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シビュラ精霊記

EPISODE1 一章:『箱庭』の世界「神の戯れに産まれた人間たち。この世界に幸せな場所なんて存在するのかな?」

 零の時代。

 初めに、箱庭の世界が存在した。

 神は形あるものを生み出すための『コトワリ』を世界に与えた。

 そして、魂の器となる『人間』と、己の分身ともいえる『精霊』を生み出し、箱庭へと解き放つ――。

 精霊に意志はなく、ただ神の意のままに人々へ力を示した。

 時に豊穣をもたらし、時には災厄を振りまいて。

 そして、そんな力に神の存在を確信した人々は、精霊と共に生きていくことを選択した。

 だが、数百年の時が流れたある日を境に、その関係は一変する。

 人間の身を捧げられた精霊に、人の身体と自我が宿ったのだ。

 それらの存在はいつしか『巫女<シビュラ>』と呼ばれ、神の御業を駆使する者として崇められる存在となる。

 ――これより語るは『箱庭』という名の世界を巡る、神と人々の物語。

 力に翻弄され、互いに争い、互いに憎しみ合う、愚かなる人間たちの物語だ。

 ある者は世界を憎み、ある者は世界に殉じる。

 ある者は世界を嘆き、ある者は世界から訣別した。

 そんな世界に産み落とされたティータ・アヴェニアスは『精霊』によって己が運命を狂わされた人物である。

EPISODE2 二章:生まれ落ちた獣「あたしには、父も母も友も、愛する人もいない。なーんにも無い。だから、奪ってやるんだ!」

 この世界は、ふたつの大国の戦火に揺れ動いている。

 ひとつはルスラ教国。

 『豊穣神ネフェシェ』を信奉するアテリマ教徒たちに支えられ、豊かさを享受する国だ。

 もうひとつは、鉄の国アギディス。

 『英雄王イダール』によって建国されたこの国は、製鉄を生業として成長を遂げた国である。

 しかし、周囲を険しい山々に囲まれたこの国は、決して豊かではなく。

 民たちは貧困に喘ぎ、苦しんでいた。

 ゆえに、彼らは取らざるをえなかったのだ。

 『略奪』という選択を。

 ルスラとの戦端が開かれるのは時間の問題だった。

 広がる戦火は両国の村を、街を焼き尽くし、争いは激化する一途。

 そんな中、今まさに戦乱に巻き込まれた村が地図からその名を消そうとしていた。

 怒号と悲鳴が支配する世界で、少女はボロボロの身体を懸命に動かして彷徨う。彼女の心を支配していたのは、ひとつの感情だった。

 憎い。憎い、憎い。

 すべてを奪ったこの世界が、憎い。

 理不尽な戦に全てを奪われた少女は憎しみだけを抱いて彷徨う。

 母の温もりを、父の愛を、慕っていた兄弟たちを……全てを奪い去ったこの世界の不条理が。

 争う声から少しでも逃れるように進んでいると、ひときわ激しく燃え盛る場所へ迷いこんでいた。

 灼熱の炎が生者の命を求めるかのように蠢く。

 それはまるで、正気を失い踊り狂う人間のように。

 すべてが燃え尽きようとしている中、少女は出会い、惹かれてしまった。

 燃え盛る炎に包まれた女の姿に。

 あれだけの炎に焼かれては、もう助からないだろう。

 だというのに、女はぎぎぎと首をひねり、こちらへと向き直ったのだ。

 「見つけた……」

 ニィッと不気味な笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。

 本来なら聞こえるはずのない声なのに。それは、直接脳内へと語りかけるかのように淡々と響いてくる。

 「フフ、あなたに、決めたわ……」

 何を? と問いかける暇もなかった。

 一瞬にして全身を絡めとられた少女は、その場にうずくまる。

 「ッ!? アァァァッ! 熱い、身体が燃える……ッ!」

 内側から熱せられた鉄を押し付けられたような激痛にのたうち回り、全身が激しく痙攣した。

 それと同時に、少女は死を覚悟する。

 (こんなところで、死にたくない! あたしは、あたしは……ッ!)

 ――意識を失った少女が目を覚ましたのは、村を覆う炎がすべて消えた後だった。

 「あたし、生きてる……?」

 おそるおそる全身を調べてみる。燃えたと思っていた身体に火傷の後はなく、それどころか、妙に全身が軽くすら感じられたのだ。

 訳が分からない少女だったが、ふと、脳裏を映像が駆け抜けていくような感覚に襲われる。

 それは、少女のものではない記憶。

 『精霊』の力を宿し、『火の巫女<シビュラ>』として、軍事や政に関わってきた少女たちの記憶だった。

 「……あたしが、火の巫女? 本当に?」

 試しに右手を掲げて強く念じてみる。すると、掌から突如生まれた炎の塊が、目の前の廃屋を吹き飛ばし、燃やしたのだ。

 「シ、キシシ……本物だぁ。凄いよこの力! これがあれば!」

 少女は炎を身体に纏わせ、天に向かって叫ぶ。

 「今日あたしは生まれ変わった! 火の巫女アヴェニアスの力を継ぐ……ティータ・アヴェニアスとして!」

 少女は『火の巫女』として再誕した。

 すべてを――奪うために。

EPISODE3 三章:水の都に満ちる涙「ふぅん、人を殺す度胸もないようなのが巫女なの? じゃあ、あたしがお手本を見せてあげる」

 火の巫女として生まれ変わったティータは、その後、かつての火の巫女の記憶を頼りにアギディスへと渡る。

 そして、巫女としての力を顕示し、彼女たっての願いで軍へと所属することを選んだ。

 巫女たちの記憶と愛に飢えた少女の想いは混ざり合い、かつての英雄王のように力を持って全てを奪い、そして民に慕われることを夢見ていた……しかし、それは地獄の始まりだった。

 それから暫くの時が経ち――。

 ティータはアギディスの先槍として、目覚ましい活躍を見せるようになっていた。

 沈静化していた両国の争いは再び激しく火花を散らし、ティータ率いる先遣隊三千は、アギディスより出発しルスラを目指していた。

 そんな折、彼女たちはルスラへと赴く道すがら、水の都ティオキアを通りがかる。

 ティオキアは、アギディスとルスラの境界線に位置する街ではあったが、ルスラとの協調路線を唱える勢力である。つまりアギディスにとってはティオキアも敵国には変わりない。

 であれば――彼女らがやることはひとつであった。

 「この街を制圧する! アギディスの威光を示せッ!」

 ティータの号令の下、アギディス軍は破壊の限りを尽くす。人も街もお構い無しに。戦う力もろくに持たないこの街は、瞬く間に制圧されていく。

 だがその時、怒号が飛び交う戦場にはそぐわない澄んだ声が響き渡った。

 「今すぐ戦いを中止なさいッ! わたしは『水の巫女ジュナ・サラキア』。巫女の力を知らない訳ではないでしょう? 痛い目に遭いたくなければ、その剣を下ろしなさい!」

 巫女の登場という想定外の事態に動揺するアギディス兵たち。

 しかし、その動揺をかき分けるようにして、ティータがジュナの前へと姿を現す。

 「不意打ちすれば簡単に殺せたのにやらない……やれない。それってさぁ、人を殺す度胸もないってことなんでしょ?」

 「この感覚……まさか、貴女は火の……!」

 「ご名答ー。じゃあご褒美にあたしがお手本を見せてあげる」

 そう告げると、ティータは目についたティオキアの民を次々に焼却してみせる。

 「ギャァアアアアッ!!」

 「ジュナ様、イヤァァァッ……!」

 悲痛な叫びが街を包み込む。

 半狂乱と化すティオキアの民。

 「どお? これで理解できたかなぁ?」

 「なんという事を……ッ!!」

 水の巫女ジュナは杖を掲げその力を振るおうとするも、ティータはそれを制するように剣を民へと向ける。

 「遅いよッ! 戦えば民を殺す!!」

 切っ先を向けられた人々の頬を灼熱の炎が撫でる。のたうち回る民を前にジュナの戦意は儚くも砕け散ってしまった。

 「や、やめてください! 貴女はなんとも思わないの!?」

 「当然でしょ。敵国に与する人間がどうなろうと微塵も思わない」

 ティータの鋭い眼光が示している。

 逆らえば『どうなるか』ということを。

 「お、お願いです。わたしはどうなっても構いません。で、ですから、この街に住まう方々には……これ以上はッ!」

 両手を広げ投降の意志を示したジュナは、数多もの狂気に晒されたのか力なくその場にくずおれてしまう。

 「ふぅん……つまらない女。一気にしらけちゃったじゃない」

 おもむろにジュナへと近づいたティータは、ジュナの首に手を掛けると、ティオキアの民に見せつけるようにその場で吊るし上げた。

 苦しさに呻くジュナの表情をひとしきり眺めると、声高らかに宣言する。

 「この時よりティオキアは、アギディスの軍門に下った!」

 アギディスの兵とティオキアの民。

 沸き起こる真逆の反応が、如実にこの争いの結果を物語っていた。

 「……こ、れで、皆の命、は……」

 「アハ、それはどうかしら。この場で死んだ方がましだったと思うかもしれないわよ? こいつらはアギディスの奴隷になるんだから」

 『奴隷』という言葉にびくりと身体を震わせる。

 「そ、んな……彼らは、人間です。物などでは、ありません……」

 「奴隷に成り下がった者はなぁ! 人ですらないんだよッ! 男は死ぬまで労働、女子供は慰み物だッ! そんなことも分からないなんて、平和ボケした巫女様だねぇ! アハハハハッ!」

 「ぇぅ……わたし、は……こんな……ァァア……」

 整った顔は苦悶に歪み、くしゃくしゃになった頬を涙が伝っていく。

 堰を切ったようにむせび泣くジュナの姿に、ティオキアの民もまた、大地を涙で濡らすのだった。

 ――ティオキアの民が次々に本国へ送られていく。そんな光景を、ジュナはただ眺めることしかできない。しかし、喪失に暮れる彼女をティータは容赦なく追い立てていく。

 「フフ、お前はあたしの奴隷だ。とびっきりの地獄をお前に味わわせてやる。来い!」

 「……」

 「やめろ! ジュナ様に危害は加えるな!」

 問答無用で引きずられていくジュナを守るようにして現れた青年。

 その背後には数人の男女が続き、口をそろえて抗議の声を上げていた。

 「あら、自殺志願者? ならばッ!」

 「もうやめてぇッ!」

 振り上げた大剣『ディアボロス』はそのままに、ティータは突如叫びを上げたジュナを見やる。その瞳には光が灯り、視線の先には先頭に立つ青年の姿。それだけで二人の関係を見出したティータは、目の前で殺してやろうかと剣を握る手に力を籠める。

 だが、その判断は唐突に閃いた考えによって否定された。

 「良いことを思いついたわ……。お前たちは皆、前線へ連れていく。こいつらの命運はお前次第で決まるよ、ジュナ?」

 とどのつまりは、彼らはジュナを縛り付けるための体のいい『人質』なのである。

 「わたしに、どうしろと言うのですか……」

 見上げた瞳には、邪悪な笑みを浮かべた少女が映る。

 ジュナは、本当に彼女が同じ巫女なのかと思わずにはいられなかった。

 「お前が戦場でルスラの邪教徒共を殺さなければ、躊躇った数だけこいつらは生きたまま斬り刻まれる」

 驚愕に見開かれた瞳は諦念にまみれ、消え入りそうな声で応じる。

 「……分かり、ました……」

 かくして『水の巫女ジュナ』もまた、運命の歯車のひとつとして組み込まれることとなった。

 夕焼けに染まるティオキアを残して……。

EPISODE4 四章:開戦「貴様らは、ここで根絶やしだッ! 信仰で腹が膨れる? 戦争が終わる? 滑稽だわ!」

 ティオキアを接収した後、アギディス軍はルスラへの侵攻を開始した。

 ティータ率いるアギディス軍三千は、肥沃なる大地を突き進む。何処までも続く稲畑を踏みにじって、軍馬は駆ける。

 ルスラ擁する『土の巫女ミァン』を殺し、すべてを奪うために。

 辿り着いた地にて迎え撃つは、アテリマ教徒が僧兵六千。

 猛る兵たちの先頭に立つティータは、居並ぶ教徒たちへと告げる。

 「ミァンを差し出せ! 要求を断れば、 貴様らの血と肉でこの街を飾り付けてやろう!」

 ティータの勧告に応じない教徒たちは各々の武器を掲げて抵抗の意志を示す。それを見て彼女は不敵な笑みを浮かべた。そうでなくては、と。

 「貴様らの命運は決まった! 奴らの喉元へ己が剣を突き立てろ! 奪い、殺し尽くせッ!」

 ティータの檄と共に、軍靴と蹄が大地を揺らす。

 ――今ここに、両軍が衝突した。

 「アハハハハッ! 死ね! 死ね! みんな死んでしまえ!」

 大剣を振り上げる度、上がる血しぶきと叫び。

 阿鼻叫喚の地獄と化した戦場に、死の山が築かれていく。

 声高らかに、唄い上げるように。

 ティータは昂る感情を剣に乗せ、教徒たちを蹂躙する。

 「ぎゃあッ! ミ、ミァン様……ッ!」

 「ミァン様ぁぁ! 私たちをぉぉお救いくださいぃぃ!」

 右を見ても左を見ても。

 教徒たちが口にするのは『ミァン様』ばかり。

 命の危機に晒されているというのに、何故彼らは彼女を慕うのだろうか。

 「ひぃッ! ミァ……様……」

 首を跳ねたこの女もだ。

 紡ぐのはミァンの名。

 ご機嫌だったティータの表情は、次第に昏い陰りを見せる。

 そして、瞬く間に烈火の如き激情が全身から沸き起こった。

 「……どいつもこいつもッ!! 自分より『ミァン』が大事だっていうの!? ふざけるなッ!!」

 視界に映った教徒をティータの炎が焼き尽くす。

 彼女はディアボロスを大地に突き刺し、狂ったように叫ぶ。

 「……なら、全員焼き尽くしてやる! 信仰だけで争いが終わらないってこと、分からせてやるよ!!」

 ティータの凶刃が一人、また一人と手に掛ける。

 このアテリマの虫けら共の血で、大地を満たすと言わんばかりに。

 歯向かう者も、逃げ惑う者も。

 女も子供もだ。

 ティータの前では皆等しく死を与えられる。

 「もう終わりか……つまらない……」

 気付いた頃には、街の広場は屍の山と滴り落ちる血で彩られていた。

 街を焼き尽くしていた炎も消え去り、死の静寂を祝福するように夜の帳が下りる。

 「あーあ。ディアボロスが……血塗れじゃない……」

 背をぐにゃりと反り、天に向かって嬌声を上げるティータ。

 ひとしきり笑った彼女は、思い出したように剣を拭った。

 「お前らの信じる『ミァン様』は助けに来てくれないのに、本当に滑稽ね! アハハハハハッ! ……ッ?」

 こだまする叫びに突如目眩を覚えた彼女は、呻き声を上げながら地に手を付いてしまう。

 しかし、そんな光景を目の当たりにしたというのに、アギディス兵たちは誰一人として彼女へ近寄ろうとはせず、ただ成り行きを眺めているだけだった。

 彼らはまだ気づいていなかったのである。彼女に抱いていた感情が、尊敬から恐怖へと移り変わっていたことに。

 彼らはティータの背後に、禍々しく嗤う悪魔の姿を思い描いていたのだ。

 「……ハハ、どうして皆あたしには無いものを持ってるのよ……どうして……悔しい……ミァン、ジュナ……お前たちはただ幸せを与えられて……愛されて……私に与えられた炎は……」

 アギディスを勝利へと導く英雄、不平等な世界に産み落とされたアギディスの民の唯一の希望なのに。

 少女の言葉は、ただ墨を落としたような空に消えていくのだった。

EPISODE5 五章:戦禍の傷痕「ねえ、何処にいるのミァン……お前の首を早くあたしにちょうだい!」

 ティータ率いるアギディス軍の侵攻速度は凄まじく、動きを封じるどころか足止めすることすらままならなかった。

 ルスラの肥沃な大地は、無慈悲な鉄によって踏み荒らされ、版図は次々と燃え上がっていく。

 この勢いは『土の巫女ミァン』を殺すまで止まらないと言わんばかりに。

 ティータは叫ぶ。

 アテリマの邪教徒共とその家族を、一人残らず殺せと。

 奴らは同胞ではないのだと。

 目を背ける者は殺す。態度で示す彼女に怯える兵たちは、その凶刃を無抵抗の民にも向けていく。

 そこに大義はあるのだろうか。

 もはやそれすらも彼らには分からない。

 恐怖に支配された身体は、己が命を守るために従っていた。

 逆らえば、あの白い肉の塊になるのは自分たちなのだと分かっているのだから――

 「ご報告いたします! ティータ様率いる先遣隊は、ルスラ中央区へ後一歩のところまで進軍しているとのこと!」

 破竹の勢いでルスラ陣営を喰い破っていくティータ。

 その報告を受けたアギディス陣営の上層部の面々は、下卑た笑みをより強くし満足げに語る。

 「素晴らしい。流石は我らが『火の巫女』だ」

 「このまま進軍すれば、目障りなルスラの制圧も夢ではない」

 「となると、早急に『土の巫女』を見つける必要があるな」

 「巫女をくびり殺し、国中を回り晒し物にしてくれよう。そして、」

 「「「我らアギディスに永遠なる富と豊穣が約束されるであろう」」」

 男たちの思惑は、ルスラを更なる地獄へと誘うのだった。

 この戦の先にあるのは何か。

 結末を知るものは誰もいない。

EPISODE6 六章:燃ゆる聖都「覚えておけ! お前の命を奪う者の名を! 刻み込め! ティータ・アヴェニアスの名を!」

 アギディス軍上層部の指示で、ルスラへの侵攻速度は更に増していく。

 ルスラに点在する豊かな村々は焼け落ち、そこへ息づいていたすべての生命はことごとく刈り取られていった。

 絡みつく灰と死の匂いと、耳にこびり付く断末魔の叫び。

 ティータに従う兵たちの眼には、もはや当初の輝きは微塵も残っていなかった。吹けば消し飛んでしまいそうな心持ちで、一行は次の戦地へと向かう。

 そんな中、ついにミァンの潜伏している街の情報が舞い込んだ。

 ――『聖都アレサンディア』に巫女の姿在りと。

 「アハハハハッ! ようやくだ、ようやくお前を殺せる!」

 直ぐさま聖都へと進路を向けるティータ。

 その視線は、憔悴しきった配下の者たちを見据えることはなく、ただひたすらに姿なきミァンへと注がれているのだった。

 ――聖都の守りは今まで制圧してきた村や都市とは比べ物にならなかったが、それはあくまでも人と人の対決においてである。

 対峙するのは『火の巫女ティータ・アヴェニアス』なのだ。

 彼女の両の手から放たれた赤黒い炎は、まるで生き物のようにうねり、猛り、進軍を阻むものを焼き払っていく。

 「さぁ! 早く出てきなさいミァン! さもないと、この都の人間すべて! 丸焼きにしちゃうから! アハハハハッ!」

 呼吸するのもはばかられる程に、焼け焦げた人の匂いが充満する戦場。

 そこで正気を保てる者など、ティータ以外にはいなかった。

 吐き気を催すほどの地獄絵図に、戦意を喪失したアテリマ教徒たちはあてもなく逃げ惑う。

 それすらも当然のように殺して回るティータ。そこへ、黒の肩掛けと大きな杖を持った少女が視界に入る。

 その少女こそが、ルスラの民の拠り所であり『土の巫女ミァン・テルスウラス』なのであった。

 「この感覚――あぁぁぁあぁ見つけたぁぁぁッ!」

 最愛の恋人に再会したかのように頬は紅潮し、年相応の表情を見せるティータ。対するミァンは、恐れとも憎しみともつかない顔を覗かせていた。

 「幸せだったでしょう……だから、すべてを奪ってあげるッ!!」

 身震いと共にミァンへと駆ける。

 ディアボロスの黒い刃がミァンへと迫るその瞬間。

 刃と刃がぶつかり合う音が響いた。

 見れば、ミァンを守るように男が立っているではないか。

 ティータに果敢にも立ち向かったのは、ミァンに付き従う男、エーディンだった。

 「ミァン様! 今のうちにお逃げください!」

 「駄目よ、エーディン! 貴方では万に一つも勝ち目は……っ!」

 「行けッ! 行くんだッ! 貴女はここで死んではならない!」

 ミァンはアテリマ教徒たちに囲まれながら、その場を立ち去っていく。

 「イヤッ! エーディンッ!」

 エーディンと呼ばれた男は、遠ざかっていくミァンを見届けると、ティータへ向き直る。

 「炎を操る悪魔め! やらせはしないぞッ!」

 裂帛の気合と共に斬りかかる。しかし、どれだけエーディンの身体が逞しかったとしても、巫女の力の前には及ばないのだ。

 「興覚めだわ……」

 エーディンの剣を易々と受け止めた彼女は、炎の力で剣を融解させてしまう。

 「……馬鹿なッ……この、化物め……!」

 武器を失い、恐怖に染まっていくエーディンの顔を、ティータは満足げに眺めている。愉悦に歪むその顔は捕食者のソレであった。

 「あの女の表情で気づいたわ。お前があの女にとってのなんであるのかを」

 「……ミ、ミァンさ……」

 言葉を告げる余裕もなく、男の首と体は永久に分かたれた。

 転がる頭を踏みつけ、ティータはあらん限りの声で叫ぶ。

 呪詛にも似た禍々しき声は、黒煙立ち上る空へと響き渡った。

 「ミァァァンッ! 覚えておけ! お前の命を奪う者の名を! 刻み込め! ティータ・アヴェニアスの名を!」

 皆、愛する者に囲まれ、自分のその名を受け入れてもらえる……。

 人としても、巫女としても、それを許されなかったティータの心には憎しみの業火が燃え盛っていた。

 遠くに見えたミァンの姿は消え、聖都はティータによって手当たり次第に燃やされていく。

 美しい街並みを誇っていた聖都の面影は微塵も残されてはいなかった。

 「……アイツはあたしには無いものをいくつも持っていた。許せない、許せない……」

 怒りの矛先を見失ったティータは途方に暮れる。

 そんな姿を見つけたアギディス兵は、彼女を気遣い恐る恐る声を掛けた。

 「ティ、ティータ様、お怪我はありませんか!?」

 「五月蠅いッ!」

 ばしゃりと大地に新たな染みが広がる。

 嫉妬に狂うティータには、もはや敵も味方も関係なくなっていた。

 「ミァン、何処へ逃げても無駄よ。必ず追いついて、お前もお前を信じる者もみーんなみんな、奪ってあげるからね……あたしが……この身体がすべてを奪われた時のように……ッ!」

 業火に包まれた『聖都アレサンディア』は一夜にして、栄光ある歴史と共に灰塵と帰した。

 そして、ティータが撒き散らす厄災の炎は、最後の拠点へと迫ろうとしていた。

EPISODE7 七章:すべてが決する日「今日はルスラ教国が亡ぶ記念すべき日。これを成せば、あたしはアギディスの英雄になるの」

 ミァンを取り逃がしたティータは、怒りの感情を原動力に突き進む。

 向かうは、ルスラが誇る堅牢なる都『城塞都市アンシエタ』。

 この街は、丘に作られた大聖堂を囲むようにして壁が立ち並び、ひとつの巨大な都市を形成した難攻不落の要塞である。

 ここを攻め落とされれば、ルスラには間違いなく滅びが訪れるであろう。

 歴史の転換点を前にして、アギディスは援軍を送ると共に決着を急ぐ。

 もたもたすれば、四方からの挟撃に晒されてしまうからだ。

 侵攻を開始するティータたちを待っていたのは、苛烈を極めるルスラからの抵抗。死に物狂いで襲いかかる教徒たちのしぶとさと、傾斜のついた坂は進軍を困難なものにしていた。

 更には、壁の上部から放たれる矢と鉄球が兵の集中力を著しく阻害する。

 しかし、阿鼻叫喚の戦場にも関わらず、ティータはただ一人嗤っていた。

 じゃらじゃらと耳障りに響く音と共に。

 それは、全身を鎖で拘束された『水の巫女ジュナ』だった。

 「ふぅん……『城塞』なんて名が付くだけはあるのね」

 「仲間が次々と死んでいるのに、それでもまだ侵攻を続けるつもりですか? 貴女はどうしてそこまで……」

 「それが『炎の巫女』の役割だからよ。あたしはルスラ侵略に欠かせない、アギディス軍に必要とされているの。それ以上の理由がある!?」

 烏が群がる死体に、焼け落ちた数々の街。

 すべてを滅ぼした後で、本当にアギディスは豊かになるというのだろうか。

 何処かうつろな視線を向ける少女には、ジュナの言葉が届くことはなかった。

 「ねぇ、貴女も散々命を奪ったはずなのに、どうしてまだそんな世迷言が言えるの……?」

 「そ、それは貴女の命令で……ッ」

 ティータは「足りないか……」と告げ、こう続けた。

 「ねぇ、この街の市民を皆殺しにしてくれない? 殺してきたら貴女の大切な人質を解放してあげる。もうたくさん殺したんだからさぁ、できるでしょ?」

 買物にでも行けと言わんばかりの軽さで。

 「この街を落とせば戦争は終わり。そうすれば、あなたは救われる。楽になれるのよ。アハハハハッ!」

 まくし立てるティータは、剣をジュナの従者たちへと向ける。

 想い人を切先に捉えられては、逆らうことなどできはしない。

 こみ上げる吐き気に耐えながら、ジュナは頷くことしかできなかった。

 「聖堂を攻め落としたら結果を見に来るから。精々頑張りなさい?」

 捨て台詞を残し、ティータは従者を引き連れて前線へと向かう。

 哀しみに打ち震えるジュナは、重い足取りのまま広場を目指すのだった。

EPISODE8 八章:決壊「奪え! 殺せ! 邪教徒どもを根絶やしにしろ! それができないと言うのなら、この場で殺してやる!」

 アンシエタの聖堂要塞へ至るには、延々と続く一本道を進まなければならない。しかし、壁の隙間から繰り返される不意打ちによりアギディス軍は周囲にも気を配らなければならず、高い集中力を維持しながら進まねばならなかった。

 それは非常に負担のかかるもので、アギディス軍がいかに屈強であったとしても、彼らの心を折るには十分なのである。

 何処までも同じ景色が続く坂道に、兵士たちはすでに疲労を隠すこともできず、戦意を失った者から脱落し始めていた。

 「こんな要塞を俺たちだけで攻め落とすなんて、無理な話だったんだ!」

 「もう駄目だ、もっと援軍が必要だ。囲んでさえいれば、奴らは逃げ出すこともできないはず!」

 そう言って、戦線を離脱しようとした兵士たち。

 だが、彼らが二度と復帰することはなかった。

 突如として出現した炎の塊を受け、彼らは一瞬にして消し炭と化していく。

 「なんて無様な。奪え! 殺せ! 邪教徒どもを根絶やしにしろ! それができないと言うのなら、この場であたしが殺してやる!」

 その宣言と、目の前で黒焦げになった同胞の死を目の当たりにした兵たちは、恐怖に突き動かされ。

 そして、誰ともなく叫ぶのだった。

 「ふ、ふざけるな、化物め! 誰がお前についていくものか!」

 「そうだ! 俺たちはこの戦場から離脱する! お前を殺してでも!」

 一滴垂らされた恐怖は、瞬く間に伝播していく。

 次々と反抗の声を上げていく兵士たち。

 当然、そんな状況を良しとしないティータは怒りを露わにして怒鳴り散らす。

 「何故……!? ルスラを滅ぼし幸せを奪う事こそ勝利ッ! そのためにお前たちは焼き尽くしてきたはずだ、巫女と共に!」

 ティータの脳裏に、かの日に蹂躙され焼き尽くされた村と、ニィッと笑った女の姿が浮かび上がる。アギディスのために戦い続けた、かつての巫女の姿……。

 「貴様らは……またあたしから何もかも奪おうって言うのッ!?」

 その表情は、悲しみと怒りをない交ぜにした苦悶に満ちたものだった。

 「誰もあたしを受け入れない……誰もあたしを愛してくれない。お前達……身勝手な人間共っ! なら、何もかも燃え尽きてしまえばいい。皆殺しにすればいいんだッ!!」

 両国の最大の敵は、目の前に立ちはだかる炎の巫女へと変化した。

EPISODE9 九章:運命の矢「あたしが信じられるのはこの力だけ。他にはなんにもない。だから、奪うしかないんだッ!」

 戦いの行方を左右するほどの変化が生じた。

 感情のままに、敵味方問わずに破壊の限りを尽くすティータの姿。

 次々とその手で同胞たちを葬り去る様は、アテリマ教徒たちにとっても不可思議な事態として捉えられていた。

 「今が反撃する絶好の機会! 同胞の命を奪ったあの炎の巫女に、裁きを下す!」

 「オォォッ!!」

 続々とティータの下へ殺到するアテリマ教徒たち。

 歴代の巫女たちの怒り、悲しみに支配され、もはやまともな判断力を保てなくなっていたティータは、ただ目の前に立ち塞がる人間を殺すことしかできなかった。

 殺戮機械と成り果てた少女は、金切り声を上げながらがむしゃらに大剣を振るう。

 「アァァァァッ!! お前も! お前たちも! あたしを敵だと決めつけるのかァァァッ!!」

 ……なら、燃え尽きてしまえば!

 放たれた炎が細い道を駆け抜け、先頭を進む教徒たちはたちまち塵へと変わる。

 驚異的な力を目にしても、教徒たちは突き進む。

 アギディス兵たちもまた、同胞の屍を乗り越え目標へと走る。

 『巫女を殺す』という感情に突き動かされた彼らは、巫女への恐怖心を捨て去っていた。

 「「死ねェェェッ!!!」」

 「無駄なッ! 爆ぜろッ!!」

 兵たちが雪崩れ込んだ矢先、ティータを中心にして爆発が巻き起こり、それによって発生した熱風が彼らを物言わぬ死体へと変える。

 「アハハハハハッ! あたしにはこの力以外なんにもない。奪うしかないの……奪って奪って、うばってウバッテ……」

 けぶる視界にも構わず、ティータはひたむきに聖堂へと向かう。

 ずるりと引きずる足は鮮烈な赤に彩られている。兵士の剣が腹部に届き、勢いよく血が滴っていたのだ。

 「あの女を殺したら、あたしは……アタシ、ハ……英雄なのだろう……全てを……奪エ……ば……ッ!!」

 自然と口から零れるのは、自分を認めてほしい、自分を頼ってほしいという願い。その言葉は自分を慰めているようにも見えた。

 あと少しだ。ミァンを殺し、あの聖堂を制圧すればきっと願いは成就する。

 「今度、こそ、満たされ、テ……」

 その時、立ち込める煙を晴らすようにして、一本の矢が飛来した。

 それは正確に、少女の胸を貫いて――。

EPISODE10 十章:終焉の赤「どうしてあたしがこんな目に遭うの? あたしはただ、認めて……愛して、ほしくて……」

 「グッ……ァ……」

 運命の矢が、少女の胸に突き立った。

 歪む視界に平衡感覚を失ったティータは、呻くようにして地面に膝をつく。それが合図と言わんばかりに、歓喜の声が轟き空気を震わした。

 「届くッ! 届くぞッ! 俺たちでも巫女をやれるんだッ!!」

 「オォォッ!!」

 「殺せ! 殺せ! 殺せ!」

 渾然一体と化した戦場。

 増幅した狂気が充満する世界は、殺意にまみれていた。

 (どうして? どうしてあたしがこんな、こんな目に遭わなければいけないの? あたしは、ルスラを滅ぼして、アギディスに……勝利を……)

 やり切れない気持ちに頬を伝う涙は、流すそばから蒸発し掻き消えていく。

 ティータにはそれが、お前には泣くことすら許されない、と神が告げているように感じられた。

 眼前には血走った眼を向ける男たちが迫る。

 ……こいつらを、殺さなきゃ。

 どくどくと激しく脈打つ血管に、頭が沸騰しそうだ。

 どうしてこんなに、痛いんだろう。

 痛みに意識を奪われ、まともに集中することもままならない。

 痛い。痛い痛い痛い。いた、い……。

 見れば、身体中には無数の矢が突き刺さっていた。

 だがそれでも歩みは止めず、ティータは目標へと向かう。

 あの女だけでも、自分の手で殺めるのだと。

 「この化物めッ! 死ねぇぇぇッ!」

 叩き込まれた剣の衝撃でバランスを崩し、地面へと投げ出される。

 そこへ、全方位から飛来した剣がずぶりと身体に吸い込まれていく。

 腕は千切れ、片目も見えず。突かれひしゃげた鎧が軋むたびに、巻き込まれた肌が悲鳴をあげる。

 無限に続く痛みと苦しみ。

 近づく死に、ティータの脳裏を目まぐるしく記憶が奔る。

 それは精霊の記憶か、はたまた過去の巫女たちの記憶だったかは分からない。幾重にも重なるおびただしい程の少女たちの死に際の記憶に、ティータは精神すらも侵されていく。

 (これ……巫女たち……の……あたしは……)

 (……タス、ケ、テ……)

 喉を斬られ溢れ出た血によって、言葉は紡がれず。

 ただ、ごぽごぽと不快な音を立てる。

 (ハハハ、アハハハハハッ)

 (――狂ってるよ、こんな世界)

 振り下ろされた剣。

 混濁する意識の中で最期に彼女が見たのはなんだったのだろうか。

EPISODE11 十一章:終わる物語「人とは、なんと醜く傲慢で、浅はかなのだろうね。争いと混沌の歴史を何度繰り返せば気が済むのか」

 無数の刃に貫かれたティータは幾ばくかの後、完全に絶命した。

 その間際のことだ。

 巫女の死に沸いた戦場に、突如爆炎が巻き起こったのは。

 余りにも深い黒色をしたその炎は、瞬時にして兵たちを焼き尽くし、壁を溶かし、大地を抉り取っていく。

 その有り様を見届けるように。

 ティータ本来の魂と生命は、身体という檻から解き放たれ、炎と共に塵となり消えていく。

 そして、その傍らには数多の少女たち……かつての巫女たちの姿も共にあった。

 少女たちに受け継がれ戦う事を強要され狂っていってしまった精霊の力は、誰に宿ることなく霧散していった。

 ――巫女の死からしばらく経った頃。

 アギディスとルスラの争いは、皮肉にも『巫女の暴走と死』という事象によって、停戦協定を結ぶという方向で決着に向かおうとしていた。

 余りにも身勝手な話しではあるが、それが戦争というものなのだろう。

 幾多もの犠牲と哀しみを生み出した争いの時代は終わり、新たな時代が幕を開けようとしていた。

 業火に焼かれた街も、時とともに復興を遂げていくことだろう。

 激戦を繰り広げた『城塞都市アンシエタ』もまた、爪痕を残しつつもゆっくりと前へと向かうのだ。

 そんな中、焼け落ちた都市の片隅で、ひときわ大きな剣が打ち捨てられていた。

 禍々しくも鈍く光を放つそれは、かつて『火の巫女』と戦場を駆け巡った『ディアボロス』。

 血にまみれ、錆びついた剣の柄からは仄かに、本当に仄かな光が漏れていた。

 それは怒りのように、業火のように、地獄のように――赤く、朱く、紅く。

 その光の照らす先には少女が立っていた。灰を頭から被ったように病的な白い肌を覗かせる少女は、友人に語りかけるように言葉を紡ぐ。

 「人とは、なんと醜く傲慢で、浅はかなのだろうね。ひとたび交われば、そこに生まれるのは争いと混沌だけだというのに」

 そう告げて手をかざす。

 すると、赤い光は少女の中へ飲み込まれ、そのまま消えてしまった。

 瞬間、大剣は崩れ去り、土くれへと姿を変えていく。

 残された少女は不気味な笑みのまま、闇の中へと姿を沈めていくのだった。

EPISODE1 一章:巫女とアテリマ教「広大で豊かな大地であるルスラは、神が賜うたもの。私達は、神への感謝を決して忘れてはなりません」

 神の作り出した『箱庭』の世界。

 さらに神は、この世界に人間と、自然の力を持って世界に彩をもたらす精霊を産み落とした。

 精霊からの恩恵を受け、種と文化を進化させた人間。

 そして、人間と交わるうちに自我を持つようになった精霊。

 いつしか人間は、命を捧げることでその身体に精霊を宿すようになり、自然の代弁者たる『巫女<シビュラ>』を生み出すことを覚える。

 火、水、風、そして土の精霊を宿す4人の巫女は、世界の各地に分かれ、それぞれの土地を繁栄させていく。

 ルスラの地を守護する土の巫女、ミァン・テルスウラス。

 彼女は土の巫女ともうひとつの顔があった。それは“険しい自然の中を生き抜いた人々の前に現れ肥沃な大地を与えた”とされる、神ネフェシェを信仰する『アテリマ教』の指導者というものだった。

 土の精霊の力は、豊かな大地と安らぎを与える癒しの力。

 代々聡明な頭脳を持つ歴代の土の巫女と同じく、ミァンもまた教徒に癒しを与え、ルスラの発展と共にアテリマ教を導いていくのであった。

EPISODE2 二章:水の巫女は警告する「アギディスがルスラを狙っているだなんて……どうして他国を侵略するような野蛮なことを……!」

 アテリマ教国を象徴する、ルスラ最大の聖堂を有する『城塞都市アンシエタ』。

 アンシエタからほど近い、丘の上にある屋敷にミァンは居を構えていた。

 精霊をその身に宿す以前から、熱心なアテリマ信徒の貴族に生まれたミァンは、バルコニーから大聖堂を望むこの屋敷をいたく気に入っていた。

 「ミァン様。ティオキアより水の巫女、ジュナ様がお見えです」

 「もうそんな時間なのですね。分かりました、お通ししてください」

 侍女から来客の知らせを受け、ミァンの表情には喜びの色が浮かぶ。

 ルスラの端に位置する水の都ティオキアを守護するジュナ・サラキアは、ミァンと同じく精霊の力は人々のために使うべきもの、という考え方の心優しい巫女であった。

 そのためミァンとジュナは親交が厚く、同盟都市として歩調を合わせている。

 固い信頼関係で結ばれている二人だが、互いに多忙であるため接見回数はどうしても少ない。

 久しぶりにジュナに会えると、ミァンはこの日を楽しみにしていた。

 「ジュナ! 元気そうで何よりだわ」

 「そちらこそ。変わりないようで安心しました」

 「私たち巫女は歳を取らないから、変わらないのは当たり前だけどね」

 「うふふ。それもそうですね」

 貴族の生まれとはいっても、用意されているのは紅茶と小麦粉で作った簡単な菓子のみ。

 清貧を良しとするルスラの民にはこれで十分なのだ。

 ティーセットを囲みながら、二人の談笑は弾む。

 そのうち、話題が一区切りついたところで、「実は……」とジュナが重々しく口を開いた。

 その顔には、どことなく影が落ちている。

 「確実な情報ではなく、あくまで噂として聞いて欲しいのですが……北の国アギディスが火の巫女による扇動の元、ルスラへの侵略を企てているそうなのです」

 「アギディスが……かの国は各地でも侵略を繰り返しているけれど、ルスラを狙ってるなんて……」

 「それに、火の巫女とは先代を最後に長らく交流がありません。当代の巫女がどういう人物かも分からない以上、警戒するに越したことはありません」

 「そうね。こちらでも対策してみるわ」

 火の巫女を有する国アギディスは、資源の少ない乾ききった土地で、厳しい暮らしを強いられ続けている国だ。

 精霊の力を元に高い製鉄技術を資本に繁栄したが、いかんせん根本となる資源不足は解消できず、度々隣国へ侵略と略奪を行っている。

 ジュナからの知らせに何か嫌な胸騒ぎを感じたミァンは、早速アテリマ僧兵を密偵としてアギディスに送り込むのだった。

EPISODE3 三章:指揮官として「私に指揮官なんて、本当に務まるのかしら……でも私達は前に進むしかない。ルスラを守るために!」

 ミァンが偵察に向かわせた密偵がルスラへと帰ってきた。

 首から下を切り落とされ、頭だけの死体となって。

 その顔は恐怖で歪んだまま硬直し、瞳が入っているはずの眼窩には花が埋められている。

 「くっ……なんて……醜悪な行いを……!!」

 差出人が明記されていない包みに入れられた『それ』を見たミァンは、惨たらしい仕打ちに怒りに震えると共に、アギディスが宣告もなく問答無用でルスラへ侵攻を始めたことを知る。

 即座に大聖堂にて開かれた対策会議にて、アテリマ僧兵や教徒たちによる義勇軍が結成され、ミァンは指揮官として任命される。

 幼き頃よりあらゆる学問に精通し、兵学においても深い知識を有していたミァン。

 だが、ルスラ国内各地で繰り広げられる戦闘を指揮し奮闘するも、凄まじいアギディス軍の猛攻を前に手も足も出ず、敗戦を重ねることとなってしまう。

 指揮官としての責任を感じて塞ぎ込んでしまったミァンの頭を、エーディンという名の青年が優しく撫でる。

 彼は、ミァンが精霊と契約する以前から彼女を支えていた青年であった。

 幼少より共にいることが当たり前に育ってきた二人であったが、ミァンが巫女となる決意をしたことを機に、同じ時間を歩めなくなっても生涯を捧げると誓っていた。

 ミァンにとっては友人であり、親代わりであり、伴侶と呼べる存在だ。

 「なぜ……なぜこんなことに……? 私の作戦は決して間違っていなかったはずなのに……」

 「ミァン様……あまり落ち込みすぎるのも体に毒。貴女の作戦は悪くなかった」

 「ならどうしてっ!? たくさんの人が死んだわ! それも……あんな尊厳の欠片もない酷い殺され方で!」

 敗北したルスラ各地を蹂躙するアギディス軍の振る舞いは、あまりに目に余るものだった。

 家屋や施設を過剰なまでに破壊し、あらゆる金品や食料を略奪する。

 女子供は慰み者とされ、残された男は兵士の娯楽としていたずらに殺されていった。

 「みんな、事切れる前に私を呼ぶの。それなのに、私は何もしてあげられなかった……」

 「ミァン様……」

 怯えるように震えるミァンをエーディンは強く抱きしめた。

「大丈夫です」と繰り返し言い聞かせながら、子供をあやすように慰める。

 次第に落ち着きを取り戻したミァンは立ち上がると、拳を握りしめた。

 「そうね。ルスラにはまだまだ多くの民がいる。彼らを守るためにも、先に進まないと」

 「はい。まずは敗戦地から撤退した教徒たちをどうするかですが……」

 「一刻も早くアンシエタへと向かわせるわ。守りの固いところで傷を癒してもらいましょう」

 「ふふっ……やっとミァン様らしくなりましたね」

 「エーディンのおかげね。私が迷ったら……また慰めてくれる?」

 「もちろんです」

 誰もいない小さなアテリマ教会で、口づけを交わす二人。

 この時の二人はまだ、アギディス軍を追い返し平和なルスラを再び取り戻せると、そう信じて疑っていなかった。

EPISODE4 四章:戦場を覆う邪悪な炎「火の巫女ティータの強大な炎……彼女がいる限り、私達は勝てないのかもしれない……」

 「5名ほどの少人数で編成した部隊で行動してください。アギディス軍は谷から登ってきます。弓射と補給を常に入れ替えながら迎撃するのです。ここは我々ルスラの地。地の利を知り尽くした我らなら必ず勝てるはずです!!」

 「おおー!! 神ネフェシェと聖女ミァン様の御心のままに!!」

 信徒達の雄叫びがこだまする中、ミァンはもう一度作戦を振り返っていた。

 峡谷を渡す大きな橋。アンシエタに侵攻するには必ずここを通るしかない。

 ミァンはこの橋の一部をあえて崩し、通行ができないようにしていた。

 必然的に、アギディス軍は自力で河を渡り、谷を登らなくてはならない。

 相手がひとかたまりになり、進軍が停滞しているところを狙って一網打尽にしようという作戦であった。

 そして、決行の時がやってくる。

 予定通り足場の悪い谷から登ってくるアギディス軍を、高所から待ち構えていたアテリマ教徒たちからの弓射攻撃が猛威を振るう。

 阿鼻叫喚のアギディス軍からは、完全撤退を決める部隊も続々と現れ、ミァンのいる谷から少し離れた司令所は作戦成功の機運が高まり色めきだっていた。

 「やはり地の利を活かしたことが功を奏したようですね。この勢いなら……このまま押し切れるかもしれない……!」

 単眼鏡で戦地を見ていたミァンは、思わず笑顔を見せる。

 だが、しばらくすると何やら不穏な空気が漂い始めたことを感じ取った。

 「教徒たちの様子が……何かおかしい」

 弓を構えたまま動きを止めていた教徒たちは、突然谷底から噴き出した炎の柱に巻き込まれ、一瞬で灰となって消えた。

 前衛が崩れたのを見逃さないアギディス軍は一気に反転し、あっという間に崖を登りきってしまった。

 地上を制圧された教徒たちの連携はバラバラになり、一方的に惨殺されている。

 「あの炎は……まさか火の巫女!?」

 「ミァン様、作戦は失敗です! すぐにでも奴らがここに到着します! 撤退なさってください!」

 「で、でも……まだ峡谷では皆が……! それに、相手が巫女なら私の力が……!」

 「あなた様まで失う訳にはいかないのです! どうかここはお引きくださいませ!」

 「くっ……分かりました……」

 神官に促され、司令所を飛び出すミァン。

 ――どんなにヒトが抵抗しようと、全てを無に還してしまう……。私が持つ癒しの力に比べるとはるかに強大でまるで悪魔の様な破壊の力。かつての炎の巫女たち力は、あれほどのものではなかったはず……。

 あの凶悪な炎の力に……対抗することなんてできるの……?

