心配を掛けたくないから――、いや違う。もっと醜悪だ。周りから、俺は駄目な人間だと烙印を押されたくなくて、この思いを吐露することなく、無理やりに口角を上げる。口角を上げる度、ずっと頬に凍てついた感覚がこびりついて離れない。そして、その冷たさは、頬から全身に走り、まるで凍傷のような痛みを与えて来る。肺も固まっているように、息をするだけで胸が痛んだ。
この内に宿ったもの全てを吐き出していいなら、とっくに吐いている。心理的にも、物理的にも、吐き出してしまいたい。
けど、こんな窮地に追いやられた時だって、俺は哀しいほどに世間体を意識してしまっている。
だから、俺に出来ることは、ただひとつしかなかった。
このズレに終わりが来ることを願いながら、いつ終わるかも分からない痛みに耐えて、今日も生きていく――。
***
賑やかな繁華街と化す夜とは異なって、昼間の駅前は落ち着いた雰囲気を放っていた。イルミネーションを灯すためのライトは、今は業務時間外だと言わんばかりに光を失って、木々に纏わりついている。当然、それぞれのやるべきことに専念している人々の目を惹きつける力は持っておらず、何事もないように通り過ぎていく。
そんな人々の往来を、ぼんやりとベンチに座って眺めていた。
新規営業を獲得するために、単身で知らない会社に飛び込んで、見事に撃沈してしまった。ただ断わられるだけならまだしも、先方から容赦のない一言を放たれ、暫く立ち直れそうになかった。
そして、駅前のベンチに座るや否や、過去の記憶が脳内にフラッシュバックしてしまっていた。
「……何やってるんだろ」
自分がこれ以上傷つかないために、俺は前の会社から逃げた。
なのに、今は今で、誰かに媚びを売りながら自分を取り繕って生活している。しかも、前の会社と同じように、やる気のないまま、言われた通りに何となく仕事をしてしまっているのだ。
歴史は繰り返す――。なんて大袈裟なことは言わない。
だけど、どこかで頑張らないと、同じことの繰り返しなんだろうなとは思う。
「はぁ」
何度目になるか分からない溜め息。
俺は、その頑張るためのキッカケも気力も分からず、何となく生きている。
この後、会社に戻らなければいけないことは知っている。先輩と色々話して、確認すべきことがあるのも知っている。今回の失敗を活かして、次はどうするかも考えなければいけないだろう。
だけど、腰が上がらないのだ。俺の腰はまるでベンチと同化してしまったように、持ち上げることが出来なかった。周りが、暗くなっていく。いつしかあの感覚が襲い掛かっていた。なんで働いているんだっけ。どこに行こうとしているんだっけ。ひとつ言えることは、動くのが億劫だということだ。吸う息は冷たく、吐く息はやけに重い。
このまま会社の人から連絡が来るまで、座っていよう。
俺は更にベンチに深く腰かける。
どれくらいベンチと一体化していただろう。影が見える位置は、二十度は変わっていたと思う。まぁいいか。どうせ俺が戻ったところで、誰かの仕事に影響があるわけでもない。
そう思っていたところ、座り込む俺の影が、大きな影に覆われたのが目に入った。誰かが俺の前に立っている。けど、誰が?
「――おじさん、大丈夫?」
顔をあげれば、そこにはギターを背負った女の子がいた。首元には赤いチェックのマフラーを、全身はダッフルコートに覆われながら、ぶっきらぼうな顔を浮かべている。けれど、俺へと注ぐ視線と差し出された右手には、迷いがない。
一瞬、その声が俺に向けられたものだと理解することが出来なかった。
そっか。俺はもうおじさんと言われるくらいの年齢なんだな、と客観的に思い知らされた。
全身を早く強く叩く鼓動をなんとか落ち着かせるように、深めに息を吐き出すと、
「ありがとう。大丈夫だよ」
口角に笑みを貼り付けて、彼女の手を取らずに椅子から立ち上がってみせた。
立ち上がると、彼女を見下ろす形になった。俺の頭一つ分くらいは小さいだろうか。そして、彼女を見ていくうちにその正体が分かった。この子はよく夜の町で歌を歌っている女の子だ。地面に直置きされているクロッキー帳には、確か「エンドー」と記載されていた。俺が一方的に見かけるだけで、詳しい情報は知らないし、向こうからしたら俺が名前を知っていることすらも知らないだろう。
夜にしか見たことのなかったエンドーさんと、まだ陽が落ちない内に出会うことになるとは、思いもしなかった。
「ふーん」
ずっと俺のことを見上げていたエンドーさんだったが、視線をふいと逸らすと、終わったと言わんばかりに背を向けて去っていった。