 一度は好機を掴んだ戦いも、火の巫女の圧倒的な力により一瞬で戦況を覆されてしまった。

 それを目の当たりにしたミァンは、勝ち目など無いのかもしれないという不安に襲われるも、慌ててかぶりを振って霧散させる。

 ――私が未来を信じなくてどうするの。

 ルスラの民を導く巫女として、しっかりしなくちゃ。

 これ以上、犠牲を増やさないためにも……。

 ミァンは馬を駆り、峡谷を後にする。

 その耳には、遠く聞こえる教徒たちの悲鳴がこびりついていた。

EPISODE5 五章:聖都での休息「エーディン、あなたがいるから私は頑張れるの。話の続きは、今度ゆっくり聞かせてね」

 アギディス軍から追われるように戦闘を繰り返していたが、火の巫女の強大な力を前に抵抗することさえできず、各地の村や街は次々と陥落してしまっていた。

 後退するミァンが辿り着いたのは『聖都アレサンディア』。

 遥か昔、今では考えられないが、生まれて幾許も無いアテリマ教が『異教』と呼ばれていた時代。

 ここアレサンディアは、アテリマ教が生まれた地だと言い伝えられている。

 異教と呼ばれ迫害されるのを恐れ、人目につかないような森の奥地に作られた教会と街は、アンシエタほどではないが守りも固い。

 ミァンは、連日神経を張り詰めて作戦指揮を執っていたことに加え、不確定ではあるが友人である水の巫女ジュナが寝返ったという情報を耳にして頭を悩ませていた。

 体力も気力も限界が近いことを確信したミァンは、比較的安心できるこの地で短いながらも休息を取ることにした。

 「おお……聖女様の奇跡だ……! 痛みが引いていく……!」

 「あくまでも治癒能力を高めているだけです。無理をすると傷が開くので、気をつけてくださいね」

 「ありがとうございます……ミァン様に神のご加護があらんことを……」

 「あなたにも、神のご加護があらんことを」

 癒しを司る土の精霊の力を使い、アギディス軍の虐殺から逃げおおせたわずかな教徒たちの怪我を癒すミァン。

 急ごしらえの野外病院となっていた教会で、最後の患者の治療を終えたミァンのもとへ、今度は地元の子供たちが話しかける。

 「あのね、おねえさんが聖女ミァン様ってほんと?」

 「そう、私が土の巫女であるミァンよ」

 「わぁ、やっぱり本物だぁ! ねえねえ、ミァン様! ご本を読んで欲しいの!」

 「いいわよ。じゃあみんな、ここにお行儀よく座れるかな?」

 「はーい!」

 「よろしいっ。えーっと……昔々あるところに……」

 絵本を読み聞かせながら、ミァンは自身が安堵するのを感じていた。

 アテリマ教の聖女だと崇め奉られ、戦闘指揮を執っていながら、戦果をあげるどころか増え続ける犠牲。

 磨り減った心に、子供たちがもたらしてくれる“静かな日常”が、何よりもありがたかった。

 「ミァン様、ありがとう! また遊んでね!」

 「ええ、帰り道に気をつけてね」

 「はーい! ばいばーい!」

 陽も落ち始め人気もなくなった教会で、夕焼けの中に去っていく子供たちの背中へ手を振るミァン。

 しかし、子供たちのおかげで癒されはしたものの、所詮は一種の現実逃避に過ぎない。

 一瞬で現実に引き戻され、強烈な孤独感と無力感に陥ってしまう。

 そうやって落ち込むミァンのもとへ、エーディンがやってきた。

 「ここにいたのですか、ミァン様。どこか具合でも……」

 「いいえ、なんでもないわ……」

 「でも、震えていらっしゃいます」

 「寒くもないし、具合が悪いわけでもない。ただ、怖いのよ……」

 「ミァン様……」

 「みんなの前では強がって見せてるけれど、私だって本当はとても怖いわ! 私の指揮で……ルスラの民が非道なアギディスの軍勢にたくさん殺されてるのよ! もう……自分一人じゃ抱えきれない……」

 唯一心許せる相手にミァンは本心を吐露する。

 初めて思いを口にしたことで、堰を切ったように感情が溢れ出してしまう。

 エーディンはそんなミァンをいつものように抱きしめ、どこか強張った様子で口を開く。

 「私にできることは、巫女様を守ること……それと、こんなことくらいしか……」

 そう言って、抱擁を解く。

 すると、いつの間にかミァンの首には青く光る小さな石のついたペンダントが下げられていた。

 石は柔らかく、優しい光を纏っている。

 「これは……?」

 「私の生命と輝きを同調させた石です。気休めにもなりませんが、私の分身だと思っていただけたら。まあ、おもちゃみたいなものですけれどね。ははは」

 キザなことをしてしまったと、照れ笑いするエーディン。

 だが、その優しい気持ちは、ミァンへと真っ直ぐに刺さっていた。

 「そんなことない! 嬉しいわ、エーディン!」

 「喜んでもらえたなら光栄です」

 「そう……これがエーディンの命の光なのですね……とても綺麗……」

 「いつか、ミァン様の物も頂けますか」

 「もちろん! ふふっ、お揃いね」

 「そ、それと……いえ、なんでもありません」

 「うん……?」

 何か言いかけてやめたエーディンが気になるが、付き合いの長い間柄だからこそあまり深い詮索はしたくない。

 ミァンはまた今度話せばいいと思い、エーディンと共に教会を後にした。

 ――また今度。

 陽が昇ったらまた落ちるように。

 “また今度”が来ることが、当たり前だと錯覚しながら。

EPISODE6 六章:散る命の光「アギディスの軍勢にも、火の巫女にだって……エーディンは負けない。必ず帰ってくるはず」

 火の巫女ティータ率いるアギディスの軍勢は、予想を遥かに超えるものだった。

 アレサンディア外周には少なくない僧兵が防衛にあたっていたにも関わらず、その役目を果たせたものはいない。

 火の巫女ティータによる赤黒い炎の前では、人間の力など塵ほどの価値しかなく、一人残らず焼き尽くされていた。

 「アハハッ! アハハハハッッ!!」

 金属音のような不快な笑い声をあげながら、悪意の炎をアレサンディア中にばら撒くティータ。

 家屋の燃える黒煙と共に、肉の焼ける匂いが鼻を突く。

 これまでも狂人が如く殺戮を繰り返してきたティータであったが、街をひとつ丸ごと潰さん勢いで火にかけるのは、理由があった。

 「出て来なさいミァンッ!! 早く出てこないと、全員焼け死ぬわよォッ!? アハハハハッッ!!!」

 ティータの狙いはミァンであった。

 ルスラ侵略において一番の脅威となるのは巫女の力であり、命を狙うのは当然だ。

 しかし、それにしてもティータの様子は異常だ。

 ミァンの名前を何度も叫び、笑ったり怒ったりと情緒不安定。

 別れた恋人を殺しに来たような、どこか偏執的な歪みに溢れている。

 望まれているのが自身だと知ったミァンは、少しの間思考する。

 自負するしないに関わらず、自身がアテリマ教徒にとって希望であること。

 だが、ティータの目的はミァンであり、自分さえ出て行けば皆が助かるかもしれない可能性があること。

 天秤にかけるまでもなく、ミァンは教会の古い退避壕から抜け出し、燃え盛るアレサンディアの街に姿を現した。

 「この感覚――あぁぁぁあぁ見つけたぁぁぁッ!」

 巫女に宿る精霊を感覚で嗅ぎつけたティータは、巨大な剣ディアボロスを構えてミァンを狙って駆ける。

 なんとかその刃を受け止めるべく、大地の理を変容させ、盾となる壁を作り出そうとしたその時。

 ミァンの眼前でディアボロスを受け止める男がいた。

 ディアボロスに比べ、遥かに細く小さな剣で受けながら、エーディンは叫ぶ。

 「ミァン様! 今のうちにお逃げください!」

 「駄目よ、エーディン! 貴方では万に一つも勝ち目は……っ!」

 「行けッ! 行くんだッ! 貴女はここで死んではならない!」

 ――なんてことを……!

 巫女の力、特に炎の巫女に人間が立ち向かうなんて無謀すぎるわ!

 急いで加勢しようとミァンが身構えた瞬間、数人のアテリマ教徒たちに囲まれてしまう。

 ミァンを戦地から逃がすため、身体の自由を奪って連行しようとしている。

 「ミァン様! 彼の勇気を無駄にしてはなりません!!」

 「イヤッ! エーディィィンッ!」

 必死の抵抗と叫びも虚しく、エーディンの姿はどんどん遠ざかる。

 それが見えなくなる最後の時、ミァンの目には彼が笑ったように見えた。

 半ば無理やり馬に乗せられたミァンは、アレサンディアから離れていく。

 泣き疲れた子供のようにグッタリとしながら、その手にはエーディンに貰ったペンダントが握られている。

 ――きっと大丈夫よ。

 上手に逃げて、隠れて、火の巫女を巻いたら照れ臭そうに帰ってくるに違いないわ。

 そうに決まってる。

 ミァンは両手で包み込むようにして中を覗くと、ペンダントは青白く光っているのが見えた。

 ――ほら、彼は生きてる。

 この光はエーディンの命の光。

 輝きがある限りはきっと……

 そうやって、まるで祈るように何度も何度もミァンは自分に言い聞かせる。

 だが、その願いは叶わない。

 手中の光は突然輝きを失ったと思うと、音もなく砕け散った。

EPISODE7 七章:祈りと呪い「ついにアンシエタまで追い込まれてしまった。きっとここが、最後の戦場になる」

 エーディンがその身を挺したこともあり、アレサンディアより脱出したミァンや一部のアテリマ教徒は、城塞都市アンシエタへと帰還することに成功した。

 帰還と言うと聞こえはいいが、アテリマ教大聖堂のあるアンシエタは、いわばルスラの心臓部であり、後が無いほど“追い込まれてしまった”と認識したほうが正しい。

 ルスラという国の存在を左右するその瞬間は、もう眼前に迫っている。

 大聖堂の中の一室を充てがわれ、ベッドに横たわるミァン。

 意外にも、ミァンはエーディンの死を受け入れていた。

 ミァンとて希望的観測でティータの力量を見誤りはしない。

 あの場にエーディンを残した時点で、決して生きては帰れないだろうということは分かっていたのだ。

 ただし、受け入れることと無かったことにするのは別の話だ。

 彼を失ったことで嘆き、悲しみ、心を深い深い沼の底へと落としてしまったミァンは、公務を執行する気力も失い、こうして抜け殻のようになっていた。

 ルスラ最大都市であるアンシエタは、未だ戦闘を行えるだけの僧兵や義勇軍を有しているが、市民のほとんどは戦う術を持たない一般人だ。

 戦況が芳しくないことは誰の目にも明らかで、不安や恐怖はあっという間に都市中に伝播していく。

 救いを求めるため、彼らが取った行動。

 それは、戦うべく武器を取ることでもなく、ルスラを捨てて逃げ出すことでもなく。

 ただ――祈ることだった。

 大聖堂に一斉に集まった市民たちは、口々に祈りの言葉を唱え続ける。

 アテリマ教が崇める豊穣神ネフェシェへ、そして聖女ミァンへと。

 命を、家族を、信仰を。

 救いたまえ、救いたまえ、救いたまえ。

 祈りの言葉はだんだんと大きく、やがて叫びのようになってアンシエタ内に響き渡る。

 敬虔なアテリマ教徒であるルスラの民にとって、それはごく自然な行動であり、正義である。

 だが、その祈りの対象であるミァンは、自身を見上げる民衆を大聖堂の上階から一瞥すると、カーテンを引いて再びベッドに潜り込んでしまった。

 今のミァンには、この民衆の叫びは呪詛にしか聞こえない。

 ――アギディス軍に殺された民も、エーディンも。

 誰も救われなかった。

 祈りは、何も救ってくれない。

 自身も敬虔なアテリマ教徒であったミァンは、信仰心と無力な現実の間で揺れ動いていた。

 「ミァン様ー! 今一度、その御姿を!」

 大聖堂前の民衆の叫びは、さらに熱を帯びて拡大していく。

 このままでは収拾がつかなくなると判断したミァンは、重たい体を起こし、バルコニーから姿を現した。

 口々に聖女の名前を呼ぶ声を諌めると、一度大きく息を吸ってからミァンは口を開いた。

 「アンシエタの民よ、聞きなさい! 我々アテリマの力を持ってアギディス軍と火の巫女ティータを打ち倒し、必ずや講和を結ぶことを約束しよう! 神ネフェシェの名の下に!!」

 もはや狂乱状態と呼べるほどの大歓声を背に、自室に戻ったミァンは力なく膝をつく。

 民衆に宣言した約束は到底叶うものではないことを、他ならぬミァン自身がよく分かっているからだ。

 ミァンはこれまで築いてきた自己の崩壊に心が付いていけず、激しい眩暈に苦しむのだった。

 ――そして数日後。

 土煙を巻き上げながら駆けるアギディス軍は、ついにアンシエタの街へと到達する。

 「ミァァァン……みーつけた……」

 獲物を見つけ、悦楽にひたった表情で舌なめずりするティータ。

 その目は、まっすぐに大聖堂を捉えていた。

EPISODE8 八章:無秩序な戦場「もう駄目……私の声は、誰の耳にも届かない……。このままじゃ、ルスラは負けてしまう……」

 戦力差は明らかだったにも関わらず、アギディス軍を相手にしたアテリマ教徒たちは予想外にも善戦していた。

 残されたルスラ最後の地だからなのか、それとも信仰心なのか。

 死に物狂いの抵抗はアギディス軍を大いに苦しめる。

 だが、それは教徒たちの動物的本能によるものであって、『作戦』ではなかった。

 ミァンの指揮に従うものはどこにもいない。

 非戦闘員は泣き喚きながら逃げ回り、アンシエタの街中は敵味方入り混じって阿鼻叫喚になっている。

 まさに統率や規律など欠片もない地獄絵図を眺めながら、ミァンは茫然とする。

 事実上、ミァンの役目は無くなった。

 ――巫女として、アテリマの聖女として、間違った選択はしていないはずなのに……。

 どうして何一つ上手くいかないの……っ!?

 必死で抵抗していた教徒たちもいつの間にか圧されている。

 いずれアンシエタも堕ちるだろう。

 「もうお終いだ! ルスラはここまでだ!」

 「おかあさーん! おかあさんどこー!?」

 「ミァン様ぁー! 我々は一体どうしたらいいのですかぁ!!」

 大聖堂に避難してきた民衆が、ミァンにすがりつく。

 それを支える力もなく、ミァンはその場にへたり込んでしまった。

 行動を起こさなくてはならないのは分かっているが、何をしたらいいのか思いつかない。

 激しい脱力感に襲われるミァンに、補佐をしていた教徒が耳打ちをしてきた。

 「ミァン様、戦闘音が少しずつこちらへ近づいております。このままではここも危ない。退避されたほうがよろしいかと」

 「そう、です……ね。戦況を見るに、仕方がないのかもしれません……」

 「大所帯での行動は目立ちます。まずはミァン様と我々が。後に民を退避させましょう」

 「なっ……!? 子供たちを残して先に自分が逃げるなどできません!」

 「ですが……」

 補佐との押し問答が続く。

 民を残して誰よりも早く逃げおおせるなど、何が聖女か、何が土の巫女か。

 この戦争において一つの戦果も挙げられていないミァンだが、人の上に立つものとしての矜持は通したい。

 むしろ、その矜持しかミァンには残されていない。

 何度目かの問答が交わされた後、ついに折れた補佐が打開策を出す。

 「分かりました。では、女性と子供を先に行かせたのち、ミァンさ――」

 その言葉は轟音にかき消される。

 アギディス軍の大砲部隊が放った砲弾が、大聖堂に命中していた。

EPISODE9 九章:アテリマ教の聖女「他に道はなかった……私は間違っていない……。それなのに、どんどん人が死んでいく……」

 「あ……ああ……そんな……」

 大聖堂に直撃した砲弾によって天井や壁などの崩落が発生し、避難していた多くの民が下敷きになっていた。

 補佐をしていた教徒を始め、ルスラの未来を嘆いていた男や、ミァンにすがりついていた女、そして親とはぐれた子供たちも。

 着弾点の近くにいた者の肉片は飛び散り、瓦礫の下にはうめき声と共に血液が広がっていく。

 生き残った民が必死に救助を試みているが、助かることはないだろう。

 ――私が……避難を躊躇ったからだ……。

 変な意地を張らずに迅速に行動していれば、きっとこんな風にはならなかった……。

 いつもいつもいつも。私の周りで人が死んでいく。

 私が判断して、私が行動するその先で……。

 ミァンの行動理念に悪意はまったくない。

 むしろ、聖女と呼ばれるにふさわしいほどの正義の持ち主である。

 だが“運命”が正義に必ず味方するかというと、残念ながらそうではない。

 幸も不幸も平等に万人へと配られる。

 ミァンは、不幸のカードをたまたま引き続けただけだ。

 とはいえ、精霊の力を操る巫女とて、精神力は普通の少女と同じである。

 これ以上この現実を受け止めるほどの度量を、残念ながらミァンは持ち合わせてはいない。

 「……こんなの耐えられないッ!! 私がルスラをどう導こうとしても、みんな死んでいくんだわ!! そういう運命なのよッ!!」

 「せ、聖女様にそんなことを言われたら……」

 「もう嫌……こんなところに居たくない!!」

 「ど、どちらへ向かわれるのです!?」

 思い通りにいかない葛藤、悲しみ、自責の念に潰されたミァンは、聖女としての自分を放棄した。

 どこに行くのかなど決めていない。とにかくここにいたくない。

 聖女とは思えぬ気弱な胸中を吐き出され、困惑する民を残し、ミァンは駆け出すのだった。

 だがその時、砲弾の命中を合図に突撃していたアギディス軍が、大聖堂に侵攻する。

 「捕虜などいらぬ! 皆殺しにしろッ!!」

 その言葉通り、避難していた民は虐殺されていく。

 女子供や老人、誰一人分け隔てなく。

 圧倒的な力の違いを理解しているからなのか、民たちは悲鳴もあげない。

 静かに黙ったまま、なすがままに殺されていく。

 ミァンはもはや自分が精霊の力を持った土の巫女ということも忘れ、放心状態でその惨状を眺めている。

 そこへ、大聖堂とは別の場所にいたアテリマ教徒が音もなく現れた。

 「ミァン様、裏に隠し通路がございます。奴らに見つかる前に、どうぞこちらへ」

 「……」

 教徒曰く、隠し通路を使ってアンシエタの外れに抜けた場所には隠れ家があり、決して多くはないが民も避難しているという。

 だが、ミァンは何も答えない。

 しびれを切らした教徒は、半ば引きずるようにミァンを連れて隠し通路へと向かう。

 ルスラを象徴する、城塞都市アンシエタ。

 その大都市が完全に炎に包まれたのは、それから間も無くのことであった。

EPISODE10 十章:信仰心「生まれてからこれまで、何万回も祈ったわ。だけど、神は何も救ってくれなかった」

 大聖堂から隠し通路を使ってアンシエタを脱出したミァンは、アテリマ教徒の隠れ家へと転がり込む。

 隠れ家とはいうが、小さな山に大きく横穴を掘っただけの原始的なもので、生きるための設備などない。

 その中には逃げおおせた民が20人ほど避難しており、思い思いの場所に腰掛けてうなだれている。

 教徒に連れられたミァンが中に入ると、その視線が一斉に集まる。

 民の虚ろな目からは、聖女への信仰心は感じられない。

 「聖女様……ご無事だったのですね。女子供や街を見捨てたなのなら、そりゃあ助かりもしましょう」

 アテリマ教徒とは思えない皮肉めいた言葉が飛ぶ。

 「ルスラがこんなことになったのも、どうやら聖女様のせいらしいじゃないですか……アギディスと何度も戦って、ただの一度も勝ったことがないなんて! こんな無能な“指揮官様”なんて聞いたことないね!」

 呆れるように笑う民は、唾を飛ばしながらミァンを非難する。

 その行いに、信仰の厚い教徒が怒りに立ち上がった。

 「貴様ぁ……」

 「へっ。何が聖女様だ。噂になってたんだぜ? 従者の一人と“デキてる”ってよ! 男を知ってる聖女なんて笑っちまうね!」

 「この……っ! 聖女様になんたる冒涜を……!」

 「いくらでも言ってやるよ! こいつはルスラを終わらせた大戦犯だってな!!」

 「……もう許せん。背教者は制裁する」

 教徒は問答無用で突然殴りつけた。

 そして、うめき声をあげて倒れる男に跨ると、近くに落ちていた岩を拾って顔面に叩きつける。

 何度も、何度も。

 他の避難民はぼんやりとそれを見ているだけで、一言も発さない。

 人間の顔面が潰れていく音だけが隠れ家に響いていた。

 そのうち、教徒が手を止めて立ち上がる。

 鼻骨と喉が潰れて気道が確保できないのか、ゴポッ、ゴポッと、およそ呼吸とは思えない音を発しながら痙攣している。

 呆気に取られていたミァンが慌てて駆け寄った時には、もう事切れていた。

 「ミァン様、大変申し訳ございません。有事でなかったら、生きるのが嫌になるほど拷問にかけてやったのですが」

 教徒はそう言うと、死体を蹴り飛ばした。

 男の血がわずかに跳ね、ミァンの頬に付着する。

 ――この人たちは狂ってる。

 国が無くなりそうなこんな時に、民同士で手を掛けるのが信仰だというの?

 アテリマ教はそんな教えを説いてなどいないはず。

 一体いつからこんなことに?

 私の知らないところで何かがおかしくなっていた?

 あれもこれも……もうどうでもいい。

 「……もういらない」

 「ミァン様……?」

 「もういらないって言ってるのよ。あなた達も、この国も」

 避難民たちは、何か信じられないものを目の当たりにしたような顔をして、静まり返ったままだ。

 ミァンはさらに続ける。

 「戦争なんてしたことないのよ。私に分かるはずがないじゃないッ! そのくせ勝手なことばかり言って、二言目には飽きもせずミァン様ミァン様ミァン様ミァン様。少しは自分で考えてみたらどう!?」

 「せ、聖女ともあろう人がなんてことを……」

 「私は土の巫女よ! 聖女になんてなった覚えはない!! あなた達が勝手にそう呼んでいるだけ……数えきれないほどたくさんの人が死んでるの! 聖女だとか信仰だとか、そんなものどうでもいいでしょう!!」

 制裁を行なった教徒は、信じていた聖女に裏切られたと、抜け殻のようになっている。

 そんなことは気にも留めず、ミァンは子供のように喚き続ける。

 ルスラの民へ、自身の生い立ちへ、不平不満は止まらない。

 ミァンの言葉は、普通の少女であれば至極真っ当なものだった。

 ただ、そう捉えるものは誰もいない。

 すでに不平不満で片付けられないほど、犠牲が大きすぎた。

 主張を聞いていた避難民の一人が不快そうに顔を歪めたと思うと、ゆっくりミァンへと近づいていく。

 そして、その顔を拳で殴り倒すと、首を絞めはじめた。

 何が起こったのか訳が分からず、目を白黒させているミァンに、涙混じりに怒りの言葉を吐く。

 「このクソガキ……ッ! お前の仕業でみんなを死なせておいて……今さら“やりたくなかった”だと? ふざけンじゃねぇッ!!」

 「あ……あ……」

 「巫女だ、聖女だっておだてられて、いい気になってなかったって言えんのかよッ!!」

 「ぐ、あぁ……」

 「自分が一番不幸だ、って顔しやがって……! こっちは家族全員殺されてンだッ!!」

 そう泣き叫びながら首にかけた指に力を込めると、ミァンの顔はさらに鬱血していく。

 本気で殺すつもりだと誰もが確信するが、止めるものはいない。

 ――私を『戦犯』と呼んでいた人……彼の言うことは正しいのかもしれない。

 罪を犯したものは必ず裁かれなくてはならない。

 それをルスラの民が下すのなら、私は甘んじて受け入れよう……。

 これが自分の運命なのだと、一度は覚悟を決めた。

 だが、薄れゆく意識の中で、ミァンは願う。

 願ってしまう。“生きたい”と――。

 そして、ミァンは“目を覚ます”。

 自分は死んだはずでは――不思議に思い、辺りを見回すと、何か植物のような物の太い蔓が隠れ家を埋めつくさんとする勢いで伸びていた。

 ミァンは、未だ朦朧とする意識の中、目を凝らす。

 そこには、締め付けられ窒息した者、身体ごと千切れた者、先ほどまで一緒にいた避難民達の死体が絡まっている。

 「私は……とんでもないことを……」

 その光景が何を意味しているのか、すぐに理解した。

 生きたいと願ってしまったからこその、無意識の行いか。

 ミァンは土の精霊の力を使い、ルスラの民に手を掛けてしまったのだ。

EPISODE11 十一章:罰を下す者「たとえ奇跡が起きてルスラを取り戻しても私はもう……私には戻れないから」

 ミァンは自分が殺めた民共の死体を隠れ家の隅に綺麗に並べ、寝かせていく。

 生者を扱うように、丁寧に、丁寧に。

 最後の一人を寝かせると、それらを前にしてその場に座り込んだ。

 ――土の精霊が司るのは、癒しの力。

 それなのに……私は癒すどころか、全てを壊してしまった。

 街も、国も、民も。

 私の歩く道には、必ず誰かの苦痛がつきまとう。

 不幸を撒き散らすこの罪人に、誰も罰を下せないのなら……自ら下そう。

 そう遠くない場所から、迫り来るアギディス軍勢の靴の音が聞こえる。

 いつかはこの隠れ家を見つけだすだろう。そして、囚えるか、辱めるか。

 だが、ミァンはその未来を選ばない。

 上着の中から懐刀を取り出したミァンは、鞘を抜いて逆手に持つ。

 そのまま一切の躊躇いを見せず、自身の胸に突き立てた。

 前のめりに倒れ、絶命するミァン。

 その姿は、まるで人々に深く赦しを請うようなものだった。

 力無く折れた顔が横を向き、空虚な瞳が地平の先を捉えていた。

 だが、暗く閉ざされたミァンの視界にはもう、国も、人も、何もかも映ることはない。

 ――この瞬間、ルスラという国は瓦解した。

 わずかに生き残った国民はアギディスの奴隷となり、尊厳も、信じる神も全て奪われるだろう。

 ミァン・テルスウラスという少女の名前が、国のために尽力した偉人として語られることも、ありはしないのだ。

 ――数刻後。

 土の精霊の餞別なのだろうか、不思議なことに死したミァンの身体は草花で覆い包まれている。

 そこへ、陶器のように白い肌をした少女が現れた。

 薄っすらと光を纏い、現実味を感じさせないその姿は、泣いているようで笑っているような、不思議な表情を浮かべている。

 その少女は、おもむろに小さな手を伸ばすと、ミァンを包む草花の一部を払う。

 中から現れた顔は、戦争がもたらした苦痛から解放されたように、穏やかな表情で目を閉じている。

 少女はミァンの頬を撫でると、誰に聞かせるでもなく口を開いた。

 「人の愚かさに気づかない者ほど……理想を信じてしまう。その先に待つのは、悲劇でしかないことも知らずに……」

 すると、ミァンの身体と土の精霊が鈍い光を放ち始める。

 そして、蝋燭のようにその光を何度か揺らめかせたと思うと、その身体ごとゆっくりと消えていった。

 少女の手には一輪の花。

 手を離すと、その花は風に乗って遠くの空へと飛んで行った。

 「いたぞ! 逃げ出したアテリマ教徒共だ!」

 「そんな死体はどうでもいい! 土の巫女はどこだ? 探せ! 探せーッ!!」

 アギディス兵が隠れ家へと雪崩れ込む。

 不思議な少女の姿は、もうどこにもなかった。

EPISODE1 一章:異質なる巫女

 この世界には、いつの頃からか『巫女<シビュラ>』という精霊と人を繋ぎ止める損な役割が生まれた。

 超常の力を行使することができる巫女は、人々から崇め敬われてきた。

 しかし、実際のところ巫女というのは人々の身勝手な欲望を成就させるための代物に過ぎない。

 戦争を煽るために矢面に立たされ、散々担ぎあげられ、旗色が悪くなれば巫女を生贄にして遁走する始末。

 まるで使い捨ての道具のようだ。人語を解する分、道具より巫女の方が扱いにくいんじゃないかとすら思う。

 アタシら『風の巫女』も、そうやって生涯を終えている者がほとんどだった。

 この大陸には格差に苦しむアギディスと富を享受するルスラの二つの国が存在する。

 アタシがいたのは格差の激しい国、アギディスだ。

 巫女の力を私利私欲のために使うあいつらに嫌気がさして、アタシと母さんは集落を離れる道を選択した。

 その結果、報復とばかりに集落は焼かれ消滅し、アタシと母さんは早々に懸賞金をかけられ追われる身となってしまったけど。

 ……実はアタシと母さんには秘密がある。

 それは、二人ともが『巫女』の力を有している、ということだ。母さんがアタシを産んだ時に、その力はすべて継承されたかに見えたけど、母さんにもわずかに残されている。

 そんな中、アタシ――シエロ・メ―ヴェと母さんは、巫女の力なんて必要ない安息の地を求めて、あてのない旅を続けている。

EPISODE2 二章:逃避の果てに

 旅を続けてからしばらく経ったある日のこと。

 アタシと母さんは『水の都ティオキア』という街に辿り着いた。

 水の豊かなこの街なら、二人だけでひっそりと暮らしていくことも可能だろう。

 「母さん、やっと安心して暮らせるね」

 「嬉しいわ、シエロ。貴女と一緒なら幸せよ」

 この時のアタシたちは……そう思っていた。

 街の外れにある馬小屋だった場所に住み着いた翌日。

 久しぶりに屋根つきの小屋で寝られると喜んでいたのも束の間、つんざくような悲鳴と唸り声によって、アタシの平穏は妨げられた。

 窓から辛うじて見えたのは、アギディスの兵士たちに蹂躙されている街の光景。

 「母さん、ここから逃げよう」

 「イヤ、どうして私がこんな目に……もうイヤよ!」

 「か、母さん……」

 母さんは度重なる逃亡生活に疲れ果てていて、集落にいた頃とは似ても似つかない人になってしまっていた。

 なんとかして、この街を脱出しなくては。

 でも、そんな願いは神様に届くこともない。

 アギディス兵たちは家屋に押し入って住人たちを捕らえ始めたのだ。

 「アイツら、何する気?」

 「フ、フフ……きっと奴隷よ。私もシエロも、もう人間じゃなくなる。私はあの頃に戻りたくない!」

 「母さん……」

 ブツブツと呟く母さんの姿に、アタシの心はわずかにざわつく。

 この状況で外へ出るのは自殺行為だ。

 でもそんなことを考えている内、突如小屋の扉を蹴破る音が響いた――

 「いけない、隠れなきゃ……!」

 急いで藁の中に身を隠す。

 荒々しく中を物色して回る男たちに、アタシは息を殺して消え去るのを待った。

 どれくらいの時間が経ったのかはわからない。けど、男たちはようやく探すのを諦めて戻っていく。

 ――これで、危機は去った。

 アタシは安堵のあまり、ホッと溜息をついて腰を下ろす。

 でも、思ってた以上に大きな音を立ててしまったみたいで。

 ガサリと鳴る音に男たちが振り返る。

 このままじゃ――母さんまで捕まってしまう。

 そう思うと身体は自然と動き、アタシは男たちの前へと躍り出ていた。

 「貴様ぁ、隠れてやがったなぁ?」

 近寄ってきた男たちが口々に何か言い合っている。

 「おい、こいつは集落の生き残りじゃないか?」

 「ああ。それによく見りゃかなりの上玉じゃねぇか。ヒヒッ、俺たちの奴隷としてこき使ってやるぜぇ」

 男たちはこれ見よがしに舌なめずりしてみせた。

 思わず眉根を寄せてしまうような、下衆で醜い笑い声。

 でもこんな奴ら、風の力を使えば一発だ!

 ……おかしい。

 手をかざして念じれば力を発揮できるはずなのにどうして!?

 「その手がどうかしたかぁ?」

 「ひッ! ち、近寄るな! イヤッ!」

 大の男たちに囲まれた恐怖とあの集落の想い出が蘇って、身体に力が入らない。そのせいでアタシは巫女の力を使うことができなかったのだ。

 「大人しくしてろ!」

 突如襲った衝撃に、アタシは床を転がって壁へと叩きつけられていた。

 思い切り腹を蹴られて、呼吸もままならない。

 「……ェ……ゴホッ……」

 薄れゆく意識の中、藁山の方へ視線を向ける。

 「おいおい、気ぃ失っちまったぞ? あんま傷つけんなよ……」

 「遅いか早いかの違いだろぉ? オラ、もたもたしてないで運ぶぞ」

 良かった。コイツら母さんには気付いてない。

 アタシは一緒に行けないけど、母さんだけは生きて。

EPISODE3 三章:孤独な旅路

 ガタ、ガタと細かい揺れを身体に感じる。

 徐々に回復していく意識に、ゆっくりとだけどあの時の記憶が蘇っていく。

 (そうだ……アタシ、アイツらに連れ去られ――痛ッ)

 不幸中の幸いとでも言うのか、馬小屋で負った痛みが強制的にアタシの意識を覚醒させてくれた。

 身体に感じる振動……おそらく今もアギディスへ向かって移動している最中なのだろう。

 膨れあがる苛立ちを押さえつけて、一刻も早くこの状況から抜け出す方法を考えた。

 手も足もギッチリ縛られているけど、これなら何とかなる。

 荷馬車の中に押し込まれていたせいか、奴らも中にはいない。

 強さを増してきた振動から、もうアギディスの山道へと差し掛かったのだろう。

 つまり――逃げるなら今しかない!

 アタシは意識を最大限集中させて力を開放する。

 発生させた小さな風の刃が縄を斬り裂く。

 同じように、自由になった手で足の方も。

 「仕返ししてやりたいけど、逃げるのが最優先」

 後方にアギディス兵がいないのを確認して、アタシは風の障壁を纏って飛び降りた。

 「ペッ……まだ力を操りきれてないか」

 口の中に砂が入ってしまって気持ち悪い。

 遠ざかっていく馬車には眼もくれず、アタシはティオキアに向かうことにした。

 ――すっかり夕暮れになってしまったけど、ようやく街が見えてくる。

 母さんに無事でいてほしい。はやる気持ちを抑えきれないまま、駆けて行く。あと少しだ。あと少しで――

 「……え? 何、これ……」

 『水の都』と呼ばれた街は、そのほとんどが燃え尽き破壊され、おびただしい程の『死』が充満していた。

 「ゥッ……オェ……ッ……母さ、ん……」

 こみ上げる吐き気に視界が歪む。

 むせび泣く声は、沈む夕日と共に夜闇に溶けていった。

EPISODE4 四章:蒼穹の短剣に誓う

 陽が昇ってから馬小屋の辺りを探してみたけど、そこに母さんの姿はなかった。

 ここに留まっていれば、いずれはアイツらに追われないとも限らない。

 「とりあえず、アギディスから離れよう」

 そう考え前に進もうとしたところで、ふとつま先に引っかかりを覚えた。

 そこに落ちていたのは、淡い光を帯びた短剣――『蒼穹のダガー』。

 「これ……母さんの……」

 この短剣は、アタシたち巫女が受け継いできたマジックアイテムだ。これを持つことで、風の力を補助することができる。

 母さんと逃げている際に、力の弱まった母さんに使ってもらっていたのだ。

 それがここに落ちているということは、母さんは、もう……。

 「……ッ」

 短剣を空へと掲げ、自分自身に言い聞かせる。

 「……アタシは一人で生きていく」

 それだけが、アタシの砕けかけた精神を繋ぐ支えになるんだ、と。

 母さんの分まで生きて、安息の地を探す。

 そう、決めたんだ。

 それから――アタシは、生きるためにできることはなんでもやった。

 逃げた先で寄った村では、畑や露店から盗みを働き、飢えを凌いだ。

 遭遇したアギディス兵や敵意を向けてきた奴は容赦なく殺した。

 この手は取り返しがつかない程に汚れている。

 だから、もう振り返ったりはしない。

EPISODE5 五章:同じ穴のムジナ

 『風の巫女』なんて役割、正直な話アタシにはどうでもいい。

 でもこの力はとっても便利で、生き抜くためにはもう欠かせないものになっていた。

 「待てェェェ! 泥棒猫ォォォ!」

 「パンのひとつやふたつッ! これでも喰らえ!」

 「うおッ!? ……ブェッ、ゲホッ……」

 力を使って巻き起こした砂嵐で、追ってきた店主を少しだけ撫でてやる。

 この力は使い方次第で簡単に人を殺せる。それでもそうしないのは、このパンの美味しさへのせめてもの感謝だ。

 ――アギディスから少しでも離れたかったアタシは、ティオキアの南東の方角へと向かって進んでいる。

 アギディスから逃げつつ、ルスラの辺境を進んでいくことが戦闘を避けるのにはちょうどいいと踏んだためだ。

 新たに訪れた街はそれなりに栄えていて、戦争の影響もほとんど無い。

 そんな中、無数のバラックで構成された貧民街はアタシみたいな『ワケ有り』が隠れるにはもってこいの場所だった。

 「ここまでくれば大丈夫」

 路地裏まで逃げたところで、座り込んで紙袋からパンを取り出す。

 焼き立てのパンが口の中で踊る。

 この瞬間が、アタシに生きている実感を与えてくれた。

 「……ふぅ、お腹一杯」

 寝床を探そうと腰を上げると、ふと視界の片隅で感じた動く気配。

 手を短剣に這わせながらバッと勢いよく振り向くと、そこには息も絶え絶えな少年が倒れていた。

 餓死寸前といった感じで、辛うじて口だけが動いている。

 可哀そうだなんて、気持ちはない。

 「……タス、ケ……」

 ただ、自分よりも歳下の子供に目の前で死なれるのが嫌だっただけ。

 本当に、それだけだ。

 「大丈夫? パン食べる?」

 「……ッ!」

 少年は血相を変え、勢いよくパンに噛りつく。

 その必死な姿に、アタシはいつのまにか微笑んでいた。

 笑ったのなんて、いつぶりだろう。

 「……お姉ちゃん、ありがと」

 「別にいいよ。あげたのはアタシだし」

 それから少し少年と話した。少年はフィンというらしい。聞けば、戦争で身よりを無くして一人で生きてきたそうだ。

 今日び、同じ境遇の者はごまんといる。それでもフィンに興味を持ってしまったのは、何処か親近感を覚えたから。

 歳相応とはいえない鋭い眼光……他の奴とは目つきがまるで違う。

 フィンは言おうとはしないが、それだけで修羅場をくぐり抜けて来たことが分かったのだ。

 だからといって、同情したりはしない。

 深入りして気にかけることは、足枷になるから。

 「じゃ、アタシはもう行くから」

 「……待って、行かないで」

 ほら来た。

 「待たない」

 「待って、待ってよ! せめてお礼だけでも!」

 「五月蠅いッ」

 思わず握る手に力が入って、その場で巫女の力を使ってしまう。

 突然の突風に吹き飛ばされた少年は、壁にぶつかり気を失った。

 「あっ……ゴメン……」

 傷つけたことは素直に申し訳ないと思う。

 手招いたのは自分自身。悪いのはアタシなんだ。

 ……この街からはしばらく離れよう。

 これ以上期待させるのは、お互いにとってよくないことなのだから。

EPISODE6 六章:偶然の再開

 フィンと出会った街を離れて、アタシは方々を彷徨い歩いた。

 アタシの肌はそんなに珍しいのだろうか。何かとちょっかいをかけてくる者に遭遇する。

 理由も聞かずに『処分』しちゃうから真偽は不明だけど、ひょっとしたらアギディスから賞金が賭けられているのかもしれない。

 アタシはただ、放っておいてほしいだけなのに――。

 今よりももっと先へ進まないと、この状況は変わらないのだろう。

 それには、眼前に広がるこの砂漠を越えておきたい。

 そのためには、大量の食糧と水が必要だ。

 そう思った矢先。

 「ギュゥゥ……」と、アタシのお腹が悲鳴を上げた。

 それと同時によぎるのは、あの時食べたパンの記憶。

 最後に、あのパンをもう一度食べておくのも悪くない。

 ――街へ戻って来たアタシは早々にパンを盗みだし、誰も来なさそうな廃墟で食事することにした。

 「ここに母さんがいれば……」

 「お姉ちゃん、見つけたよ」

 聞き覚えのある声が廃墟にこだました。

 見れば、初めて会った時からは別人……と思えるほどの笑みを浮かべたフィンが立っている。

 「フィン……? 久しぶり、よく分かったね。それに、その服……」

 ボロボロだったはずの亜麻布は、汚れひとつ無く、洗いたての綺麗さを保っている。

 その無機質なまでの白さが、アタシには少しだけむず痒かった。

 「パン屋さんのおじさんが騒いでたからね。今街から出てくのは大変だと思うよ? 憲兵たちも捜索に加わってるし」

 「パンに釣られて来たのは失敗だった……」

 「そう言わないで。折角お姉ちゃんに再会できたんだから、これも神様の思し召しだと思うよ」

 神様? フィンがそんないるかも分からない存在を信じるようになるなんて……。

 「だからさ、頃合いを見計らって街から出られるように、しばらく僕がお世話になってる教会に身を隠すといいよ。さすがに数日も見張ってることはないだろうし」

 「そう、だね……」

 「ようやく、あの時の恩を返せるよ」

 いまいち気乗りはしないけど、前にフィンを傷つけてしまった手前、無下に断る気にもなれない。

 「分かった、案内してくれる?」

 「まかせて。こっちだよお姉ちゃん」

 フィンに手を引かれるまま、廃墟を後にした。

EPISODE7 七章:ごちそう

 「ようこそ! 君がフィンの言っていた子かい? 会えて嬉しいよ!」

 「いらっしゃい! あの時フィンの命を救ってくれてありがとう!」

 『教会』に着いて早々、アタシはフィンの保護者である夫婦に手厚い歓迎を受けていた。

 教会から受けた印象は、病的なまでの白さ。

 澱みなく整然と並べなれた椅子や机に、至るところにあしらわれた花冠。

 すべてを白で着飾っている子供たち。

 妙な雰囲気を滲ませる住人たちは皆陶器のようで、貼りつけられた笑顔がその違和感を増幅させる。

 彼らはアテリマ教徒とも違う、別の何かだ。

 「フィンから色々話は聞いているよ。身よりが無いのなら、このままここで暮らすといい」

 「ええ、それが良いわ! 教祖様も喜ぶわね!」

 「い、いえ……お構いなく……」

 彼らは妙に押しつけがましく、居心地の悪さを感じる。

 やっぱり力を使ってでも街から出るんだった。

 「今日は世話になるけど、明日には街を出るので」

 「そうかい……じゃあ、腕によりをかけて御飯を作るから味わっていくといい」

 「ありがとう」

 「フィン、食事の準備をするから手伝いなさい。今日という日を心待ちにしていただろう?」

 呼びつけられたフィンはもの静かな笑顔でゆっくりとうなずく。

 「お姉ちゃん、また後でね」

 ――それからしばらくして、晩餐会が始まった。

 食卓には、鮮やかな赤の肉や彩豊かな野菜が並ぶ。

 年頃の子供ならそれだけで喜びそうなものだけど、彼らは皆一様に押し黙っている。まるで何かを待つように。

 そして、リーダー格の男はその光景を神妙な顔つきで眺めた後、祈りを捧げるように語った。

 「この世の生きとし生けるもの、すべての生命に祝福を。私たちの血肉となり、共に永遠を生きることに感謝を」

 「「いただきます!」」

 子供たちは食卓に並ぶ肉を行儀良く平らげる。

 いつの間にか彼らは笑顔に戻っていた。

 一人をのぞいては。

 「「ごちそうさまでした」」

 程なくして晩餐は終わり、みんな自分自身の食器を片付けていく。

 アタシもみんなに倣って食器を戻そうと手にかけたところで、

 「――ヴィカ。どうして、残しているのかな?」

 「……やっぱり、わたしには無理……」

 そう答えたのは、うまく笑えていなかった女の子。

 少女は、怯えあがり、歪な表情を覗かせていた。

 「また……貴女なの? ヴィカ」

 「ご、ごめんなさいっ。でもわたし、お肉は……」

 「客人の前でとんだ粗相を……よくないなぁ、ヴィカ」

 笑顔のまま、こっちへ近づいてくる。

 すっかり後ろに隠れてしまったヴィカは、泣きじゃくりながら許しを願っていた。

 「謝ってることだし、許し――」

 「これは私たちの問題ですッ! さぁ行きますよ」

 「やだ、やだッ!」

 突然の豹変に驚いている内に、ヴィカは部屋の奥へと消えていく。

 それを見ていたはずの他の子どもたちは表情を変えることなく、ただ笑っていた。

EPISODE8 八章:隔絶された世界

 夜。

 誰もが寝静まった頃に、アタシはそっと身を起こした。

 一刻も早く、この教会を抜け出す必要がある。

 この教会に入ってからある、まとわりつくような閉塞感。灯りに照らされていて気づきにくかったけど、教会には外へと繋がる道が一切用意されていない。外界から完全に切り離された世界だった。

 それは、信者の逃亡を阻止するかのように無慈悲に。

 「バカだな、アタシ……一人で生きるって決めたのにこんな……」

 そう言って少年の顔を思い浮かべる。

 あれからフィンと話す機会がなかったのが、少しだけ心残りだった……。

 アタシがいる部屋は奥まったところにあるため、足音を立てずに扉を少しだけ開けて外を確認する。

 廊下には灯りは無く、移動するには都合がいい。

 耳をそばだてても、特に物音は感じられなかった。

 気配を殺し、壁を背にゆっくりと進み、突き当たりの階段を降りていく。

 下の階にも灯りは見えない。皆寝ているのだろう。

 更に進み、晩御飯を食べた部屋を抜け、後はこの通路をまっすぐ行けば外へ出られるはず。

 慎重に進んでいくが、やはり罠もない。そのままあっけなく扉までたどり着いた。

 しかし、そこでアタシはようやく気が付く。

 扉には頑丈な鉄格子が嵌められていることに。

 罠や見張りなど、そもそも必要なかったのだ。

 「悪い子だねぇ。部屋を抜け出すなんて」

 「――ッ!?」

 突如背後から聞こえた声。

 それと同時に頭に衝撃が走り、アタシの意識は刈り取られた。

 「悪い子にはオシオキが必要だねぇ」

 灯りに照らし出された笑顔は、禍々しさに満ちていた。

EPISODE9 九章:深い愛情

 朦朧としていた意識が徐々に輪郭を帯びていく。

 それと同時に手から伝わる冷たい感覚は、ひとつの事実を告げていた。

 アタシは……鉄の檻の中にいる。

 これじゃ、風の力を使っても抜け出せない。

 蒼穹のダガーも奪われている。

 さっきの鉄格子といい、こちらのことを分かっているような対応だった。

 「起きたようだね」

 声のする方へ振り向くと、変わらぬ笑顔を見せる夫婦の姿があった。

 「あんたたち、何をしてるか分かってるの!?」

 「勿論だとも。折角私たちが寝床と食べ物を用意してあげたというのに……」

 「私たちの好意に対する侮辱だわ。部屋まで抜け出して……貴女は悪いことをしたのよ?」

 「このまま悪い子を外に返すわけにはいかない。私たちが責任を持って、君を良い方向へと導いてあげよう。そうすれば、私たちの愛に気付くことができるはずだからね」

 さっきから、何を言ってるんだ?

 こんなものが、本当に愛情だと思っているのか?

 これは、ただの虐待だ。

 「アタシが大人しく従うわけないでしょ?」

 「ふむ、これは相当に根深いね……」

 「私たちの愛を受け入れられないのなら、貴女もヴィカと同じ道をたどることになるわ」

 「どういうこと……?」

 彼らは満面の笑みで、歌い上げるように語った。

 「彼女は私たちが用意した物を残したの。それは私たちと一体となることを拒むということ」

 「教えを拒むものや悪い子はね、みんなで食べてあげることにしているんだ」

 食べる? ヴィカを?

 そういえば、さっきもヴィカは拒んでいた。あれは、まさか……。

 「君が食べたのはね、人間なんだ。君はすでに私たちと同じ存在になっているんだよ」

 「神に捧げると同時に罪を赦し、私たちの中で永遠を生きるのさ。素晴らしいだろう?」

 狂っている。歪んでいる。

 だからヴィカは怯えていたんだ。こうなるって分かっていたから。

 こみ上げる吐き気を抑えながら、アタシは叫んだ。

 「ふざけるなッ!」

 「おや? お気に召さなかったのかな。フィン君の肉は」

 胸を抉るようなその一言は、アタシにとどめを刺すのに十分だった。

 「うッ、オェッ――」

 「あらぁ、吐いちゃったの? お礼がしたいと身を捧げてくれたのに……かわいそうねぇ」

 それを聞いた瞬間、怒りは頂点に達する。

 アタシは風の巫女の力を全力で解き放っていた。

 爆ぜるように拡散した風の刃は、目の前にいた二人を切り刻む。

 「ギャァァァッ! い、痛いッ、何故こんな……!」

 「もう喋るな」

 パチンと指を弾いた瞬間、男の喉に赤い線が走り――勢いよく血をまき散らした。隣で喚き散らす女も、目障りだったから一緒にあの世へ送ってやった。

 「ハァ、ハァ……ごめん、ごめんね。フィン……アタシと出会わなければ、こんな……」

 「そうよ、シエロ。貴女がいけないの」

 この惨状には似つかわしくない、明るい声が室内に響く。

 その声を聴いた途端、アタシの身体を寒気が走った。

 子供の頃から聞いてきた声。絶対に間違えるはずがない。

 「母……さん……?」

 「久しぶりねぇシエロ。ここまで生きてこられるなんて思ってもみなかったわ」

 レースが編みこまれた純白のロ―ブに身を包み、花冠を乗せた母さんはどこか歪な笑みを浮かべていた。この『白』で統一された出で立ちはまさか。

 「母さんが、この教会の主……?」

 「ええそうよ。正確には私が乗っ取った、だけれど」

 「……い、いつからッ!?」

 「ティオキアを離れてすぐよ。フフ、巫女の力を見せただけで従順になったから実に簡単」

 続けて、母さんは思い出したように口を開いた。

 「そうそう、フィンの話を聞いた時は、嬉しかったわ。まさか私のところまで逃げてこれたなんて」

 それって、つまり。

 「じゃあ……もしかして、今までの追手たちも、母さんの差し金?」

 「ええ、そうよ。捕らえてここに閉じ込めておきたかったの」

 「そんなことしないで、最初からアタシのところに来ればよかったでしょ!」

 「イヤよ、そんなこと。この快適な生活を捨てたくないわ」

 母さんはすっかり豹変していた……。

 アタシの中の『母』というイメージが、バラバラに砕け散っていく。

 「って、それよりね、シエロ……貴女にお願いがあるのよ」

 嬉々として眼を輝かせ、

 「私のために死んでくれないかしら?」

 目の前にいる女は、確かにそう言った。

EPISODE10 十章:愛溢るる家族

 「私のために死んでくれないかしら?」

 いきなりのことに、アタシの頭は理解することを拒否している。

 今のアタシには、精一杯言葉をひねり出すことしかできなかった。

 「え? ……母さ、何言って……」

 ガチガチと歯が震えて、うまく言葉にできない。

 「貴女が死んでくれれば、精霊の力は私の中に還る。その力があれば、もう一度私は『風の巫女』として、より豊かで自由な生活を送れるのよ! だから私にくれないかしら、その力!」

 ……この女は、今まで私利私欲のために動いていたとでも言うのか。

 口を開くたびに、アタシの中の何かが音を立てて崩れていくのを感じる。母さんが言ってくれたことは、なんだったのだろう。

 「アタシと……いることが、幸せだって。そう、言ったじゃない」

 「ごめんねぇ。本当はいらなかったの。でも身籠った時はまだ奴隷で拒めなくて。すっごく痛かったんだから、感謝してほしいくらいだわ。あら、もしかして泣いてるの?」

 気付けば、大粒の涙が流れていた。

 拭っても拭っても、とめどなく涙が溢れてきて堪えることができない。

 「ぇぐ……ぅぁ……ァアァァ、アァァァァッ!!」

 「……ハァ、だから子供なんて持ちたくなかったのよね。自分だけ楽しんで。勝手に夢を見て。本当にイヤんなっちゃうわ。ねえ今度は私を楽しませてよ。この短剣でさっさと死んでくれる?」

 そう言って、蒼穹のダガーが投げ込まれた。

 アタシは生きるためになんでもやってきたっていうのに。

 生きるために人を殺すこともできないのか、このオンナは。

 「さぁシエロ。貴女も疲れたでしょう? そろそろお休みしたほうがいいわ。力を戻せば、私の中で永遠を生きられるのよ?」

 こんなことになってもアタシは、まだ母さんのことを何処かで信じてた。何処かで愛していたんだ。

 だって、産んでくれた人のことを嫌いになんて、なれないから。

 でも、もうアタシには分からない。アタシが見て来た世界は、母さんは、もういない。

 アハ、アハハ……バカみたい。

 なんのために生き抜いて、なんのために一緒に暮らしてたんだろう。

 一緒に笑い合って、一緒のお布団で寝ていたのもすべてアタシが描いた都合のいい幻だったんだ。

 アタシ、どこで間違えちゃったのかな?

 アタシ、どうすればよかったのかなぁ?

 もう、どうでもいいや。

 「母さん……アタシ、死ぬよ」

 「ほんと!? ああ嬉しい。これでより優雅な生活を送れるわ!」

 死を選んだアタシの前でも、母さんの瞳は、アタシのことなんて見てはいなかった。

 「……サヨナラ」

 アタシは短剣を、そっと胸に突き立てた。

 これはアタシなりの、世界との訣別。

 ああ、こんなことになるのなら――

 アタシなんて、生まれてこなければよかったんだ。

EPISODE11 十一章:風の流れ着く先

 死が近づき、アタシの中を走馬灯のように記憶が流れていく。

 記憶の海には、アタシだけじゃなく、これまでの精霊や巫女たちの記憶も混じり合っていて。

 この世界の成り立ちまで知ることができた。

 そして、遥か昔――『零の時代』の記憶が見せたのは、病的なまでに白い、真っ白な肌をした少女の姿。

 ああ、そうか。そういうことなんだね。

 このくだらない世界に、最初からアタシの逃げ場なんて無かったんだ。

 なんて、酷い。

 なんて、醜いのだろう。

 揺らめいていた生命の火が消え、アタシの魂は身体から切り離されていく。

 それと同時に、人肌のような生ぬるい風が舐め上げるように吹いた。

 「ひゃっ! なんなのよぉ、この風は。気持ち悪いったらない……あら? おかしいわね。シエロは死んだのに、全然力が戻らないわ?」

 その時、一瞬だけ世界が揺らめいた。

 眉根を寄せて困惑する中、母さんはアタシの前に立っている白い肌の少女に気が付いた。

 「お前にくれてやる力など無いよ。本来それは、私の物だからな」

 その少女は足音も無く、ゆるりゆるりと女に近寄っていく。

 「貴女誰よ? ていうかどこから……あ、ガッ……息、が……!?」

 「お前の力など絞りカスに過ぎないが、例外を見逃すわけにはいかない」

 女の首を締め上げた白い腕。

 それは蛇のように巻き付いていた。

 「……ァ……、タスケ……」

 「安心しろ、お前たち巫女にとっては死こそが救済なのだ」

 母さんは、羽をもがれた蝶のようにジタバタと蠢く。

 だが、その力は容赦なく逃げることもままならない。

 やがて、めきめきと音を立てながら母さんの首は潰れ、引きちぎられていく。

 鬱血した顔から紅い涙を流す様は、神に赦しを乞う信者そのものだった。

 白い少女は、物言わぬ死体から力を吸い取り、投げ捨てた。

 そして、アタシだったものへと語り掛ける。

 「生憎、現実から目をそむけ逃避し続けようとも、この世界に救いなどありはしないのだ。この失敗した世界には、ね」

 少女は蒼穹の短剣から煌めく光を吸い取り、いずこかへと消えた。

 どうやらアタシの魂も、消え失せる時間のようだ。

 ――最期に母さんを眺める。

 すると、一瞬だけ母さんと目が合ったような気がした。

 よかったね母さん。

 アタシたちずっと一緒だよ。
EPISODE1 一章:ティオキアの巫女「優しい民と、慎ましく暮らす毎日。これ以上の幸せなんて他にあるのでしょうか」

名前:ジュナ・サラキア

年齢:17歳付近

身分:水の巫女

所属:ティオキア

 ここは豊穣の都ティオキア。

 古来より他国からの干渉が少なく、

質の良い水源と土壌を豊富に有する平和なこの都市は、

別名『水の都』とも呼ばれています。

 この都は創造神イデアの『コトワリ』によって

もたらされた万物の中のひとつであり、

わたしが心から愛する大切な場所なのです。

 はるか昔、この世界は創造神イデアにより

『箱庭』として生み出されました。

 次に、世界に『希望』と『絶望』。

そして魂の容れ物である『人間』と、神の力を分けた

御魂である『精霊』を作りました。

 あらゆる生命や物質、事象や時の概念といったもの

まで、全ての始まりはイデアによるものだったのです。

 イデアの分身である精霊の力は強大なものです。

 いつしか人間はその力をお借りしようと、

自らの命を差し出します。

 そして、人間と混ざり合うことで

自我を得た精霊は、魂と人間の姿を手に入れました。

 ヒトの肉体と精霊の魂を持つそれは、

『巫女<シビュラ>』と呼ばれ、

長い長い歴史とともに崇め奉られます。

 その信仰は、今も続いています。

 ――わたしの名はジュナ・サラキア。

 ティオキアを守護する聖女であり、

水の精霊を宿す巫女。

 「ジュナ様、紅茶をお入れ致しますね」

 「あら、ありがとう。

でも、それくらいなら自分でやるので大丈夫ですよ」

 「い、いけません。巫女様にそんなこと……」

 「うふふ。そのお気持ちだけで十分です。

あなたは休んでいてください」

 「まあ……巫女様は本当にお優しい……」

 今日もティオキアには心地よい風が吹いています。

 この都は長く平和だったおかげか、

心の穏やかな人が多いのです。

 都をお守りくださる豊穣神ネフェシェのご加護の元、

多くを欲しがらず、必要な分だけ清貧に。

 そんな暮らしを守るこの都が、

わたしは本当に大好きです。

 ですが……最近、隣国であるアギディスが

よからぬ企てを図っているという噂を耳にしました。

 何か良くないことが起こりそうな、

そんな不安がわたしを襲うのです。

 ですが、ティオキアを守護する水の巫女として。

 どんな時でも……この都を守る覚悟はできています。

EPISODE2 二章:霊降の義「わたし達巫女は、精霊の『容れ物』に過ぎません。おかげで民が豊かになる。光栄なことなのです」

創造神イデアが生み出した世界、『箱庭』。

 当初、この世界は黒でも白でもない

『無』に覆われた虚空の空間であった。

 そこへ神は、自らの肉体を模した

『容れ物』である人間と、火や水、風や土といった

美しい自然を産む魂の分身である精霊を作り出した。

 精霊によってもたらされる自然の恵みの元で

人間は少しずつ増えていったが、その恵みは

全ての人間を養えるほどの力を持ってはいなかった。

 憐れな人間を不憫に思った神は自らの命と引き換えに

豊穣の大地を作り、優しき心を持った人々を選び、

そこへを招き入れたという。

 やがてその大地は、創造神イデアより遣わされた

人々を慈しむ神である豊穣神ネフェシェを崇める

アテリマ教を信仰する民が住まう地

『ルスラ』と呼ばれ繁栄する。

 その中でも自然の恵みの多い大地に造られたのが、

水の都ティオキアであった。

 しかし、さらなる恵みを欲するようになった人間は、

神の力を手に入れたいと願うようになる。

 ――霊降の儀。

 少女の命を捧げることでその身体に

精霊の魂を降ろし、神の模造品となる巫女に転生させる

という神事。

 これを確立したことで、自然を生み出す神にも

匹敵する力を手に入れることとなった。

 巫女の元、人間はさらなる隆盛を極める。

 それは同時に、信仰する精霊の能力によって

齎されるものの、格差が生まれた瞬間でもあった。

 人間は――否、世界はその姿を少しずつ歪めていく。

EPISODE3 三章:安寧を燃やす炎「無抵抗の者達に……ひどすぎる……平和で優しい、わたしの都が燃えていく……」

幼い少女を人身御供とし、その肉体に

精霊を降ろすことで生み出される巫女。

 こうして生まれた火、水、土、風の四人の巫女は

各地に散らばり、それぞれを崇める人間たちは

その力の恩恵を受けながら国を形作っていく。

 水の都ティオキアは、高い製鉄技術で強国となった

アギディスと、豊穣神を崇めるアテリマ教徒の

本土であるルスラに挟まれている。

 ティオキアは両国の橋渡し的役割を担いながら、

穏やかで優しい心を持った水の巫女の元、

清貧を心がけひっそりと暮らしていた。

 精霊は、『容れ物』である巫女の肉体を変えながら、

ヒトと共に長い歴史を紡ぐ。

 それぞれの大地を守ろうと共に歩んでいた

巫女たちだったが、ある時から火の巫女と風の巫女は

次第に表舞台へ姿を現さなくなっていった。

 長く紡がれた『箱庭』の歴史上、

これまで見られなかった小さな変化であった。

 これに共鳴するように、時同じくして

国と国の間で保たれていた力の均衡が崩れていく。

 脆弱な土地で貧困に喘ぐ鉄の国アギディスは、

豊かな土壌をルスラから略奪するべく侵攻を開始。

 それを皮切りに、国家間戦争が開戦した。

 「この街を制圧する!

アギディスの威光を示せッ!」

 燃えるような緋色の髪をまとった少女が、

鬨の声を上げた。

 兵士たちは怒号にも似た叫びで呼応すると、

一斉に水の都ティオキアへとなだれ込む。

 その手に、アギディス謹製の武器を携えながら。

 得意の製鉄技術を駆使したアギディス軍の

重装騎兵を前に、長く安寧を貪ったティオキアは

抵抗する手段を持たない。

 畑、家屋、教会、家畜、人。

 目に付くままに破壊され、蹂躙されていく。

 あちこちで火が放たれ、

もうどこから聞こえているのか分からないほどの悲鳴が

都を埋め尽くしている。

 近衛兵でもある数人の従者を連れて

最前線に飛び出したジュナは、

この光景にひどく胸を痛めながら、

両手を広げ暴虐を阻止しようと訴えた。

 「今すぐ戦いを中止なさいッ!

わたしは水の巫女、ジュナ・サラキアです!」

 他国とはいえ、強大な力を持つ巫女が

前線に現れたことにうろたえるアギディス兵の群れ。

 その中から、誰よりもこの戦場を

楽しんでいるかのような微笑を湛えた少女が

姿を見せた。緋色の髪をなびかせながら。

 精霊の力を感じ取ったジュナは、

その少女が火の巫女だということを一瞬で理解する。

 「貴方は、火の……!」

 「ご名答。あたしは火の巫女、

ティータ・アヴェニアス」

 姿をくらませていた火の精霊は新たな少女と契約し、

巫女へと転生させていた。

 元来闘争心の強い火の精霊ではあるが、

『容れ物』である少女の気性と共鳴したのか、

その表情には狂気が垣間見える。

 国家間戦争という大義名分の元、

殺戮を楽しんでいるティータ。

 やめてほしいと懇願するジュナを煽るかのように、

火の精霊の力を使い次々とティオキア民を

焼却していく。

 「ジ……ジュナ……さ、ま……」

 痛みと恐怖で泣き叫ぶ人間が、

造作無く殺されていく異常な光景。

 ジュナにすがりながらも事切れた民を抱きながら、

ジュナは涙を流した。

 ティータと真正面から戦うことはできる。

 だが、精霊の力がぶつかりあえば、ティオキアの民は

もちろんアギディスの兵士も無事では済まないだろう。

 ジュナは戦いを良しとしない。

 ティータがここまで狂気を孕んだのには

きっと理由がある。国家間のことも、どこかに和平への

道があるはずだ。

 心優しく、ヒトの善意を疑わない

『理想』を抱く水の巫女。

 だからこそ、ジュナは自分の意思で

ティータへ屈した。

 自分の身と引き換えにティオキアの民は

見逃してくれ、と。

 しかし、その思いが届くことはなかった。

 ――ティオキアの占領、及び民の奴隷化。

 そしてジュナは、アギディス軍と帯同し

前線でルスラの民を排除すること。

 譲歩にもなっていないティータからの提案。

 だが、民の命を握られている以上、

ジュナはこの提案を飲むしかなかった。

 そして、火の巫女は邪悪な笑みを浮かべて

こう付け加える。

 「お前が戦場で躊躇った分だけ、

奴隷どもは生きたままあたしに切り刻まれる。

それを忘れるなよ?」

EPISODE4 四章:戦争の駒「ルスラの人々を殺すなんて……そんなこと……でも、やらなければティオキアの民が……」

 「こんな非道な行い……あなたは間違っています!」

 「間違ってる……ねえ。

正しいか正しくないかを判断できるなんて、

あなたって随分偉いのね」

 軍に連行されたジュナは、

アギディス陣営の中心でティータを咎める。

 他国を顧みない強引な開戦、

そして侵攻する先々での残虐な行い。

 ジュナは無残にも殺されていった

ティオキアの民たちを思い出し、

苦しそうに目をつぶった。

 「もう一度考え直してくれませんか……?」

 「……」

 「大丈夫、罪は償えます。

豊穣神ネフェシェはあらゆるものをお許しに……」

 「――黙れ」

 その一言で話を遮ったティータの眼光は、

ぞくりとするほど冷たく鈍い。

 ジュナは思わず息を飲む。

 「自分の立場を忘れてなぁい?

あたしに説教なんてナメた真似は許さない」

 視線が定まらず、瞳孔の開ききった瞳で

怒りを露わにするティータ。

 「ここで殺してあげるのは簡単だけど、

これからあなたには殺戮兵器として

働いてもらわなくちゃいけないから、

手荒なことはしないでおいてあげる」

 「本当に、わたしにルスラ侵攻を……

ルスラの民を殺せというのですか……?」

 「やるやらないは自由よ?

まあ、やらなければティオキアの奴隷どもが

惨たらしく死ぬだけね」

 「……ッ!」

 「それまで牢獄で心構えでもしていなさぁい……。

連れて行け」

 ティータの合図を受けたアギディス兵が、

ジュナと、そして彼女の従者を縛り上げる。

 薄ら暗い道へ連行され、牢獄に押し込められると、

ガチャリと鍵のかけられる音がした。

 投獄されたジュナは、気が抜けたのか

冷たい石床にへなへなと座り込んでしまう。

 ティータに持ちかけられた取引条件が、

頭から離れない。

 ――わたしが……罪のない人を殺す……?

 それも、たくさんの……。

 水の巫女となってから、その力は人のため、

善行以外に使ったことがなかった。

 だが今、人質を餌に命を天秤にかけられた

ジュナの手には、血なまぐさい未来しか

残されていない。

 殺すのはティオキアの民か、ルスラの民か。

 絶望するジュナの前に、従者が跪いた。

 ジュナとは一回りほど歳の離れた風貌の青年は、

明るく努めて声をかける。

 「ジュナ様、私共がついております。

何も心配ありません。」

 「ギュスターブ……」

 巫女は精霊をその身に降ろした時点で

肉体の成長が固定される。

 なので歳は離れているように見えるが、

ギュスターブと呼ばれた従者は

ジュナの幼友達であった。

 「……ふふ。こんなところでまで畏まる必要は

ないですよ。昔みたいに話してください」

 「では……ジュナ。そんなに気を落とさないで」

 「でも、わたしが手を殺めなければ

ティオキアのみんなが殺されてしまうわ」

 「きっと大丈夫。ルスラも何か対策をしているさ。

それに、火の巫女も虚勢を張っているだけかも

しれない。水の巫女の力が自分に向けられたら、

ただじゃすまないことくらい分かっているだろう」

 「そう……そうですね……ありがとうギュスターブ」

 ――そう。どんな時だってギュスターブは

わたしの側にいて励ましてくれましたね。

 いくらティオキアが平和だといっても、

わたしの力を狙う輩は時々現れますが、

その度にギュスターブは身を呈して守ってくれて……。

 「あの……こんなときにする話じゃないとは

分かっていますが……」

 「うん? なんだい?」

 「……幼い頃からギュスターブはどんな分野でも

優秀でした。他にふさわしいお仕事もあるのに、

どうしてわたしの従者などになったのですか?」

 「それは……」

 言い淀むギュスターブに、

真っ直ぐな視線を向けるジュナ。

 普段のジュナには常に侍女などが

付いて回っていたため、二人きりになることは

久方ぶりのことだ。

 誤魔化すことはできないと覚悟したギュスターブは、

どこかバツの悪そうに話し出す。

 「ジュナの側で……君を守りたかったからさ。

勉学や剣術だって、どれもジュナのためにと思って

努力したんだ……」

 「……そうだったのですね。

わたし、あなたの気持ちがとても嬉しいです……」

 「ジュナ……」

 「ギュスターブ……」

 二人は手を取り合い、見つめ合う。

 立場のみならず、存在の理さえ違う二人。

 互いに直接言葉に出すことはなかったが、

気持ちが通じ合っていることは感じ取っていた。

 愛するものに励まされ、

ジュナは微かな希望を見出す。

 たとえそれが、ひと時の気休めであったとしても。

EPISODE5 五章:ルスラ侵攻「誰かを守るために、誰かを殺める……仕方ないのです……今はこうするしか……」

敬虔なアテリマ教徒による宗教国家ルスラ。

 広大な田園や草原が続く牧歌的な風景。

 ルスラが土の巫女の加護を受けていることで、

農耕に適した大地を有している証だ。

 その風景を踏み荒すかのように、

アギディス軍の騎兵隊は駆けていく。

 石門を構える砦までたどり着くと、

ゆうに五千は超えるアテリマ教徒の僧兵が

待ち構えていた。

 ティータの号令により砦へと進軍する

アギディス軍の手で、ティオキアと同じく

アテリマ教徒たちは蹂躙されていく。

 だが、ほとんど戦う術を持たないティオキアの民とは

違い、反撃を受けて傷つくアギディスの兵士もいた。

 剣で、斧で、弓矢で。傷つけ傷つき合う本物の戦場。

 多数の人間が目を剥き、獣のように殺意を

ぶつけあう様は、戦を経験したことのないジュナには

あまりにも凄惨な光景だった。

 自身も大剣を手に取り、遊びの一環とばかりに

アテリマ教徒を斬り伏せていたティータが、

ジュナを呼ぶ。

 「ほらほら! あなたの出番よぉ?

何を突っ立っているのかしら?」

 「こんな……こんなひどいこと……

人を殺すなんてわたしには……」

 「はぁ。本当に呆れるわね。

あんなに口酸っぱく言ってあげたのに、

まだわからないなんて!」

 ティータが合図をすると、アギディスの従者が

拘束された人物を連れてくる。

 それはジュナの身の回りを世話していた侍女だった。

 「……ジュナ様!」

 「そんな! あなたがここにいるなんて!」

 再開に浸る時間さえ与えず、ティータは剣を取る。

 「はい、さよなら」

 ためらいもなく胸に剣を突き立てると、

そのまま下肢へと引き裂いた。

 侍女は前のめりに倒れると、

ボタボタと腑を撒き散らす。

 「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 「躊躇ったら殺すって言ったわよね。

あたし、約束は守る方なの。

アハッ、アハハハハッ!!」

 「どうして……こんなむごいこと……」

 殺されたのがティオキアの民というだけでも、

まるで自身のことのように心を痛めていた。

 それが身近な親しいものとなると、

その悲愴は計り知れない。

 ジュナは思わずその場に膝をついてしまう。

 「さっさとやらないと、また誰か死ぬわよ?

そうね、次はお前にしようかな」

 そう言ったティータが剣先を向けたのは、

ジュナの思い人であるギュスターブだった。

 ティータは邪悪にほくそ笑んでいる。

 「ぐっ……貴様……」

 「いけませんっ! 彼に手をかけないでください!」

 「ならキッチリ『お仕事』をしてもらわないとね。

これ以上は待たないわよ」

 「……分かりました」

 「アハッ、そうこなくっちゃ!」

 これ以上ティオキアの民を――ギュスターブを

殺させはない。

 大切な人を守るために『他者を殺める』ことを、

ジュナは選択する。

 ジュナはゆっくりと大海嘯の杖を掲げると、

精霊への祈りの言葉を小さく呟く。

 水の精霊の力を使えば、全てを飲み込むほどの濁流を

召喚することはできる。

 だが、それではアギディスの兵士たちも

巻き込んでしまうだろう。

 ギュスターブの命を握られている今、

それだけは避けなくてはならない。

 ジュナは俯いて逡巡した後、

覚悟を決めて目を開いた――。

 先ほどの喧騒が嘘だったかのように、

戦場は静まり返っている。

 残されたのは、死体の山。

 「さすが水の巫女といったところかしら。

ここまでやっちゃうなんて思ってなかったけれどね」

 「それは……! あなたがやらせるからッ!」

 「意外とこっちの才能あるんじゃない?

上出来、上出来」

 あらゆる水分の本質を自在に操ることのできる、

水の巫女ジュナが選んだ手段。

 それは、アテリマ教徒のみを狙って

全身の血液を沸騰させる、というものだった。

 身体中の血管が破裂した教徒たちは、

目や口、つま先など、あらゆる箇所から

血を流して絶命している。

 その顔は、およそ人とは思えないほど

歪みきっていた。

 そんな屍の山が、ジュナの眼前に広がっている。

 自分が何をしたのか。遅れて理解したジュナは、

逆流する胃液を堪えきれず、その場で嘔吐してしまう。

 「あら、人を殺すのは初めてだったようね。

おめでとう。次の戦場でも頑張ってねぇ」

 ヒラヒラと手を振るティータに、何も答えることが

できない。ジュナは崩壊しそうな精神を保つため、

心の中で何度も呟く。

 ――わたしは……わたしは悪くないはずです。

 人質を取られて、命令されただけ……。

 そうです。悪いのは火の巫女で……

これは彼女が手を下したようなものです……。

 惨状を目の当たりにし、水の巫女の力に驚きつつも

心配そうに声をかけるギュスターブにも気付かず。

 ジュナは崩壊しそうな精神を保つため、

ひとり延々と呟くのだった。

EPISODE6 六章:汚れた手「たくさんの人を殺したわたしには……もう誰かの幸せを願う資格なんて……ない」

 ルスラの要である土の巫女の居場所を炙り出すため、

田を焼き、草を焼き、村を焼く。

 アギディス軍は、国軍と呼ぶには

あまりに粗暴な侵略を続けていた。

 その戦力の一端を担っていたのは、ジュナだった。

 想い人を人質に取られ、本来は人々の繁栄に

使っていた力で次々とアテリマ教徒たちを屠っていく。

 昨日も、今日も。きっとまた明日も。

 ジュナは、水の巫女の力を前になす術なく散っていく

者たちの絶叫にも似た悲鳴が耳にこびりつき、

殺めた人々の亡霊が毎夜夢の中に

現れるようになってしまう。

 唯一の心の拠り所であるギュスターブは、

アギディス軍の別部隊に管理され接触を

禁じられている。

 救いのない毎日に、

ジュナの精神は確実に蝕まれつつあった。

 「おんやぁ? 今日も大暴れした

水の巫女様じゃねえですかい。ひひっ」

 先ほど、ルスラの村をひとつ壊滅させたことで

精神的に憔悴し、野営地で休んでいたジュナに、

下品な笑みを浮かべるアギディス軍の兵士が

話しかける。

 「あなたは……」

 「へへっ、巫女様が知るわけねえ。

しがない雑兵でさぁ」

 「なぜあなた方は……

こんな侵略のような戦争を続けるのです……」

「『なぜ』……?」

 ジュナから質問された兵士は一瞬呆気に

取られていたが、思い出したように大声で笑い出した。

 「わっはっはっは!

おかしなことを聞く巫女様だぁ!」

 「お、おかしい……?」

 「戦争する理由? そんなもん、この世が

不平等だからに決まってらぁ! アギディスの死んだ

土じゃ何も育たねえから、国中みんな腹空かしてんだ。

それならヨソから奪うしかないってもんよ」

 「そんな……

奪われる人たちのことは考えないのですか……」

 「……それじゃあ、オレ達は野垂れ死ねという

ことですかい?」

 兵士の眼光が鋭くなり、ギロリと睨みを効かせる。

 その言葉に、ジュナは何も言い返せなかった。

 「生きるためにはこうするしかねぇんです……。

どうせ初めから不平等なんだ。

奪われるほうが悪いってもんよ」

 「でも……戦わずに平和に解決する方法が

何かあるはずです……」

 「そいつぁ立派な考えだが、

巫女様たちには言う権利がないですぜ」

 「……どうしてですか?」

 「オレ達が一生かけても追いつけねえ数の人間を

ぶっ殺してんだ……あんだけ手を汚した

巫女様たちにゃあ、そんな綺麗事似合わないですぜ!」

 嫌味でもなんでもなく、本当に心から楽しい話を

聞いたという風に兵士は笑って去っていった。

 残されたジュナは、自身が客観的に

どう思われているかを知って愕然とする。

 ――わたしは……あの方たちと同じ……?

 たくさんの命を……奪っている……。

 「ハアッ、ハアッッ……!!」

 心に負荷がかかりすぎたのか、

上手に呼吸ができない。

 四肢に付けられた枷を引きずり歩くも、

助けてくれるものなどどこにもいない。

 これ以上自身が傷つかないための防衛本能なのか。

 ジュナはバタリと倒れ、そのまま気を失った。

EPISODE7 七章:絶望の坩堝「ほんの僅かな、一握りの希望。それさえ奪うのですか……ティータ」

 アギディス軍がルスラの侵攻を進めるごとに、

ジュナはその手を汚し続ける。

 前線で人間の肉体を破壊する度、

自分の置かれた現実に絶望する日々。

 生来の心優しい性格からその絶望を正面から

受け止めてしまい、さらに心を削ってしまうという

悪循環であった。

 涼しげな顔立ちながらもふっくらと紅が差していた、

かつての表情はもうどこにもない。

 頬は痩け、瞳の周りは隈だらけになった、

亡者のような顔のジュナが、四肢に取り付けられた枷を

引きずって歩く。

 それは、巫女の力を失いつつある『兆し』であった。

 精霊を身に宿す巫女は、絶望することで

生への執着がなくなると、精霊の『容れ物』としての

機能を果たせなくなる。

 つまり、精霊を自身に繫ぎ止める力を失い……死ぬ。

 その様子を心配そうに見つめていた

若いアギディスの兵士達が、ジュナへと声を掛けた。

 「水の巫女様……お身体は大丈夫ですか……?」

 ルスラの地で暴虐を振るうアギディス軍だが、

全ての人間がそうというわけではない。

 戦場では多くの人間を殺めるものの、

そうでないときは他者への慈愛に溢れたジュナを慕い、

こうして協力的な者も現れ始めたのだ。

 「アギディスがルスラを統治したら……

戦争も終わってきっと平和になりますよ。

だから、水の巫女様もそれまでご辛抱を……」

 「ええ……そうですね……気にかけて頂いて、

ありがとうございます……」

 なんとか微笑みながらそう返すと、

若い兵士達はにわかに沸き立った。

 そして堰を切ったように思い思いの話を吐露する。

 戦争が終わったら故郷に帰って職人になりたい、

家族をルスラへ連れていきたい、若い兵士達は

口々に自分の夢をジュナに語る。

 久しく聞いていなかった希望に溢れる言葉に、

ジュナは頬を緩ませていた。

 だが、そんなちっぽけで些細な安らぎさえも、

ティータは許さなかった。

 ほとんど難癖に近い理由で軍規違反だと

責め立てられ、ジュナを慕っていた若い兵士達は

一人残らず磔にされてしまう。

 そして、必死の形相で叫ぶ命乞いも虚しく、

彼らは無残にも処刑されてしまった。

 ジュナは涙を流しながら、

それを見ていることしかできなかった。

 ――ジュナの心に渦巻く絶望感は、限界に近い。

 それでもなお、ジュナはボロボロの心を

必死に奮い立たせる。

 想い人である従者、ギュスターブの存在が

生きる希望となっていたからだ。

 しかしそれは、ギュスターブが

『最後の一線』ということも意味していた。

EPISODE8 八章:揺れる城塞都市「人を殺めるのは……きっとこれが最後……ギュスターブを失うなんて、わたしにはできない……」

 土の巫女を追いかけルスラ各地を陥落させてきた

アギディス軍の侵攻は、いよいよ大詰めを迎える。

 アテリマ教総本山であり、

石造りの堅牢の防衛教会『城塞都市アンシエタ』。

 この都市が難攻不落の要塞と呼ばれるのは

伊達ではなく、大聖堂を中心に囲むように、

巨大な壁が立ち並ぶ。

 その壁の上にはおびただしい数の弓兵が

待ち受けていた。

 そんなことは構わずに、ティータは進軍の号令を

出すと、アギディス軍は雄叫びをあげてアンシエタへと

突撃していく。

 迎え撃つのは、空を埋めつくさんばかりの矢と鉄球。

 それは無情にもアギディスの兵へと降り注ぎ、

一瞬で戦場は混沌へと変容する。

 「ひどい……自分の国の兵士を……

こんな扱いなんて……」

 愚直に突撃しては肉塊になっていく兵の姿を見て、

ジュナは嘆く。

 対照的に、非情な命令を下した当のティータは

つまらなそうに戦場を眺めていたが、

何かを思いついたように「そうだ」と呟いた。

 「ねぇ、この街の市民を皆殺しにしてくれない?

殺してきたら貴女の大切な人質を解放してあげる。

もうたくさん殺したんだからさぁ、できるでしょ?」

 「どういう、意味ですか」

 「そのままの意味よ。皆殺しにしたら、

あなたの従者を解放する。簡単でしょう?」

 「それは……」

 ここに至るまで徹底的に追い詰められている

ジュナは、ティータの提案に揺れ動く。

 同時に、非人道的な甘い誘いに揺れるなど、自分が

自分ではないものになってしまったような気がして、

恐怖していた。

 「ま、これはお願いじゃなくて命令なんだけどね」

 そう、もとよりジュナに選択権はない。

 拒否すれば、今も剣の切っ先を突きつけられている

ギュスターブが殺されてしまうだろう。

 ――これが最後。もう、これが最後なんです。

 ごめんなさい。一生かけて償います。

 なるべく苦しまないようにしますから……

殺されてください……。

 度重なる絶望に潰されたジュナの心は、

自身の正義が曖昧になるほど、確実に歪み始めている。

 また、絶望は巫女の力を弱まらせていた。

 ジュナは涙を流しながら戦う。

 これ以上心が壊れてしまわないよう、

頭の中にはギュスターブのことだけを思い描く。

 他に余計なことは一切考えず、

ほとんど反射的に戦っていた。

 「待っていてください、ギュスターブ。

こんな悪夢は早く終わらせて、あなたと二人で

あのティオキアの風を……」

 しかし、地の利の分が悪い上アテリマ教徒の反撃は

凄まじく、巫女の力が弱まっているジュナは

思うように進軍できない。

 それどころか完全に防戦に回ってしまったジュナは、

アギディスの兵士達へ防護魔法を展開しながら

耐えようとするも、兵士達は次々に倒れ、

ついには押し返され始めてしまう。

 「ルスラと協定を結んでいたにも関わらず……

この裏切り者め!」

 「ミァン様に仇なすとは恥を知れ!!」

 眼前で殺意を向けるアテリマ教徒達から罵られ、

ジュナは顔を伏せた。

 ――わたしは一体何をしているのでしょうか?

 悪いのは誰?

 火の巫女? アギディス? ルスラ?

 それとも……わたし?

 運命を弄ばれ続けたジュナは、

己の存在意義を見失う。

 ただひとつ確実なことは、この場所は未だ

死の匂いが充満する戦場だということだけだった。

EPISODE9 九章:境界線の向こうへ「ギュスターブを殺したのは……わたし?誰か……誰か嘘だと言ってくださいッ!!」

 必死でアギディス軍を守っていたジュナだったが、

弱まった巫女の力では戦線を保つことはできず、

部隊は崩壊してしまった。

 アギディスの兵士達は武器を投げ出し、

統率もなにもなく方々へと逃げ散って行く。

 アテリマ教徒は防衛に成功したことに満足せず、

逃げ回るアギディス兵を、防壁を越えてまで追いかけ、

狩り始めた。

 恨み、憎しみ、信仰する神への大義名分。

 様々な感情が混じりあった教徒たちを、

もう誰も止めることなどできない。

 「み、みなさん待ってください!

バラバラに別れるのは危険です!」

 ジュナの声は届かない。

 ひとかたまりになっていればまだ守護する手段は

あったが、両軍入り混じって阿鼻叫喚となった

この状態ではどうしようもない。

 もはや巫女というにはあまりに無力。

どこにでもいる普通の少女のように、

ジュナはただ困惑していた。

 「……はっ! ギュスターブ、

ギュスターブはどこですか!?」

 防壁外にほど近い野営地に、

ギュスターブは囚われていたはず。

 敵味方入り混じって混乱する戦場の中で、

ジュナはギュスターブを探し回る。

 「ギュスターブ! 返事をしてください!

お願い……無事でいて……」

 雪崩れ込んできたアテリマ教徒に殺されたか。

それともアギディス軍に処刑されたか。

 最悪のシナリオを思い浮かべるジュナは、

必死に名前を呼んだ。

 「ジュナ! ここだ!」

 未だあちこちで白兵戦を繰り広げる兵達の

向こう側から、聞き間違えるはずのない声がする。

 敗戦色が漂い、混乱に乗じてアギディス軍から

逃げ出したのか、そこにはジュナの想い人である

ギュスターブがいた。

 「ギュスターブ! 無事だったのですね!」

 「ああ! そこへ行く! 待っててくれ!」

 そう言って駆け寄ってくる想い人を見ながら、

ジュナは心の底から安堵した。

 ――ああ、ギュスターブ!

 どんなに世界に絶望しても、あなたが……

あなたさえいれば!

 わたしは生きていけるのです!

 その時、駆け寄るギュスターブへ

ひとりのアテリマ教徒が近づいていた。

 鈍色に光る手斧を握りしめ、

彼の頭上から振り下ろそうとしている。

 それに気付いたジュナは、

ギュスターブを守るべく素早く杖を振り上げた。

 水の精霊の力が込められた水球は、

アテリマ教徒へとまっすぐに向かう。

 だが、ジュナには誤算があった。

 精霊の力が弱っているジュナの攻撃は、

予想を下回る速度で飛んでいた。

 おかげで攻撃を察知したアテリマ教徒は、

慌ててギュスターブの肩を掴むと――

 ――彼を盾にした。

 「ジュ……ナ……?」

 「ギュスタ……」

 途端にギュスターブの身体が肥大化し、

その表情が不気味に歪んだかと思った瞬間。

 一切の原型を残さず弾け飛んだ。

 大量の血液が、雨のように戦場へ降り注ぐ。

 「……え?」

 想い人の姿が突然消えたことに未だ理解が

追いつかないまま、バシャバシャと降る血を浴びて

真っ赤に染まるジュナ。

 「なんだよ、こりゃ……ば、化け物だぁ!!」

 この異常な光景に、先刻まで命を狙っていた

教徒は怯え逃げ出す。

 ――化け物ですって。ひどいですよね……。

 あなたなら間違ってもそんなこと言わないのに……。

 ねえ、ギュスターブ? どこへ行ったのですか?

 早く顔を見せてください……そして、子供の頃の

ように頭を撫でてほしいのです……。

 ギュスターブ、意地悪しないで……

ひとりにしないで……。

 殺し、た……? 殺したのは……わたし?

 この世界に残された最後の希望である、愛する人。

 それをジュナは、自らの手で屠ってしまった。

 「嫌ァァァァァーーーーッッッッ!!!!」

 発狂したジュナは、頭を掻きむしりながら絶叫する。

 絶望は臨界点を超え、ジュナの心は

完全に壊れてしまった。

 それを引き金に、精霊はジュナの肉体を捨てようと

分離していく――はずだった。

 ジュナの凄まじい怒りは、

今まさに離れんとする精霊に絡みつく。

 そして、それを肉体の内ではなく、外側に纏った。

 本来ならば巫女の中で『抑制』するはずの

精霊の力が、剥き出しになって暴れ出す。

 暴走状態になったジュナはティータに付けられていた

枷を一瞬で破壊すると、アンシエタ中心部に向かって

歩き出した。

 ジュナにはもう、まともな意識はほとんどない。

 水の巫女は、制御不能の怒れる人形と

成り果てていた。

EPISODE10 十章:壊者「イた、いデスか……? クルし、イでスか……?ふしギ、ギ、ギ。かゼ……キモちイイ……」

 「あれは……水の巫女……ぐ、ぐわあぁぁっ!!」

 「おい、退け! 退けー!

何か様子がおかしいぞ!!」

 要塞内まで入り込んだアギディス軍とアテリマ教徒が

激突する前線。

 そこへ突如現れたジュナは、純粋な殺戮兵器となって

暴れまわっていた、

 俯きながら歩くジュナの周囲には、大気内の水分を

利用した水の槍が無尽蔵に生み出されている。

 高速で射出されるそれは鋭利な刃物となり、

敵も味方も関係なく肉体を貫いていく。

 鎧で身を包んだ重装兵が果敢にジュナへと

突撃するが、今度は巨大な氷塊が天から落下し、

肉片になるまで磨り潰す。

 「あら……オイしソうな……コウチャでスネ……

あマいおかシと……あま、あマ、ママママ……」

 「貴様ーッ! 気が触れたかッ!!」

 「ふレタ……フ、れ……ふレたら……

イタイタイタイタイタイタイ」

 「なっ……ゴフッ!?」

 城塞都市というだけあって、アンシエタの守りは

堅牢だ。だが、こんな事態は想定されていなかった。

 『都市内部に人智を超えた脅威が現れたとき』。

その堅牢な造りが災いし、

外へ逃げ出すことができない。

 閉鎖された空間の中、兵士や教徒は抵抗もできず

『ヒトだった何か』になっていく。

 「シぬ……シぬ……ミンナシぬ……キモちイイ……」

 ――この光景は……。

 これは、わたしなのですか……?