彼女が去っていくのを見届けると、スイッチの切れた玩具のように、再びベンチに座る。
エンドーさんを夜の繁華街で何度か見たことがあるが、歌を歌う前の前説はいつも、少しだけ物騒だった。
彼女はよく「私が退屈な世界を終わらせる」などと、まるで破滅を求めるような声を上げている。エンドーというアーティスト名も、終わりという意味を持つENDという英単語から来ているのかもしれない。
だけど、そんな彼女は。
「実は優しい子なのかもな」
そうでなければ、わざわざ座り込んでいる俺に声を掛けるようなことはしないだろう。
そう彼女に対して評価を下した時――、
「っ!」
頬に冷たい感触が伝わり、肩を跳ねらせた。
「水。嘘つくの下手だね、おじさん。ばればれだよ」
いつの間に後ろに回り込んでいたのだろう、ペットボトルを手にしたエンドーさんがいた。悪戯に成功したかのように、エンドーさんは僅かに微笑んでいる。
「……そんなに分かりやすい?」
「うん」
初対面の女の子にも一目で気付かれてしまうということは、きっと周りの同僚達にはずっと前から勘づいていたのだろうな。
俺は自嘲交じりに、「ありがとう」とエンドーさんから水を受け取った。
口に含み、喉を通過した瞬間、全身に巡っていくのが分かった。身も心も、少しだけ楽になる。
「なんかあったの?」
言いながら、エンドーさんが俺の隣に腰かける。その瞬間、あれだけ冷たかったはずのベンチに、熱が灯った気がした。
「こんな時間からサボり……ってことでもないでしょ。おじさん、真面目そうな雰囲気してるし。てか、顔色が相当ヤバいし」
「あー、ははっ。実は――」
そう前置きしてから、今日の午前中に営業先で失敗したことを話していた。
なんで初めて話すようなエンドーさんにこんなことを話しているのだろう、と思う。けど、エンドーさんの放つ空気感が、どんどんと思うよりも先に言葉が出てくるようにさせる。つっけんどんな態度とは裏腹に、しっかりと相槌を打ってくれて、久々に誰かと話しているというような思いが湧いて来る。
気付けば、誰にも打ち明けたことのなかった過去についても、軽く触れるようになっていた。
「……」
一通り話し終えると、エンドーさんはマフラーに顔を埋めていた。会って間もないというのに、重い話をしすぎてしまったようだ。
「いきなりごめん。こんな話を……」
「あ、いや。それは全然大丈夫」
エンドーさんはあっさりと言う。
「自分も、周りの意見に流されて過ごしたこともあるから、おじさんの気持ちも少しは分かるよ」
呆けた顔をしながら、「え、そうなの?」と言葉を漏らしていた。路上で見るエンドーさんは、常識から外れているようなパフォーマンスをしている。きっと人と合わせることは苦手な子なのだろうなと思っていたのに、意外な発言だった。
「うん。高校時代に、自分の気持ちに正直にいないとって思うことがあって、それから色々あって、自分の思いを伝えられるようなパフォーマンスを人前でしようという考えになった。本当は高校卒業したら、すぐ人前に立ちたかったけど、自分の考えだけに凝り固まらないためにも高卒から三年間は会社勤めをしたかなぁ。人の前に勝手に立ってパフォーマンスしてる立場だから、経験もしてない奴が何を言ったって、説得力ないじゃん」
「確かに、その通りだね」
「それで、最初は社会人をしながら、仕事終わりに道端でパフォーマンスをしていたんだけどね。三年経って、色々考えた結果、一本に絞ってみることにしたの。いつまで続けられるかは分かんないけど、表現することはやめたくない」
そう言い切ったエンドーさんの眼差しは、とても力強いものだった。誰の意見を聞いても、自分が信じる道は曲げないといったような意志が伝わって来る。
「……俺、エンドーさんのこと、インディーズのシンガーソングライターかと思ってたよ」
「あー、確かに最近は、ギターを持って歌ってることも多かったかも」
エンドーさんは屈託なく笑う。
「でも、ギターとか何でもそうだけど、目的を達成するための手段だよ」
「エンドーさんの目的って?」
純粋に気になったから、俺は何も考えずに問いかけていた。待っていましたと言わんばかりに、エンドーさんは不敵な笑みを浮かべる。
「見かけたことあるなら知ってるでしょ。終焉をもたらすんだって」
そうだった。思ったよりも柔和なエンドーさんの雰囲気で頭から離れてしまっていたが、エンドーさんのパフォーマンスでは終焉という言葉がよく使われている。
終焉をもたらすために、夜遅くに大道芸みたいなことをしている?