 ほんの一欠片、僅かに残された本来のジュナの

意識が、かろうじて己の視界のみを感じている。

 ――以前「この世は不平等だ」と言われました……。

 今ならその意味を理解できるかもしれません……。

 愛するティオキアの民……

それに、ギュすターブも……。

 ふ、ふ、不ビョウ等だと言うのなら、

みんな殺しテ……ビョウドウにシてあげなイと、

イケ、イケケケクェ、まセンね……!

 ギュ、ギュすターブぶぶ……アイ、しテ……

 ジュナの意識が、今砕け散った。

 それに呼応するように、未だ殺戮を続ける

彼女の肉体は涙を流していた。

EPISODE11 十一章:信じ続けた巫女「こんな世界を捨てて、あの人のところへ行ける。殺してもらって……わたし、嬉しいです」

 暴走状態のジュナは、誰彼構わず次々と

水の精霊の力で息の根を止めてゆく。

 だが、その力も無限のものではない。

 巫女の中で制御もせず、剥き出しのまま

垂れ流していればいずれ枯渇する。

 少しずつではあるが、無尽蔵に思えたジュナの攻撃が

衰えていくのを、生き残ったアテリマ教徒は

見逃さなかった。

 「弓兵構え! ……射てッ!!」

 アンシエタ中心部の大聖堂をさらに取り囲む

最終防壁の上。

 アテリマ教徒きっての精鋭弓兵部隊が

矢の雨を降らせる。

 ジュナは身体中に大量の矢を浴びて倒れるが、

ゆっくりと起き上がると再び歩き出した。

 だが、ジュナの身体はあくまで生身の人間なため、

あちこちの関節がよじれたまま引きずるようにして

歩いている。

 手応えを感じた弓兵部隊は、さらなる追撃を試みた。

 「効いてるぞ……第二波、射てッ!!」

 精度の高い弓射は、ジュナの耳を、指を、腹肉を、

確実に吹き飛ばしていくが、それでもジュナは

止まることはない。

 「おナジ……ニ……ミン……な……オなジ……」

 「なんてしぶとい……ええい!

とにかく射ちまくれ!!」

 携行した矢を全て使い尽くさんばかりの

猛攻を喰らい、肉体の大部分を失ったジュナは

遂に膝をついた。

 「ア……グ……モウ……スグ……」

 弓兵部隊は、禁忌とされていた毒矢を使用していた。

 ついた膝がズルリと横に滑ったかと思うと、

刺さった矢の矢尻からジュナの身体は溶け出し、

その場に崩れ伏せてしまう。

 聡明で心優しく、美しい水の巫女。

 その姿はもう、どこにもなかった。

 倒れたジュナの瞳に、アンシエタの石畳が映る。

 乾ききったはずのその瞳が、僅かに潤んで

太陽の光を乱反射する。

 そして、砕けた下顎を必死に動かし

誰かの名前のようなものを呟くと、

ジュナは完全に事切れた。

 肉体から離脱した水の精霊も、

キラキラと雫を数滴落とした後、天へと昇っていった。

 ――水の巫女ジュナ・サラキアの人生が終わった。

 グシャグシャになったジュナの亡骸が

踏みつけられる。

 口汚く罵る者、唾を吐きかける者。

様々なやり方で怒りをぶつける者達。

 それは、僅かに生き残った兵士や教徒。

 かつてジュナが信じ続け、守ろうとした人々。

 打ち捨てられた大海嘯の杖が、

残された夥しい数の死を見つめていた。

 そこへ、この狂った戦場跡にまったく

相応しくない一人の少女が現れた。

 ルスラに暮らす幼子達とは明らかに違う

雰囲気を纏い、凄惨な光景にも動じる様子はない。

 少女は、無残な姿となった大海嘯の杖を拾い上げた。

 杖の先には、ジュナの祈りが込められた宝玉が、

今にも消えそうなほど微かに鈍く輝いている。

 それを見つめる顔は、悲しんでいるような、

哀れんでいるような、はたまた楽しんでいるようにも

見える。

 「信じるに値するヒトなど存在しないのだよ……

愛など、ただの幻……」

 少女が誰に聞かせるわけでもなく小さく呟くと、

宝玉の輝きが完全に消える。

 途端に、宝玉は水の塊になり、

重力に引かれ石畳を濡らした。

 「だが……身分や巫女の身体から解き放たれ……

共に逝けたのなら……それも幸福か……」

 この少女が何者なのか、今は誰にも分からない。

 神と、精霊と、ヒトと、巫女。

彼らの物語の行く末も。

 ただ――ひとつの戦争が終わったことだけは

確かな現実だと。

 漂う血の匂いが証明していた。

EPISODE1 一章:世界の最後「人は愚かだったのかもしれない。それでも聖女は、人々のために身を挺する」

 この世界には神に作られた人と、世界に彩りを生み出すための存在である精霊たちが居ました。

 人々はいつしか精霊に命を捧げることで、その体に精霊を受け入れ、自然の代弁者たる巫女を生み出しました。

 巫女たちは人々の世界をより良いものにしようと、自然の力を操ることで文明を発展させていき、人々の暮らしは豊かになっていきました。

 しかし、世界が豊かになっていく中で、人の心は黒く汚いものに染まっていくことになります。

 他者の繁栄を自らのものにしようと、人々は争いを初めてしまったのです。

 戦禍に巻き込まれてしまった巫女たちは、人々の身勝手な行いによって世界に絶望し、この世界から姿を消してしまいました。

 それが聖女として選ばれた私、アンナ・マルグレーテが生まれるより前の出来事。そして創造神イデアの侵攻の原因。

 侵攻に対抗すべく、人々には希望が、巫女の代わりとなる存在が必要でした。

 それに値する存在こそ、聖女。

 私は初代の聖女から力を継承し、2人目の聖女となりました。

 初めはただ贅沢な暮らしができることに喜んで、居るのかもわからない救いの神に祈りを捧げ、人々の声を聞こうともしていませんでした。

 しかし、神との戦いが近づいてくるにつれて、私は聖女としての役割を果たさなければならなくます。

 人々の希望となり、力となること。それこそが、聖女たる私の使命。

 私はその使命を全うしなければならない。それが聖女として得た自由の代償。

 だから私は人々へ誓うのです。

 創造神イデアと対峙し、人の手で必ず勝利を掴み取ることを。

 たとえ、神と刺し違えることになったとしても――私はそれを、選ばねばなりません。

EPISODE2 二章:崩壊した世界「自然を育み、恵みをもたらしてきた4人の巫女。それを欠いた世界は、徐々に崩壊へと向かっていく」

 この世界にはかつて火、水、風、土をそれぞれ司る4人の巫女が存在していた。

 4人の巫女の力は自然を育み、人々に恵みをもたらし文明を発展させていった。

 だが、巫女を過度に崇拝するもの、巫女を支配しようとするものが現れるようになり、世界は徐々に歪になっていく。

 歪みは争いの火種となって、世界は混沌に包まれることとなったのだ。

 人々の争いに巻き込まれた巫女たちは、戦禍の中で様々な悲劇に苛まれ、世界の滅びを強く願うほどに絶望していった。

 この世界での深い絶望は死と同義。

 人々の戦争により、4人の巫女はこの世界から消えてしまった。

 自然を制御していた巫女が居なくなった世界は、それ以来人々の手には負えない災害を撒き散らすようになっていた。

EPISODE3 三章:人を滅ぼすもの「幼い少女の姿をした神。それは人々に破滅をもたらす存在だった」

 巫女たちが世界から消えて数年が経った頃、突如として世界の崩壊は加速していくことになる。

 「私は創造神イデア。この世界の神であり、愚かな人々に終焉をもたらすもの。この世界に醜きものは必要ない。お前たちを根絶やしにして、新世界を創り直すとしよう」

 幼い少女の姿をした神と名乗る存在が、アギディスよりさらに北、極寒の大地より闇の獣と呼ばれる異形の魔物を引き連れて、アギディスの都に攻め入ってきたのだ。

 魔物だけでも人々にとっては驚異であったが、世界から失われたと思われていた4つの巫女の力を自在に操るイデアを前に、人々は為す術もなく蹂躙されていく。

 「人の命というものは、こんなにも脆く、なんと呆気ないものなのだろう」

 イデアが手をかざすだけで、大勢の人の命が一瞬にして失われていく。

 人々の悲鳴を聞いても、イデアは喜ぶことも悲しむこともせず、表情はピクリとも動かない。

 イデアにとってこの侵略は、自ら生み出してしまった失敗作をこの世界から消しているだけにすぎないのだ。

 そんな神の勝手な思惑によって、これまで炎の巫女の力により発展してきたアギディスの都は、たった一夜にして壊滅させられたのだった。

EPISODE4 四章:聖女誕生「特別な力も何も持たない普通の少女は、人々に祭り上げられ、希望の象徴として崇められた」

 自らを創造神と名乗るイデアの力は圧倒的で、人々はただ逃げ惑うしかなかった。

 生き残った僅かな人々は、戦争によって荒れ果てたルスラの地へと命からがら逃げ込む。

 人同士で争っている場合ではないと気づいた人々は、アギディス、ルスラ、ティオキアの3つの民で団結し、ロムニス連合を成立させる。

 しかし、ただの人の集まりでは、全ての巫女の力を持つイデアを討ち倒すことはできない。

 そう判断した人々は、かつての巫女と同等かそれ以上の超常の力が必要だと考えた。

 だが、世界から精霊は姿を消しており、再び降臨させる方法を人々は知らない。

 それでも希望となり得る存在を欲した人々は、『特異な力を持つもの』として聖女という存在を作り上げた。

 初代聖女として選ばれたのは、ルスラの貴族の少女。

 もちろん少女は何か特別強い力があったわけではなく、容姿が優れていること以外は普通の少女であった。

 ただの普通の少女だが、『特別な力を持つ聖女』として祭り上げることで、人々の希望の象徴とし、士気を高めることが狙いだった。

 その結果、絶望から逃げるように人々は聖女を崇拝するようになり、ここに虚栄ともいうべき信仰が生まれる。

 だがそれも長くは続かない。

 聖女とされた少女は、前線で勇ましくイデアに抗うも、その戦いの最中で命を落としてしまったのだ。

 特別な力も何も持っていない普通の少女だったのだから、それは当然の結果と言えるだろう。

 しかし、人々にとって悪いことばかりではない。

 創造神イデアは、初代聖女を手に掛けた直後に、力を完全なものにするために眠りについたのだという。

 人々には滅びに抗うための猶予が与えられたのだ。

 まず人々が真っ先に行ったのは、2人目の聖女を擁立することだった。

 既に聖女という存在は人々の希望になっており、その存在を欠くというのは人々にとって大きな障害となってしまう。

 そう考えた人々は、『初代聖女から力を継承した』という謳い文句で、2人目の聖女にアンナ・マルグレーテという少女を選んだ。

 まだ年端もいかないアンナは初代聖女と同じく特別な力は持たず、ただ美しいという理由だけで選出された。

 それでもアンナが聖女の座についたことで、下がっていた士気は目論見通り回復することになる。

 聖女は、それほどまでに人々にとって大きな存在となっていたのだ。

 次に人々が取ったのは、創造神イデアに対抗できるだけの戦力の増強である。

 兵士たちの強化はもちろん、銃器や大砲といった兵器の量産化。

 さらには、かつて巫女が使っていたとされる武器に、精霊の力が僅かだが残っていることに人々は気づく。

 武器として使えるような原型は留めていなかったが、その欠片を基に、創造神イデアに有効だと思われる新たな装備を心もとない数だが開発することに成功していた。

 そうして数年が経ち、2人目の聖女であるアンナが15歳になった頃。

 創造神イデアは再びこの世界に現れ、魔物の軍勢を率いて徐々に彼女の住む聖都ヴァルヴァラへと迫りつつあった。

EPISODE5 五章:少女アンナ「居るかもわからない救いの神へと祈る日々。退屈な日常は、それでも平和そのものだった」

 ──聖都ヴァルヴァラ。

 城塞都市アンシエタよりもさらに南に位置するその都市こそが、創造神イデアの手によって帰る家を失った人々がすがる最後の希望の土地となっていた。

 そんなヴァルヴァラの聖堂では、人々の前で聖女アンナが祈りを捧げている。

 「真なる神よ……どうか私たちをお救いください……」

 その姿はとても神秘的なもので、傷ついた人々の心はそれだけで癒やされていく。

 中には泣き出してしまう人もおり、アンナの存在は人々にとってまさに救いであった。

 やがて祈りの儀式が終わると、アンナは人々に笑みを向けると自室へと引き下がる。

 人々からの視線がなくなったところで、アンナは大きく息を吐き出した。

 優しい笑みから一転、気だるげそうな表情を浮かべる。

 「これで今日の祈りも終わりね」

 「お疲れ様でございます、聖女様」

 ようやく毎日のお勤めが終わり、解放されたと思っていたところに従者が現れて、アンナは見るからに不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。

 「はいはい、ありがとうありがとう。こんな儀式に何の意味があるっていうのかしらね?」

 「滅多なことをいうものではありませんよ」

 「だってそうじゃない。神様お助けてくださいって祈っても、その神様が私たちを滅ぼそうとしているんでしょう? おかしな話よね。そもそも、創造神イデアなんて本当に居るのかも怪しいわ」

 「はい?」

 何を言っているのかと首を傾げる従者をよそに、アンナは窓の外を見る。

 「創造神イデアはかつての巫女たちと同じく自然の力を操ると聞いているわ。けどご覧なさいな、この青く澄み渡る空を。穏やかな街並みを。全くもって平和そのものじゃない」

 「今はそうかもしれませんが、ここもいつ戦場になってしまうのか……聖女様はもう少し自分が聖女だという自覚を──」

 「はいはい、わかってます。聖女は人々の希望そのもの。皆のために、これからも救いの神に祈りを捧げますわ」

 アンナが聖女の座についてから数年。

 未だに聖女の自覚を持たずにいることに、従者は深くため息をついた。

EPISODE6 六章:無知と幸福「世界のことなど知らず、聖女は不自由なく暮らす。神との戦いなんてものは夢物語に思っていた」

 アンナの1日は、神へ祈りを捧げることと、巡礼に訪れた人々との面会以外にはやることはない。

 公務と呼べるそれらが終わってしまえば、アンナは聖堂の自分の部屋から出ることさえ許されず、そこで過ごすことになっている。

 部屋に押し込められて自由がないことに不満がないと言えば嘘にはなるが、聖女暮らしというのはまさに天国のような気分を味わえた。

 毎日美味しい食事をとることができて、欲しいものは言えばすぐに手に入る。

 創造神イデアとの戦いのために擁立されたとはいえ、争いは夢物語と思えてしまうほどに遠い話だ。

 そんな生活を長年送ってきたアンナが多少ワガママに育ってしまったのは、ある意味仕方のないことだろう。

 「ねぇ、喉が乾いたわ。お茶を持ってきてくれないかしら? あと、少しお腹が空いたわ。何か食べられるものも持ってきてちょうだい」

 部屋でくつろいでいたアンナが言うと、侍女はすぐさま部屋を飛び出していった。

 そんな侍女を見送るアンナは、小さくため息をつくと窓の外を眺める。

 「お偉い方が私を前線に送り出すとか言っていたけど、本当かしら……。先代の聖女は戦場で命を落としたと聞いたわ。私も戦場に行ったら死んでしまうかもしれない……そんなの嫌よ……!」

 神との戦いは夢物語のように感じていても、いざ戦いの場へ赴くとなると怖くなる。

 死んでしまうかもしれない場所に行くのだから当然だ。

 なんとか戦場に行かずに済む方法はないだろうか。

 侍女が戻ってくるまでの間、そんなことにアンナは頭を悩ませ続けるのだった。

EPISODE7 七章:血濡れの聖衣「目の前に広がる悪夢のような悲惨な光景。飛び散った血が、聖女のドレスを赤く染め上げる」

 聖女であるアンナに助けを求めて、巡礼に訪れる人々は少なくない。

 アンナが話すことができる時間は決まっているのだが、それでも毎日列が途切れることはないほどだ。

 「イデアとの戦いはじきに終わるでしょう。皆、生きてさえいれば未来は拓けます」

 「かつて私たちを導いてくれた精霊たち、彼らは必ず再び訪れます……その時まで祈りましょう」

 「大丈夫です。きっと私たちは、神を討ち倒すことだってできるはずです」

 どれもテンプレートのような言葉で、アンナ自身の気持ちはまるでこもっていない。

 だがそれでも、人々は聖女であるアンナの言葉を有難がって受け取り、涙を流すばかりだ。

 こんな毎日をこれから先もずっと送るのだろう。

 漠然とそんなことを思いながら過ごしていたある日。

 聖堂に大勢の傷ついた兵士たちが運ばれてきて、アンナの心臓は大きく跳ね上がった。

 「どうした? 何があった!?」

 「……水の都ティオキアが陥落……創造神イデア率いる魔物たちが、続々とルスラの領土へと押し寄せています……!」

 「なんということだ……! 早くこのものたちの治療を!」

 傷ついた兵士たちの言葉を、アンナはどこか非現実的なことのように聞いていた。

 いつもと変わらない日常。いつもと変わらない場所。

 だというのに、今アンナの目の前に広がっている光景は、これまでに見たことがないほどに悲惨なものだった。

 (これは、何……もしかして、戦場ではもっと酷いことに……? こんなの、私知らない……!)

 目の前の光景を受け入れることができず、アンナはその場に立ち尽くす。

 「聖女様……!」

 やがて1人の兵士がアンナに近寄ろうとし、途中でよろめくと床に倒れ込む。

 その拍子に跳ねた血が、アンナの真っ白のドレスを赤く染めた。

 「どうか、どうか我らに救いを……!」

 「……ッ!?」

 倒れた兵士は、必死にアンナにすがろうと手を伸ばす。

 だがその光景は、争いのない平和で穏やかな日常を生きてきたアンナの目には恐ろしいものに映った。

 それでも悲鳴を上げなかったのは、仮にも聖女という役割を自覚しているからだろうか。

 しかし、胃からこみ上げてくるものを感じて、アンナは咄嗟に口元を覆う。

 「聖女様は体調が優れぬ様子。自室へ戻りお休みください」

 「……えぇ、申し訳ありませんけれど、そうさせていただきます」

 様子に気づいた従者のフォローもあり、アンナは自室へと下がった。

 重症の兵士たちを目の当たりにして、初めて神との戦いを肌身に感じたアンナは、自室へと着くと同時に胃の中のものを全て吐き出した。

EPISODE8 八章:聖女という役割「多くの人々の悲しみに触れ続けた聖女は、やがて聖女としての自覚と使命感が芽生え始める」

 傷ついた兵士たちを目の当たりにしてから、アンナの日常は大きく変わってしまった。

 遠い世界のことのように思っていた戦いは現実にあることで、それは着々と自分の日常を侵食している。

 聖堂に運ばれてくる兵士たちの数は日に日に増えていき、またその命が失われていく。

 水の都ティオキアが陥落したという報せを受けてからほぼ毎日、アンナは何もできずに、そんな光景を何度も目にしていた。

 「聖女なんて名ばかりの私に……いったい何をしろって言うの……?」

 戦いについての話はアンナにわかることはほとんどなく、かといって傷ついた兵士を治療できるような技術もない。

 ただ立っていることが多かったが、それでもアンナは聖女として人々に求められ続けていた。

 ある時、アンナは瀕死の状態の兵士を看取ってほしいと頼まれたことがある。

 「……よく、頑張りましたね。ゆっくりお休みなさい」

 「あぁ……聖女様……に、看取って、もらえるとは……本望で……」

 最期の力を振り絞ったのだろう、アンナは自分に伸ばされた兵士の手を取る。

 兵士は安心しきったように穏やかな笑みを浮かべながら、その息を引き取った。

 「お父さん……お母さん……うぅ……ひっく……」

 「辛かったですね……寂しかったですね……」

 親が死んでしまって泣き続けていた子どもに、少しでも悲しみが和らぐようにと寄り添ったことも少なくない。

 「聖女の私にしかできないこと……人々の悲しみや不安を、少しでも和らげることができるかしら……」

 傷ついた人々の様々な悲しみに触れ続ける内に、アンナは次第にそう考えるようになっていった。

 全ての人の悲しみを取り除くことができないことはわかっている。

 けれど、目に見える範囲で、自分の手が届く範囲でならできるかもしれない。

 聖女という肩書の自分が笑顔を絶やさなければ、人々が悲しみに暮れ、不安に押し潰されることもなくなるのではないだろうか。

 「人々の悲しみを和らげ、笑顔を守ること。それが、私が聖女としてできること」

 神との戦いを現実のものとして受け入れることができたアンナは、ようやく聖女としての自覚と使命感が芽生え始めていた。

EPISODE9 九章:聖女アンナ「人々を滅ぼす神が着実に迫る中で、笑みを絶やさない聖女は、人々の希望となっていた」

 水の都ティオキアが陥落してからしばらく経った頃。

 最後の防衛ラインとも言える城壁都市アンシエタが突破されたという報せがアンナの耳に入った。

 「そんな……では、イデアがヴァルヴァラに攻め入るのも、時間の問題ということなのですね……」

 いよいよヴァルヴァラが戦場になってしまうということに、アンナは自分の無力さを感じて拳を強く握る。

 イデアの侵攻により、既に人々が生活できる場所はヴァルヴァラしか残されておらず、街は各地で傷つき逃げてきた人々で溢れかえっていた。

 ヴァルヴァラが陥落してしまうということは、人類の敗北。

 これ以上後に引けない状況に、人々の不安は大きく膨れ上がることだろう。

 それでもアンナは、笑顔を絶やすことはなかった。

 悲しみや不安を和らげ、少しでも元気を分け与えることこそが自分の役割だと信じていたからだ。

 大丈夫、きっと神に勝つことだってできる。

 気休めのようにかける言葉は今までとさほど変わらない。

 だが、聖女として自覚したアンナの言葉は、人々に癒やしを与えるようになっていた。

 そんなアンナを、人々はより強く崇めるようになっていく。

 「ご立派になられましたね、聖女様……」

 「いいえ、まだですわ。私が人々の力となり、神を討ち倒すその日まで、気を抜くことはできません」

 今までのアンナを知っている従者にとって、聖女としての自覚を持ち始めた今のアンナは待ち望んでいた姿。

 自分勝手な少女だった頃のアンナはもうどこにも居ないのだ。

 「創造神イデア……私たちは絶対に屈しません。必ずや、あなたを倒して明日をこの手に掴みます!」

 人々に対して理不尽に死と苦しみを与え続けてきた神に、アンナは憤りを覚える。

 それと同時に、強大な力を持つイデアに、人々は本当に勝つことができるのだろうかと不安も感じていた。

 「……弱気になってはいけませんね」

 不安を振り払うように、ポツリと呟く。

 少なくとも聖女であるアンナがそんな不安を持ってはいけないのだ。

 いついかなる時も笑顔を絶やすことなく、人々の希望になり続けると決めたのだから。

EPISODE10 十章:御旗のもとで「必ず神を倒し、世界に平和を取り戻すと誓う聖女。決戦の時はすぐそこまで迫っていた」

 城塞都市アンシエタが突破されてしまったことにより、創造神イデアがアンナの居る聖都ヴァルヴァラに攻め入るのも、時間の問題となってしまった。

 そこでアンナは、人々の不安を拭うため、今一度兵士たちを奮起させるために、演説を行うことにする。

 集められた人々は聖堂から出てきたアンナの姿を見ると、声を潜めてただ静かにアンナの神聖なる言葉を待つ。

 アンナは一度お辞儀をすると、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 「私は聖女アンナ・マルグレーテ。人々の希望の象徴となり、今日まで皆を支えるために尽力してきました。それはきっと、これからも変わることはありません。創造神イデアは、間もなく異形の魔物の群れを従えてこの聖都ヴァルヴァラへと姿を現すことでしょう」

 神の名前に人々の表情が暗くなるのがわかって、アンナは眉をしかめる。

 「皆の不安は私にも痛いほどよくわかります。敵は人ならざる神と魔物。それらによって、今までにいったいどれほどの命が理不尽に失われてきたのか、想像するだけで心が震えます」

 悲しげな表情から一転、今度は人々に希望を与えるために、アンナは笑みを浮かべた。

 「ですが、希望を捨ててはなりません。抗う術は、私たちにはまだ残されているのです。確かに敵は強大で圧倒的な力を持っていて、その前には私たちは無力なのかもしれません」

 希望に満ち溢れたアンナの姿に、人々は次第に俯いていた顔を上げていく。

 「けれど、私たち人は、手と手を取り合い、力を合わせれば、神にも負けることのない力を生み出せるはずです。この美しきヴァルヴァラの街が戦場となってしまうのは心苦しいですが、この街が私たち人にとって最後の砦。必ずや神を討ち倒し、この世界に平和を取り戻しましょう!」

 話し終えると、人々から割れんばかりの歓声が巻き起こる。

 不安を抱えていた街の人々も、これから戦いに赴く兵士たちも、表情が少しだが明るくなったように感じられた。

 諦めなければ、神によってもたらされる破滅の運命から逃れることができるだろう。

 人々を見て、アンナはそう確信するのだった。

EPISODE11 十一章:箱庭の主「破滅の運命から逃れるために。人と神の戦いは、ついに最終局面を迎える」

 創造神イデアは、ついにその姿をヴァルヴァラに現した。

 幼い少女のような姿をしたイデアが宙に浮き人々を見下ろす。

 その足元には異形の魔物の軍勢がひしめき、まるで悪夢のような光景が広がっていた。

 「あれが……創造神イデア……!」

 アンナが憎き神を睨みつけると、人々は初めてイデアの表情が動くのを見た。

 「人が未だに希望を捨てることなく抗うのは、強き魂を持つものが居るからか。いいだろう、そのものを私に捧げよ。そうすれば、この街──いや、人の魂を喰らうことは止めにしよう」

 「なんですって……!?」

 イデアからの思わぬ要求に、人々は戸惑いの声を上げる。

 聖女1人の命を捧げるだけで、今生き残っている何万、何十万の人々の命は助かるのだ。

 「聖女様を捧げれば……俺たちは……」

 「けど、聖女様は今までオレたちを支えてきてくれたじゃあねぇか……そんなこと……」

 ポツリ、ポツリと、兵士たちの戸惑いの声が上がる。

 イデアの要求を受け入れようというものと、アンナを失うわけにはいかないという2つの声。

 このままではいけないと、アンナは兵士たちに語りかける。

 「皆さん。私の命1つでこの世界が救われるというのであれば、私はこの命を捧げることに、何も躊躇うことはありません」

 では生贄となるのか。

 そう声が上がるが、アンナは首を横に振った。

 「私が居なくなっても、創造神イデアはこの世に存在し続け、いつまた人々を滅ぼそうとするかわかりません。思い返してください。神が私たちにもたらした悲しみを。無慈悲にも失われていった人々の命を。私たちが笑顔で明日を迎えるためには、神を討ち倒すほかないのです!」

 アンナの語りかけに、戸惑っていた兵士たちの想いは固まっていく。

 それは、アンナを差し出すのではなく、イデアを討ち倒すというものだった。

 人々の答えを聞いたイデアは、つまらなそうに口を開く。

 「やはり人は愚かしいな。私のやることが変わらずに済む」

 イデアが手を振るうと、魔物の軍勢が聖女めがけて突撃する。

 兵士たちもそれに応戦するように、正面からぶつかっていった。

 圧倒的な力を持つ魔物の軍勢によって、人々は為す術なく蹴散らされていく。

 それがイデアの思い描いていたシナリオだったが、その予想は大きく外れることとなった。

 大切な人たちを、世界を守るために懸命に戦う人々は、魔物の軍勢を徐々にだが押し返し始めていたのだ。

 アンナを中心とした人々の希望への想い、絶望へ逆らおうとする気持ちが、人の身体に繋ぎとめられたか弱き最後の精霊ともいえる存在である『魂』の持つ、超常の力を呼び覚ましていた。

 「強き希望を持つものが居るだけで、魂はこれ程までに力を増すか」

 予想外の抵抗に、イデアは再び口元を綻ばせる。

 「だが、人々は滅ぶ運命にある。――いや、私が滅ぼす」

 「いいえ、そんなことありません!」

 宙に浮かぶイデアに反論するように、アンナは力いっぱい声を張り上げた。

 「人はきっと、この破滅の運命を乗り越えることができるはず……! 諦めなければ、決して希望は潰えることはないのです!」

 人々に必死に語りかけるアンナ。

 その言葉に背中を押され、人々の力がさらに増したようにイデアには感じた。

 「良いだろう。分け与えられた欠片を繋ぎとめるその強き魂……返してもらうぞ」

 「創造神イデア……私は、あなたには屈しません!」

 破顔し人々を見下ろすイデアと、祈るように両手を組んで神を睨むアンナ。

 果たして、最後に存在するのは、人か、神か。

 世界の運命を決するときが、訪れようとしていた。

EPISODE1 創造神 イデア「神が造りし箱庭の世界。だがそれを、神は失敗作と断じた」

 遥か遠い昔、創造神イデアは小さな箱庭の世界に顕現した。

 神は自らの理想とする世界を創造するために、感情の力を利用した2つのコトワリを世界に与えた。

 一、『希望』は魂とその檻となる肉体を定着させる力。

 一、『絶望』は魂と肉体を引き剥がす力。

 そして、神は自らに代わって世界を繁栄させるべく作り上げた生物、人間を造り上げる。

 さらに、自らの強大な力の一部を『精霊』として分け与え、この世界に解き放った。

 精霊の力は世界をより豊かにし、人々は神への信仰の下で細々と暮らしていた。

 だが、それも長くは続かない。

 人間の数が増えるにつれ世界は人間の欲望によって荒らされることとなる。

 それを良しとしなかった神は、精霊の力を使い人に裁きを与えるが、人々は次第に神に対して不満を抱いていく。

 その結果人間は、『巫女<シビュラ>』と呼ばれる精霊の力を引き出すものたちを生み出してしまったのだ。

 人間が魂を捧げることで、精霊は姿と意志を与えられ『巫女<シビュラ>』として箱庭の世界に降臨する。

 精霊の力を行使できること以外、巫女たちは普通の人間と同じである。

 巫女たちは人々の手によってその力を利用され、人々は思うがままに文明を発展させていく。

 それは、人間の持つ欲望によって作られた世界が、神が思い描いていた理想の世界から逸脱したことを意味する。

 憂いた神は、この世界を失敗作と断じ、愚かしい人々に裁きを与えるために動きだした。

 4つの精霊として放っていた自らの力を回収し、同時に人の数を減らすために、神は人々が互いに争うように画策する。

 人々を争わせるのは、神には簡単なことであった。

 既に人々は、巫女を崇拝するものたちと、巫女の支配を企むものたちに二分されていた。

 崇拝しているものたちには、豊穣神として豊かな大地や豊穣の恵みを与えた。

 支配を企むものたちには、英雄王として豊かさは勝ち取り奪い取るものだと扇動した。

 するとどうだろうか。

 愚かな人々は、他の繁栄を妬み奪うために、他からの侵略に抗うために、争いを始めた。

 戦禍の炎は瞬く間に広まり、世界には死、すなわち絶望が溢れていく。

 やがてその絶望は巫女をも蝕み、絶望に堕ちた4つの精霊は肉体、すなわち人の手を離れ、神のもとへと還った。すべては神の思惑通り。

 神は残った人々を異形の魔物を用いて蹂躙していく。

 しかし人々も、『聖女』という存在を祭り上げ、神に対抗せんともがいた。

 箱庭という小さな世界。

 人々が希望を胸に神を退けるのか。

 神が理想を成すため人々を滅ぼすのか。

 ――最後の審判が下されようとしていた。

EPISODE2 人の希望「神は人を滅ぼすために。人は未来を勝ち取るために。聖戦の火蓋が今、切られようとしていた」

 聖都ヴァルヴァラ。

 かの地は人々の最後の砦であり、生きる希望そのもの。

 数多の命を喰らい、人々を滅ぼさんとしてきた創造神イデアは、魔物の軍勢を引き連れ、ついにその姿を表す。

 イデアを迎えるは、非力な人間の軍勢。

 これから行われるのは、今までの都市に行ってきたそれと代わり映えしない、一方的な殺戮である。

 空からつまらなさそうに地上を眺めるイデアは、人々の中にひとつの輝きを見つけ、口角を上げた。

 「ほう……」

 他とは比べ物にならない程に、強く輝く魂を持つ人間。

 その人間を中心に、非力な人間たちの魂も輝きを増しているではないか。

 「人が未だに希望を捨てることなく抗えるのは、強き魂を持つものが居るからか」

 イデアはその幼い少女の顔を眺め、尊大に笑ってみせた。

 その少女――聖女アンナは、笑う神に向かって睨みつける。

 「いいだろう、そのものを私に捧げよ。そうすれば、この街──いや、人の魂を喰らうことは止めにしよう」

 イデアが欲するは、4つの精霊の力と強き輝きを持つ人間の魂。

 今までの侵攻は、人間を滅ぼすことと同時に、強き魂を選定することでもあった。

 そして、それが今、イデアの目の前にある。

 最終的に人間は滅ぼす。

 だが、無駄に力を使わずに欲する魂を得られるのであれば、それに越したことはないとイデアは考えた。

 イデアの唐突な提案に、戸惑いの声を上げる人々。

 奴らは簡単に助かる道を自ら選ぶだろう。

 圧倒的強者には逆らわない事が、弱き人間の本質なのだから。

 しかし、イデアのその思惑は、強く輝く魂を持つ人間――聖女アンナによって崩される。

 「私が居なくなっても、創造神イデアはこの世に存在し続け、いつまた人々を滅ぼそうとするかわかりません。思い返してください。神が私たちにもたらした悲しみを。無慈悲にも失われていった人々の命を。私たちが笑顔で明日を迎えるためには、神を討ち倒すほかないのです!」

 アンナの言葉によって、人々の想いは神であるイデアの打倒に固まっていく。

 人々の答えに、イデアはその表情から歪んだ笑みを消した。

 「まあいい。順番が変わっただけの事だ」

 人間を根絶やしにしてからでも、強き魂を取り込むのは遅くはない。

 イデア率いる魔物の軍勢と、アンナ率いる兵士の軍勢。

 2つの勢力が、真正面から激突する。

 神と人間。

 最後の戦いの幕が、切って落とされた。

EPISODE3 希望の力「聖女の希望は、神の想像を凌駕する。しかし、人々の抵抗は神にとって戯れにすぎない」

 もし人間が抵抗したとて、魔物の軍勢には手も足も出ずに蹂躙される。

 そんなイデアの思い描いていたシナリオを裏切り、人々は存外にも抵抗を見せた。

 圧倒的な力を前にしても諦めず、一丸となって向かってくる人々。

 「強き希望を持つものが居るだけで、魂はこれ程までに力を増すか」

 巫女のような特殊な力があるわけでもない。

 ただただ非力な人間が、異形の魔物の大群を相手に善戦している。

 それは、イデアにとって驚くべき現象であった。

 この世界のコトワリを、神であるイデアは当然知っている。

 しかし希望、未来へと進もうとする意志の力は、時に超常の力を生む。

 それは、かつて巫女が持っていた4つの精霊の力や、異形の魔物にも勝るとも劣らない力となる。

 聖女という光を得た人々は、後に引けないこの局面で、奇跡的にも魔物に対抗しうる力をその身に宿すことに成功していた。

 このままでは、魔物の軍勢は押し切られて、聖女の魂を得ることは叶わないだろう。

 このまま、イデアが何も手を出さなければ。

 「希望を見出し、力とするか。面白い」

 口元を綻ばせたイデアは、魔物の軍勢に手をかざす。

 かざした手が禍々しく光るのと同時に、魔物の軍勢にある変化が生じた。

 異形の魔物たちは、うめき声のようなものを上げながらその体躯を歪ませると、人々を包むように押し潰す。

 そして、押し潰した魔物から爆発するかのように破裂していき、魔物の体液と人の血飛沫が辺りを染め上げた。

 自らの死すらも顧みない魔物によって、優勢のように思えた人々の勢いは削がれていく。

 「人々は滅ぶ運命にある。――いや、私が滅ぼす」

 もはや地獄絵図のような戦場を見下ろしながら、イデアは歪んだ笑みを浮かべる。

 「いいえ、そんなことありません!」

 しかしそこへ、アンナの声が木霊した。

 眼下には惨状が広がっているというのに、未だ諦めていないその瞳。

 イデアはどこか心踊る感触を覚えていた。

EPISODE4 希望を砕く音「人々が蹂躙されようとも、未だ希望に満ちる聖女。しかし、その力は神の前に無力であった」

 「人はきっと、この破滅の運命を乗り越えることができるはず……! 諦めなければ、決して希望は潰えることはないのです!」

 アンナの瞳は未だ希望の光に満ち溢れ、人々を鼓舞している。

 しかし、一度押され始めた戦局を覆すには、その希望の光はあまりにも弱々しかった。

 ある者は四肢を引き千切られ、ある者は頭を噛み砕かれる。

 かつて人だったものたちの塊が山となって築き上げられていた。

 「創造神イデア……私は、あなたには屈しません!」

 屍が積み重なろうとも、聖女であるアンナは希望を捨てず、祈るように両手を組んで神を睨む。

 イデアは、そんな聖女を見下ろした。

 この世界には、肉体の破壊以外でも人を死に至らしめる方法がある。

 それは、深い絶望。

 かつて4つの精霊の力を宿した巫女たちは、皆等しく絶望して朽ちていった。

 イデアは破顔する。

 希望に満ち溢れた瞳が絶望により光を失い、魂を手放す様を眺めるのもまた一興であると。

 神の邪悪な笑みにアンナは身体を震わせるが、折れてはならないという強い意志がある。

 アンナは近くの長杖を手に取ると、人々の希望の力からなる魔法をイデアに向かい放つ。

 昨日まで普通の少女であったアンナは絶望の世界の中で希望を見出し、人知を超えた力を手にした。

 希望を祈る意思だけで魔法を手にした少女だが、今はそれに驚いている時間はない。

 しかし、光弾となって放たれた魔法は、同じく人知を超えたイデアにとっては興味関心の対象でしかなく、恐怖させるには値しなかった。

 軽く手を振るっただけで、跡形もなく打ち消されてしまう。

 「なっ……!?」

 事実を受け入れることができないアンナは、続けて魔法を放つ。

 十か百か、あるいはそれ以上か。

 あと何回放てるのか、どの程度の効果があるのか。

 それは誰にもわからない。

 しかし人間は、もはやその力に頼る他なかった。

 無論、アンナ自身もである。

 一瞬の間を置くことなく放たれる光の嵐が、容赦なくイデアを襲った。

 やがて息を切らせ、アンナは膝をつく。

 視線だけはイデアが居る空へと向けられていたが、その双眸は直ぐ様、大きく見開かれる事となる。

 「希望の力というものは侮れんものだな。だが、世界の創造主たる私を前に、その程度の力、塵芥に等しいと知れ」

 アンナの放った希望の力はすべて、イデアの前には無力であった。

 無数の攻撃を放っても、イデアに傷ひとつつけることはできない。

 その事実は、アンナの、人々の希望にヒビを入れた。

 明らかに希望の光を弱らせたアンナの表情を目の当たりにし、イデアはさらに口元に愉悦の色を浮かべる。

 宙に浮かぶイデアの足元では、希望を失った人間から順に刈り取られるように、魔物の軍勢が蹂躙し始めていた。

EPISODE5 広がる不穏「勝ち目も見えず、一方的に繰り返される殺戮。人々の想いは、最悪な形でひとつになった」

 アンナの魔法がイデアに通用しないという事実は、人々を絶望へと近づけた。

 いくら倒しても迫ってくる魔物の軍勢。

 それに対し、人の兵は有限である。

 圧倒的な力によって、近しいものがひとり、またひとりと物言わぬ肉塊と化していく。

 無限に続くかと思われた悪夢の中で、人々は創造神のある言葉を思い出す。

 『いいだろう、そのものを私に捧げよ。そうすれば、この街──いや、人の魂を喰らうことは止めにしよう』

 それは、戦いが始まる前の、まだ創造神に勝てるという希望があった時のもの。

 だがしかし、現実はどうだろうか。

 聖女の力をもってしても神には届かず、人々もまた、魔物によって理不尽に蹴散らされていく。

 勝ち目なんてものは、始めからなかったのだ。

 もしも……もしもあの時、素直に神の提案を受け入れ、聖女を差し出していたら。

 こんなにも苦しくて終わりが見えない戦いをしなくてもよかったのかもしれない。

 聖女ただ1人の犠牲だけで、この世界は救われていたのかもしれない。

 今からでも遅くはないはずだ。

 聖女を差し出せば、今生きている自分たちは生き延びることができるはず。

 聖女も言っていたではないか。

 ――人のためなら、喜んで命を差し出すと。

 「聖女だ! 今からでも聖女を差し出せば! 俺たちは助かる!」

 兵士の誰かが、声を上げた。

 聖女を裏切ることはできない。

 そう思っていた人々も、いつしか彼女を裏切れば助かるかもしれないという、望みを抱き始めていた。

 一度生まれてしまった願望は、瞬く間にぶくぶくと膨れ上がり、聖女に対する信頼、忠誠を瞬く間に飲み込んでいく。

 それはやがて『聖女を差し出せ』という大合唱に発展する。

 衆愚と成り果てた兵たちは踵を返し、魔物ではなくアンナ目掛けて走り出す。

 いつの時代も人間は、自分が助かることしか考えられないのだ。

EPISODE6 人の選択「人々の選択は、聖女の想いを踏みにじる。涙を流す聖女の瞳に、希望の光など見られない」

 アンナの魔法はイデアには通用しない。

 しかしそれでも、アンナによる攻撃は続く。

 放った一撃が致命傷を負わせることができるかもしれない。

 イデアにとって弱点となる部分がみつかるかもしれない。

 そんな僅かな奇跡を信じていた。

 だが、そんな微々たる願いも、あっさりと砕け散ることとなる。

 ――討ち倒すべき神ではなく、守るべき人々の手によって。

 「なっ、なんだお前たちは! がっ!」

 「何事ですか!」

 イデアに集中していたアンナは気づけなかった。

 いつの間にか、魔物と戦っていたはずの兵士たちに、自らが取り囲まれていたことに。

 上空に佇むイデアは、その始終を興味深そうに眺めている。

 「邪魔だァッ! 聖女を捕らえろ!」

 自身を守る近衛部隊が、同じ仲間であったはずの兵士に切り捨てられていく。

 その異様な光景を、アンナは一瞬では理解することができなかった。

 「……どう、して。こんな、ことを?」

 唐突に起こった惨殺によって動きを止めたアンナは、いとも簡単に兵士たちに捕縛されてしまう。

 「へへっ、悪いな聖女様。俺たちはまだ死にたくないんだよ」

 「聖女様は俺たちを助けてくれるんだろ?」

 それまで懸命に戦っていた同志たる兵士たちから浴びせられる言葉の意味を、理解することができなかった。

 「なら、命のひとつくらい差し出してくれよ。俺たち人間のために!」

 「聖女様の命ひとつで全部助かるんだ! 安いもんだろぉ!?」

 抵抗もむなしく、アンナの手足は痣が付くほど強く抑えられ、顔には石礫が打ち付けられる。

 ついさっきまで命を懸けて戦った同志たちがなぜ?

 そんな疑問も、心なき言葉と無常な力によって、アンナの心に深い悲しみをもたらす。

 「う、うぅ……」

 少女の嗚咽は、兵士たちの怒声にかき消される。

 皆は神のあまりに絶大な力を前にして、狂ってしまったのか。

 それとも、人々の本質はこの兵士たちのようなものなのだろうか。

 アンナは堪え切れずに、その瞳から一筋の涙を流す。

 今まで、アンナは人々の希望の柱となるために尽くしてきた。

 人々が助かるのならば、命を差し出すことも惜しまない。

 そう思っていたのは、嘘ではなかったはずなのだ。

 だが……今、彼女の目の前に居る人々は、果たして命を賭してまで助けねばならないものなのか。

 彼女の意思が揺らぐと同時に、心が大きな黒い渦に飲み込まれるような気がした。

 「皆……どうして……私は……今まで、このような人たちのために……尽くしてきたというの……?」

 掠れた声で呟かれたその言葉は、誰の耳にも届かない。

 聖女の瞳から希望の光は薄れ、彼女は人の手によって神の前に捧げられるのだった。

EPISODE7 愚かしい人々「差し出された聖女を残し、神はすべてを消し飛ばす。戦場に残ったのは、聖女と神だけだった」

 聖女を生贄に差し出した人々の表情は、清々しいほどに晴れやかだった。

 これで自分たち人間は助かる。

 たった1人の少女の命で世界は助かる。安いものだと、誰もが信じて疑っていなかったのだ。

 だからこそ、神はつまらなさそうに呟く。

 「愚かしい。やはり、貴様らは失敗作だ」

 その声には、落胆の怒りもなく、勝利の喜びもない。

 先程までアンナに見せていた感情のようなものすら削げ落ちた表情で、人々を見下ろす。

 そして、人々がイデアにそれ以降言葉を発することはなかった。

 イデアが人々に手をかざすと共に閃光が走る。

 血の一滴も、肉の一片たりとも残さず、すべてが跡形もなく消し飛んだ。

 まるで元々誰もいない荒野であったかのような、そんな静寂があたりを包む。

 この世の終わりの景色が広がる中、アンナだけが生き残り、地に伏している。

 イデアの放った閃光の影響か、手足を縛っていた枷も消え、自由を得ていた。

 透き通るような美しい肌には無残な傷が走る。

 痛む身体を自らの手で抱きかかえることも叶わず、アンナの心が闇に染まりゆくのを現すように、白き衣は泥と血で汚れていた。

 アンナは地面に這いつくばったまま、無に帰した戦場を眺めるだけで微動だにしない。

 守るべきものたちに想いを踏みにじられ、それらはすべて、目の前で一瞬にしてこの世から消滅した。

 裏切られたことに怒ればいいのか、守るべきものがすべて失われたことに悲しめばいいのか。

 感情が渦を巻き、思考することも放棄していた。

 そんな時、どこからか聞こえてきた声が、アンナの耳に入る。

 その声は、アンナを捕らえた際に、死にたくないから命を差し出せと言ってきた兵士のものであった。

 かろうじて生きている状態であるが、四肢を失っており、絶命するのも時間の問題だろう。

 「せ……いじょ、サマ……おタすケ……を……」

 「っ! このっ!!」

 目が合い、そんな言葉を発した兵士を、アンナは反射的に蹴り飛ばしていた。

 自分を裏切り生贄にしようとしたというのに、その助けを自分に乞うのか。

 なんて、醜いのだろう。

 怒りが溢れ、同時に心の中を悔しさが満たしていく。

 「せ……ジョ、さ……」

 喚いていた兵士の言葉が途切れる。

 イデアがその兵士の頭を踏み潰し、アンナの眼前に降り立ったのだ。

 アンナはようやく手の届きそうな場所に現れた神を、ぼんやりと眺める。

 希望に輝いていた強き魂は、漆黒の闇に覆われるのも時間の問題だった。

EPISODE8 世界の行方「対峙する聖女と神。聖戦は、今まさに決着の時を迎えようとしていた」

 聖女はこれまで、人々のために必死に尽くしてきた。

 確かに使命を自覚するまでには時間を要したが、それでも人々の希望であろうと、人々のために、世界のために戦ってきたつもりだった。

 しかし、自分たちだけが助かるために。

 人々は簡単にアンナを切り捨てたのだ。

 「人はやはり愚かしい。自らが生き延びるためなら、愛しき同胞を蹴落とすのも躊躇わないのだからな」

 イデアはアンナの強き魂と、それにより発生していた希望の力を、多少なりとも評価していた。

 愚かな人々にも神の圧倒的力にも絶望せずに、他人に希望を与えられる存在。

 それはイデアが求めた人の心……この失敗した世界ではとても稀有なものだった。

 だからこそイデアはその魂を欲し、自らの手で絶望に染め上げ、肉体から引き剥がそうとしていたのだ。

 だが、結末はイデアが思い描いていたものとは違い、呆気ないものであった。

 結局その魂は信じていたものに裏切られ、絶望に染まっていく。

 「やはり、この世界は再構築が必要だ。愚かな人ではなく、今度は賢人が集う世界に生まれ変わるのだ」

 イデアの言葉を聞いて、アンナはこれから自分の身に起こることを予感した。

 自分の魂は、神に喰われてしまうのだろうということを。

 「人は……なぜ生まれてしまったのですか?」

 迫りくる死を前に、虚ろな目、震えた口からアンナが必死になって紡いだ言葉は、敗北でも抵抗でもない。

 この世の不条理そのものに対する疑問であった。

 「全ては私の失敗だ」

 そしてそれは、聖女が耳にした最後の言葉となった。

 弾けるような閃光が戦場を包む。

 真っ白な視界、薄れゆく意識の中でアンナは思った。

 私は救われた。この世界、この地獄は自身のせいではなかったのだ。

 神の戯れ、不出来に生まれた人そのものの罪……。

 私が悪いわけなんかじゃ、ない……。

 目を焼くほどの光は、一瞬で収まった。

 戦場に残されていたのは、焦げたように黒く染まっている自身の手を抱くイデア。

 そして、神によって身体を食い尽くされた、聖女だったものの残骸だけだった。

EPISODE9 絶望の淵「人々と神の聖戦は終わりを告げる。人も聖女も神さえも、何も残されてはいなかった」

 ――暖かな光の中で、声が聞こえた。

 どうして助けてくれなかったんだ。

 聖女とは名ばかりだ。

 お前が守らなかったせいで死んでしまった。

 人として生きてきた記憶。

 楽しいことや嬉しいことは、沢山あったはずだった。

 しかしいつの間にか、アンナ自身の想いは、黒い闇からやってくる人々の怨念によって塗りつぶされてゆく。

 そして、輝かしい暖かな思い出たちは、痛みや苦しみで覆い尽くされる。

 最後には無限に続くかのような地獄の景色と痛みしか思い出すことができずに、アンナの意識は闇に飲み込まれ、永遠に消滅した。

 目の前に転がる少女だったものを前にして、イデアはゆっくりとひざまずく。

 黒き深い絶望に焼かれた亡骸に手をかざすと、ひと粒の光が浮かぶ。

 聖女が持っていた、強き輝きを放つ魂。

 それが今、創造神の手の内へと落ちた。

 「4つの精霊の力を取り戻し、強き魂も手に入れた。これで、次なる世界の創造の準備は整った!」

 満足したような笑い声が、この世の終わりの大地に響く。

 愚かな人間の居ない、賢人たちによって営まれる理想的な世界を創り出せる。

 イデアの心は、今まさに喜びに満ちていた。

 「さて、魂を取り込んだ後、生き残ってしまった生物を始末しに行くとしよう」

 手の中にあるアンナの魂。

 それが、イデアの魂に溶け込んでいく。

 一瞬の高揚。これで、はるか昔に人類に分け与えた自らの構成体がようやくひとつになる。

 だがその直後、イデアは苦しげに顔を歪ませた。

 「!? これ、は……!?」

 想定外の痛みに、イデアはその場に崩れ落ちる。

 魂の奥底から広がる黒い闇。

 痛みや苦しみ、悲しみが神の魂を覆い尽くそうとしていた。

 「これは……あの人間の……いや……精霊の力も、反応し――」

 それは魂と肉体が乖離していくような感覚。

 今まで取り込んできた4つの精霊が、たった今取り込んだ聖女の魂の絶望に反応しているというのか。

 5つ分――いや、4つの精霊には、それぞれ歴代の巫女の絶望も刻まれているため、それ以上であろうか。

 数多もの絶望が呼び起こされ、イデアのたったひとつの魂に押し寄せる。

 かつて神を構成していた世界を繁栄させる力。

 それを人間に分け与えた結果、長き刻を経て深い絶望の塊となり、いま主のもとへ戻ってきた。

 そして神といえど、その絶望を受け入れるだけの器は持ち合わせてはいなかったのだ。

 やがて、イデアは憑代として自ら造り出した身体から引き剥がされてしまう。

 深い絶望によって身体から魂が引き剥がされることはこの世界での死を意味する。

 そしてそのコトワリは、自分自身……すなわち神に対しても適用される。

 この世界に降り立ったものすべてが従わなくてはならないルールであった。

 「死してなお神に仇なすか! どこまで愚かなのだ、人間ッッ!!」

 神は魂を剥がすまいとうずくまりながら叫ぶ。

 世界の終焉を告げるその声は、地の果てまで届いたという。

EPISODE10 神無き世界「神が取り込んだ魂たちの絶望の渦は、神の魂ですら受け止めきれない深い絶望であった」

 ――神の絶叫は、世界そのものを震わせた。

 精霊の加護を失い、既に荒れ果てた世界は、崩壊の一途をたどる。

 至るところで大地が裂け、溶岩が噴出し、押し寄せる颶風は木々をなぎ倒し、大雨による洪水がすべてを流した。

 人間どころか、生物そのものが生きる場所が、天変地異によって壊されていく。

 それはまるで、これまで築き上げてきた人間の歴史を、無に帰すようであった。

 憑代から引き剥がされてしまったイデアの魂。

 神の力は絶大であり、魂だけとなっても、かろうじて存在を保つことはできていた。

 新たな憑代を造り出し、この箱庭の世界に降り立つ。

 本来であれば、そうなるはずだった。

 しかし、イデアが取り込んできた5つの魂が、それを許しはしない。

 4つの精霊と、強き人間――アンナの魂は、そのすべてが深い絶望の色に染まっていた。

 魂だけの存在になったイデアに、それらに刻み込まれた絶望の物語が、止めどなく流れ込んでいく。

 身勝手な人々によって、絶望に染められた巫女たちの記憶。

 幾重にも連なる絶望の痛み、悲しみ、苦しみ。

 そのすべてが同時にイデアの魂を、意識を揺さぶり、絶大な力を持っていたはずの創造神すら飲み込む。

 新たな憑代の身体を造り出すこともできず、手近な人間や生き物に憑依するほんのわずかな力さえ、魂には残っていない。

 すべての力を、絶え間なく続く無限の絶望によって失ってしまったイデアの魂に、もはや崇高な神の面影など残されてはいない。

 イデアが忌み嫌う人間と同様、なんの力も持たない非力でか弱い存在へと成り果てていた。

 そして、そんな脆弱な魂となっても、聖女や巫女たちの深い絶望は容赦なく降り注ぐ。

 耐え難い苦痛は永遠に続き、イデアは終わりのない地獄を味わい続けた。

 どれだけの時間が経っただろうか。

 一瞬にも悠久のようにも感じる時を過ごし、やがてイデアは、自ら乞い願うようになる。

 生き地獄のような時間を彷徨うのであれば、消えてなくなってしまいたい、と。

 果てしなく続くかと思われた絶望の時。

 それは、イデア自身が消滅を願った瞬間に、終焉を迎えた。

 壊し、奪われる身体の痛み、大切なものを喪い続け壊れてゆく心の痛み……。

 神に流れ込む少女たちの絶望が、神の魂を切り刻んでゆく。

 世界を震わせるほどの叫びを残し、神は取り込んできた魂ごと、箱庭の世界から完全に消滅した。

 死する世界に残された人々には、イデアの断末魔の叫びはどのように聞こえただろうか。

EPISODE11 壊れゆく箱庭「4つの精霊、希望の聖女、世界の神。全てを失った世界は、滅びゆくのか。それとも――」

 聖女と創造神の戦いを経て、世界は崩壊した。

 世界を支える4つの精霊の力も、人々の希望の拠り所であった強き魂を持つ聖女も、それらを取り込んだ神すらも、もうこの世界には存在しない。

 しかし、それでも僅かに生き残った人々は祈り続けていた。

 地べたにひざまずき、両手を天へと向け、

「神よ、どうか我々をお救いください」と。

 どこにいるかもわからない、自分たちを救うであろう善良なる神に。

 どこにあるのかもわからない希望に。

 人々はすがることしかできずにいた。

 創造神の侵攻により人間の数は減らされ、天変地異によって人が安寧を享受できる大地はほぼ失われてしまった。

 かろうじて残った聖都ヴァルヴァラには、かつての繁栄など見る影もない。

 絶望に飲まれ、考えることを止めたものは天に祈りを捧げ続け、そうでなければ少ない物資を奪い、殺し合う。

 秩序も何も存在しない、終わった後の世界が広がっていた。

 そんなヴァルヴァラの廃墟の一角。

 比較的形を残している建物の中で、1人のうら若き女が虚ろな目で窓の外を眺めていた。

 本来であれば茜色に染まっているはずの空。

 しかし、世界が壊れた日からずっと、色を失ってしまったかのように灰色とも黒ともつかぬ雲に覆われている。

 いつ見ても、変わることのないその空は、人々に光は必要ないと言っているように、女には感じられた。

 そして、それを体現するかのように、建物の外からは怒号や悲鳴が聞こえてくる。

 「光も未来も、なにもない……。世界も、人も、何も変わらないのね……」

 目を閉じると否応なく思い返される、忌まわしき記憶。

 期待と責任を背負わされ、いつ死ぬともわからない戦場に繰り出されたあの頃。

 信じたものに裏切られ、親しいものから死んでいく、地獄のような日々。

 最後に信じられたのは、結局は自分自身だけだった。

 「地を這ってでも、泥をすすってでも生き延びる……簡単に、死んでなんか……」

 「おい、お前さん」

 仄暗い空を見上げている女に、老人が声をかける。

 女がその方を向くと、部屋の中に老人と1人の男が入ってきていた。

 男のねっとりとした品定めをするような視線を受け、女は思わず後ずさる。

 「お客さん。この子はどうかね?」

 「こりゃいいな。この子にするよ」

 老人と男の下卑た会話に、女は嫌悪の感情を向ける。

 そんな反応などお構いなしに、男は女へ歩み寄るとその肩を抱いた。

 その瞬間、眼を開けるのも憚られる程のツンとした悪臭が鼻をつき、顔を歪ませる。

 「へっへっ、まいどあり。おい、丁重におもてなしするんじゃぞ」

 「……承知、しました」

 なんの力も持たないひ弱な女に、逆らうことは許されない。

 震えた声でそう言うと、女は割れんばかりに歯を食いしばりながら、男に別室へと連れられて行く。

 女は老人とすれ違う瞬間、殺意に満ちた目でねめつけるが、老人は意にも介さなかった。

 2人が部屋を出た後、死んだような目をした老人は、女と同じように窓の外を眺める。

 「神も奇跡もない、死を待つだけの世界。好き放題楽しんでから死ねるならマシじゃろうて。……ヒっ、ひヒャッ……」

 老人の壊れたような笑い声が部屋に響く。

 真に神を信じ、希望を抱いているものは、この世界にはもう存在しない。

 残された絶望の中で、死を待つこと。

 人々に残された道は、それしかないのだ。
EPISODE1 神の選択、人の業「聖女アンナと神の戦い。その大きな事変の影に埋もれているのは、一人の少女の歴史だった」

 この世界にはかつて、火、水、風、土、それぞれの精霊をその身に宿す、4人の巫女が存在していた。

 4人の巫女は精霊の力を使い、自然を育み、時に利用しながら、人々に恵みをもたらし文明を発展させていった。

 だが、精霊の力を持つ巫女への過剰な崇拝や、その力を支配しようとする者が現れるようになり、世界の均衡は次第に崩れ去っていく。

 初めは小さな、ごく小さな争いの火種だった。

 しかしそれは、人の意思では止められないほどの速度で燃え広がっていき、世界は混沌に包まれる事になる。

 人々の争いに巻き込まれた巫女達は戦禍の中で、身を引き裂くほどの悲劇の奔流に飲み込まれていく。

 その絶望は、世界の滅びを強く願うほどに。

 戦いの中で、その命を散らしてしまった4人の巫女達。

 巫女が消失した事で、人々は混乱し、醜く変容していく。

 そんな人間達を観察していた神は嘆く。

 「人はなんと愚かなのか」と。

 愚劣な人間を生み出してしまった事を後悔する神は、人間を粛清する事に決めた。

 これが、創造神イデアの侵攻である。

 凄まじい力を奮うイデアの脅威から生き残った僅かな人々は、ルスラの都市、聖都ヴァルヴァラへと命からがら逃げ込んだ。

 ヴァルヴァラに集結した各国の民達は気付く。今は国家、ひいては人間同士で争っている場合ではないと。

 だが、たかが人間が集まったとて、全ての精霊の力を持つイデアを打ち倒す事など出来ないだろう。

 イデアと戦うには、かつての巫女と同等か、それ以上の超常の力が必要になると人々は考えた。

 迫りくるイデアを前にして、世界から消えた精霊を再降臨させる術など知らぬ人間たちは、その場しのぎの希望として何も知らぬうら若き少女を“聖女”として祀り上げていく。

 これは、2代目聖女『アンナ・マルグレーテ』誕生の前にあった、“知られざる初代聖女”の物語。

EPISODE2 虚像の聖女「平凡な私が聖女だなんて……でも、それで皆が救われるというのなら、断る事などできない……」

 聖都ヴァルヴァラ。

 かろうじて残ったとはいえ、戦争の傷跡が色濃く残るこの土地で、ルスラとティオキアの民は憤っていた。

 他国侵攻という戦争発端となる引き金を引いたアギディスの民が、自らが蹂躙したルスラの大地にのうのうと入り込んできたからだ。

 だが、イデアの出現により発生した魔獣達の猛威は今も冷めやらず、人間同士で憎しみあう事を許されるような状況ではない。

 人々の心がバラバラのままでは、絶滅の一途を辿るのみだと感じた各勢力の貴族達は、民衆をまとめあげるため、巫女に代わる憑代を生み出そうとする。

 だが、憑代の選別にあたっても、相も変わらず貴族達は政治的な小競り合いを捨てられない。

 最終的に、アギディスに反目するルスラとティオキアの民の溜飲を下げるためにも、ルスラ出身の有力貴族であるベルナデート家に白羽の矢が立つのであった。

 ベルナデート家の娘である『ルチア・レ・ベルナデート』は、先の戦争によるアギディスの侵攻で全てを失い、家族と共に聖都ヴァルヴァラにてひっそりと暮らしていた。

 「私が……聖女に?」

 「そうだ、ルチア! この世界と民衆を守護し、神に打ち勝つための役目を授かったのだ!」

 父親から突然告げられた内容に、ルチアはまだ事の大きさを理解できずにいる。

 ルチアには、秀でた才能も特殊な力もない。戦争が始まるまでは比較的平々凡々とした暮らしを送ってきた。

 それは彼女自身も自覚しており、だからこそそんな自分が選ばれたという事実に、驚き以上に困惑さえ感じていた。

 「私達には今、人々の心の拠り所となる若く聡明な人物が必要だ。何、難しい事を考える必要はない。ルチアは戦地へ赴く兵士達や、苦しむ民衆の気持ちを受け止め、慰めるだけでいいんだ」

 「わか、りました……それくらいの事で良いのなら……」

 ルチアの凡庸さは彼女自身だけでなく、彼女を聖女に選出した貴族達も当然知っている。

 ではなぜルチアが選ばれたのか。

 それは、民衆が信仰するに値する“端麗な容姿を持つ”というただ一点のみ。

 たったそれだけの理由で、彼女は聖女として祀り上げられたのだった。

EPISODE3 幸福の影にある打算「私に聖女が務まるか不安だったけれど……民の笑顔を見ていると、これでよかったのだと思えるわ」

 聖女になってから、ルチアの生活は一変した。

 戦争で全てを失い、やっとの思いで最低限の生活を取り戻した環境とは打って変わり、身の回りの世話をするという事で数人の侍女がルチアにつく事になった。

 毎日綺麗な衣装が着せられ、専任の料理人が作る御馳走が振る舞われる日々。

 民はもちろん貴族でさえままならぬ暮らしを送る中、夢のように豪華な生活がルチアを迎えたのだった。

 盛大に迎えたのは生活だけでなく、ヴァルヴァラに集結した民衆達も同じ。

 街を歩けば「聖女様!」と人々から声をかけられ歓ばれた。

 元より貴族の割に庶民的だったルチアは身の回りの事は自分でこなしていたため、あまりの変化に当初は大いに困惑したものの、その裕福な生活に対して徐々に嬉しさを感じ始めていた――。

 ヴァルヴァラの聖堂にて、唯一の公務といえる祈りの儀式が執り行われている。

 従者があらかじめ用意した祈りの言葉を、復唱するように民衆へ告げるだけの儀式。

 それでも民は、縋るようにルチアへ祈りを捧げた。

 神の使いでもなく、作り上げられた聖女であるルチアへの祈りが民に何かをもたらす事はない。

 だがルチア自身は、民衆をまとめ上げ、希望をもたらす事に意義を感じ始めていた。

 そんなルチアと民を眺めながら、ヴァルヴァラで権力を持つ貴族達はほくそ笑む。

 彼らが聖女という存在を作り上げた実情は、貴族達が国を離れ、海を渡って逃げ出すまでの時間稼ぎに過ぎないからだ。

 そんな貴族達の思惑をまるで察知したかのように。

 創造神イデアは、突如その姿を現した。

EPISODE4 蒸発する水の都「これが神の力……こんなのでたらめすぎるわ……! 私に戦えと? 悪い冗談なのでしょう?」

 イデアが使役する魔物の群れが、水の都ティオキアを蹂躙していく。

 ティオキアを奪還すべく組織された反攻軍が続々と進軍していく中、ルチアはヴァルヴァラの聖堂にて祈りを捧げていた。

 「どうか、真なる神の加護が皆にあらん事を――」

 だがそんな祈りもむなしく、反攻軍の部隊は壊滅状態に陥ってしまう。

 それは、部隊が前線に発ってからほんの間も無くの事だった。

 ヴァルヴァラへと届いた、応援要請が記された緊急の手紙。

 その手紙が届いたという事は、多くの命があっけなく散った事を意味していた。

 応援要請を受けたものの、国中の兵士のほとんどが反攻軍として前線へ赴いている。

 そのため急ぎ義勇軍を募り、ルチアも侍女と共に前線へ向かう事となった。

 護衛を配備したとはいえ、まさか自分が最前線へ向かう事になると思っていなかったルチアは、不安と緊張で小さく震えていたが、どこかまだ遠い出来事のように思っていた。

 だが、すぐに彼女も理解する事となる。

 この世界の“現実”が、どれほど残酷なものであるかを――。

 ルチアが義勇軍を率いてティオキアへ到着した時には、すでに街は半壊状態であった。

 強烈な死臭が漂い、ヒトの形を保っていない屍が溢れ、魔獣の群れがとめどなく暴れまわる、まさしく地獄の様相。

 これでは奪還したところで、復興までの労力と見合わない。そう判断した義勇軍は、急いで国境まで撤退しようとする。

 だが、そんな軍を立ち塞ぐようにイデアが姿を現した。

 大仰な仕草など微塵もなく、まるでただ通りがかったかのような身軽さで。

 突然の出来事にどよめく兵士達の中で、ルチアは初めて見る創造神の姿に驚き、思わず声をあげる。

 「あれが創造神イデア……? まだ小さな子供じゃない……!」

 人間ならば絶対に聞き取れないほどの距離。

 にも関わらず、イデアはその言葉にクスクスと笑う。

 「ふふ、何かと思えば……貴様がコレらを率いる者か? 何の力も持たぬ小娘が。笑わせてくれる」

 そう言い放つと、一斉に魔獣の大群が襲いかかり、一瞬で隊列は無力化されてしまう。

 為す術なく魔獣に踏み潰され、腕を、脚を、その頭を喰いちぎられていく前線の兵士達。

 まるで命を弄ぶかのように、最期の止めを刺さない魔獣達の攻撃のおかげで、半死となった兵士達の肉体が次々と戦場に転がっていく。

 苦痛と絶望に歪む彼らの叫びは幾重にも重なり、さながら楽団の奏でる死の交響曲のように、戦地に響き渡っていた。

 イデアから「何の力も持たない」と嘲笑されたルチア。

 神の言う通り、ルチアは戦場において役立たずそのものである。

 「どうすれば……私に出来る事は……」

 少しでも何か力にと考えるが、ルチアに出来る事など何ひとつとして無い。

 繰り広げられる惨状を前に、聖女はただ茫然と見ている事しか出来なかった。

EPISODE5 聖女としての器「聖女の役目を果たせていると、思いあがっていた。待っていたのは目を背けたくなるほどの現実……」

 「これは……そう、悪い夢よ。お願い……夢であって……」

 強大な神との戦いなど、どこか絵空事のような遠いものだと思っていた。

 それが現実なのだという事を最悪の形で理解したルチアは、恐怖のあまりその場にへたりこむと、うわ言のようにブツブツと呟き続ける。

 「ルチア様、こちらです!」

 侍女の呼びかけにも反応できず、無理やり腕を取られたルチアは、もつれる足でその場を撤退する。

 魔獣達の激しい追撃に、兵士達や侍女が次々と命を落としていく中、ルチアはひたすら逃げ続け、国境軍の野営地へと逃げ込んだ。

 撒き切れたのか、魔獣からの追撃はやんだ。

 ルチアは震える自身の体を抱きながら土のうの上に腰かけると、思い出したかのように息を吐いた。

 「ルチア様、お水です。どうぞお召し上がりになってください」

 「ありがとう……頂くわ……」

 依然として水筒を持つ手の震えは止まらないが、それでも飲み終わる頃には多少の冷静さを取り戻す。

 ふと周りを見渡すと、当初率いていた兵士の数が半数以下になっている事に気付いた。

 逃げゆく中、いくつも目にした侍女や兵士達の死の間際。

 その光景が、ルチアの脳裏に焼きついて離れない。

 (私は、ただの人間……神の声など聞いた事もないもの……そんな私が……なぜこんな目に遭わなくてはならないの……?)

 この現実は理解した。だが、受け止めるとなると話は別だ。

 惨状を直視し、その上で立ち上がるには、ルチアの心はあまりに幼く凡庸であった。

 (こんな事になったのも、聖女なんて役目を引き受けたから……? いえ、今はそんな事どうでもいい……死にたくない……私はまだ死にたくないの……!)

 自身に降りかかる死の恐怖。

 それは毒矢のようにルチアの心に突き刺さり、確実に蝕んでいくのだった。

EPISODE6 誰かの希望、誰かの呪い「もう私の意思ではどうにもならない……。私は聖女として振る舞い続ける。操り人形のように」

 街へ帰り着いたルチアと生き残った義勇軍を待っていたのは、戦地の空気とは余りにも溝のある、まるで凱旋行進を迎えるような盛大な祝賀だった。

 「聖女様が悪魔を追い払ってくれたんだ!」

 「さすがは救世主様だ……!」

 湧き上がる街中から聞こえてくる、民の歓びの声。

 (……追い払った? 私は何もしていない……ただ逃げ回っていただけ……それどころか、多くの命を……)

 民衆の期待に満ち溢れた笑顔とは裏腹に、虚しさだけがルチアを包む。

 それでも、上辺だけの笑顔を浮かべた聖女は、馬車の中からただただ力なく手を振り続けた。

 帰還して間も無く、取るものも取らず、ルチアは家族との話し合いの席を設けた。

 民衆と同じ表情を浮かべる父親に若干辟易しつつも、ルチアは訴える。

 「創造神の恐ろしさは、人間が計り得るものではありません……あれと戦うなんて……いえ、戦おうと思う事すらおこがましい……」

 「おお、怖い思いをしたのだね。戦とはそういうものだ。直に慣れるだろう」

 「そういう次元の話をしているのではありません! 私は、聖女の器なんかじゃない……役目を降ろさせてください!」

 「なんて事を言うのだ! 民衆が希望である君を失ってしまったら国の士気は確実に下がってしまう。それに同志達から何を言われるか……」

 「お父様は私がどうなっても良いとおっしゃるのですか!?」

 「……そういう話ではない。いいかねルチア、聖女がいるからこそ多くの民の心が救われているのだ。その意味をよく考え直しない」

 取りつく島もなく説き伏せられてしまったルチアは、自室に戻り扉を閉めると、そのままズルズルと扉に寄りかかるように崩れ落ちていく。

 家族であれば自分の味方になってくれると思っていたが、淡い期待はあっさりと打ち砕かれてしまった。

 もう、頼れる人はどこにもいない。

 「聖女とは一体何なのだろう……いくら人々の救いになったって、私はただの人間……戦う力なんて持っていないのに……」

 ルチアは一人泣きながら自分の運命を呪う。

 一番近くで世話をしてくれていた侍女は死んだ。

 皮肉にも、泣き声を聞かれる心配をする必要はなくなっていた。

EPISODE7 星望む森の中で「彼に出会って、一人ぼっちじゃないって感じたの。私はずっと、世界に取り残されたと思っていたから」

 付き従う侍女が減った事を幸いに、ルチアは夜な夜な部屋を抜け出しては、近くの小さな森へと足を運んだ。

 とはいえ、何をするわけでもない。ただ夜空を彩る満点の星や、緑の香りを運ぶ風を感じながら、物思いにふけるだけ。

 それは、ルチアなりのささやかな逃避行動だった。

 その日も岩の上に腰掛けて己の現状を恨んでいると、ふと後ろから草を踏む足音が聞こえて、驚いて振り向く。

 そこには狩人と思われる装いに身を包んだ、ルチアと同じ歳ほどの青年の姿があった。

 「あ、聖女様だ……ご、ごめんなさい! 驚かせてしまったでしょうか」

 「いえ……」

 人畜無害そうな顔をしてはいるが、得体のしれない男。

 何より、ルチア自身がどう思おうとも彼女はこの国の聖女という立場。無用ないざこざは避けたい。

 ルチアは関わり合いにならないよう静かにその場を立ち去ろうとする。

 だが青年は、それを引き留めた。

 「もしよろしければ、祈らせていただけませんか」

 そう言うなり青年は、返事も聞かずにその場に跪き、目を瞑って祈り始めた。

 面食らったルチアだったが、無下には出来ず青年をじっと見つめていると、そのうちふと気付く。

 普段は大衆の前で愛想を振りまくだけだったため、思えば1対1で関係者以外と話をするのは聖女になってから初めてだという事に。

 それもあってか、どこかワクワクする気持ちがルチアの心に芽生え始める。

 また、青年があまりにも長い事真剣な表情で祈り続けているのが可笑しく、ルチアの警戒心はすっかり薄まっていた。

 祈りを終えた青年に、何をそんなに熱心に祈っていたのかとルチアが尋ねると、青年は身の上話を始める。

 聞けば、青年は狩人として暮らし続けたいのだが、騎士である父親に強引に跡を継がされそうで困っているという。

 「ま、狩人としての腕は二流なんですけどね! あはは……」

 おどけて笑う青年だったが、同調して笑う事が出来ない。

 ルチアは、青年に共感していた。

 「私も……貴方と同じようなものです。望まぬ道を歩まされて……」

 気付けば、自分の立場、気持ち、置かれている状況。一人思い詰め誰にも言えなかった心のうちを青年に吐露していた。

 最初は驚いていた青年だったが、話を最後まで聞くと微笑んで言う。

 「そうですか……でもちょっと安心しました。聖女様も、一人の人間だったのですね」

 それを聞いたルチアは、初めて聖女ではなく、ルチアという人間だと認められた気がして嬉しくなり、思わず涙を零す。

 「わっ、わっ! 僕、何かまずい事言っちゃいましたか!?」

 「ううん……違う……違うの……」

 心の丈を明かしあった二人の距離は急速に近づき、それからルチアと青年は人知れず夜な夜な逢瀬を交わすようになっていく。

 やがて再びやってくるであろう戦いから、目を逸らすかのように。

EPISODE8 残された痛み「あの日々は、全て嘘? 私は嘘にすがっていたの? ……本当は分かってる。私はまた一人になったのね」

 近づき続ける青年との距離。それは、唇と唇が重なるほどに。

 ルチアは青年を、一人の男として愛するようになっていた。

 だが、二人の関係を認める者は国中探しても一人としていないだろう。

 ある晩、青年は駆け落ちを提案する。

 ここではないどこかなら。たとえ二人だけの世界でも、創造神の脅威から逃げ続けてでも。愛があれば全てを乗り越えていける。

 それは若く、極めて短絡的な発想であったが、本来年頃であるルチアはその提案に頷いた。

 翌日、荷物をまとめて部屋から抜け出したルチアは、街から離れた場所の打ち捨て去られた小屋の中で、青年と一晩を明かした。

 初めて全身で感じる他者の体温。

 とてつもない幸福感がルチアを満たし、乾いた心は潤いを取り戻していく――。

 青年の腕の中でまどろむルチアは、自身の気持ちを伝えていない事に気付いた。

 互いに通じ合うように関係を育んでいたため、言葉にしていなかったのだ。

 「朝起きたら、ちゃんと言葉でこの気持ちを伝えよう」そう決心しながら、ルチアは眠りについた。

 翌朝、目が覚めると小屋の中に青年の姿はなかった。

 それどころか、あたりを見回すと衣類を含めたルチアの荷物一式が無くなっている。

 どこか散策に行ったのではと、ルチアは肌着のまま青年を探しに歩き回ったが見つける事は出来ず、やがてすっかり日も沈んでしまう。

 途方に暮れたまま、青年の帰りを小屋で待ち続けるが、彼が帰ってくる事はなく、かわりに現れたのはルチアを探しまわっていた侍女達だった。

 「ルチア様! ずっと探していたのですよ!? まあ、そんなお姿で……お身体は大丈夫なのですか!?」

 「ええ……大丈夫……」

 慌てふためく侍女に力ない返事で無事を伝えると、安堵する侍女は胸を撫で下ろしながら言った。

 「本当に良かった……最近、若いコソ泥が出没していると街でも噂で……何かされたのではないかと気が気ではありませんでしたのよ」

 ――侍女に引きずられるように邸宅に戻り、半ば無理やり入れられた風呂で、湯に浸かりながらルチアは考える。

 青年は物取りだったのか。

 今まで自分に見せていた姿は全部演技だったのか。

 自分が聖女と知って近づいていたのか。

 いくら考えても頭はぼんやりとして結論が出せない。

 ――暖かな人の温もり……。

 あの時、私は確かに感じたはずだったのに……。

 ふと何もかもが嫌になったルチアは、湯に顔をつけながらうずくまってしまう。

 ルチアにとって信じられるもの。

 もはやそれは、この世界のどこにも無い。

EPISODE9 血で咲く花「皆、私を守ろうと死んでいく……何の力も持たないただ人の子である私のために……」

 青年との出来事でルチアは憔悴しきっていた。

 そんなルチアに追い討ちをかけるように、創造神イデアと、それが率いる魔獣達は、国境線の近くまで侵攻を深めていく。

 塞ぎ込んでいるルチアだったが、周りは誰もそれを許してはくれない。

 再び強引に前線に立たされ、国境軍への祝福の儀式を強要されてしまう。

 顔色も優れず、消極的なルチアが行う儀式に、兵士達にも不安が広がっていく。

 それが影響したのか、元より敵う相手ではなかったのか。

 戦闘が始まるや否や戦線は崩壊し、兵士達は殺戮の憂き目に遭う。

 崩壊した前線から雪崩れ込んでくるイデア達は、国境線を超えたあたりでふと足を止めた。

 イデアがただ一点見つめる先には、ルチアの姿。

 人間を滅ぼす神として。神に抗う聖女として。

 それは避けようのない運命との対峙であった。

 「愚かな……未だそのような木偶を担ぎ上げているのか……貴様ら人間が崇め祀るソレが何なのか、分らせてやろう……」

 戯れとばかりに、イデアはルチア達一行に狙いを定めた。

 脱兎の如く戦地を離れるルチアを、まさに捨身で兵士達は守り抜こうとしていく。

 すべては、希望の象徴たるルチアのために。

 だが、それは戦いと呼べるものではなかった。

 兵士達の命はいとも簡単に狩り獲られていく。

 余りにも一方的な殺戮は、もはや生贄と呼べるのかも疑わしかった。

EPISODE10 終幕する少女の物語「私はやっと解放された。運命から、偽りの自分から。人が大勢死んだけど、今はどこか清々しい……」

 イデアの使役する魔獣の追撃は、少しずつルチアの背中へと追いつきつつあった。

 ルチアを守る護衛兵達も、一人、また一人と減っていく。

 それを迎えるようにヴァルヴァラからやってきた後発の部隊に合流するも、彼らを時間稼ぎに使うなどしてその場を凌いだ。

 死にたくない。ただその一心で。

 味方すらも利用しながら、ルチアは逃げ続ける。

 その頭に命の重みなど考える瞬間は、微塵もない。

 「なぜ私がこんな目に遭わなければならないの!? 聖女だからって……そんな理由で死ぬのは嫌!!」

 逃亡の最中、ルチアはついに取り繕う事もせず侍女達に当たり散らしてしまう。

 民を導く絶対的な存在であるはずの聖女が自身の生を懇願し喚く姿に、兵士も侍女達も困惑の色を隠せない。

 当然士気などあるはずもなく、気付けばルチア達は義勇軍など名ばかりの、一方的に狩られる獲物へと成り下がっていた。

 それでも逃げ続けたルチア達の眼前に、広大な森が現れた。

 森の中には大量の罠が仕掛けてある。罠は味方なら判別がつくよう一定の法則で仕掛けられており、自分達が掛かる事はない。その上、追手の足止めをするには十分な量だ。

 つまり、あの森にさえ入る事が出来れば逃げ切る事が出来る。

 そう考えたルチアが周りを見回すと、あれだけいた護衛達が両の手で数えるほどにまで減っている事に気付く。

 果たして振り切れるだろうか。

 そんな考えが一瞬脳裏をよぎるも、ルチアはすぐさまそれを振り払って走り続けた。

 ――私は生きる。生き続けてみせるわ。

 この世界は狂っている。本来私がいるべき場所じゃない。

 そう……私の場所じゃないの。

 聖女なんてくだらない。私は……自由になる……!

 無我夢中で走り続けたルチアは森へと飛び込むと、罠を避けつつ走り続ける。

 しばらくすると、追手の姿が見えない事に気が付いて足を止めた。だが同時に、殺されてしまったのだろうか護衛達の姿も消えていた。

 「逃げ……きれたの……?」

 逃走と恐怖と興奮で、あがっていた息を整える。

 自分は生き残ったのかもしれない。その一瞬の安堵で、たちまち足が震え出してしまう。

 だが、それは決して不快なものではなかった。

 震えを抑える事もせず、「あは……あはは……」と乾いた笑いが溢れ出す。

 生きている。

 その喜びだけをルチアは噛み締めていた。

 その時だった。

 「ルチ……ア……さ、ま……」

 呻くような声と共に木陰から現れたのは、ルチアの侍女だった。

 全身ボロボロになっており、足取りもおぼつかない。

 彼女は倒れるようにルチアにもたれかかると、ルチアが声をかける間も無く事切れてしまった。

 ルチアは、彼女の顔を見ようと寝かせた遺体を覗き込む。

 「――――ひっ!!」

 そこには肉体の大半を魔獣の毒液で溶かされた、痛ましい姿があった。

 特に顔の溶解はひどく、複数いた侍女の中の誰だったのかも判別できない。

 だが、その姿を見た瞬間。

 侍女の死を悲しむルチアが浮かべていた悲痛な表情が、消え去った。

 残されたのは、能面のような無表情と、微かに歪む口元だけ。

 おそらくは歳もそう変わらないであろう侍女の遺体をしばらく見つめていたルチアは、おもむろに遺体から衣服を剥ぎ取り始めた。

 そして自身も衣服を全て脱ぐと、侍女の遺体へと着せていく。

 一連の行動に死者への敬意は感じられない。まるで物を扱うような乱暴な所作だった。

 互いの衣服をすり替えたルチアは、どこか遠い眼差しで呟く。

 「……これで聖女は死んだ。私はもうただの人間。国のため、民のため……そんな事、もうどうでもいい……」

 かろうじて服の体を成している侍女の衣服を身に纏ったルチアは、何か独り言を呟き続けながら、フラフラとした足取りで森の奥へと消えていった。

 この瞬間、美しき聖女ルチア・レ・ベルナデートは死んだ。

 運命を狂わされた、ごく平凡な貴族の娘。

 彼女は自らの手で人生の幕を下ろした。

 輝かしいはずの、次の舞台を始めるために――。

EPISODE11 かつて少女だったもの「これは、誰も知らぬ少女の歴史。幕は下りても彼女の物語は続く。生きる事を選び続ける限り」

 戦いが終わって、あくる日。

 ヴァルヴァラでは「初代聖女は亡くなった」という内容で民衆に発表がなされた。

 残された侍女の遺体は、ルチアとして埋葬された。真相など誰にも知られないままに。

 このまま民を混乱と恐怖に怯えさせておくわけにもいかないと考えた貴族達は、突貫で二代目聖女を作り上げ、心の拠り所のない民もそれに順応し、祀り上げていく。

 だがそれもむなしく、ほどなくして起こった新たな聖女アンナと創造神イデアの戦いは、世界崩壊という形で終わりを告げた。

 世界を支える4つの精霊の力も、人々の希望であった強き魂を持つ聖女も、それを取り込んだ神すらも。

 もうこの世界には存在しない。

 しかし、それでもなお。

 僅かに生き残った人々は、祈り続けていた。

 かつての神か。

 はたまたいるかも分からぬ神へ向かって。

 ――イデアの手によって廃墟となったヴァルヴァラの一角。

 一人のうら若き妙齢の女性が、虚ろな目で窓の外を眺めている。

 窓の外に広がるのは、怒号や悲鳴が飛び交う、秩序など崩壊した世界。

 「私は地を這ってでも、泥をすすってでも生き延びる……簡単に、死んでなんか……」

 そう女性がぼそぼそと呟いた時、彼女の名前を呼ぶ老人の声が響く。

 その声に反応して振り向くと、汗を滲ませながらニヤつく男が立っていた。

 「お客さん、この子はどうかね?」

 「こりゃいいな。この子にするよ」

 男は女性に近づくと、強引に肩を抱く。

 「ハハッ、今夜は楽しもうぜ。なあ?」

 おもむろに顔を近づけてくる男に、嫌悪感で顔を歪ませながらも、女性が抵抗する素振りはない。

 老人から丁重にもてなすように言いつけられた女性は、男と連れ立って部屋とも呼べない部屋を出ていく。

 その時、女性は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

 「自由なんて……聖女を引き受けたあの時からすでに無いのよ……」

 頬はこけ、影が落ちた表情ながらも、かつてはさぞ美しかったであろう事を思わせる彼女の顔立ち。

 その顔の上で揺らめく二つの瞳。それは虚ろながらもここではないどこか遠くを眺めているように見えた。

 かつて自由に焦がれた少女が行き着いた、ひとつの終着点。

 自由を掴む事も出来ず、絶望に打ちひしがれ、尊厳をかなぐり捨てる事になっても。

 それでもなお、彼女は生き続ける運命を選んだ。

 たとえそれが、永遠に続く絶望だったとしても。

EPISODE1 法院捜査官による記録調書「ひどい事件だったよ……巫女様ひとり残して……。ご立派になった巫女様を見ていると涙が出てくるね」

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機密事項

 『クレスターニ家』敷地内にて発生した

   一家殺害事件に関しての報告書

 クレスターニ一家及び使用人12名の殺害は、

当該期間の未明から早朝にかけて行われた模様。

 第一発見者は、巫女後継者として育てられていた

長子。

 証言によると、クレスターニ邸に盗み入った

盗賊一団を発見した長子が母親であるミリエラ夫人の

助けを呼んだところ、盗賊とミリエラ夫人が鉢合わせた

との事。

 盗賊はミリエラ夫人殺害後に逃走を図り、当主含む

クレスターニ一家、使用人12名を殺害した模様。

 特にミリエラ夫人の遺体は損傷が激しく、側に

護身用の懐刀が発見された事から、長子を守ろうと

激しく抵抗したと予測される。

 なお、長子は事件のショックから事件に関する記憶を

失っており、現在これ以上の証言は不可能。

 不可解な点は、盗賊一団の侵入形跡が判明して

おらず、屋根や窓といった邸宅の一部が損傷している

点。

 以後、継続的に現場検証を行うものとする。

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記録更新

 当捜査は、巫女継承戴冠式が近い事もあり、長子の

後見人でもあるプテレアー家による捜査取り下げの

願いを受け、終了とする。

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記録更新

 この報告書は国内機密事項に該当する為、幹部相当の

権利者以外の閲覧を禁ずる。

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EPISODE2 約束されたはずの血統「聖女だなんて、私にはもったいないお言葉です。でも選ばれるのなら……役目を果たしたいと思います」