なんだか矛盾が生じている気もする。パフォーマンスをしながら、この世界の終わりを願ったって、はいそうですかと変わるほど単純な仕組みじゃない。
もしそんなに簡単に世界が変わるなら、俺はこんなにも生き方を拗らせていない。
「終焉……、ってどういう意味?」
エンドーさんのパフォーマンスを、最初から最後まで見届けたことがないから、何を伝えようとしているのかは分からないのだ。
久し振りに人に本音を打ち明けたことで、分かりあったような感覚に陥ってしまったが、俺とエンドーさんの関係性を表す的確な言葉はない。
優しくて、けど終焉を願っている――、そんなエンドーという隣にいる人間を、俺はまだ何も知らない。
「うん、それはね――」
エンドーさんは、その小さな体で何を終わらせようとしているんだろう。エンドーさんは唇を動かしたが、その続きの言葉を発することはなく、口角を上げた。
「ねぇ、今時間ある?」
***
まだ空は、夜と夕の曖昧な色に染まっている。
時間はもう少しで十七時になるといったところか。俺の会社の定時までは、残り一時間ほど。午後の時間を丸々サボってしまうのは、初めてのことだった。しかも、一人で寂しくサボるのではなく、他人の路上ライブを見届けようとしているのだから、尚更初めての経験だ。
俺の視線の先では、今日初めて会話を躱したエンドーさんがライブをするための準備をしているところだった。
――ねぇ、今時間ある?
そうエンドーさんに問われて「あると言えば、あるけど……」と返事をしたところ、「じゃあ、少し時間は早いけど、これからお披露目するよ」と返され、俺は首を横に振ることが出来なかった。
友達ならまだしも、出会って間もないエンドーさんのライブを聞くことになるなんて、いったい誰が予想することが出来ただろうか。
「……」
仕事終わりの人々の喧騒によって、少しだけ賑わい出した繁華街で、エンドーさんは堂々とギターを構えて立っている。横切る人は何事かとエンドーさんを見つめるが、すぐに自分の道へと戻る。
俺も直接声を掛けられていなかったら、エンドーさんの動向を見守るようなことはせず、さっと流し見をして自分の道に戻っていただろう。
「……何をするつもりなんだ?」
少しばかりエンドーさんの動向が気になっている自分がいた。エンドーさんの一挙手一投足に目を離すことが出来ない。
そして、全ての準備を整え終わったのか、エンドーさんは右腕を大きく上げると、胸を膨らまして息を吸った。
肺へと溜めに溜めた息を吐き出すと共に、
「めんどくさいもん、全部ここで終わらせよう!」
繁華街中に響くのではないかと思うほどの大声と共に、力強く腕を振り下ろしながらギターを鳴り響かせた。
道行く人は、突然の音に皆振り向いた。分かっていたはずの俺も、大きく目を開かせる。
エンドーさんの指から奏でられる音。
それは、先ほどの叫びとは相反するような、大人しめで、それでいて何かが始まるかもと期待を彷彿させるような――、そうクリスマスを想起させるメロディだった。
『クリスマスの訪れを告げるベル
その音に、僕らの心は弾む
楽しい宴に、僕は飛んでいく
ベルを鳴らしたヒーローがここにいる』
実際、エンドーさんの歌にも、クリスマスという単語が散りばめられていた。聞いたことのない歌詞だから、きっとエンドーさんオリジナルだろう。
だけど、歌詞やメロディよりも、琴線に触れるものがある。物騒なことを叫んでいるくせに、エンドーさんの声帯はこの世のものとは一線を画しているのだ。クリスマスソングと相まって天使みたいに思えた。
繁華街を歩く人みなが、エンドーさんの声に興味を抱いたわけではない。けれど、エンドーさんに惹かれた人は、足を止め、会話を止め、ただただ聞き浸る。
『だけど、今宵の君は見ているだけ
ジングルベルと踊る君は、ここにはいない
ベルから離れた場所で、君は一人雪を見る
この賑やかな音は、君には届かないだろうか』
曲調が転じた。Bメロに入ったようだ。
歌詞の情景は、ありありと思い浮かんだ。だって、その歌詞は、まさしく俺がいつも目の当たりにしている世界だからだ。周りを気にすることなく楽しめるはずのパーティーも、俺は素直に楽しむことが出来ない。
俺は自分の世界を抜け出して、華やかな世界に足を踏み入れることは到底出来ないだろう。そういうことに適した性格ではないことを、自分が一番知っている。
『――合うさ
権利はすでに君の手の中