 アテリマ教を至上の教えとし、大陸最大の宗教国家として栄えるルスラ。

 この地を守護するのは、豊かな大地と安らぎを与える癒しの力を持つ土の精霊と、その土の精霊を身体に宿し精霊の依代となった巫女という存在である。

 ルスラにおいて、巫女はアテリマ教の聖女として崇められ、代々聡明な判断力と豊富な知識で人々を導いてきた。

 そこに、巫女自身の意思があろうとなかろうと――。

 ――プテレアー家。

 ルスラの中でも代々土の巫女を、ひいてはアテリマ教指導者を輩出してきた、由緒正しい高貴な一族である。

 当然、貴族の中でも知名度は高く、その家名を知らぬ国民はただ一人としていない。

 そんなプテレアー家の中でも、血統を色濃く継ぐ長女・ミリエラ。

 彼女は、幼少の頃より類稀なる才覚を発揮する美しき少女であった。

 そよ風にもなびく美しいブロンドの髪。

 どこまでも深く、吸い込まれてしまいそうになる錯覚を覚えるほど透明な瞳。

 そして、誰に対しても分け隔てのない物腰柔らかな所作。

 誰もがミリエラに憧れを抱き、少しでも自身の存在を知ってもらおうと声をかける。

 道ゆく先で多くの人に囲まれ、盛んに囃し立てられているミリエラの姿は、街では馴染みのものとなっていた。

 「ミリエラさん、今日も素敵ですわ!」

 「ありがとう。貴方も素敵よ」

 「今日のお召し物も本当にお似合いで……」

 「ふふっお褒めに預かり光栄です。でも、もう長らく着ている物だから、あまり褒められると恥ずかしいわ」

 「ミリエラ様、以前ご助言頂いた通り彼に思いを伝えたら……しっかり受け取ってもらえました!」

 「まあ、なんて嬉しい知らせなの! ずっと心配していたのよ!」

 誰もが認める才色兼備であるミリエラだが、そんな自身を鼻にかけたりするような事は一切無く、それがまた人々から愛される理由となっていく。

 聡明で、平和そのものを象徴するかのような、穏やかな言動。まさにそれは“聖女”と呼んでも過言ではない佇まい。

 次期巫女に選ばれるのはミリエラだと、誰もがそう信じて疑っていなかった。

 だが――ミリエラは巫女候補に選ばれなかった。

 その美貌と才を持ってしても素質を見出される事はなく、刻一刻とミリエラは大人へと着実に成長していく。

 精霊は、その依代を生娘の少女に求める。つまりミリエラにとって“成長”とは“機会の損失”と同義であった。

 ミリエラが選ばれなかったことで、本人だけでなくプテレアー家にも波紋が広がる。

 このまま巫女になれなかったら。

 他の家の者が見出されてしまったら。

 ――プテレアー家の名誉に傷がつく。

 これまで何事もなく巫女を輩出し続けてきたプテレアー家は、酷く焦燥していた。

 その混乱に、聡明なミリエラが気づかぬはずがない。

 打って変わってミリエラの素質を疑問視する親族の声に、聞こえないふりをして唇を噛むミリエラ。

 選ばれない事実が悔しいのは、他の誰よりもミリエラ自身が身をもって感じていた。

 プテレアー家は次期巫女選出の儀に向けて、さらなる教育をミリエラに強いる。

 一切の自由を奪われ、満足な睡眠時間も取れないほど厳しく辛い訓練と、一族からの冷たい視線。

 気丈に耐えるミリエラだが、その心は確実に削がれていった――。

EPISODE3 樹の下で交わす小さな約束「うふふ。みこさまになるってゆったら、おかーさんすっごくよろこんでた。だから、わたしもうれしい!」

 血の滲むような努力の甲斐も虚しく、ミリエラが巫女に選ばれる日はついぞ訪れなかった。

 青春のほぼ全てを巫女になるための訓練に注いだミリエラ。

 もはや巫女になる事は叶わないと悟り始めると、その心は次第に空っぽになっていく。

 プテレアー家による彼女に対する関心も薄まっていき、今ではすっかり“過去の事”として扱われていた。

 そんな彼女に、小さな転機が訪れる。

 「ミリエラ、お前に縁談の話が来ておる」

 「縁談……ですか。私はまだそんな……」

 「巫女になれず、さらに行き遅れたとあっては事だろう。悪いようにはせん」

 「はい……分かりました……」

 ミリエラは、まるで巫女になれなかった者はお払い箱とでも言わんばかりに、半ば強制的に組まれた縁談によって嫁いでいく。

 嫁ぎ先はクレスターニ家。巫女を輩出する事に関してプテレアー家に並ぶ名門である。

 ミリエラは、プテレアー家から出ても巫女中心の煉獄から抜け出せないのかと辟易する。

 「巫女になることも叶わず、流されるように結婚をし、きっと私はこのまま空虚な人生を送るのでしょう……」

 全てを諦めたミリエラは、生きる事に執着しなくなる。

 クレスターニ家夫人としての最低限の務め。それさえ果たせば、いつ命を絶ってもいいと考えていた。

 ――だが、とある出来事をきっかけにミリエラの無気力な人生観は一変してしまう。

 それは女児を授かった事。

 その小さな宝物は、ミリエラの傷ついた心を癒すには十分すぎる存在であった。

 そして、ミリエラの娘――ミァンの誕生から数年後。

 引き継いだ血統が強く開花したのか、まだ幼い時分にも関わらず次期巫女候補にミァンが選ばれた。

 これほどに早く見出される事は長い歴史の中でも稀な事でもあり、プテレアー家は掌を返したように母であるミリエラを称賛する。

 ミリエラは、そんな生家の振る舞いを軽蔑しながらも、自身の娘が選出されたこと自体は心から喜んだ。

 成長するにつれ、自分と生き写しのようになっていく娘。

 そんな娘が称賛されるのは、まるでミリエラ自身が認められたような気がしていた。

 自宅の近くにあるニレの樹木。

 大きな枝から垂れ下がったブランコに乗り、娘を抱くようにして揺られながら、ミリエラはゆったりとした優しい声で話しかける。

 「ねえ、ミァン。貴方はすごいのよ。将来巫女様になれるかもしれないの」

 「みこさま?」

 「そう……私がなれなかった巫女様。でも、ミァンには可能性があるんですって」

 「みこさまになったら、おかーさんうれしい?」

 「うん。とっても嬉しいわ」

 「じゃあ、私みこさまになる! おかーさんがよろこんだら、私もうれしいもん!」

 「本当に? 途中で諦めちゃったりしない?」

 「しないよ! やくそくするもん!」

 「分かった。じゃあ、約束ね」

 「うん、やくそくー!!」

 これほど早く巫女候補として選ばれるほど素質のあるミァンが、将来正式に就任する可能性は低くない。

 そんな娘が、自身に瓜二つの顔をして「巫女になる」と宣言してくれた。

 ミリエラは、かつての夢を娘に託す事を決心する。

 夢を諦め、一時は巫女という言葉を聞くことさえ嫌になっていたミリエラ。

 だが、その冷え切った胸に小さな火が灯る。

 あれほど渇望した夢が叶うかもしれない。再燃する胸の火はみるみるうちに大きくなっていく。

 その火は、もう誰も消す事は出来ない。

 ミリエラの心境の変化に気づかないミァンは、母の笑顔が見たい一心で夢を追いかけると決め、無垢な笑顔をミリエラに向ける。

 交わした親子の約束が、この先どれほどの悲劇を招くのか。

 この少女が知る術はない。

EPISODE4 愛の影に垣間見えたモノ「なんだか、おかーさんじゃないみたい……。ううん。ミァンのおかーさんは優しいはずだもん……」

 「ミァンー! あーそーぼ!」

 ミァンのいる2階の窓に向かって、元気な声が飛ぶ。

 クレスターニ家の分家の息子であり幼馴染みのエーディンは、歳が近いこともあってミァンの一番の友人となっていた。

 ミァンを妹のように思い、兄貴風を吹かせながらも優しいエーディン。

 逆に兄のいないミァンは、彼を慕ってよく懐く。

 二人は無邪気に笑いながら、木漏れ日が煌く森の中を駆け回る毎日を送っていた。

 「おかーさん、ただいまー!」

 「おかえりミァン……って、泥だらけじゃない!」

 「えへへ……エーディンとかけっこしてたら、こうなっちゃった」

 母と似た容姿に反してミァンはかなりお転婆に育ち、貴族の着る高価な服も泥で汚れてしまっていた。

 そんなミァンの姿に、ミリエラは呆れるように言う。

 「もう、誰に似たのかしら。そ・れ・に! おかーさんじゃなくてお母様と呼びなさいと言ったでしょう?」

 「はーい!」

 「わんぱくな遊びばっかりで……このままじゃ巫女様になれないわよ?」

 「えーっ、巫女さまってかけっことかしてあそべないの? じゃあ、巫女さまになんてなれなくていいもーん」

 ミリエラ自身は、幼少期に病弱だった事もあり、ミァンがお転婆に育つ事を悪い事と受け止めてはいない。

 有り余るほど元気なのはむしろ喜ばしく感じている。

 だから――ただ冗談混じりに、軽い注意をしたつもりの、他愛もない親子の会話のはずだった。

 しかしそのやり取りは、ミリエラの心に闇を落とすきっかけとなってしまう。

 「……今、何て言ったの……?」

 「え……?」

 「もう一度言ってみなさい」

 「かけっこできないなら……巫女様になれなくていい、って……」

 ――巫女にならなくていい? 今……私の娘がそう言ったの……?

 うそ……そんな事……。

 この子が巫女にならなかったら、私達の居場所は……。

 いえ……“私の”存在価値は……?

 ダメ。

 そんなのダメ。

 ダメ、ダメ、ダメ、ダめだメダメだメダメ。

 絶対にダメ。

 「そんなのダメよ!!」

 怒りに震えながら眉間に皺を寄せ、瞳孔を開いた目をギラつかせながら叫ぶミリエラ。

 優しい母のこれまで見た事のない様子に、ミァンは驚き目を丸くする。

 そんな娘の表情を見たミリエラは、すぐに冷静さを取り戻し諭すようにミァンに語りかける。

 「……ミァン。土の巫女様になるのは貴方の運命なの。だからもう、そんな事を言っちゃダメ」

 「はい……ごめんなさい……」

 いつもの優しい表情に戻った母の姿にミァンは安堵するが、先ほど見た豹変した母の姿が強く脳裏に焼き付いている。

 一体あれは何だったのか。

 その意味は、直後にミリエラから外出禁止令が下された事をきっかけに、ミァンは理解する事となる。

 これはまだ、始まりに過ぎない。

 ミリエラの過剰な愛情は、やがて狂気へと変容していく。

 たったひとつの願いのために。

EPISODE5 ミリエラの手記1「私にとって確かなものは、娘のミァンだけ。だから私は、何があっても全力でこの子を守る」

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13XX.竜の月.07(晴れ)

 あの頃の私は、巫女になる事を狂おしいほど

夢見続けてきた。

 それを私の娘が叶えようとしている。

 これは……神が与えてくださった思し召しなのかも

しれない。

 なのにあの子は「巫女にならなくてもいい」

だなんて……。

 思い出すだけで、こうしてペンを走らせている手が

震えてくる。

 常日頃から巫女の素晴らしさについて丁寧に教えた

はずだけれど、あんな事を口走るなんて。

 ……違う。何かがおかしいわ。

 あの子は元気過ぎるところがあるけれど、素直で

聞き分けの良い子のはず。

 何か悪い影響を受けたに違いないわ。

 きっとあのエーディンという野蛮な子の仕業ね。

 分家の子の分際で、本家の娘と親しくなろうとする

なんておこがましいわ。

 おこがましいといえば、プテレアーの家もミァンを

取り入れようと、ぬいぐるみなんてよこしてきたわ。

 あれだけ手ひどく私を捨てたくせに、娘が巫女候補に

なったからといって簡単に掌を返すなんて。

 本当に軽蔑に値する嫌な家。

 あの子は私の娘。

 絶対に、誰にも邪魔はさせない。

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EPISODE6 愛は誰がため「私が不出来だから怒らせてしまうんだ……期待に応えないと……応え、ないと……」

 巫女になるための教育は、ミリエラ自らが付きっきりとなってミァンへと施されていく。

 娘と同じく、かつては巫女になるため己を磨いていた母による教育。それは、教育と呼ぶにはあまりにも苛烈であった。

 かつて自分が習得した勉学、体術、教養、立ち振る舞いを、徹底的に叩き込む日々。

 だが、いくら容姿が似ているとはいえミァンはミリエラの分身ではない。

 才覚までは受け継がれなかったのか、ミリエラの要求に応えられずミァンは度々失敗してしまう。

 ――なぜできないのだろう。

 こんな簡単な事、私にだってできた。

 娘は才能がないのか。

 いや、そんなはずない!

 偏執的な自問自答を繰り返し自らの精神を削りながら、ミリエラは血走った目でミァンを叱咤する。

 「そんな振る舞いで許されると思っているのっ!? さあ、もう一度っ!! ぐずぐずしない!!」

 「はい……」

 俯いたまま、スカートの裾を握って答えるミァン。

 失敗を犯す度、鬼のような形相で髪を掻き乱す母に罵倒される。

 まだまだ小さく幼いミァンにとって、母からの叱咤は他者が思う以上の恐怖であった。

 毎日のように繰り返されるそんな生活に、ミァンはすっかり怯えきり、心を擦り減らしてしまう。

 一方ミリエラは、ミァンへの指導を繰り返すうち、徐々に倒錯した感情を抱くようになっていく。

 血肉を分けた自身の“分身”であるミァンを育て上げる事を、自分の人生をやり直しているかのように錯覚していた。

 ミァンと同じく後継者候補となる他の家の少女と比較し、優れていれば胸を撫で下ろし、劣っていれば烈火の如く激怒する。

 それはとうに母親として与えられた役目を超えており、常軌を逸する行いであるのだが、“巫女を輩出する名家”という特殊な環境下において、彼女を糾弾するものはどこにもいなかった。

 ――そして時は流れ、ミァンは14歳になった。

 誰もが寝静まった深夜。敷地内の庭園の端に、こっそり屋敷を抜け出したミァンとエーディンの姿があった。

 「ミァン、誕生日おめでとう!」

 「ありがとう! エーディンにお祝いしてもらえて、嬉しい……」

 「花でも送りたかったんだけど……抜け出す時にバレちゃいそうだったからさ」

 「ううん。言葉だけで充分よ」

 仲睦まじくおしゃべりをする二人。

 楽しい時はあっという間に過ぎ、戻らなくてはならない時間が迫ってくると、ミァンの顔色が少し曇った。

 「ねえ、エーディン……私、本当に巫女様に選ばれるかな」

 「ミァンなら大丈夫さ! 何をやらせてもいつだって一番の成績じゃないか!」

 「それは、そうなんだけど……もしも選ばれなかったりしたら、お母様が……」

 「……ミァン。どうしても自分を信じられないなら、俺を信じればいい」

 そう言って、エーディンはミァンを抱きしめた。

 驚くミァンだったが、やがてそれを受け止めると抱きしめ返す。

 いつくじけてもおかしくない過酷な毎日。

 それでもミァンが耐えられたのは、エーディンの存在があったからだ。

 仲の良い遊び友達だっただけの幼い関係は、成長と共に少しずつ変化していく。

 それを口に出す事はなかったが、互いに気持ちは通じ合っていた。

 「今までミァンの母君が厳しかったのは、巫女様になるためだろ? ミァンが選ばれたら満足してくれるはずさ」

 「……うん。きっとそうね。私、頑張る!」

 青く、甘いひととき。

 不安に押しつぶされそうになっていたミァンの表情にも明るさが戻る。

 だがしかし。

 そんな二人の様子を窓から見つめる瞳が、月明かりに照らされていた。

 その瞳に――光はない。

EPISODE7 ミリエラの手記2「娘に集る悪い蝿……叩いて分からないのなら別のやり方で黙らせてあげましょう……」

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13XX.花の月.24(霧雨)

 来る日も来る日も巫女になるための修行の毎日……。

 本当に辛かったけれど、若かったあの頃の私は耐える

事ができた。

 私が巫女になると、そう信じていたから。

 でも、私は巫女になれなかった。

 なぜ? どうして? 私ではないの?

 何度も何度も現実を疑って、命を断とうとした事さえ

あった。

 でも、今は違う。私にはミァンがいる。

 私が巫女になれなかったのは、きっと神が何か勘違い

されたせい。

 その替わりとして、私にミァンを授けて下さったに

違いないわ。

 あの子は私の出す課題はこなしている。でも、こなす

だけじゃダメ。

 私の夢を叶えるためには、もっともっと努力が必要。

あの子には今以上高みに登る精神が足りていない。

 それが分かるまで、厳しく躾けなくては。

 あの子が巫女に選ばれるその日まで。

 ……でも。

 どうして私じゃなかったのだろう。

 あの子が選ばれるのなら、私でもよかったのに。

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 ――ううん。私がしっかりしなくてどうするの。

 あの子を育て上げられるのは私しかいないのに。

 ――それにしても。

 あのエーディンとかいう男。

 あれほどミァンに近づくなと言ったのに、まだ隠れて

コソコソと……。

 あんな情欲も隠せない間抜け顔でミァンに

近づくなんて……汚らわしい……!

 それに気づかないあの子も、巫女になる者としての

自覚が足りないわね。

 ……そうだ。良い事を思いついた。

 そんなに盛りたいのなら、私に考えがあるわ……。

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EPISODE8 壊れた甘美「どうしてなの? エーディンを失ったら私……こんな毎日もう耐えられない……」

 依然、ミリエラの教育は凄まじく、その内容は次第に合理性を欠いていく。

 何か失敗をすると50回はやり直しを命じられ、無意味な反復練習はミァンの睡眠時間を削ってゆく。

 また、「より美しくあれ、より高貴であれ、全ては素晴らしい土の巫女になる為に」という標語を掲げ、何度も繰り返し復唱させた。

 それこそ、50回などという回数ではきかないほどに。

 ――巫女になる。

 巫女になる。巫女になる。巫女になる――。

 巫女になるって……なんだっけ……。

 ミァンは何度もそう叫ぶうち、言葉の意味が分からなくなっていく。

 「素晴らしい巫女様というのは皆、こんな苦痛に耐えていたのだろうか?」そんな疑問を抱いたのは初めの数日だけ。

 今はどこか焦点の合わない瞳で、義務的にそう呟き続ける。

 それでもミァンは、ミリエラからのどんな無茶な要求も全て受け止める。

 あの日の豹変した母の表情がトラウマとなって忘れられないミァンは、そうするしかなかったから。

 母の思いに応えるため、子にできる事がこれ以外に無かったから。

 ある日、ミァンは一度もレッスンを失敗せず、叱られる事もなく1日の課題を終える。

 それはミリエラの教育が始まってから初めての事だった。

 ニコニコと上機嫌に微笑むミリエラは、ゆっくりとミァンの体を抱きしめる。

 時々、ミリエラはこうしてミァンを上手に甘やかす。

 母の優しい声と甘い胸の香り。

 ミァンはそれを味わう度に、これまでの辛い毎日の記憶もどこかへ消え、涙を流しながら幸福感で満たされてしまう。

 どんなに変貌しようと、ミァンにとってミリエラはいつまでも優しい母なのだ。

 日々の厳しい罵倒も、こうして抱きしめられると、全ては“母の優しさ”がそうさせているのだとミァンは曲解する。

 それはまるで、悪い薬のように暴力的な――壊れた甘美。

 「もう少しよ。“巫女の私”になるまで、もう少し……」

 抱きしめながらミリエラは呟く。

 その言葉の意味はミァンにはよく分からなかったが、母のぬくもりの前では何もかもが霧散していくのだった。

 その日の夜。

 事前にエーディンとの逢引を約束していたミァンは、いつものように屋敷を抜け出し、庭園へと来ていた。

 月明かりに照らされるエーディンの姿を見つけると、ミァンは嬉しそうに駆け寄っていく。

 「エーディン、今日お母さまに褒められたのよ!」

 そう伝えようとしたミァンを遮るように、開口一番エーディンは謝罪の言葉を述べる。

 「ごめん。俺、もうミァンとは会えない」

 「え……? 一体どうして?」

 「俺もアカデミーの試験を控えていて忙しいんだ。ミァンだってもうすぐ巫女選定が近いだろ?」

 「それはそうだけど……突然すぎるわ。エーディンだって知っているでしょう? 私が貴方の事――」

 「迷惑なんだ! もうやめてくれ!」

 エーディンは叫ぶようにそう言い捨てると、自身の屋敷の方へと走り去っていく。

 ――幾日か前の事。

 エーディンはミリエラの甘い罠に嵌り、その身体を捧げてしまった。

 母というにはまだ若く、天性の美貌を持つミリエラ。

 そんな彼女から迫られて一度は拒んだものの、若さ故の情欲をもつエーディンはミリエラに唆され、なし崩し的に受け入れてしまったのだ。

 事を終えた後、ミリエラはエーディンに呪いの言葉を吐く。

 「ミァンがこのことを知ったらどう思うでしょうね……」

 情欲に身を任してしまった過ち、狂気を持つ瞳に睨まれたエーディンは何も言い返す事なく、その言葉に従わざるを得なかった――

 突然エーディンに拒絶され、ショックと哀しさで呆然としていたミァンも、しばらくするとトボトボと屋敷に向かって歩き始めた。

 エーディンの存在は、ミァンの中で小さなものではない。

 生きるための原動力といえるほどの相手に、突き放された苦しみ。

 それはミァンの精神状態を、確実に崩壊へと向かわせていく。

 それでも、地獄の日常はミァンを襲い続ける。

 巫女選定の日が近づくにつれ、ミリエラの教育はますます過激になっていくが、心の支えを失ったミァンはついていく事が出来ず、日に日に目から光は失われ、頬は痩せ虚ろな表情を見せる。

 そのあまりに惨めな姿にミリエラはさらに激昂し、ついには手を上げる事も珍しい事ではなくなっていた。

 巫女の顔に傷がつくことをよしとしないミリエラは、小さな鞭をミァンの背中や臀部に打ち付ける。

 ミァンは痛みを感じているのかいないのか。

 表情ひとつ変えないまま、折檻に耐え続けていた。

EPISODE9 ミリエラの手記3「あの子でいいのなら、私でもいいはず。間違ってるのは私? いえ、違うわ……」

―――――――――――――――――――――――――

13XX.雪の月.17(雷雨)

 無事、あの子が巫女に選ばれた。

 あとは、継承のための戴冠式を残すだけ。

 この日をどれほどまで待ち続けたか。もう思い返す

事さえ難しい。

 ――なのに。

 どうしてこんなに満たされない私がいるのだろう。

 ……いいえ。そんなの分かり切っている事。

 本来巫女に選ばれるべきだったのは、私だった

からよ。

 私から人生を奪った今の巫女も、ミァンも

いなければ、絶対に私が選ばれたはずだった。

 このルスラを率いるにふさわしい巫女の器。

 それを持っているのは私ただ一人だと。誰もが

分かっているはずでしょう?

 そもそも、ミァンが選ばれた事だって不自然だわ。

 あんなに出来が悪くて、巫女の器となんて呼べない

ほど品性がないのに選ばれるなんて。

 そうよ……きっと今回の候補者達の程度が

低かったのよ……そうに決まっているわ。

 今からでも遅くない。

 巫女にふさわしいのは私。私しかいない。

 あの子さえいなければ私だって……。

 私だって……。

 私が。

 ワタシ。

 あの子さえいなければ私が

―――――――――――――――――――――――――

 インクが擦れ、手記はここで途切れている。

EPISODE10 ハッピーエンド「精霊と私がひとつになったとき、きっと私は生まれ変わった。残ったのは優しい母の記憶だけ」

 ミァンの15歳の誕生日でもあるこの日、巫女継承の儀がクレスターニ家で密やかに行われた。

 儀式に、ミリエラの生家であるプテレアー家の姿はない。

 生家を憎むミリエラが参加を拒否したためだ。

 精霊をその身に受け入れたミァンは、これまでの過酷な毎日に衰弱していたためか、儀式を終えた直後に意識を失ってしまっていた。

 ベッドの上に運ばれて、すうすうと寝息を立てているミァン。

 サイドテーブルに置かれた小さなランタンだけが揺らぐ、薄暗い寝室。

 そこへ、ひとつの人影が壁を覆う。

 その人影の主は、ゆっくりとミァンの頬を撫でると、ブツブツと独り言を呟き続ける。

 「……ふさわしいのは私……ふさわしいのは私……ふさわしいのは私……」

 それは、ミァンの母であるミリエラだった。

 その瞳はどこを見ているでもなく虚ろ。

 だが異様なまでに血走らせ、ギョロギョロと眼球を動かし続けている。

 ミリエラはもう、娘のミァンを“見ていない”。

 眼前に広がるのは、巫女となった自身を崇める群衆の幻覚だけである。

 ミリエラは頬を撫でていた手を止めると、おもむろに自身の髪を結んでいたリボンをほどく。

 そしてミァンの首にそれをまわすと、思い切り力を入れて縛り上げた。

 「……ぐ、ぅぅっ!?」

 腹を痛めて産んだ自分の娘があげる、苦痛に歪む声。

 その声を気にする様子もなく、縛ったリボンは首の肉に容赦なく食い込んでいく。

 喉から息が漏れる音が断続的に部屋に響くが、すぐにそれもなくなり、ミァンの手は段々と力なくうなだれる。

 ――その時だった。

 ミリエラの殺意に反応したのはミァンの意識か、それとも精霊か。

 突如ミァンの身体が神々しい光を放ったかと思うと、その身から勢いよく次々と枝木が伸びていく。

 それは拒絶と自己防衛により発動した、巫女の力。だが、制御するはずのミァンの意識は無い。

 尋常では無い速度で成長していく枝木は、絡まるようにひとつになると、巨大な大樹となり屋敷の屋根を破る。

 その大樹は、かつてミァンの乗るブランコを支え揺らした、ニレの木だった。

 枝木は未だミァンの身体から伸び続ける。

 その内のひとつが、ミリエラの身体を貫いていた。

 「がはっ……!!」

 大量に吐血するミリエラ。例えこの状況を脱しても、もう助かる事はない。

 だが、走り出した殺意は止まらない。

 ミリエラは意識を失いかけながらも自身の衣服から懐刀を取り出すと、ミァンに突き立てようと振りかぶる。

 だがその瞬間。伸びたもうひとつの枝木がミリエラの顔面に突き刺さった。

 右の眼球から侵入した枝は、脳をかき回しながら頭蓋骨を貫通していく。

 それはミリエラの心か、ただの生理反応か。

 残った左目が一瞬ミァンに向けられたかと思うと、一筋の涙が流れていった。

 ――母・ミリエラは、完全に絶命した。

 自らの血で固まった汚れた髪と服。

 死への恐怖とも、欲望に駆られたとも取れる、醜い顔。

 そこには、美しく聡明だった面影はどこにもない。

 優しい母の姿は、どこにもない――。

 ――翌日。

 ミリエラに拒絶されるも、どうしても名家の体裁を取り繕いたいプテレアー家の数名は、ミァンの様子を偵察するためクレスターニ家を訪れていた。

 「こ、この惨状は一体……!?」

 「なんという事だ……これは……いや、まさか……」

 屋敷を埋め尽くすほど伸びていた樹木は見当たらない。

 代わりにあるのは、ミァンの父を含むクレスターニ家全員と、使用人複数名の死体の山。

 そして、意識を失ったままのミァンの裸体だけだった。

 「ミァンは無事ということは……まさかとは思ったがやはり精霊の力が暴走した可能性が高いだろう……巫女の力の危険性はクレスターニ家も熟知していたはずだが……なぜこんな事態を……」

 「原因究明はどうでもよい。今一番重要なのはミァンだ……」

 巫女就任直後の暴走事件。

 この事実が国民に明るみになれば、ミァンは巫女の座から引き摺り下ろされてしまう。

 そうすればクレスターニ家のみならず、プテレアー家の名にまで傷が付く事は明らかだ。

 頭を抱えるプテレアー家の使者。

 そんな中、気を失っていたミァンが目を覚ます。

 「う……うぅ……」

 「おお! 目を覚ましたかミァンよ! 具合はどうだ?」

 「はい……私は何とも……」

 「それは僥倖であるな! 昨晩一体何があったというのだね?」

 「昨晩……? ダメ……何も思い出せない……」

 力の暴走、精霊にこびりついた過去の巫女達の記憶の混濁。

 理由は様々あるが、ミァンの記憶は知識以外の思い出がすっぽりと抜け落ちていた。

 偶然か否か。失った記憶は、母から過酷な教育を受け始めてから現在までのものだけだった。

 「おかあさん……? おかあさんはどこ?」

 「その……母君は、もう……」

 家族を失ったミァンを、プテレアー家が引き取る事になった。

 プテレア一家は当日の事件を、貴族を狙った強盗一団の襲撃によるものと発表。

 当然、強盗の犯行にしては不自然な点も多かったが、多額の賄賂で事実を揉み消した。

 やがて、プテレアー家はミァンを手中にした事で、再び名家の輝きを取り戻していく。

 ――国民へのお披露目として国を挙げた戴冠式の日がやってきた。

 ミァンからしてみれば、わけもわからず突然両親を失ったようなもの。

 その悲しみは計り知れないものであったが、ミァンはそれを乗り越える生来の強さも持ち合わせていた。

 母が残した唯一の形見だという懐刀を握りしめ、祈るように目を瞑るミァン。

 「おかーさん。私、夢を叶えたよ」

 そう小さく呟くとミァンは、歓声が湧くバルコニーへ一歩ずつ踏みしめるように歩いていくのだった――。

EPISODE11 ミァンの手記「お母さんとの思い出は暖かいものでいっぱい。それさえあれば、私はどこまでも歩いていける」

―――――――――――――――――――――――――

 お母さんへ

 約束、守ったよ。

 無事に精霊を継承して、今日から私はルスラの

巫女です。

 夢が叶ったのも、お母さんが熱心に教育してくれた

おかげだって聞いたよ。

 だから、これから先の巫女としての人生は私だけの

ものじゃない。

 お母さんと、私の人生。

 立派な土の巫女として、お母さんの分もこの役目を

全うするって。

 これが、私とお母さんの新しい約束。

 でも……本当は寂しい。

 お母さんの優しい声がもう聞けないなんて、

信じられないよ……。

 だけど、いつまでもくよくよしてちゃダメだよね。

 プテレアー家の方々は良くしてくれるし、幼馴染みの

エーディンもいる。

 記憶はないけれど、エーディンはこれまでずっと

私の側にいて励まし続けてくれたんだって。

 だから私、頑張れる。

 お母さんが育てた自慢の巫女になるから。

 見守っててね、お母さん。

 追伸。

 戴冠式を終えて、正式に精霊の名を授かったよ。

 まだちょっぴり慣れないけど、誇らしい気持ちで

一杯です。

 ミァン・テルスウラスより

―――――――――――――――――――――――――

EPISODE1 死の大地に生きる少女「いつかわたしは、外の世界に行くんだ。きっと何処かに、私の居場所がある」

 神の手によって生み出された精霊。

 それは災厄となって人々を脅かし続けてきたが、いつしか人の魂を精霊に捧げることで、人と精霊とを結びつけることに成功した。

 その結果、誕生したのが“巫女<シビュラ>”と呼ばれる存在である。

 精霊の力を行使できる巫女の力を得たことで、人類は新たな技術と莫大な富を享受するまでに至った。

 巫女という革新的な存在の誕生。

 それは、人々を豊かにし、より良い世界へと導いていくかに思われたが、その実際は欲に目が眩んだ権力者たちを、肥え太らせるだけに過ぎなかった。

 更なる富を得ようと躍起になった権力者たちは、巫女がもたらすものを貪欲に欲していく。

 その過程で、権力者たちは気付いた。

 巫女に相応しい器は、“従順で非力な少女であることが望ましい”と。

 権力者たちの欲望が渦巻く中、また一人、運命に翻弄される者が選定されようとしていた。

 ――砂漠化が進み、命が芽吹く事など決してない死の大地。

 「収穫無し……お腹空いた……」

 その大地の片隅に存在する集落で、システィーナはその日暮らしの生活を営んでいた。

 「でも、まだ大丈夫。なんとかなる」

 システィーナは懐から一枚の羊皮紙を取り出す。

 そこには、システィーナが暮らす世界とはかけ離れた景色が描かれていた。

 潤沢な水と、緑が一面に広がる美しい情景。

 外の世界を知らぬシスティーナにとって、それは正に夢のような場所であった。

 「へへ……外の世界に、行ってみたいな……」

 いつの日か、夢のような美しい世界へ辿り着く事。

 それだけが、彼女の心の支えであった。

EPISODE2 運命の出会い「アギディスの支援があるお陰で生きてられる。巫女様って、どんな人なんだろ……?」

 この日、集落の広場には無数の人だかりが出来ていた。

 そこに鎮座する荷馬車には、集落の者とは明らかに身なりの違う男たちが立っている。彼らは、大国アギディスよりやってきた支援部隊であった。

 「ありがたや……ありがたや……」

 「慈悲深きアギディスに栄光を……!」

 「貰った奴らはさっさと退け! ほら、邪魔だ!」

 今日はシスティーナが心待ちにする恵みの日。

 この恵みの日には、干し肉やパンなどの食糧が届けられる事になっている。

 資源の乏しい名も無き集落が、今日まで生き長らえてこられた最大の理由が、これだった。

 両親を早くに亡くしたシスティーナにとって、定期的に訪れるこの日は生命線と呼べるものであった。

 「えへへ、ありがとう、兵隊さん」

 「さっさと寝ぐらに戻れ、邪魔だ邪魔だ!」

 「……あっ……!」

 兵に押し出される形になったシスティーナは、姿勢を崩してその場に食料を落としてしまう。

 砂まみれになった食糧を必死にかき集め、大事そうに抱える少女を見て、兵たちは言葉を吐き捨てる。

 「ったく、みすぼらしい連中だぜ」

 「巫女様の支えがなきゃとっくに死に絶えてるような連中だからな。オラ、クソガキ! いつまでそうしてるんだ、さっさと散れ!」

 逃げるようにその場を後にしたシスティーナは、兵たちに群がる集落の人間たちを見つめながら、耳慣れぬ言葉を復唱する。

 「巫女様……って、なんだろ……?」

 その疑問に答えてくれる者はいない。

 だが、その言葉に不思議と興味が湧いた彼女は、歌うように何度も口ずさむのだった。

 それから数日後。

 いつものように砂漠地帯で食糧を探していたシスティーナは、遠くに不思議な塊を見つけた。

 「あっ! 大っきな獲物だ!」

 急ぎ足で駆け寄る。

 足下に転がるそれは、大きな麻のローブを纏った人間だったのだ。砂と血に塗れて顔は汚れているが、よくよく見てみれば、その顔立ちはまだあどけない少女の面影を残していた。

 「……っ、ぅぅ……」

 「まだ生きてる?」

 行き倒れの少女は、この大地で暮らしているとは到底思えない身なりをしていた。

 「もしかして、外の世界の人? 助けたら……外の話をたくさん聞けるかも!」

 彼女を介抱する事に決めたシスティーナは、引きずるようにして、自身の住処へと運んでいくのだった。

 ――死の大地で行き倒れていた少女。

 彼女との出会いが、思いもよらぬ形でシスティーナの運命の歯車を大きく狂わせていくのだった。

EPISODE3 彼女の秘め事「セリエの身に何が起きてるの? 誰よりも先に、わたしが見つけなくちゃ……」

 システィーナが介抱を始めてから直ぐに、少女は意識を取り戻した。

 「あ、れ……こ、こは……?」

 「あっ、起きた!」

 少女はゆっくりと周囲を見回す。

 そこは、干し草と枯れ木を寄せ集めて作られた小屋のような所だった。

 とても快適と呼べるような場所ではないが、陽射しや雨風を凌げるだけで十分役割は果たせていると言えるだろう。

 「貴女が……私を、助けてくれたの?」

 「うん! わたし、システィーナ! あなたは?」

 「私は、セリエ・メ……セリエよ。ただのセリエ」

 「よろしく、セリエ! 怪我はもう大丈夫?」

 セリエはどこか怯えた表情を見せながら、自身の腹部辺りに視線を落とす。

 そして、衣服や身に付けていた物に変化がないのを確認し、警戒するようにシスティーナを問いただした。

 「あ、貴女、私の身体を見たの?」

 「えっと、服は脱がしてないよ。顔に血がついてたから……ごめん……」

 「あ……、ならいいの、脅かせてしまったわね。悪かったわ」

 セリエが怒っていない事を見てとるやいなや、システィーナは表情を一変させて、距離を詰めてきた。

 「ねえセリエ、あなたって外の世界からやって来たんでしょ? よかったら、わたしに外の世界の事を教えて!」

 ころころと表情を変えるシスティーナに面食らうセリエだったが、ここまで介抱してくれた彼女の事を無碍にも出来ない。

 「貴女、私の事を……まぁいいわ。こんな私の知ってる事でよければ、好きなだけ聞かせてあげる」

 「本当!? やったー!」

 セリエは多くの事を語って聞かせた。

 話をする度に目の色を変えて食いつくシスティーナの姿に、セリエも次第に気をよくしたのか、自身が見聞きしてきた世界を事細かに話していく。

 特に強い反応を示したのは、水の都と呼ばれる美しい街についてだった。

 「貴女はその街に行ってみたいの?」

 「うん!」

 すると、システィーナは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、セリエの眼前に広げてみせる。

 「わたし、ここに描かれた場所に行ってみたい! それがわたしの夢なんだ!」

 満面の笑みに、自然と顔が綻ぶ。

 「ふふ、素敵な夢ね。その絵が水の都かどうかは分からないけれど、いつか叶うと良いわね」

 「じゃあさ、セリエも一緒に行こう?」

 なんの気なしに投げかけられた言葉。

 セリエは少しだけ迷うような素振りを見せた後、申し訳なさそうに口を開く。

 「良い提案だけど、それは出来ないの。私といると、システィーナまで不幸になってしまうから」

 「そっかぁ、残念。それじゃあ――」

 直ぐに別の話を始めたシスティーナに付き合う形となり、セリエは小屋の中で夜を迎えるのだった。

 セリエとの出会いから数日後。

 システィーナは二人分の食糧を求めていつものように歩き回っていると、集落が異様な雰囲気に包まれている事に気が付いた。

 広場の方に目を向ければ、アギディスの兵たちが口々に指示を飛ばしている。恵みの日でもないのに、数多くの兵が集まっている事が気になったシスティーナは、兵たちの言葉に耳を傾けた。

 「お前たちも全力で探せ! 巫女が戻らなければ、その時点で支援はなくなるぞ!」

 「奴は手負いだ! いくら巫女といえど、そう遠くに行けないはずだ!」

 兵たちは口々にまくし立て、集落の者たちを恫喝する。余程切羽詰まっているのか、目についた者を殴り倒す始末だった。

 「あいつ……散々アギディスで良い思いをしてきただろうに、逃げ出しただって? ふざけるなよ……」

 「貴族様に取り入ってたんだろう? これじゃ、あたしらが食いっぱぐれちまうよぉ。あたしらで、あの子を見つけるよ! 怪我してるならあたしらでも何とかなるはずさ!」

 喚く集落の者たちも、巫女を探そうと躍起になっている。

 (怪我……? まさか、セリエ……!?)

 システィーナは急ぎ小屋へと引き返す。

 (さっきも巫女って言ってた……巫女って何?)

 次々に湧いてくる疑問を押し殺し、やっとの思いで到着したシスティーナを待っていたのは、既にもぬけの殻となっていた小屋だった。

EPISODE4 風の巫女「全然見つからないなんて……。もしかして、これも巫女様の力なのかな?」

 「いない! セリエ、何処に行っちゃったの!?」

 セリエがいた痕跡はおろか、小屋を出て行ったならあるはずの足跡さえ見つからなかった。

 システィーナは、忽然と姿を消したセリエを探そうと捜索を開始する。しかし、どれだけ探そうとも、一向に見つかる気配は無かった。

 集落にいる者たちの雰囲気から、セリエは未だに見つかっていない事だけは分かる。

 「あんなに沢山の人が探してるのに見つからないなんて……セリエには凄い力があるんじゃ――」

 その時、脳裏を過ったのは、集落の者やアギディスの兵たちが口々に言っていた『巫女』という言葉だった。

 「もしかして……セリエは、巫女様……?」

 足を止めている間にも、時間は刻一刻と経過していく。既に日は傾き始めていた。夜を迎えてしまえば、ただでさえ見つからない彼女を見つけるのは困難を極める。

 途方に暮れたシスティーナは、いつの間にか集落の外れにある河のほとりへとやって来ていた。

 どうやら桟橋の近くには、アギディス軍と思しき集団が、拠点を構えているようだった。

 (何か、手掛かりが手に入るかも……!)

 そう考え、拠点の近くまで近寄った時、ふと会話が漏れ聞こえてきた。

 暗がりに身を潜ませながら、システィーナは耳をそばだてて、会話に注意を向ける。

 『ここまで痕跡が見つからないとは……巫女様は本当にこんな所へ戻って来ているのか?』

 『なに、故郷を捨て去る事は早々出来んさ。いずれにせよ、集落の奴らは血眼になって巫女を探す。見つからなきゃ自分たちの食い扶持が無くなっちまうんだからな』

 『明日はより広範囲に探そう。巫女様が不在とあっては、アギディスの繁栄が途絶えてしまう……』

 そこまで聞くと、システィーナは兵たちに見つからないようその場を後にした。

 (セリエも、ここで生まれ育ったんだ……!)

 思いもよらぬ事実に驚きの色を隠せない。

 しかし、それ以上に心を駆け巡っていくのは、巫女という存在への興味だった。

 「絶対、わたしが見つけるんだ! わたしは、セリエと一緒に外の世界へ行く!」

 強く決心すると、夕暮れの砂漠地帯へと歩みを進める。その表情には、何処か鬼気迫るものが宿っているように感じられた。

EPISODE5 継承「これ、が……風の巫女の力……? う……ぁ……嫌! 何? 入って……来るなぁぁ!」

 朝を迎えた集落は、前日より輪をかけて騒がしくなっていた。その原因と思われるのは、遠目に見ても分かる程に巨大な――砂嵐。

 「何あれ……どう見たって普通じゃない。まさか、あそこにセリエが!?」

 システィーナは、急ぎ砂嵐が発生している地点へと向かった。

 両側を険しい岸壁に囲まれた細道。

 砂漠地帯へと向かうその入口に、セリエは身構えていた。

 セリエは砂嵐の中心に立ち、その砂嵐を遠巻きに眺めるようにしてアギディスの兵たちと集落の男衆が集っている。

 「風の巫女よ! 今直ぐアギディスに戻れば、今までの事はすべて不問にすると約束しよう!」

 「これ以上……私に付き纏うんじゃない! あんな仕打ちをしておいて……よくもそんな口が聞けたわね! 私は……私はもう、アギディスを肥え太らせるだけの操り人形にはならない!!」

 セリエの瞳には、恐怖と悲憤が満ち溢れていた。

 怒りの言葉を吐く度に、砂嵐が大きく唸りを上げる。

 「見つけた! セリエ!」

 そんなセリエの姿を捉えたシスティーナは、男たちの間を進み入って、砂嵐の前に躍り出た。

 「システィーナ……? どうして……!」

 「私は、セリエと一緒に外の世界に行きたいの!!」

 躊躇なく、砂嵐目掛けて駆けだすシスティーナ。

 屈強な男たちでさえ立ち入れないはずの砂嵐の中へ、彼女は“いとも簡単に”入り込んでしまう。

 「えっ……!? 貴女、まさか……」

 「セリエ! 探したんだよ!」

 「なんて無茶を……! 怪我したらどうするのよ!」

 「だって! ここでセリエと別れたら、一生後悔すると思ったから……!」

 システィーナの強い想いに、セリエは少しだけ逡巡すると、自分に言い聞かせるように頷いた。

 「そう……わかったわ。なら、私の後に付いて来て」

 「うん!」

 セリエに手を引かれながら、二人は細道の中へと消えていく。当然、男たちは追い縋ろうとするが、セリエの繰り出した砂嵐によって落下してきた岩に巻き込まれてしまうのだった。

 「これで暫く時間を稼げるはず……」

 「セリエすごい! あの砂嵐も、今の風も、全部『巫女様』の力なの!?」

 「……私の力の事、聞いてしまったのね。そうよ、これが私の『風の巫女』としての力よ」

 セリエは、システィーナの目前で小さな風を起こしてみせる。

 その現象を目の当たりにして、システィーナは飛び上がらんばかりに歓喜の声をあげた。

 「……そんなにいいものじゃ、ないんだけどね……」

 「――岩を退かせ! 風の巫女を逃すな!!」

 「……! とにかく、今はここを離れるわ」

 遠くに聞こえた男たちの声に、二人は足早に細道を抜けていく。

 その道中で、セリエは自戒するようにすべてを語りだした。

 自身の生まれがこの名も無き集落であった事。

 風の巫女として精霊に選ばれ、人生が大きく変わってしまった事。

 そして、旅の道中で立ち寄ったアギディスで受けた仕打ちの数々を。

 「システィーナは……これでも精霊の力を凄いと思える?」

 「すごいよ! その力があれば、外の世界でも生きていけるんだもん!」

 「ふふ……そんな風に喜べたら、どんなに良かったかな……」

 弾むようなシスティーナの声とは裏腹に、セリエはその声音を低く重たくしていく。

 そして、岩壁にもたれかかると力無くその場にへたり込んでしまった。

 僅かに覗く腹部からは、“熟れた果実”をかき混ぜたかのような生々しい傷跡と、ぬめりを帯びた液体が滴っているのが見えた。

 それと同時に漂う、錆びた鉄のような臭気。

 セリエの怪我は、到底歩き回れるようなものではなかった。

 「セリエ!? その怪我は……」

 「あはは。精霊の力を使ったせいなのかな。傷口が、開いちゃったみたい……」

 「ど、どうにかしなきゃ――」

 「触らないで! 私はもう長くない、だから――」

 「――探せ!! 風の巫女を逃すなァァァ!!」

 セリエの言葉を遮るようにして、野太い声が響く。

 追手がすぐ近くまで迫っていたのだ。

 「ど、どうしよう……」

 「もう時間が、ないわ……ごめんね、システィーナ。でも、こうしないと……」

 「……え?」

 セリエは腰に佩いていたダガーを手渡すと、無言でシスティーナの手に触れる。そして、何かを呟いた途端、セリエを取り巻いていた精霊の力が、怒涛のようにシスティーナへと流れ込んでいった。

 「――ぁ……あぁっ、アアアァァァァッッッ!?」

 システィーナの脳裏に、歴代の風の巫女たちを襲った陰惨な記憶の数々が駆け巡っていく。

 その莫大な記憶の奔流は、純朴だったシスティーナの心を穢すには十分であった。

 「ァ……わ、“私”は……」

 「これで……“継承”は果たされたわ。貴女は、今この瞬間から風の巫女システィーナ・メーヴェとなった。そのダガーは、きっと貴女を守ってくれる。だから貴女は……私のようには、ならないで……ね?」

 「……セリ、エ……?」

 「さあ、行きなさい。これで貴女は自由よ……。今の私に、してあげられるのは……残された命で、時間を稼ぐ事、だけ……」

 セリエは最期の力を振り絞り立ち上がると、震える手で新たな巫女となったシスティーナを押しやる。

 「システィーナ、私は貴女の幸せを、願っているわ」

 「で、でも……」

 「行きなさい! 行くのよ! さあ!」

 「……っ……あ、ありがとう、セリエ!」

 それが二人の最後の会話だった。

 互いに背を向けて、二人は離れていく。

 システィーナは、風に乗って後方から聞こえてくる怒号に目もくれず、外の世界を目指してひた走るのだった。

EPISODE6 今の私に出来る事「この力は、哀しみを生むだけじゃない。誰かを幸せにする事だって出来るはずなんだ」

 死の大地を離れたシスティーナは、あてもなく彷徨い続けていた。

 脳裏を駆けめぐる巫女の記憶。

 その記憶の奔流は、眠っていても容赦なく彼女を襲い続ける。悪夢の中を泳いでいるような感覚に、システィーナは身も心も蝕まれていく。

 いつまでも終わりのない拷問のような日々――

 やがて、艶やかだった瞳は翳りを帯び、その表情にははっきりと憔悴の色が表れていた。

 けれど、システィーナの心の奥底には、まだ巫女の力に対する希望が残っている。

 「この力を、正しく使えば……きっと幸福になれる。セリエが見れなかった世界を、私が見つけるんだ……」

 荒野を渡り、森を抜け、宛てもなく歩き続けたシスティーナの耳に、微かではあるが川のせせらぎにも似た音が届いた。

 その音に導かれるように進んでいくと、のどかな光景が一面に広がる小さな農村に辿り着いたのだ。

 牧歌的な雰囲気を目の当たりにした途端、腹が自身の役割を思い出したかのように、ぎゅるりと唸る。

 「全然食べてなかった……お腹空いたな……」

 音を頼りに村の中を進んでいくと、目に入ってきたのはのどかな光景。

 しばらく進むとほとりが見えてきた。川岸には、やけに緩やかな水車がギィと軋んだ音を奏でている。

 「ここなら、何か分けてもらえるかも……」

 川の水で喉を潤したシスティーナは、水車小屋へ向かう。運が良い事に、そこには製粉している老婆がいた。

 「おや、お嬢ちゃん、どうしたんだい?」

 「あの……何か食べ物を……」

 「あらぁ、ごめんよ……この前起きた地滑りで川が倒木に堰き止められてしまってねぇ。お嬢ちゃんに分けてあげる余裕はないんだよ」

 「そんな…………あっ」

 その時、システィーナは何かを閃き老婆に提案する。

 「もし、その倒木を私がどうにか出来たら、少し食べ物を分けてもらえないかな?」

 「あらまぁ……お嬢ちゃんがかい?」

 「うん。川の流れを元に戻すから!」

 ――それからシスティーナは直ぐに事に当たった。

 川が堰き止められている上流まで向かうと、風の巫女の力を使い、局地的な強風で倒木や岩をあっさりとどかしてみせたのだ。

 結果を老婆に伝えると、老婆は驚きの声と共に、恐る恐る問いかける。

 「お、お嬢ちゃん、まさか……巫女様なのかい?」

 システィーナは首肯した。

 すると老婆はやにわに歓喜の声を上げると、村の広場へと向かい村中に声を掛けていく。

 その光景を見て、システィーナは確信する。

 ――やっぱり、正しく巫女の力を使えば、みんなが幸せになれるんだ。悲しい記憶だけじゃないんだよ。

 ここで暫く身を隠そうか、などと考えていたシスティーナの下に、老婆の話を聞きつけた村人が集ってきた。

 「――――ひっ」

 皆、面には出さないが、その声に宿る感情までは隠せてはいない。

 誰も彼もが、巫女の力を我が物にしようと、躍起になっていたのだ。

 どす黒い欲望をぶつけられ、システィーナが次第に身の危険を感じるようになっていたその時、村の者をかき分けて大柄な男が姿を現した。

 「こいつは俺の物にする! 異論がある奴は俺がぶちのめしてやるからなぁ!」

 「え? 何を……痛っ!?」

 男はシスティーナの抵抗など気にも留めずに強引に腕を掴む。抵抗する素振りを見せた彼女に対し、男は更に力を加えようとするが――

 「イヤっ! 離して!!」

 その瞬間。

 叫び声と共に、男が爆ぜた。

 男を強く拒んだシスティーナが、無意識の内に力を使った事で、男に落雷が降り注いだのだ。

 「ぁ……わ、私、そんなつもりじゃ……」

 システィーナの言葉は誰にも届かず。

 一瞬にして消炭にされた男の亡骸を見て、村人たちは口々に喚き立てた。

 「――ば、化物め!!」

 「こいつをアギディスに突き出すんだ!」

 憤怒。憎悪。侮蔑。

 人々の眼差しは、システィーナの中に嫌という程刻まれていた記憶と、寸分違わぬものだった。

EPISODE7 慟哭の果てに「身も心も、すべてが穢されていく。私はただ、この力を使って幸せになりたいだけなの」

 混乱に乗じて農村から逃走したシスティーナは、再びあてもなく彷徨う事になってしまった。

 どの街に辿り着いても、巫女だと分かった途端に人々は厄災の如くシスティーナを忌み嫌う。

 巫女がいる事を察知したアギディスに滅ぼされない為には、巫女を排斥するのが正しかったのだ。

 巫女は、村にとって“不幸の象徴”でしかない。

 彼女が安らげる場所は、何処にも無い。

 石を投げつけられるだけならまだいい。

 それ以上に心を蝕んだのは、彼女を否定する罵詈雑言であった。

 「私は……みんなと何にも変わらない。ただ、風の精霊の力を使えるだけ。たったそれだけで、心も体も踏み躙られるの!?」

 私は人間だ。ただ巫女の役割を与えられただけに過ぎないのに。

 巫女というだけで、どうしてこうも人々は目の色を変えてしまうのか。尽きぬ疑問は、システィーナを人々から遠ざけ、孤独を強いていく。

 こんな世界が、本当に自分の憧れてきた世界だったというのだろうか。

 「こんなの、私が夢見てきた世界じゃない……」

 逃げ込んだ森の中で、哀しみに暮れるシスティーナは膝を抱え孤独に涙を濡らす。

 「ぐすっ、う……っ……ぁぁ……ぅあぁぁぁぁ!!」

 少女の慟哭に力が共鳴し、空に重苦しい灰色の雲を形作っていく。それは直ぐに激しい雨をもたらし、大地に降り注ぐのであった。

 少女の叫びに手を差し伸べる者など、誰もいない。

 誰もが幸せになれる世界など、夢物語でしかない。

 世界は決して、優しくなどないのだから。

 食糧も尽き果て、ありもしない理想の世界を目指すのはとうに限界を迎えていた。

 誰かに助けも求められず、システィーナは失意と後悔の中、意識を深い闇の底へと手放すのだった。

 ――

 ――――

 獣道と言っても差し支えない程の荒れ果てた道を、一台の荷馬車が進んでいた。

 ガタン、と盛り上がった地面の上を通り過ぎる度に、容赦なく荷台が揺れ動く。

 ボロボロの荷台には、捕縛され身動きの取れなくなった少女たちが、乱雑に転がされていた。

EPISODE8 完美な世界「私の目の前に広がる光景。ずっと夢見てきた世界が、ここにある」

 鳥の囀る音が、システィーナの耳朶をくすぐる。

 「ぅ……ここ、は……」

 意識を取り戻したシスティーナは、上体を起こすとぼやけた視界のまま辺りを見回した。

 「――え?」

 眼前にはいつの間にか、知らない光景が広がっていた。

 最後に見た景色は、薄暗い森の中だったはず。

 身体の節々が痛む事から、夢の中とも思えない。

 目の前に広がる光景は、彼女にも見覚えがない世界で――否、ひとつだけ、心当たりがあった。

 そう、それは――

 「私が、夢見た世界……」

 システィーナの心の支えとなっていた、羊皮紙の中に描かれた美しき世界。それが、正に今、自身の目の前に広がっていたのだ。

 燦々と照りつける陽光を浴びて木々は瑞々しく育ち、青く澄んだ湖面には白い雲と山麓の緑がくっきりと映っている。ここは、自然の生命力を存分に感じられる場所だった。

 「夢じゃ……ないんだ……あの世界は、本当に……あったんだ!」

 「おやおや、元気な声が聞こえたかと思えば。お目覚めのようだねぇ」

 後ろから顔を覗き込むようにして現れたのは、長い白髪を結え、朗らかに笑う老婆だった。

 「あ、あなたは……?」

 「私はこの名も無き村の長をしている者さ。お嬢ちゃんたちが行き倒れになっていた所を、村の者が見つけてきたんだよ」

 「お嬢ちゃん……たち?」

 そう言われて、もう一度辺りを見回す。

 システィーナの背後には、円状に等間隔で設置された藁のベッドがあった。その上には、数人の少女たちが穏やかな寝息を立てながら眠りについている。

 皆、幼さの残る顔立ちで、歳の頃はシスティーナと大差ないだろう。

 「ここはねえ、儂らが山奥で開拓した秘境なのさ。見てごらん、美しい景色だろう?」

 「あ……はいっ。私、ずっとこんな綺麗な世界に行きたいって、思ってた……」

 「ホッ、そうかいそうかい。そりゃあ良かったよ。何もない村なんだけどね、ちょうど明日から年に一度の奉納祭を行うんだ」

 老婆の指さす方を見てみると、確かに村のあちらこちらでは祭りの準備に取り掛かっていると思われる村人たちが動き回っていた。

 「今日はゆっくりするといい。村を見て回っても良いし、この景色を心ゆくまで堪能してくれても構わないよ」

 「ありがとう、村長さん」

 老婆は踵を返して、歩いて行く。

 その先には、一際派手な装飾が施された小屋が建てられていた。恐らくは、そこが集会場のような役割を果たしているのだろう。

 「せっかくだし、どんなお祭りなのか村の人たちに聞いてみようかな」

 システィーナはベッドを降りて村中を見て回る事にした。視界の隅では少女たちが今も眠りについている。

 彼女たちは、一度も起きる素振りを見せなかった。

 「――なんて素敵な所なんだろう……」

 村を見て回ったシスティーナは、村の牧歌的な雰囲気を肌で感じ取っていた。

 お祭り用の食事を準備している者。

 藁で出来た人型のような柱に、花冠を飾り付ける者。

 祭りで披露すると思われる踊りに精を出す者。

 準備に勤しむ老人たちは、誰もが皆にこやかな笑顔で作業にあたっていた。

 「みんな元気だなぁ……」

 システィーナは、少ない食糧を巡って罵り合い奪い合っていた死の大地の人間たちを思い返す。

 住む所が違えば、これ程世界は変わるのだという事実に、自然と心が痛むのを感じていた。

 その時、ふと視線を感じる。

 振り返った先には、彼女らが信奉していると思われる“神”が大きく描かれた壁画があった。お世辞にも上手とはいえない、子供が描いたような極端に省略された絵。

 「……ここの人たちは神様を信じてるんだ」

 システィーナが至る所で見かけた神。目の前の壁画には他では見られなかった絵も描かれていた。

 恐らくは、奉納祭の光景を表したものなのだろう。

 中心にいる神を取り囲むように並んだ少女たち。更に、その外円では笑顔の老人たちが祈るように両手を天にかざしている。

 「――あれ?」

 刹那、システィーナの脳裏に小さな疑問が浮かんだ。

 それは、村を見て回る時にも感じていた、小さな、ほんの小さな疑問。

 「なんで……この村には“子供”がいないんだろう」

 それを口にした途端、システィーナの全身を悪寒が駆け抜けていく。

 そして、いつの頃の記憶かも定かではない、巫女の記憶が壁画に描かれた光景を再生する――

 「イヤな予感がする……」

 このままここに滞在していたら、明日の“奉納祭”で何をされるか分かったものではない。

 既に陽は傾きかけている。

 山奥と言ってはいたが、ここがどれ程の高さに位置するのかは見当もつかない。

 「でも、早く逃げ――」

 その言葉が最後まで紡がれる事は無かった。

 後頭部に強い衝撃を受けて、システィーナは地面に倒れ伏してしまう。急速に遠のいていく意識の中、視界を過ったのは――

 老人たちの、張り付いたような笑顔だった。

EPISODE9 奉納祭「これで私の人生は終わりなの? 私、まだ何もしてない、幸せになれてない!」

 ――陽が山の頂に沈みきった頃。

 年に一度の奉納祭は、最高潮の盛り上がりを見せていた。

 老婆とは思えない、快活な声が響き渡る。

 それに呼応するように拍手が巻き起こり、村人たちは歓声をあげていく。

 松明に照らされた笑顔は、悍ましい何かを浮かび上がらせているようだった。

 「……!?」

 歓声によって意識を取り戻したシスティーナ。

 咄嗟に身体を動かしてみたものの、じゃらじゃらと鎖の音が鳴るだけで、身じろぎする事もままならない。

 システィーナは、最初に目覚めた藁のベッドの前に打ち付けられた杭に、縛り付けられる形で立たされていたのだ。

 着ていたはずの服は、いつの間にか前開きの純白のローブへと着替えさせられている。他の少女たちも同じだった。

 そんな彼女たちを取り囲むようにして、老人たちは手にした木や石で思い思いの曲を奏でている。

 張り付いた笑みと不気味な音色が、この世ならざる世界を構築していくようだった。

 「……な、なんなのこれ! 今すぐ解いてよ!」

 「おや、おやおやおや」

 システィーナの耳元に、穏やかな声音が木霊する。

 背後に立っていた長老は、ゆるりと前に現れると、システィーナの身体を吟味するように顔を上下させた。

 「お嬢ちゃんは随分と逞しいんだねぇ。他の娘たちと違って薬の効き目が悪いもんだから参ったよ」

 「く、薬!? みんな眠りっぱなしなのは、あんたたちのせいなの!?」

 システィーナと同じようにローブを纏った少女たちは今も深い眠りの中にいる。

 少しだけ違うのは、その少女たちの目の前に向かい合うようにして、笑顔の老婆たちが立っている事だろうか。

 「これより、奉納の儀を執り行う!!」

 長老の声に応じて、老婆たちがパンッ! と同時に手を叩く。

 その瞬間、一度も目覚めなかったはずの少女たちが、まるで呪いが解けたかのように一斉に覚醒していく。

 「え?」「イヤァァァッ!?」「誰か助けてぇ!!」

 状況を理解した少女から順々に悲鳴が上がる。

 彼女たちは、狂気じみた村の雰囲気に完全に怯えていた。

 そんな少女たちの悲鳴など意にも介さず、長老は叫ぶ。

 「神に祈りを!」

 「「神に祈りを!!」」

 その声に合わせて、村人たちは寸分違わぬ挙動で同じ姿勢をとる。その統一された動きが、この村の異常性を如実に物語っていた。

 次に長老は、両手を空に天高く掲げ――何かを唱え始めた。

 それに呼応し、少女たちの前に立っていた老婆たちもまた、追随するように天に両手を掲げていく。

 その中指には、いつの間に装着したのか、鈍く妖しい光を放つ黒い爪が嵌められていた。

 そして、老婆たちは少女たちのローブを“下半身”のみはだけさせると、露わになった下腹部の前にしゃがみ込む。

 ――そして。

 「「神に捧げよ!!!!」」

 その禍々しい爪を、深々と突き立てた。

 少女たちの絶叫と老人たちの嬌声が村を震わせる。

 顔に浴びた液体をものともせずに、老婆たちは恍惚の笑みで少女たちを傷つける。

 「は、アハハ……何なの、これ……」

 「ホッ、待たせたねえ。この奉納の儀の最後を飾るのは、お嬢ちゃんの役目だよ?」

 阿鼻叫喚の地獄絵図の中、長老は穏やかに笑いかけた。

 「や……嫌! やめて!! 来ないで!!」

 必死に身をよじっても、しっかりと巻かれた鎖はビクともしない。あまつさえ、精霊の力を使おうとしても何も起こらず、ただ全身に走る恐怖に身を強張らせる事しか出来ないでいる。

 「なんで!? どうして応えてくれないのよ!!」

 刹那、身体に寒気を感じた。

 眼前でしゃがんだ長老が、システィーナのローブをはだけさせたのだ。

 長老の赤黒い爪が、システィーナの下腹部を貫こうとしたその時。

 「ぃ――――ぁあぁぁぁぁぁッ!!!!」

 雄叫びと共に放たれた精霊の力が、村を駆け抜けた。

 直後、長老がゆっくりと“左右”にズレ落ちていく。

 生々しい音だけが、村に響いた。

 嬌声に湧いていた村人たちは、一瞬の静寂に包まれた後、その眼を一斉にシスティーナへと向ける。

 「巫女様だァァァァ……ッ!」

 「神だ! 我らの神が救世主を遣わされた!!」

 「おおォォォッ! 救世主様アァァァッ!」

 興奮に沸きたった村人たちが、次々とシスティーナへ群がっていく。

 「来るな! 来るなァァァッ! なんで? なんで力を使えないのよぉぉ!!」

 どれだけ老人たちを拒もうとも、彼女に状況を変える術はない。

 鎖を解かれたシスティーナは、老人たちに担ぎ上げられたまま、村の中央に建てられた集会場の中へと姿を消すのだった。

EPISODE10 神の供物「もう何もかもが遅い。結局、私は無力でしかなかったんだ」

 集会場の最奥に設えられた祭壇。

 すえた匂いを放つ髑髏が無数に嵌め込まれた空の玉座の前で、四肢を鎖に繋がれたシスティーナは横たえられていた。

 僅かに動く手足を動かしてみても、鈍く光る鎖がじゃらじゃらと音を立てるのみ。

 精霊の力を捻り出そうとしても、無理矢理飲まされた薬のせいか、沸騰するような身体が集中する事を拒む。

 (私……なんて無力なの……、巫女の力も肝心な時に……っ……何も、出来ない……)

 システィーナは、絶望に染まる事さえ許されずにいた。

 ただ、これから自分の身に降り掛かろうとしている“何か”を、黙って受け入れるしかない。

 ――どうやら、その“刻”が来たようだ。

 ギィィ……と、重厚な扉を開く音が聞こえる。そこから続々と現れたのは、先ほどの儀式を執り行っていた老婆たちと祭りの準備を行っていた老人たち。

 皆、一矢纏わぬ姿で、システィーナの周りをぐるりと取り囲んでいく。

 

 「巫女様には、この村を守る救世主として、すべてを捧げてもらうよ」

 老婆の声が室内に木霊した。

 四方から、張り付いた笑顔がにじみ寄る。

 「いぁ……こ、なィで……」

 神への感謝の言葉を口ずさみながら。

 「やめ、て……いぁ……おねが、ィ……」

 純白のローブがはだけ、褐色の肌が露わになる。

 「たすけ……だぇか、たすけ、て……」

 老人たちのしわがれた手が、システィーナの髪を、歯を、肋骨を――順々になぞりあげていく。

 「あぁ! はィって、くる……な、あァァ――ッ!」

 少女の悲痛な願いは、亡者のように群がる老人たちの声に埋もれ、どこにも届く事はなかった。

 ――

 ――――

 三日三晩続いた狂乱の宴。

 その終焉は、余りにあっけないものだった。

 玉座に捧げられたダガーが転げ落ち、その持ち手にシスティーナが触れた途端、鋭い風の刃が老人たちを一瞬にして細切れにしたのだ。

 あらゆる臭いが混ぜ込まれた、吐き気を催す程の臭気の中、システィーナは虚な目でダガーを見つめる。

 歴代の巫女の記憶の中で、その『蒼穹のダガー』は常に巫女と共にあった。セリエが言っていた言葉は、これを意味していたのである。

 「ふ、ふふ……今更……遅いよ……こんな……アハ、アはハハ、アははははは――――!!」

 誰もいなくなった玉座の前で、システィーナはボロボロになった己の身体を抱きしめながら、一心不乱に泣きじゃくるのだった。

 あれだけ願った美しき世界。

 そんな夢のような場所など、この醜い世界には何処にもありはしないのだ。

EPISODE11 望まれぬ子「私は、幸せになりたいの。その為なら――自分の娘だって捧げるわ」

 私は、死体の山が築かれた村から逃げ出した。

 どうやって山を降りたのかも覚えていない。

 その間に、何度も陽は登り、何度も沈んでいった。

 どれだけの月日が流れたのかも分からない。

 気が付いた時には、私は奴隷商の男の荷馬車に乗せられ、アギディスへと“出荷”されていた。

 捕まる前に『蒼穹のダガー』を使って抵抗してみたものの、精霊の力は殆ど発揮されず、そよ風程度の子供じみたものしか出せなかった。

 本当に、肝心な所でなんの役にも立たない短剣だった……。

 でも、そんな事はもはやどうでもいい。

 私は精霊の力に見放されてしまったのだから。

 巫女なんて、ろくなものじゃない。

 美しい世界なんて、この世には存在しない。

 愚かな私が幸せになろうだなんて、烏滸がましいにも程があったんだわ。

 すべては……勝手に外の世界を夢見た、私が悪かっただけ。

 いっその事、自分で死を選べればどれだけ良かったか。

 私には、セリエみたいに自ら命を差し出す事も、誰かの為に身体を捧げる事も出来ない。

 そんな勇気があれば――

 「……っ……ぅぷ……」

 身体に感じた異変。

 “それ”は、お腹の中で微かに脈打っていた。

 「ぇ……? 嘘よ……ぁ、アハ……あの時の……なんで……私ばっかり、こんな……っ……ぅ、あ、ぁぁぁ――」

 ――あの日から、数ヶ月。

 私はアギディスの巫女として、迎え入れられる事になった。

 アギディスの権力者たちは、衰退した私の力を目の当たりにした時、とても酷く落胆したのを覚えている。

 けれど、私が身籠っていると知るや、皆一様に笑顔を浮かべ、膨らんだ私のお腹に何度も頬擦りしていた。

 その表情は、奉納の儀を行っていた老人たちと同じ、張り付いた笑みだった――

 もうすぐ私は、出産の日を迎える。

 アギディスの女官が言っていたけれど、身籠った巫女は必ず女を授かるらしい。だから、あの醜く肥えた権力者共は安堵していたんだ。

 精霊の力は、莫大な富を産む。

 精霊の力は、争いを有利に運ぶ。

 なら、その先にあるのは――

 「そうだわ、この子を上手く“使えば”……私は今度こそ“幸せ”になれるかもしれない」

 そうよ。

 ええ、そうだわ。

 薄汚い人々に穢され、奪われてきたものを、これから取り返していっても構わないでしょう?

 私にも、幸せになる権利があるのだから。

 「――ぁ」

 ふふ、貴女も私の考えに賛同してくれるのね。

 「あぁ、早く産まれないかしら?」

 あやすように、慈しむように。

 膨らんだお腹をそっと撫でる。

 この子の名前はもう決めていた。

 きっと、この子が私を幸せにしてくれる。

 ――そうでしょう?

 「私のシエロ」
EPISODE1 ジュナ・フェリクス「アテリマの教えを守り、正しく民を導く父と母。私にとって両親は何よりの誇りなのです」

 水の都ティオキア。

 ここは豊穣神ネフェシェを信仰し、清貧を良しとするアテリマ教信者の民で構成された街である。

 アテリマ教と一口に言っても、地域や出自によって多くの派閥が存在する。

 中でも多くの信者を抱える『フェリクス一派』という派閥は、司祭と教母の夫婦を長とし、アテリマ教の教えを守りながら、質素に、そして静かに暮らしていた。

 そんな夫婦の第一子女である、ジュナ・フェリクス。

 父は豊富な知識を、母は慈愛の心を。

 両親から惜しみない愛情を与えられたジュナは、真っ直ぐに、品行方正で聡明な少女へと成長していった。

 優しい家族や信者に囲まれた穏やかな暮らし。

 この世に蔓延る人間の悪意や醜さなど知ることなく、ジュナは幸福を謳歌する。

 だが、そんな彼女もやがて知る事となる。

 精霊を巡る悲しき運命からは逃れられぬ事。

 そして、この幸せな日々には二度と戻れない事に。

EPISODE2 フェリクスの名を背負って「両親やギュスターブの応援。それに応えなくては。期待に応えるのは、私にとっても嬉しい事なんです」

 神の御魂である精霊をその身に降ろし、その力を借りて行使する『巫女』。

 ティオキアの中央区には、この巫女の育成を目的とした、由緒正しき名門学園がある。

 学園では、卒業試験時に最も優秀な成績を収めた者が、巫女候補生として水の巫女になる事を約束されている。

 豊穣神ネフェシェへの信仰が強いこの都では、巫女への崇拝も並々ならぬものではない。

 そのため、娘を持った貴族にとっては何としてでも入学させたいと願う学園であった。

 しかし、当然そう簡単に入学する事はできない。

 学術はもちろん、体術、教養、作法。ありとあらゆる面で高度な入学資格が要求され、いわば“選ばれし者”のみがその門をくぐる事が叶うとされている。

 フェリクス家も、多分に漏れず娘を巫女にしたいと願っていた。

 「ジュナならきっと水の巫女様になれるわ。あなたの穏やかで優しい心は、ティオキアの平和を担うにふさわしいもの」

 「君はフェリクス一族を立派に背負う子だ。ネフェシェ様もきっとジュナの素晴らしさを理解してくださるに違いないさ」

 そう言って、父と母はジュナをそっと抱きしめた。

 幼いながらも両親から期待されている事を理解したジュナは、その思いに報いなければと強く心に誓う。

 自分だけでなく、信者からも慕われるカリスマ性溢れる憧れの両親。

 両親の思いに報いたいという気持ちは、ジュナが心から思う親孝行の手段だった。

 その思いを体現するように、明くる日からジュナはこれまでより一層勉学に力を入れるようになる。

 時には病に侵されフラフラになりながらも、一切手を抜くことはない。

 そこまで頑張ることができたのはジュナ自身の真の強さもあるが、幼馴染であるギュスターブからの励ましが大きかった。

 「ジュナは何でもできて凄いな。俺の方が年上なのに、見習わなきゃいけないことばかりだ」

 「そんなことないわ。ギュスターブの方が私より走るのが速いじゃない」

 「いーや、それは去年までの話。この間のかけっこだって、最後はジュナが逆転したじゃん。俺が唯一勝てるとしたら……もう身長ぐらいしか残ってないかもな」

 おどけて笑いながら、ギュスターブはジュナの頭を撫でる。

 その手は父のものより小さいが、ジュナにとってはとても大きく、撫でられる度にジュナは心がポカポカと高揚するのを感じていた。

 それが兄に対するような感情なのか、恋心なのかは、今のジュナ自身は判別できなかったが、毎日の努力への原動力になったのは確かだった。

 そしてジュナは、難関な試験を無事に乗り越え、トップの成績で学園への入学を果たす。

 喜びに満ちるフェリクス家。

 この時誰もが、ジュナが輝かしい未来を歩むのだと、そう信じていた。

EPISODE3 星降る丘の上で「寂しい気持ちがなくなったわけじゃない。でも……彼との約束があれば、きっと頑張れる気がする」

 入学前日の夜。ギュスターブはジュナの両親の許可を得て、ジュナを草原の広がる小高い丘へと誘った。

 二人は草原に寝そべると、零れ落ちんばかりに無数の星が輝く夜空を見上げる。

 まるでジュナの門出を祝うように爛々と輝くその空に、感動するジュナ。

 その横顔を見つめるギュスターブは、嬉しそうに笑う。

 「ジュナはしばらくここから離れちゃうからさ。俺たちの故郷の空を一緒に見ておきたくて」

 そのギュスターブの言葉を聞いて笑顔になったジュナだったが、ふいに何かに気がついた様子を見せると、切なげな声を漏らした。

 「やっぱり……寂しいな……」

 明日から入学する学園は、厳しく生活を管理される全寮制。卒業までは、たとえ休暇中でも故郷に戻る事は許されていない。

 入学試験に合格した事は嬉しかったが、2年制の学園生活。長い間両親やギュスターブに会えない。

 頭では分かっていたつもりのジュナも、いざ入学を前にしてやっと実感が湧いてきたのか、胸の中が不安と寂しさでいっぱいになっていく。

 そんなジュナに、少し困ったように笑いかけたギュスターブは、おもむろにポケットから木製の小さな笛を取り出した。

 「これはお守り。この笛を吹くと俺の相棒がジュナの元へ駆けつけてくれるよ」

 そう言って、ギュスターブは軽く笛を吹いてみせた。

 甲高くも柔らかい音が草原に広がったと思うと、どこからともなく小さな青い羽の鳥がやってきた。

 「こいつは優秀だから、手紙くらいなら運んでくれる。卒業までは会えないけど、手紙のやり取りをして励まし合おう」

 ギュスターブが小指を立てて見せる。

 応えるように同じくジュナも小指を立てると、お互いにそれを絡ませて約束を誓った。

 「……って、ちょっとクサかったよな!」

 「ふふっ、ちょっとだけ。でも……嬉しい」

 照れ笑いをする、いつもと変わらぬギュスターブの表情。

 たとえ数年会えなくても、目の前にいる男の子はきっと変わらない。

 そう確信したジュナは安堵し、またギュスターブもジュナを守り続けたいと心の中で誓うのだった。

 そして、入学当日。

 フェリクス家の第一子女として立派な巫女になるべく、ジュナは大きな門をくぐる。

 その表情に、もう不安の色はない。

 「――アテリマの教えを守り、清廉な学園生活を送る事をここに誓います。新入生代表、ジュナ・フェリクス」

 講堂に拍手が響く。

 入学試験で首席だったジュナは、新入生の代表として式の答辞を読み上げた。

 近年稀に見る優秀な生徒の入学に、すでに教師陣からも期待が高まっている。

 ジュナが迎えた新しい生活は、華々しいものだった。

EPISODE4 親友の名は「もう、ピアったら! すぐからかうんだから! 彼に恋してるかだなんて……そんなのまだ早いわ!」

 新入学生へ向けた学校案内を終え、寮にやってきたジュナが自室を探そうと廊下を歩いていると、後ろから声をかけられる。

 振り返ると、そこにはおさげにした金髪を揺らす少女が立っていた。

 「あなた、ジュナでしょ?」

 「ええ、ジュナ・フェリクスは私よ」

 「私はピア。あなたと同室のルームメイトよ! よろしくね!」

 「わあ! どんな人とルームメイトになるかちょっと不安だったから、素敵な人で安心したわ! こちらこそよろしくね、ピア」

 「私のほうこそ相手がジュナで光栄よ。フェリクス一派の事はお父様から聞いていたし、式での答辞も素晴らしかったわ!」

 フェリクス一派の活躍ぶりはピアの故郷にも届いていた。

 両親や信徒達が評価されるのはジュナにとっても嬉しく、共通の話題があるおかげで二人が打ち解けるのに時間はかからなかった。

 話題は次第に身の上話になり、ピアはティオキアの中でも中央都市から最も遠い区域より、水の巫女になるべくこの学園にやってきたのだという。

 「送り出してくれた家族のためにも、きっと水の巫女になってみせるわ!」

 キラキラと瞳を輝かせながら語るピアを見て、ジュナは気づく。

 水の巫女になれるのはただ一人。当然ジュナもその座を目指している。

 この学園では、友人とはいえ皆がライバルなのだ。

 ジュナは気を引き締めなければと思いつつも、やはり進学して早速新たな友人ができた事が嬉しくてたまらなかった。

 ルームメイトという事もあり、二人はあっという間に仲の良い友人――いや、親友と呼べるまでに関係を育んでいく。

 毎晩のようにベッドの上で繰り広げる、故郷で起きた面白おかしい思い出話に、涙が出るほど笑い転げる二人。

 だが、故郷の話をするのは決まってジュナばかり。

 一度ジュナがピアの話を催促したが、決まって「うちは田舎で貧乏だから面白くないよ」とはぐらかされてしまう。

 唯一知り得る事が出来たのは、ピアがいつも指に嵌めている指輪はピアの一族の家紋が入った大事なものという事だけだった。

 ――それからしばらくの時が経ち、学園生活にも慣れ始めた頃。

 ジュナは誰にも見つからないように、こっそりと校舎の裏にある人気のない噴水広場にやってきた。

 噴水の縁に腰かけ、今しがた届いた便りの封を丁寧に開ける。

 

 「ふふっ、ギュスターブったら……」

 便箋にはぶっきらぼうな字が目一杯に広がっており、差出人の思いが伝わってくるようだ。

 故郷の街の平和な一日や、ジュナの両親の様子、そしてギュスターブ自身もジュナに負けないよう日々鍛錬を積んでいる――。

 そう記されていた便箋を胸に抱き、ジュナは空を見上げる。

 自分の知らないところで、ギュスターブも頑張っている。

 その事実はジュナにとって最高の励みになり、毎日の学園生活への活力になっていた。

 ――また別の日。

 昼下がりの中庭で昼食を食べるジュナとピア。

 「手紙交換?」

 「ええ。幼馴染としているの。学園の規則ではお手紙を出すのも禁止されているから、内緒で……」

 「ふふっ。ジュナはその人の事が好きなんだね~」

 「す、す、好きっ……!? そ、そんなんじゃないよ! でも、家族と同じくらい大切な人……ではあるわ」

 「ふーん? じゃあさ、私と幼馴染どっちが大事?」

 いたずらっ子のようにニヤニヤとした笑みを浮かべたピアが、ジュナの顔を覗き込むように尋ねてくる。

 「そんなの選べないわ! だって、ギュスターブもピアも、どちらも大切な存在だもの……」

 イジワルな質問をされて困っていると、タイミング良く予鈴の鐘が鳴る。

 これ幸いとばかりに、ジュナは話をはぐらかしつつ小走りで立ち去っていった。

 その後ろ姿を見ていたピアが、小さく呟く。

 「へえ……ずっと一緒に生活している私より、そんなに大切な人がいるんだ……」

 その声は、先ほどまで友人に向けていた優しいものとは打って変わって、まるで水の底に沈んだような冷たい声。

 小さな小さなその呟きは、ジュナの耳にはまだ届いていない。

EPISODE5 二人を繋ぐ青い羽「一体どこへ行ってしまったの……? 彼と私を繋ぐのは、あの子だけなのに……」

 巫女になるための勉学や体術、そして所作などを1年間みっちり学んだジュナは、無事2年生へと進級する。

 卒業まではあと1年。成績優秀で、ほとんどの科目で『良』を取り続けているジュナは、きっと自分が巫女候補生になれるという自信があった。

 ある日のこと。

 教室内を歩いていると、ジュナは何かに躓き転びかけてしまう。

 障害物など何もなかったはず――そう思って振り返ると、クスクスと笑いながらこちらを見る女子生徒が数人。

 「あら、ごめんなさい。足が引っかかっちゃったみたぁい。でもぉ、ジュナさんって意外と鈍いのねぇ」

 「あ、いえ……そうですね、ちょっとぼうっとしていたのかもしれません」

 成績優秀で品行方正。そんな人物を妬むものは、どこにでも現れるもの。

 ジュナの存在が気に食わない一部の集団は、これを機に度々ジュナへとちょっかいを出し始める。

 初めのうちは些細な悪戯だったのでジュナも気にしないようにしていたが、その平然とした態度がますます気に障ったのか、悪戯は悪戯という呼び方では済まされないほどにエスカレートしていく。

 ジュナは誰かに相談しようとしたものの、学園の中に自身に関する問題事を生みたくない一心で、親友であるピアにさえ助けを求められずにいた。

 悪戯に耐えながらも2年目の学園生活は続き、卒業試験まであと少し――。

 ジュナは、卒業まで自分が我慢すれば、こんな毎日もきっとすぐ“過去”になる。そう信じて耐え続けていたが、教科書や私物を捨てられ、偶然を装って水をかけられたりと、エスカレートしていく行為に心の限界を迎えていく。

 それでも、ジュナは涙をぐっと飲んで、前を向く事ができた。

 ジュナの心を唯一支えていたのは、ギュスターブからの手紙。

 手紙のやり取りだけが、辛い学園生活を忘れさせてくれていた。

 しかし、いつもならとっくに届いているはずのその手紙が、1週間以上来ていない事に気付く。

 手紙の配達役である小鳥に何かあったのだろうかと心配になったジュナは、いつもの噴水広場にやってくると笛を吹いた。

 だが笛の音は、ただ空へと消えていく。

 ジュナはいても立ってもいられず、たとえ僅かな可能性だったとしても、小鳥を探しに走るのだった。

 ――その頃。学園校舎の一番端にある教室に、複数の人影があった。

 「ふふっ。『親愛なるジュナへ』ですって!」

 「『君が頑張っているから、僕も頑張れる』……なーんて美しい愛なのかしらぁ!」

 ジュナを妬む例の集団が、ギュスターブがジュナに宛てた手紙を次々に回し読みしている。

 机に腰掛け、下品な笑い声を上げながら手紙の内容を茶化す一行。

 その足元には、床に膝をつくピアの姿があった。

 「リュアレさん……もう、それくらいにした方が……」

 「あらぁー? 手紙を持ち出したのはピアさん、貴方ですのよぉ? 貴方だって立派な共犯じゃなくてぇ?」

 「そ、それは……」

 リュアレと呼ばれたリーダー格の女生徒は、途端に興味を無くしたのか手紙を床に投げ捨てた。

 代わりにピアへと歩み寄ると、見下ろすように仁王立ちになる。

 「私に意見するなんて偉くなったものねぇ、ピアさん。ど田舎の『呪われた村』出身の分際で」

 「…………っ!」

 「入学直前に親族含めて村中全員が突然死。そして、唯一生き残ったのが貴方だなんて。呪われているのは“村”ではなく“貴方”じゃなくてぇ?」

 取り巻きの嘲笑が教室に響いた。

 ピアは黙って、ただ俯いている。

 「隠してるようでしたからぁ、私は“好意で”黙っててあげて差し上げたのに。飼い犬に手を噛まれた気分ですわぁ」

 「も、申し訳ありません……」

 「……私達、これからも良い関係を築けるわよね? 貴方も同じ気持ちでいるなら、その手の中にある“ソレ”を処分しなさぁい」

 その言葉にハッとしたピアは、下を向いて自らの手を見る。

 両手を合わせて軽く握られた手の中の空間には、もぞもぞと動く青い羽。

 それはジュナとギュスターブを繋ぐ手紙の、配達役を担っていたあの小鳥だった。

 「し、処分だなんて……そんな……」

 「……そもそも学園では、動物の飼育、手紙の交換は学園の掟で禁じられているはずよぉ? 生徒の模範であるジュナさんの罪は、同室であるピアさんの罪でもあると思わなぁい? さあ、やりなさぁい。たかが小鳥も処分できない無能じゃないでしょぉ?」

 「でも……」

 「ピアさんっ!?」

 「は、はい……!」

 ピアは、もがく小鳥の首筋に両の親指を添える。

 そして目を瞑ると、一度だけ大きく深呼吸をした――。

EPISODE6 小さく冷たい骸「ごめんね……守ってあげられなかったね……。きっと暖かい場所に行けるように、私祈るから……」

 小鳥を探すために学園中を走り回っていたジュナは、最後に自分の教室へと辿り着いた。

 授業はとうに終わり、生徒は皆寮に帰っているため誰もいない。

 夕焼けが教室を照らし、カーテンや机、あらゆる物を真っ赤に染めている。

 それは、美しい青い羽さえも――。

 ジュナは慌てて駆け寄ると、小鳥の亡骸を抱き上げた。

 血液混じりの体液を口から吐き、苦痛に歪む顔のまま絶命しているそれは、一目見て第三者に手をかけられたという事が分かる。

 どんな辛い殺め方をされたのか。したくもない想像をすればするほど胸が痛む。

 「ごめんね……ごめんね……」

 ジュナに責任があるわけではないが、それでも謝らずにはいられなかった。

 その亡骸の頭を何度も撫でていたジュナだが、ふと床に千切れた紙片がある事に気付く。

 拾い上げたその一片には、見慣れた文字。

 かき集めて検証するまでもなく、その紙片が何なのかはすぐに分かった。

 心臓がバクバクとジュナの胸を突き上げる。

 ――誰が? 何のためにこんな事を?

 自室の机の引き出しの奥に忍ばせていた、ギュスターブからの手紙。

 その在処を知り、持ち出せる人物。

 こんな事認めたくない。だが、頭の中に浮かんだ人物がこびりついて離れない。

 「ピア……どうして……」

 ギュスターブがずっと大事にしていた相棒。

 ジュナのために懸命に手紙を送り届ける、あの美しい翼の姿が浮かんでくる。

 それを殺したのは、他ならぬ親友。

 これまで堰き止めていた憤り、苦しみ、悲しみが一気に溢れ出したジュナは、日も暮れかかった誰もいない教室で泣き喚いた。

 まるで小さな子供のように。

 校舎の裏にある小さな森の中にジュナは小鳥を埋めた。

 膨らんだ土を見つめるその瞳に、光はない。

 リュアレ達に目の敵にされ、辛いものとなってしまった学園生活。

 乗り越える事が出来たのは、小鳥が運んでくるギュスターブの手紙があったからだ。

 明日は卒業試験初日。

 巫女に選ばれても、選ばれなくても、ギュスターブにどんな顔をして謝ればいいのか。

 様々な負荷要素に心が押しつぶされるジュナは、森の中で一人呆然と立ち尽くす。

 「私は……それでも前に進まなくちゃ……」

 血反吐を吐くように、ジュナはすでに空になった気力を無理やり振り絞る。

 卒業試験が終われば、この苦しみから幾らかは解放されるはず。

 まるで自身を奮い立たせるように。

 ジュナは自分にそう言い聞かせ続けていた。

EPISODE7 その問いの意味「なぜこんな問題に答えなくてはならないの……? でも今は、ただひたすらに答え続けるしかない……」

 卒業試験当日。

 試験はとある山奥で、早朝に行われると学園側から突如発表された。

 生徒達は当然戸惑うが、否応無しに馬車に詰め込まれ山へと連れていかれてしまう。

 そして辿り着いたのは、山奥に佇む古い洋館を改装した試験会場。

 まずはここで筆記試験を行うのだという。

 それぞれ生徒が座る机の上に、大量の問題用紙が配られていく。

 生徒達は机にうず高くそびえるそれを、深夜までみっちり解き続けなくてはならない。

 教師がハンドベルを振るのを合図に、皆一斉に取り掛かった。

 言語能力や数式といった基本的な勉学はもちろん、巫女として人の上に立つ上での所作など、様々な問題が用意されている。

 内容はハイレベルではあるが、生徒達も皆エリート。苦戦する者もいるが、次々と問題用紙の山は減っていった。

 (さすが卒業試験……確かに難しいけれど、これならいける……!)

 学年主席の肩書は伊達じゃなく、ジュナは誰よりも早く解答を埋めていった。

 怒涛の筆記試験はゆうに8時間は超え、精神的にも肉体的にも疲弊し誰もが憔悴の色を隠せなくなった頃。

 一番初めに異変に気付いたのはジュナだった。

 (この問題……さっきからなんだかおかしいわ……)

 問題内容が明確に答えの存在するものから、答えが漠然としたものへと少しずつ変化していた。

 『恋人と家族が崖から落ちそうになっています。片方しか助けられないとしたら、あなたはどちらを選びますか』

 『どのような仕打ちを受けたら、報復が認められると思いますか』

 『ナイフ一本で人間を殺傷する場合、どの箇所を狙うのが最も効果的ですか。理由も添えて答えなさい』

 『食料のない極限状態の下、あなたは隣にいる友人を食さなくては生き残れません。どのように説得、または凶行に及びますか』

 漠然としていた問いは、やがて直接的な暴力をほのめかす内容となっていく。

 それは解き進めるほどに凄惨さを増していき、ついには気分を害して脱落してしまう生徒も現れ始めた。

 ジュナも例外ではなく、確実に心にダメージを受けていく。

 だが、直近に身をもって辛い目に遭っていたジュナの心は麻痺しており、うつろな瞳を浮かべながら黙々と問題に取り掛かり続ける。

 「お父様……お母様……ギュスターブ……」

 現実から逃避するように、ジュナは小さく呟き続けていた。

EPISODE8 凶行は塔の中で「このままじゃ、私は殺されてしまう……でも……だからといって、この手を汚すなんて……」

 数日後、ついに最終試験の日がやってきた。

 初日の筆記試験の後は格闘実技や座学などが淡々と行われ、その度に生徒達は振るいにかけられていった。

 ここまで辿り着いたのはわずか10名。その中に、ジュナの姿もある。

 最終試験会場として彼女らが呼び出された先は、今までの会場とはまったく違う窓ひとつ無い暗い塔の中。

 およそ試験など行われそうにない空間に戸惑っていると、塔の中に試験官らしき人物の声が響き渡る。

 『あらゆる方面に秀で、ここまで残る事ができた者達よ。まずはおめでとう。早速だが、これより最終試験を始める』

 試験管の声を聞きながら、ジュナの目は闇に慣れ始める。

 足音や声の反響から、がらんとして何もないと思っていた塔の中。

 だが目を凝らすと、ぐるりと周囲を囲う壁一面に、様々な物品が置いてある事に気付いた。

 斧、剣、ナイフ、棍棒、弓矢、その他様々――――。

 『試験内容は至って単純なものだ。君達には最後の一人になるまで戦い合ってもらう。なお、方法や生死は問わない。では、始め!』

 ――今、何と言ったの?

 戦い合う……?

 戦うって、傷つけ合うという事?

 もしかして、あの武器を使って……?

 そんな事をしたら、怪我なんかで済むわけない……!