ジングルベルを聞く者すべてにあるのさ』
いつの間にか突入していたサビも、終わりを迎えてしまったようで間奏に入っていた。
エンドーさんが紡ぎ出す世界に入り込み過ぎていて、一番盛り上がる肝心のサビを聞き逃してしまったようだ。ちゃんとエンドーさんの歌を聞いていた人は、心なしかウットリとした表情に見えた。
「……ふっ」
思わず自分自身に嘲笑してしまう。
いつもそうだ。間が悪い、というか、大事なところで失敗してしまう。俺は俺なりに真剣に取り組んでいるのに、周りの反応とは大幅にズレが生じるようになっている。
間奏を経て更に盛り上がっていく曲調を前にして、一人置いて行かれるような気分だ。せっかくエンドーさんが時間を早めてパフォーマンスをしてくれている、というのに。
あれだけ響いていた音が遠のいていく。あの感覚が来てしまうのか。申し訳ない思いを抱きながら、エンドーさんを見た。
すると、エンドーさんとパタリと目が合った。エンドーさんはどこか勝ち誇った笑みを浮かべると、
「自分自身に負けるな!」
先ほどの繊細さを彷彿とさせるような歌声とは異なって、豪快に声を響かせる。
「全部終わらせよう! 諦めるな!」
ギターを鳴らしながら、エンドーさんが真っ直ぐに叫ぶ。その声は、聞く人の魂に響かせようとせんばかりだった。エンドーさんの声は、ハッキリと俺の耳に届いた。あの感覚は、どこかへと行ってしまったようだ。
そして、エンドーさんは首元に巻いていたマフラーを取ると、バッと空に向かって放り投げた。空高くに放り投げられたマフラーは、ひらひらと地面に落ちていく。マフラーを一切気に留めることなく、エンドーさんは音を奏でることだけに集中している。
『クリスマスの終わりを告げる音
その音に、僕らの心はしぼむ
楽しい宴だって、終わりが来るものだ
それでも、ベルが鳴り続けることを願うだけ』
続けて、二番のAメロと共に、エンドーさんが歌う。一番とは違って、祭りの後のような歌詞だった。その歌詞を、俺は更に痛いほどに共感してしまった。
俺はずっと願っていた。
子供の頃に信じていたサンタも、理想を抱きながら取り組んだ仕事も、終わらせたくなんてなかった。
けど、夢は脆い。いつか、現実にぶつかって、簡単に崩れ落ちてしまう。
そのことは、誰もが分かっている事実だ。この事実を覆せる人なんて、ほんの一限りの実力がある人だけだろう。
しかし、想像してしまうこともある。
あの時もしも。
最後まで自分の意志を曲げなければ。もしくは、自分が思っていたことを、少しでも打ち明けることが出来たなら。
自分が信じた道を、最後まで信じていたら、未来は変わっていたのかな。
でも、もう遅い。今更だ。俺は何も変わらない。
『遅いなんてことはありはしない
この宴が終わっても、まだ間に合うさ
勝利はすでに君の心の中
ジングルベルを願う者すべてにあるのさ』
まるで俺の心を見透かしたかのように、エンドーさんがハッキリとサビを歌い切る。
正直に言えば、歌詞はよく分からないところも多い。ベルを勝手に鳴らしたところで、クリスマスがずっと続くはずがない。
けど、背中を押されているような気になるのは、どうしてだろう。
エンドーさんのパフォーマンスに、目も、耳も、心も、離れない。
俺はエンドーさんが作り上げた世界にいる『君』に感情移入をしてしまっている。『君』がどうなるか、知りたかった。
息をつく暇もなく、ラストのサビに転じていく。エンドーさんの弦を引く力が、どんどんと強くなって、熱を帯びていた
『勝てないなんてことはありはしない
この宴が続くために、君だけのベルを持とう
ベルはすでに君の目の前』
仮にベルを手にしたとして。俺だったら、鳴らす勇気があるのだろうか。
俺は今まで人に合わせて生きて来た。内側に宿る本当の思いを、誰にも吐露出来ずに生活した。誰かに変な目で見られることが怖かったからだ。
周りの空気に逆らって、一人でベルの音を響かせることが本当に――。
『ジングルベルを鳴らす力がないならさ
僕が鳴らしてクリスマスが続くことを願おう』
その歌詞を聞いて、呆然とする。しかし、それは束の間だけで、
「はははっ!」
俺は笑っていた。何だよ、そのデタラメな歌詞。腹の底から笑いが込み上げて来る。
「……強引にも程があるだろ!」
こんなにも腹を抱えて、目じりに涙を浮かべて笑うのは、いつぶりだろう。
いつも誰かの助けを借りずに生きて来た。人に迷惑を掛けたくないと思っていたからだ。そのくせ、自分が迷惑を被ることは顧みず、必死に誰かを助けて来た。
それが正しいと信じて生きて来た。
けど、エンドーさんは歌の中で、違うと言う。『僕』がやると言う。
そうか。俺も誰かに委ねれば良かったんだ。出来ないことは一人で抱え過ぎずに、一緒にやればいい。答えは簡単だったんだ。
自分の中になかったデタラメな理論に、そして今までその簡単な理論に気付かなかった自分に、いっそのこと清々しい気持ちになった。
息が苦しい。だけど、これは今までの苦しさとは違う。
終わりを届けたい、と言っていたエンドーさんの言う通り、あれほどもがき苦しんでいた痛みに終わりが来た。この時だけの一過性のものかもしれない。
だけど、それでも終われるんだと思うだけでも、俺にとっては大きく大きな成果だ。
『ベルを鳴らせば誰もがヒーローだ』
エンドーさんが最後まで歌い切ると、ちらほらと拍手が響いた。
俺にとっては自分の考えを転換するようなパフォーマンスだったが、当然ながら、そう感じる人も感じない人もいる。
実際、その場に足を止めていた人の数は両手で数えられるくらいで、余韻が冷めると動き出していた。
拍手の音も小さく、しぼんでいく。
けど、俺はあえて惜しみなく手と手を合わせ、音を響かせた。エンドーさんは俺に視線を向けると、まるで運動会で一着を取った子供のように、汗を頬に伝わせながら口角を上げた。
「――ぁ」
エンドーさんの充実した顔を見て、脈絡もなく思い出したことがあった。
俺が中学生の頃までサンタを信じていた理由だ。
誰かを笑顔にするようなプレゼントを届けるサンタに、俺は憧れを抱いていたんだ。その憧れは、いつしか自分もそのような立場になってみたいと思うようになっていた。
だから、周りの人に対して助けになるような接し方をしたし、思いを形に出来るようなクリエイティブな仕事が出来る職業にも就いて、色々と模索した。
「ははっ」
今まで何もないと思っていた自分自身に、少しだけ希望が見えて来た。
答えは単純だったんだ。たぶん俺の根本は変わっていない。
エンドーさんがふっと視線を反らすと、そのまま俺に声を掛けようとすることなく、機材の片付けに取り掛かった。まるで自分の役目が終わったと言わんばかりの態度だ。
それで、よかった。
もう言葉は必要ない。エンドーさんが何を終わらせようとして、パフォーマンスをしているのか、身に染みて分かった。
満足感を胸に抱え、ひとまず会社に戻ろうと決意して振り返ったところ――、
「……なんで、いるんですか?」
いつからそこにいたのか、国木田成美先輩が立っていた。いつも通り自分の意志を貫くような、真っ直ぐとした瞳。いつもなら引けを取りたくなる視線だけど、今日の俺は視線を逸らさない。
先輩が何を言おうと、全てを受け入れるつもりだ。
「営業の帰り道。会社に向かって歩いてたら、真剣な表情であの子のこと見ていたから」
エンドーさんを見ている姿を、俺はずっと見られていたということか。少し恥ずかしくなる。
先輩はゆっくりと自分の右頬に人差し指をあて、「堀井、そんな風に笑うんだね」と、なんてことのないように言った。
転職して先輩と知り合ってから五か月ほど経つけれど、俺が知る先輩は、いつも他を受け付けないような我を進むような振る舞いを取っていた。
だから、今この瞬間、初めて先輩が微笑む姿を見た気がした。
自分を打ち明ければ、相手も打ち明けてくれる。
人を信じることに臆病になった俺は、一歩を踏み出すことが出来るだろうか。胸がドキドキと高鳴っていく。
――諦めるな!
背中を押してくれたエンドーさんの声が、頭の中に力強く響く。
俺を閉じ込めていた壁は、エンドーさんが取っ払ってくれた。自分を落ち着かせるために、細く息を吐く。
「……先輩。色々提案してみたいことがあるんですけど」
「うん。堀井が考えていること、全部聞かせてよ。なんか面白そうな予感がする」
期待の眼差しを浮かべながら、先輩は頷いた。
そのまま俺と先輩は、会社がある方角に向かって歩き出す。息苦しさは、今は感じない。
夜の繁華街に、目を閉じてしまいたいくらい眩いイルミネーションがキラキラと輝いている。その光と一緒に存在感を放つ人々によって、繁華街の音が形作られていく。
そんな町中を、先輩と一緒に隣に並んで歩く。
<――終わり>
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