 突然突きつけられた過酷な試験内容に、ジュナの頭は混乱する。

 それはジュナだけではなく周りの生徒も同じだったようで、開始の合図を告げられてなお、その場から動く事ができずに戸惑うばかりだった。

 だが、その混乱を打ち破る者が現れる。

 それは静謐さの欠片もない、醜い咆哮。

 「おらあああぁぁぁーーーー!!!」

 ジュナがその声に反応し振り向こうとした瞬間。

 背中に激痛が走ったかと思うと、とっさの事に受け身を取れなかったジュナはそのまま前のめりに倒れてしまう。

 顔を床に打ち付けたジュナの鼻から、赤黒い血が吹き出す。

 鼻血を出すなど、ジュナにとっては初めての経験だった。

 ジュナは顔面と背中の痛みを堪えながら、何とか身を起こし振り返る。

 そこには、リュアレの姿があった。

 「ふー! ふー!! 私はっ、巫女になるのっ!! 必ず……必ずっ!!」

 両手には今しがたジュナの背を打ち付けた棍棒が握り締められている。

 荒い呼吸と血走った目。

 底意地は悪くも、名家の生まれらしく優雅な普段の振る舞いはどこにもない。

 ただ、リュアレがどんな手段を使ってでも巫女になるという覚悟を持っている事は、痛いほど伝わってきた。

 ――私、ここで死ぬの?

 死が現実となって目前に迫っている事を実感した瞬間、ジュナは恐怖で脚がすくみ、動けなくなってしまう。

 打ち付けた背中と顔がドクドクと熱を持つ。だが、それにも気付く事はない。

 動け、動かないと殺される。

 そう思えば思うほど、身体は硬直してしまう。

 「もらったっ……!!」

 その声に、ジュナが身を竦めた瞬間だった。

 リュアレが握り締めた棍棒を振り上げたその肩に、手斧が深々と突き刺さった。

 断末魔の叫びを上げるリュアレから、骨まで達した手斧を無理やり引き抜き、その人物は叫ぶ。

 「ジュナっ!!」

 それは、聞き慣れた力強い声。

 それは、学園生活を最も共に過ごした親友の声。

 「ピア!!」

 ジュナは自然と呼応する。

 本来であれば、ジュナに非道い仕打ちを加えた拒絶すべき相手。

 だが、縋る先もなく、過酷な試練で心身ともに削られて限界状態のジュナにとっては、一筋の希望の光に見えた。

 事実、ピアはジュナを守った。

 その手を汚してまで。

 「ジュナ。今は心を無にして、自分の身を守る事だけ考えて」

 ピアの言葉にジュナは黙って頷くと、リュアレが落とした棍棒を手に取った。

 そして互いを守るように、ジュナとピアは背中合わせになって構えを取る。

 極限下における錯覚かもしれない。

 それでもジュナは、背中から伝わる親友の熱の有り難みを噛み締めていた。

EPISODE9 満たされる血の香り「仕方なかったのよ……やらなきゃ、やられるから……一人じゃなかったから……私は生き延びた……」

 「自分の身を守るため……自分の身を守るため……」

 ジュナは心の中でそう何度も繰り返しながら、身に降りかかる火の粉を払い続けた。

 ――いや、戦い続けた。

 戦いの中で、棍棒を落とせばナイフを、ナイフを奪われれば斧を。

 次々と持ち替えては、学友の肉体へと振り下ろす。

 凶行は日を跨いでも続き、いつしか塔の中は血の匂いで充満していた。

 気づけば残っているのはジュナとピアの二人だけ。他の候補者はあちこちに横たわっているが、その生死は定かではない。

 かくいうジュナ達も心身共にボロボロであり、これ以上は命に関わるほどの血を流している。

 張り詰めた緊張が解けたジュナは、力なくその場にへたり込んでしまった。

 そんなジュナに寄り添うように、ピアも同じように力なく座る。

 しばらくそのまま、互いに一言も発することなく息を整えていた二人だったが、沈黙を破ったのはピアの方だった。

 「ジュナ、ごめんなさい。貴方に謝らなければいけない事があるの」

 「……知ってる。小鳥の事でしょう。もう言わなくていいよ」

 「ジュナ……」

 「許す……とは今はまだ言えないけれど、ピアにもきっと事情があったんでしょう? どうしてあんな事をしたの?」

 「……リュアレに、私の故郷の事を知られてしまったから……それを秘密にする代わりに、命令を聞くしかなかったの……」

 「そう……だったんだ。ねえ、ピア。ピアが故郷の事を話したがらないのは何となく気付いていたけれど、それって私にも言えない事なの?」

 ジュナからの問いに、苦虫を噛んだような、それでいてどこか微笑を浮かべるピアが答える。

 「……私の一族はね、この都で言うところの邪教徒なんだ」

 「邪教……」

 「そう。アテリマ教を信じないで異教の神を信仰する教徒。特にフェリクス一派は異教に厳しいから、ジュナの両親に会ったら殺されちゃうかもね」

 「そんな……」

 驚くジュナをよそに、ふいに立ち上がったピアは「うーん」と唸りながら身体を伸ばした。

 そして、座ったままのジュナに笑顔を向ける。

 その顔は、学園での毎日を楽しく過ごしていた頃の眩い笑顔そのものだった。

 晴れやかで、澄み切っていて、まるで何か大きな仕事をやり遂げたような。

 「最後だし、せっかくだから私の事を教えてあげるね」

 ジュナだから、特別。そう言ってピアは語り始める。

 数年前、異教であるピアの一族が、アテリマ教に染まり切った国の牙城を崩さんと日々情報収集を続けていくうち、とある事実を掴んだ。

 それはジュナ達の通う学園と、巫女継承の儀に隠された闇。

 「ねえ、ジュナ。学園はどうして私達にこんな酷い試験を与えたと思う?」

 「それは……分からないわ……」

 「この試験そのものが、精霊継承の儀だからだよ」

EPISODE10 ティオキアの真実「いいよ……私の全部、貴方にあげる……。だから……必ず幸せになって……約束よ……」

 殺し合いをさせて人間を極限状態に起き、その命に強烈な生への渇望を強制させる。

 そうして、生と死が生み出す混沌を精霊へ捧げ、より強大な力を生き残った者へ与え巫女とする。

 言うならば、強い力を持つ巫女を生み出すために多数の候補者の命を生贄にする行為。それを、もう数え切れないほど何代も前から繰り返し行い続けているのだと、ピアは言う。

 「それがこの試験の意味。他国に比べて、水の精霊の力が抜きん出ているのはそういう裏があったから。ティオキアの豊穣な大地を守るために、何人もの候補生達が殺されてきた」

 「そ、そんなの信じられないわ! それに、それほど多くの人が殺されたら、家族が黙っているはずない!」

 「記憶を改竄させるの。精霊の力を降ろしたばかりの巫女を薬で操って、候補生の事を知る人は家族でさえ“最初からいなかったように”思わせる。初めは多少の違和感は残るかもしれないけれど、精霊の力を使えば人の身体や記憶なんてどうにでもなるわ……」

 「嘘……嘘よ……」

 にわかには信じられない話だが、もしもそれが本当であればジュナが信じてきたもの全てが崩れてしまう。

 ティオキアという都、両親の教え、憧れた巫女という存在そのものさえも。

 だからジュナは、ピアの話に小さく首を振り続けるしかない。

 そんな様子を呆れるように鼻で笑ったピアが続ける。

 「それを知った時、私はチャンスだと思った! みんなから迫害されて、掃き溜めのような所に隠れながら送る惨めな暮らし。そんな暮らしをやっと捨てる事ができるって! うんざりだったの! 異教の家に生まれたからといって、害虫のような生活を送るのは!!」

 ピアは俯いて、まるで泣いているように肩を震わせていたかと思うと、クスクスと笑い出した。

 その声は次第に堪えきれなくなり、塔の中にピアの高笑いが響いていく。

 「……ピア?」

 「……巫女になれば、新しい私に生まれ変わる事ができる。だからまず、一族もろとも村中の人達を殺して学園に入学したの。試験は大変だったけどね。でも、まさかあんな辺鄙な所にある村の事件をリュアレが知っていたのは驚いたわ」

 「な、何を言っているの……?」

 「まだ理解できないの? 本当にジュナはお人好しなんだから。でも、そんなジュナがルームメイトだなんて本当に幸運だった。成績優秀、文武両道、生まれも良い。まさに巫女になるのにふさわしい女の子なんだもん」

 聡いジュナは、決して理解していないわけではなかった。

 ただ、アテリマの教え以上に自分が信じたくなかっただけ。

 笑い合って、励まし合ったあの日々が嘘だったと、信じたくなかっただけだ。

 「……ジュナ。貴方のこと、たくさん教えてくれてありがとう。精霊の力は、記憶を忘れさせる事はできても、知らない事を覚えさせる事はできないから。精霊の力を継承したら、まず私はティオキアの民の記憶を消して――」

 ピアは一息つくと、まっすぐにジュナを見つめて言った。

 「――貴方に生まれ変わる。フェリクス家に生まれた才女、ジュナ・フェリクスとしてね。誰も私の事をピアだなんて認識できないように」

 少女達を生贄にして得た強大な力。それを使ってジュナと入れ替わる。

 ピアが虎視淡々と狙っていた計画の全てを聞いたジュナだったが、不思議と心は穏やかだった。

 怒りやおぞましさは感じない。

 ただ、どれほど辛い境遇に置かれたらこのような事を考えてしまうのだろうと、目の前の親友が不憫でしょうがなかった。

 「そんな事しなくても……ピアは幸せになれるよ……」

 「ありがとう。でも、私は自分が大嫌いなの。これくらいしないと、本当の幸せは掴めない」

 「私は……ピアが好きだよ……ずっと友達だと思ってる」

 「……ふふ。ジュナはすごいなぁ。強くて優しくて、私にはないものばかり持ってて……ほんと、大嫌い」

 「ピア……」

 手斧を持ったピアが、見下ろしながらジュナへと近づいていく。

 怯えるジュナを見て、初めて悲しそうな表情を浮かべた。

 「謝らなきゃいけない事があるって言ったじゃない? それは小鳥の事じゃないの」

 そう言って、手斧を振りかぶる。

 「ごめんね」

 振り下ろした手斧はジュナの首に深々と突き刺さり、その身体は折れるように倒れた。

 床にはジュナを中心に大量の血液が染み渡っていく。

 「ピ……ア……私の、ほうこそ……ごめ……」

 ジュナは倒れたままそう呟くと、事切れた。

 それを能面のような表情で見つめていたピアは、おもむろに塔の中を歩き始めた。

 壁面に沿うように、屋上へと向かって剥き出しの螺旋階段が伸びている。ピアはその一段目に足をかけた。

 情報によれば、塔の屋上に構えられた祭壇に精霊が祀られている。

 それを自身の身に降ろせば、ピアの計画は終わる。

 ――その時だった。

 どこからか監視していたのか、最後の一人になった事を確認するために数人の試験官が施錠を開けて塔に入ってきた。

 それに気付いたピアは、階段を駆け上がっていく。

 本来であれば、巫女継承の儀は試験官主導で行うもの。異変に気付いた試験官は、慌ててピアの後を追う。

 追手の姿を確認し、さらに速度を上げて階段を走るピアの頭の中には、同じ言葉が繰り返し繰り返し流れ続けていた。

 『ピアが好きだよ。ずっと友達だと思ってる』

 ――嘘だ。

 殺されるのが怖くて言っただけ。

 内心では私を馬鹿にしていたんだ。

 だが、自分の利益のためにジュナに近づいた結果、誰よりもジュナの事を理解しているのはピア自身だった。

 本当は気付いている。その言葉が決して嘘なんかではないという事を。

 その証拠に、ピアの目には涙が溢れる。

 ――私がアテリマ教徒の家に生まれていたなら……何も知らず幸せになって、ずっと親友でいられたのかな……ジュナ……。

 涙を振り切るように階段を駆け上がる。

 試験官の手は届かない。

 ピアが屋上に続く扉を開け放つと、強烈な光が塔の中に差し込んでくる。

 その光に照らされたピアの表情は、穏やかな笑顔だった。

EPISODE11 ジュナ・サラキア「記憶の中に、何か大切なものがある気がするのです。でもそれを掘り返すのは、なぜかとても怖い……」

 ――あの時の事を思い出そうとすると、今でも頭にモヤがかかったようで、はっきりとしません。

 学園生活の記憶は曖昧で、ただ残っているのは楽しかったという感覚だけ。

 不思議な事に、卒業してから同学の方とお会いする事も一度もないのです。

 これも精霊の力の影響なのでしょうか。

 でも、こうして私が巫女に選ばれたのは、何か神のご意志によるものなのでしょう。

 その意思に従って、私は私の役目を果たしましょう――。

 ティオキアの都から少し外れた丘の上にそびえる屋敷。

 屋敷のテラスで、水の巫女は日記のようなものを書き走らせていた。

 「ジュナ様。ギュスターブ様よりお話があるとお待ちです」

 「分かりました。すぐに行きます」

 侍女の呼びかけに返事をして、水の巫女は日記を閉じると屋敷の中へと歩き出す。

 慈愛に満ちた表情で、美しい青髪をなびかせる水の巫女。

 それは、紛れもなくジュナの姿だった。

 あの日、塔の中で行われた精霊継承の儀。

 完遂されると思われたピアの計画だったが、ひとつの誤算があった。

 それは、想像以上に精霊の力が強大だった事。

 確かにあの時、精霊の光は少女達を包み込んだ。

 敗れた少女達を、ジュナを、そしてピアを。

 ジュナを含む少女達は贄となり、新たな巫女としてピアが降臨する――そのはずだった。

 だがピアの肉体と心は、精霊に“選ばれなかった”。

 “容れ物”としてふさわしいと精霊が選んだのは、あらゆる面において秀でていたジュナの肉体。

 精霊は、少女達の記憶を、素養を、才を、肉を。まるでチョコレートを溶かすように混ぜていった。

 混ざり合ったそれは、ぐにぐにと動き始めると、次第に人の形を為していく。

 それは、ジュナを象った新たな容れ物であった。

 そして最後に精霊は、ただ一人生き残ったピアの命だけを動力として容れ物へ吹き込んでいく――。

 そして現在、屋敷の廊下を水の巫女が歩いている。

 彼女はあの日、塔で生まれた新たなジュナ。

 ジュナと共に切磋琢磨し、そして殺し合った少女達――彼女達は、その存在を誰の記憶にも残さないまま、今もジュナの中で生き続けている。

 「お待たせしてごめんなさい、ギュスターブ」

 「ジュナ様。お手を煩わせてしまい、大変申し訳ありません」

 ギュスターブは、すぐさま膝をついて恭しくジュナの手を取る。

 そして、その手の甲に忠誠を示すキスをした。

 飾り気のないジュナの指に、ひとつだけ嵌められた指輪が光る。

 そこには、彼女の家のものではない家紋が彫られている。

 「ありがとう。それで、何かあったのですか?」

 「はっ。実はティオキア内で、邪教の動きが活発になっているという報告がありまして……」

 「まあ、それはいけませんね。異教の神を崇めるなど、ネフェシェ神がお怒りになるでしょう。私がお話してみます」

 ティオキアの都や神を貶める行為は、当然巫女としても見過ごせない由々しき問題だ。

 だが、そんな問題へ対応するために指示を出しながらも、ジュナは口許に薄く笑みを浮かべている。

 それは慈しむような。

 それでいて憐れんでいるような。

 微笑みの意味は、ジュナだけにしか分からない。

EPISODE1 精霊と共にある国「未だ貧困の格差が是正されぬ国――アギディス。私は、シルビア様と共にこの国を変えていきたい」

 鉄の国アギディス。

 『英雄王イダール』によって建国されたこの国は、製鉄を生業として発展を遂げてきた国である。

 国土の大半が険しい山脈と荒れ果てた大地であり、周辺地域は今も砂漠化が進んでいる。

 その為、農耕に適した土地は無いに等しく。

 人が生きていくには厳しい環境と言える場所だった。そんなアギディスにとって唯一の資源となり得たのは、大地の恵みたる鉄鉱石。

 アギディスは産出される鉄鉱石を頼りに、他国との交易を通じて食料を得る事で国を維持してきた。

 だが、一度に輸出できる量などたかが知れている。

 交易だけですべての民を賄う事など、到底できるものではなかったのだ。

 アギディスの支配者たちは、領土を拡大し新たな資源を得るか、民を切り捨てるか、選択を迫られた。

 その瀬戸際で、アギディスにもたらされたのが『巫女<シビュラ>』という存在。

 精霊に人の魂を捧げる事で生まれる巫女は、その身に宿した精霊の力を行使する事ができる。

 アギディスが得たのは――火の精霊の力。

 その精霊の力は、火に起因した破壊の力を与え、その恩恵によって、アギディスは製鉄技術の発展と新たな武器を手にしていった。

 新技術の確立によって莫大な富を得たアギディスの権力者たちは、更なる富をこの手にしようと、より貪欲に精霊の力を欲していく。

 権力者たちは気付いていたのだ。

 この世界を制する為には、すべての精霊の力を手中に収めてしまえばいいのだと。

 ――終わりなく続く欲望の螺旋。

 その欲望の犠牲となるのは、権力者たちの思惑など知りもしない無垢な少女たち。

 火の巫女『シルビア・アヴェニアス』の従者であるウェスタもまた、その一人。

 火の巫女と共に動乱の時代を歩む彼女に待ち受ける運命とはなんなのか。

 ここに、彼女の物語を書き記す。

EPISODE2 火の巫女を支える少女「今のアギディスがあるのは、巫女たちの力のお陰。新しい技術が良い方向に国を導くと私は思っていた」

 アギディスで産出される鉄鉱石を、より純度の高い鉄へと精錬する技術。

 その技術は、高品質な鉄はアギディスに恵みを与え、国と一部の者たちを潤わせていく。

 そんなアギディスの製鉄技術を長年にわたり支え続けてきたのが、歴代の火の巫女たちだった。

 公の場に現れた歴代の巫女たちの中でも、『シルビア・アヴェニアス』は最も聡明で、指導者としての才覚に溢れた巫女である。

 彼女は、アギディスをただ富ませるだけではなく、飢えに苦しむ民衆にとっても重要な存在だ。

 東に天災が起これば兵を率いて駆けつけ、西で紛争の気運が高まれば、解決に向けて自身の身も顧みず働く。

 その姿は、民衆にとって“希望の象徴”と呼ぶに相応しい。

 そんな彼女の従者に志願したウェスタも、シルビアに憧れを抱く民衆の一人だった。

 「――は、初めまして、シルビア様! 私はウェスタ、ウェスタ・グロリオサ・フォティアと申します!」

 ウェスタとシルビアの出会いは、シルビアが内乱で亡くなった者たちの慰霊に訪れていた時の事だった。

 ウェスタの純粋な眼差しと艶のある赤橙色の髪に強く惹かれたシルビアは、彼女を自身の従者として登用した。

 齢12にして、シルビアの身の回りの世話を任されたウェスタは、成長するに従って大事な役割を与えられるのと同時に、シルビアを支えるかけがえのない存在になるのだった。

EPISODE3 欲望のうねり「この国に蔓延る欲望……いつか私たちは、それに呑み込まれてしまうかもしれない……」

 百年を超える時の流れの中で、アギディスに暮らす人々の生活水準は、少しずつ豊かになっていった。

 とはいえ、南方に位置するルスラ教国に比べれば、その生活はまだまだ惨めなもの。

 より強く。より豊かに。

 アギディスを支配する権力者たちにとって、それは悲願であり野望であった。

 その意志は、いつしか大きなうねりとなり、アギディスを支える火の巫女では制御できないものへと変容していく――

 アギディスの都の一角に用意されたシルビアの居室。そこから見渡せる街並みに、シルビアは憂いを帯びた瞳を向けていた。

 「シルビア様、お顔が優れないようですが、どうかされましたか?」

 「――この国は、いつか大きな岐路に立たされる事になるでしょう。その先に待つのは、滅びか存続か……」

 「シルビア様……?」

 シルビアは、隣に立つウェスタの手を握りしめ、深い朱色の瞳でウェスタを見やる。

 その手は、微かに震えていた。

 「わたくしは恐れているのでしょう。アギディスを支配する者たちの、飽くなき欲望を」

 「欲望、ですか?」

 「はい。彼らの欲望に終わりはありません。それはアギディスに留まらず、ルスラを、ひいてはこの大陸すべてを呑み込んでしまう事でしょう」

 シルビアの心を映すように、瞳が揺れ動く。

 「わたくしは、その欲望に加担している。精霊の力を使って、わたくしが拍車をかけているのです」

 「ですが、それによってアギディスが繁栄しているのも事実です。シルビア様が尽力しているから、アギディスの民の窮状も改善されつつある」

 「この大きな流れを、もう止める事はできません。行き着く先に、本当に未来はあるのでしょうか……」

 「シルビア様、今日はもうお休みになった方が良いでしょう。眠りにつくまで、私がお側についておりますので、どうかご安心くださいませ」

 「ありがとう、ウェスタ。わたくしが弱い部分をさらけ出せるのは、貴女しかいないわ」

 この国を包み込む闇に心を病んでいくシルビアを、ウェスタはただ、支える事しかできない。どれだけ彼女に尽くそうとも、巫女ではないウェスタにできる事など、たかが知れているのだから。

 そんな彼女たちの関係に変化が訪れたのは、幾度目かの紛争の平定に駆り出されていた頃――ウェスタが14の誕生日を迎えた日だった。

 「――初めまして、貴女が火の巫女ね?」

 突然二人の前に姿を現した少女。

 名を、「セリエ・メーヴェ」と言った。

 彼女はアギディスから遥か遠方にある砂漠地帯――『死の大地』にある名も無き集落の出身である。

 風の精霊の力を継承した彼女は、諸国を旅して回り、その道中でアギディスに立ち寄ったという。

 その後セリエは、シルビアや権力者たちとの謁見を終え、贅を凝らした部屋へと通された。

 アギディスの権力者たちの彼女への対応ぶりは、まさに国賓級だった。

 その光景をシルビアの隣で見ていたウェスタの脳裏に、シルビアが吐露した言葉が蘇る。

 『彼らの欲望に終わりはありません。それはアギディスに留まらず、ルスラを、ひいてはこの大陸すべてを呑み込んでしまう事でしょう』

 彼女の言わんとしていた事が、これから起ころうとしているのではないか。

 そんな予感めいた思いが、ウェスタに言い知れぬ不安を抱かせる。

 「私たちは、その時が来るのを待つ事しかできないのでしょうか……」

 そんなウェスタの想いとは裏腹に、アギディスを取り巻く環境は、変革の時を迎えるのであった。

EPISODE4 技術革新「この国の現状を見ようともしない支配者たち。私にできる事は何もないの……?」

 ――鋼。

 それは、鉄よりも強靭で、より純度の高い金属。

 従来のアギディスの製鉄技術では、鋼を生み出す為には非常に長い時間を要し、決してその時間に見合うだけの対価を得る事ができなかった。

 しかし、そこに登場にしたのが、風の精霊の力を行使する巫女『セリエ・メーヴェ』。

 彼女と、火の巫女シルビアの力を合わせる事で、鋼の製鉄にかかる時間を大幅に短縮し、鋼の安定供給を確立するまでに至った。

 そして、その技術は年月を重ねる事で更に発展し、『玉鋼』と呼ばれる、鋼よりも更に良質な鋼の製鉄に成功したのである。

 この革新的な技術により、アギディスの繁栄はより確実なものとなっていく。

 だが、それはシルビアが懸念していた周辺諸国との戦争への第一歩を、大きく踏み出したとも言えた。

 そして、アギディスが急成長した事で、国内の格差は拡大の一途を辿り、各地で内乱が発生していく。

 この大きな流れを止める事は、アギディス政府にも巫女にもできなかった。

 ――内乱の鎮圧に駆り出されていく兵士たちを、自身の居室から眺めていたシルビアは深いため息を吐いた。

 「やはり、大きな流れの中では巫女の力など、たかが知れていますね……」

 「シルビア様は尽力されました。あの傲慢な権力者たちに向かって、堂々とこの国の現状を訴えるお姿は、私が初めて貴女を見たあの時から変わらない高潔さに溢れていました。どうか、お気を確かに」

 「ああ……ありがとう、わたくしのウェスタ。貴女といる時だけが、わたくしの唯一の安らぎです」

 アギディスの御旗として内乱の鎮圧にも参加させられているシルビアは、次第にかつての聡明さを失い、瞳からも光が消えかけている。 

 それをただ見る事しかできないウェスタだったが、シルビアに求められる限りは彼女の側にいたいと考えていた。

 だが、シルビアといられる時間も、頻発する内乱と野盗などの暴徒の増加によって奪われてしまう。

 アギディスの情勢は、混沌のただ中にある。

 だと言うのに、アギディスの権力者たちの関心事は、私腹を肥やす事と他国との戦争準備だけだった。

 急速に軍事国家への変容を遂げていくアギディスの現状を見て、シルビアは権力者たちに直訴する事を決心する。

 しかし、この国の窮状を訴えた彼女に権力者たちが出した答えは、今までと同様に、彼女を前線に送り込む事であった。

 「――行って来るわね、ウェスタ」

 「申し訳ありませんシルビア様……私もお供できれば良かったのですが……」

 「いいのです。貴女は、貴女の仕事を全うして?」

 「あ…………待って! シルビア!」

 自身の下から離れていく後ろ姿を見て、咄嗟に口を割って出たのは――

 “従者”ウェスタとしてではなく、彼女を支える“親友”としてのウェスタであった。

 「ふふ、貴女がわたくしの部屋以外でそう呼ぶのは初めてね。どうしたの?」

 「何故か、不安になってしまって……シルビアの帰りを心待ちにしている者がここにいるという事を、どうか忘れないで」

 「ええ、もちろんよ」

 ウェスタの願いを聞き入れたシルビアは、踵を返して内乱にわく戦地へと向かうのだった。

EPISODE5 悲劇「もうシルビアと言葉を交わす事もできない。私はなんて、無力なのだろう……」

 シルビアの尽力の甲斐あって、各地で発生していた内乱は終息へと向かっていった。長く燻っていた戦地も沈静化の目途が立ち、近々平定される見通しだ。

 ――荷馬車に揺られ、都へと戻る道すがら、シルビアはこれまでの内乱の状況を精査していた。

 「今回の内乱は、今まで発生していなかった南部に集中していた。ルスラとの貿易が盛んなあの地域は、比較的経済状況も良かったと記憶していたけれど……」

 その時、シルビアの思考を中断するように馬車が揺れ――直後、いななきと共に停車した。

 「御者の方? どうされ――」

 状況を確認しようと外に降りたシルビアを迎えたのは――

 「ああ……そういう事でしたか。やはり、“貴方がた”は……」

 穏やかな声音で言葉を紡いだシルビアは、ゆっくりと両手を広げ――

 次の瞬間、鞘走る音が街道に響き渡った。

 ――

 ――――

 「シルビア様が……襲撃された!?」

 ウェスタの下にその報せが届いたのは、既に陽が沈もうとしている時だった。

 火の巫女シルビアを狙った襲撃事件。

 凶行に及んだのは、ルスラ教国から送り込まれた刺客であったと言う。

 それだけを聞くと、ウェスタはシルビアが担ぎ込まれた場所へ急行する。そして、寝台に横たえられたシルビアを見て、

 「ぁ、あぁ――――」

 ウェスタは言葉を失った。

 彼女は、もはや助かる見込みすら無い程の重傷を負い、今にもその命を散らそうとしている。

 アギディスの象徴である聡明な巫女の面影は、欠片も残されていない。

 ただ、その身に宿る精霊の力によって、無理やり生命活動を維持させられているだけの――人の形を辛うじて保っている“何か”だった。

 「あぁ……シルビア……私があの時、貴女を引き止めていれば……っ……」

 悲しみに咽び泣くウェスタは、シルビアだったモノの手を握り締める。

 僅かに返ってくるその反応は、果たしてシルビアの意思なのかどうかさえ分からない。

 ――アギディスの都にある豪邸。

 そこには、ウェスタよりも早くシルビアの一件について報告を受けていた者たちがいた。

 「事は計画通りに進んだようだな」

 「ああ、我等に楯突く愚かな巫女は消えた」

 「言いなりになっておれば良かったものをな。だが、これでアギディスはひとつにまとまった。滞っていた戦争の準備も速やかに進む」

 「それはそうと、次の憑代は決まっているのかね?」

 「無論だ。より従順で、より我等の意のままに動く“容れ物”を用意してある」

 「それは重畳。ならば、アギディスには更なる富と豊穣が約束される事だろう」

 下卑た笑みを浮かべる男たちの思惑が、アギディスに新たな戦乱の種を蒔く。

 それは、近い将来に周辺諸国を巻き込んだ大規模な戦争と、終わりなき憎しみの連鎖を芽吹かせていく事になる。

EPISODE6 巫女の宿命「貴女は終わりなき苦痛と戦い続けていたのね……。気付いてあげられなかったなんて、私は親友失格よ」

 シルビアが襲撃された日の翌朝。

 彼女の側を片時も離れなかったウェスタの下に、アギディス兵を引き連れた権力者が現れた。

 その男の背後には、赤髪の幼い少女が付き従っている。少女の瞳は、どこに視線を向けているのかも分からない程に、虚ろだった。

 「ウェスタ・グロリオサ・フォティア、現時点をもって火の巫女シルビア・アヴェニアスの従者を解任する。その“成れ果て”は、こちらで処分しよう」

 淡々と告げられる言葉に、ウェスタは偉そうに語る目の前の男が、一瞬、何を言っているのか理解に迷う。

 「……は? あ、貴方は、何を……言って。シルビア様への敬意すら払えないの……?」

 「道具にかける言葉など、持ち合わせてはおらん」

 「ど……道具、ですって……!?」

 ウェスタの神経を逆撫でするように、男は不遜な態度を取り続ける。そして、後ろに控えていた少女を引き寄せ、告げた。

 「これより、精霊継承の儀を行う。新たな容れ物はここに用意した。ウェスタ、お前は新たな巫女の下、従者として尽くすがいい。コレは、まともに下の世話もできんからな」

 下卑た笑いが室内に響く。

 からかわれた少女は、言葉すらろくに理解できないのか、微動だにしていなかった。

 「あ、貴方は、人の命をなんだと思っているのですか!? 道具のように使い捨て、民すら奴隷のように扱う! それが為政者としての在り方なのですか!?」

 「“道具”に口答えする権利など無いのだが?」

 ――ウェスタの心に、激情が湧き起こる。

 こんな奴らが、民を虐げているのか。

 こんな奴らが、国の為に身を捧げたシルビアを、塵のように捨てたのか。

 こんな。こんな奴らが――

 ウェスタは、この時初めて心の底から激しい憎しみを抱いた。相手を殺したいと思う程の、醜く歪んだ感情。

 それに突き動かされようとした刹那。

 『――ウェスタ』

 微かな声が、ウェスタの名を呼ぶ。

 その声の主は、彼女が敬愛する唯一の存在――シルビアだった。

 「……え?」

 振り返ったウェスタに、再びシルビアの声が響く。その声はウェスタにしか聞こえないようで、男たちは誰も気付いた素振りを見せていなかった。

 『わたくしの手を……貴女の額にあててください。奴らの思い通りに……させたくは……ないのです』

 「……シルビア……分かったわ」

 その声に導かれるように、ウェスタはシルビアの手を握り締める。

 「貴様、まさか……!?」

 咄嗟の出来事に、偉そうな声の男は初めて狼狽えた表情を見せた。

 笑みを浮かべたウェスタはシルビアの手を額に添えて――

 「――ぅ、あっ……アァァァァ――ッ!?」

 シルビアからウェスタへと流れ込む精霊の力。

 それと共に、精霊に刻まれた歴代の巫女たちの記憶が、一斉にウェスタの心を蹂躙していく。

 絶望と悲鳴。憎悪と欲望。

 憑代として捧げられた少女たちの想いが、記憶が、器となったウェスタへと容赦なく注ぎ込まれる。

 そして、混濁した意識の中で、最後に彼女が見た記憶は――

 ――玉鋼の鎧に身を包み、煌めく剣で御者を葬ったアギディス軍の正規兵。更に、その奥では剣や弓を掲げた兵士たちが、ズラリと並んでいる。

 『シルビア・アヴェニアスよ! アギディスの栄光が為! 貴様には礎となってもらう!!』

 無数の兵士たちが、シルビアを亡き者にしようと殺到する。

 自分の命が、今まさに狙われているというのに。

 シルビアは、一切の抵抗も示さず、ただ兵士たちに斬り刻まれる事を選んでいた――

 脳裏によぎったその光景は、ウェスタが聞いた話とは完全に食い違っている。

 シルビアは、ルスラの刺客ではなく、彼女が想い続けてきた者たちの手にかかっていたのだ。

 (――おかしいとは思った)

 精霊の力を行使できるシルビアが、刺客に遅れをとるような事など無いと。

 (すべては……あいつらが仕組んだ計画だったんだ。シルビアを排除する事で、怒りの感情でアギディスをひとつにまとめあげる。その生贄として、シルビアは選ばれてしまった……)

 『――ウェスタ、わたくしと同じ業を、貴女に背負わせてしまってごめんなさい……』

 『いいえ。私は貴女の気高い意志に触れる事ができた。私も貴女と同じ巫女になれた事を誇りに思う』

 シルビアの瞳から、涙が零れ落ちていく。

 『ありがとう。わたくしの……ウェス、タ――』

 それが、彼女の最期の言葉だった。

 精霊の継承を終え、役目を果たしたシルビアの身体から、生命の灯が消え失せる。

 その表情は、とても安らかで。

 敬愛するウェスタに看取られて逝けたのは、シルビアにとって幸福な事だったのかもしれない。

 「さよなら……シルビア……」

 「貴様……我等に楯突こうと言うのだな?」

 「火の巫女は、シルビアの意志と共に私が継承しました。精霊の力は、誰にも譲りません」

 シルビアと同じく、朱色に輝くウェスタの瞳が男たちを睨みつけた。

 その瞳が雄弁に物語っている。

 逆らおうとするなら、直ちに燃やしてやると。

EPISODE7 暗躍する者たち「私は知ってしまった、シルビアの苦悩の意味を。この国はもう後戻りできない程に狂っている」

 シルビアの死によって、アギディス国内はルスラへの敵愾心を燃やすと共に、戦争への気運を高めていく。

 欲望は、際限なく拡がり続ける。

 戦争は、技術の進歩を加速させる。

 それらが複雑に絡み合った結果、巫女から与えられた製鉄の技術は更なる発展を遂げ、もはや巫女の力に頼らずとも純度の高い玉鋼を量産する事が可能になった。

 各地では続々と高炉が建造され、兵員の徴用が進む。

 軍備が拡充されていくと共に、来たるべき戦争の足音が着々と近付いていた。

 ――アギディスの都にある邸宅。

 そこに集ったアギディスを支配する権力者たちは、ひとつの判断を下した。

 「巫女の死で、人々の意志はひとつになった」

 「ルスラへの宣戦布告も直に行われるだろう」

 「であれば、巫女の役割を次の段階に移行させる時が来たようだな」

 「ああ、今の巫女は不要だ」

 彼らが欲しがっているのは、自分たちの意のままに動くだけの人形である。勝手にシルビアから精霊の力を継承したウェスタは、彼らにとって非常に都合の悪い存在だった。

 「あれが我等の計画を妨害する前に、精霊継承の儀を執り行わねばならん」

 「手配は済ませてある。いつもの手は使えないが、さして時間はかからぬだろう」

 蝋燭の灯に照らされた顔が、深い皺を刻む。

 アギディスを操る者たちの奸計が、ウェスタの知らぬ所で、密かに動き出そうとしていた。

 ――同時刻。

 シルビアの居室を後にしたウェスタは、夜闇に紛れながらとある場所へと向かっていた。

 アギディスの都の外れに建てられた収容施設。そこに、風の巫女セリエ・メーヴェが監禁されている事を、ウェスタは知ってしまったのだ。

 「まだ、奴らは気付いていないはず……彼女を解放して、この国を脱出しなければ……」

EPISODE8 アギディスの真実 「私がシルビアを苦しめていたなんて。こんな苦痛、どうして巫女だけが背負わなければいけないの?」

 精霊の力を継承した際に流れ込んで来た歴代の巫女たちの記憶。その記憶が、欲望に塗れたアギディスという国の真実を伝えていく。

 ウェスタの知らなかったその真実は、陰惨で残酷なものだった。

 時に政略の駒として、時に民衆を操る象徴として。

 時代毎に様々な『役割』を押し付けられてきた巫女たちだったが、その多くに共通している点がひとつあった。

 彼女たちは、自分たちの家族を、愛する者を人質に取られていたのである。

 それは、シルビアも例外ではなかった。

 彼女の記憶に刻まれた哀しみと苦悩の日々が再生される。

 「ああ……そんな……貴女を苦しめていたのが……“私”だったなんて……」

 シルビアは、ウェスタがアギディス兵たちに殺されるのを恐れて、権力者たちの言いなりになっていたのだ。

 巫女の容れ物になる少女たちの“選定”や、勝手に国を出ようとしたセリエの監禁。

 そして、時にはその身体さえも――

 「シル……ビア……っ……」

 頬を、涙が伝っていく。

 彼女はあらゆる手を尽くしてウェスタを護り続けていた。

 その深い想いを知り、締め付けられた心が今は亡き少女を求めて彷徨う。

 「せめて、私に話をしてくれていれば……」

 シルビアが何故そうしなかったのか、他の誰よりもウェスタ自身が分かっている。だからこそ、何もできなかった自分が悔しくて堪らなかった。

 シルビアは、何度天秤にかけさせられたのだろう。

 自分の心に蓋をして、どれだけの苦汁を飲まされ続けてきたのだろう。

 それを思うだけで、涙が止めどなく溢れてくる。

 「どうして、巫女だけがこんなに苦しまなくてはならないの? 一部の者たちを肥えさせる為だけに、どれだけの哀しみを背負わせる気……?」

 いくら国が発展しようが、いくら富を得ようが、決して命の代償として釣り合いの取れるものではない。

 この負の連鎖は、巫女がアギディスに存在する限り、終わり無く繰り返される。

 なら、ウェスタに今できる事は――

 「セリエを救い出して、この狂った国を脱出する」

 決意を固めたウェスタは、早速行動に移るのだった。

 ――深夜、セリエが監禁されている収容施設に辿り着いたウェスタ。

 警備は最小限の人員しか配置していないのか、殆ど見られない。これなら精霊の力を使わなくて済む、とウェスタはすんなり施設に入り込む事ができた。

 セリエが監禁されている場所は、シルビアの記憶によれば一階の最奥に位置する。

 「ここだ――――セリエ……!」

 「え……ウェスタ? どうしてここに……」

 「貴女を助けに来たの。このままアギディスにいれば、私たちはシルビアのように殺されてしまう。そうなる前に、一緒に逃げましょう!?」

 「逃げるって言っても……私は……」

 よくよく見てみると、セリエは拘束されている訳でもなく、ベッドに横たわっている。

 普段のウェスタであれば、その違和感に気付けていたかもしれない。

 だが、アギディスから少しでも早く離れたかったウェスタには、そこに思考を巡らす余地がなかった。

 「アギディスの支配者たちは、自分たちの言いなりになる憑代に、精霊の力を継承させようとしているの。さぁ、早く――」

 セリエの手を引き、ウェスタは出口を目指す。

 その瞬間――

 「ごめんね、ウェスタ……」

 「え?」

 強い衝撃がウェスタを襲った。

 振り返る間もなく、床に倒れたウェスタは、明滅する意識の中でセリエを見やる。

 そこには、ぶつぶつと謝罪の言葉を呟くセリエが立ち尽くしていた。

EPISODE9 誰が為に「人は、大義の為ならどんな事でもできる。私たちは、こんな奴らの為に身を捧げ続けて……」

 光も通さぬ地下牢獄。

 松明の火に仄かに照らされた通路を、両脇を男たちに抱えられたウェスタが引きずられていく。

 嵌められた枷と枷を繋ぐ鎖の音だけが、じゃらじゃらと耳障りな音を奏でる。

 「ぅ……あぁ……」

 頭に走る痛みに顔をしかめていると、通路の両側に設けられた部屋から、悲鳴が聞こえた。

 ウェスタは、暗がりから覗く部屋に視線を向ける。

 そこには、目を覆いたくなるような地獄の光景が広がっていた。

 滑車から垂れ下がった縄に吊られたまま、少女たちがアギディス兵たちに拷問されている。

 あらゆる“痛み”を試されている少女がいた。

 あらゆる“感情”を引き出されている少女がいた。

 鋼の鎧に身を包んだ男たちの手が、足が、少女たちを無慈悲に蹂躙し続けている。

 少女たちの瞳からは、まるで光が感じられない。

 それは、生きながらにして屍となってしまったかのような――

 「まさか……この子たちは……」

 「気が付いたようだな」

 「あ、貴方たちは、憑代の少女たちを、こんな……こんな、むごい事を……」

 「アギディスに富と栄光をもたらす為だ」

 ウェスタの前を歩いていた偉そうな声の男の足が止まる。

 「さあ、着いたぞ。ここがお前の最期の住処だ」

 開かれた扉からは、咽せ返るような異臭と共に、くぐもったような苦悶の声が聞こえた。

 そこには、拷問されている少女たちと同じように拘束されている――

 「あぁ……セリエ……」

 虚ろな瞳の、風の巫女がいた。

 「経過は順調なようだな。そいつの拘束を解け。代わりにコレを吊るす」

 「はっ」

 拘束を解かれ、セリエは石畳の上に力無く崩れる。

 偉そうな声の男は、ウェスタの拘束が終わったのを見届けて、冷徹に言い放った。

 「風の巫女よ、お前がコレの拷問を行うのだ」

 「……え?」

 突然の指示に、ウェスタは開いた口が塞がらない。

 「集落の者を飢え死にさせたくないのだろう? 断れば、私の声ひとつで皆殺しにできるが」

 「分かり、ました……」

 「どうして、セリエ……」

 「ごめんね、ウェスタ……私には、こうするしかないの……」

 男たちの手によって恐怖を植え付けられたセリエに、逆らう意思は微塵もない。

 初めてセリエを目にした時の自由奔放な彼女は、もうどこにもいなかった。

 権力者たちが行ってきた非道な行いの結果をまざまざと見せつけられ、ウェスタは大粒の涙を零す。

 助けようとしたセリエを人質に取られ。

 もはや、ウェスタに抗う術は残されていなかった。

EPISODE10 滅びの火「……い、イタい。もう、ナニも……分かラ、ない……」

 セリエによる拷問は、次第に苛烈さを増していった。

 最初は、涙を流し、許しを乞いながら私への拷問を行っていたのに、それは徐々に薄れ――

 「わ、私は悪く、ない。こうする事が正解なの……」

 ぶつぶつと呟くセリエは、石壁の向こうから命令されるままに、私へ拷問を加えていく。

 巫女になって初めて分かったけれど、巫女の身体は精霊の力がそうさせるのか、ただの人間よりも生命力が強く、傷の治りも早くなっている。

 それはつまり、“何度も拷問を行える”という事を意味していた。

 精霊の力を継承するだけなら、さっさと私を殺してしまえばいい。

 なのにそうしないのは、この拷問の光景をただ単に楽しんいるだけ――

 私の肌を、刃が這う。

 私の歯に、金槌が舞う。

 私の腹の中を、鉄串が踊る。

 私の眼の前で、焔が揺れる。

 ――何度も。

 何度も何度も何度も。

 繰り返される度に痛みだけが加速する。

 脳裏を駆け巡る眩い光が、何度も明滅を繰り返す。

 どれだけ拒絶しても。

 どれほど懇願しても。

 果てのない地獄に、いつしか私は“恐怖する”事さえ忘れてしまった。

 そして。

 私の耳にこびりついて離れなかったのは、狂ったように同じ言葉を繰り返すセリエの声と、その光景を嘲笑う男たちの下卑た声だった。

 ――どれくらい、そうされていたのだろう。

 身体の感覚は、もう殆ど機能しなくなっていた。

 辛うじて理解できたのは、私はもう、呼吸をするだけの肉の塊にすぎないという事だけ。

 ――カツ、カツ、カツ。

 何かが、向かってくる気配がする。

 潰された視界では、それが何かまでは分からない。

 けれど、私の身体が直に“役割”を終えようとしている事だけは間違いなかった。

 「頃合いだな。アレを持ってこい」

 「かしこまりました」

 この声は……ああ、この声は覚えがある。

 私とシルビアの前に現れ、精霊継承の儀を行おうとした男の声だ。

 男がここに来たという事は――つまり。

 「連れて参りました」

 この場に似つかわしくない、軽い足音が響く。

 恐らく、奴らが用意していた巫女の憑代に選ばれた少女だろう。

 それが今は、“2人分”聞こえている。

 「さて、精霊継承の儀を行う前に……セリエよ」

 「は、はい…………」

 俯いたままのセリエに向かって、男は言った。

 「お前も用済みだ」

 「……え?」

 その直後、甲高い金属の音が聞こえ――セリエのくぐもった声と共に、何かがどさりと石畳に倒れた。

 「ぁれ……わ、私……」

 「我等の意のままに動く巫女がふたつになる。アギディスには更なる富と繁栄がもたらされるだろう」

 下劣な笑い声だけが、牢獄に反響する。

 人の命に欠片も情を示さぬ支配者。

 そんな奴らが、巫女を、民を、いたずらに傷つける。

 「次はお前の番だ」

 こんな、こんな地獄が。

 これからも永遠に続くのか。

 一体、何人の少女たちの命を犠牲にして、この国を維持させるつもり?

 お前たちをぶくぶくと膨れさせるためだけに、命を弄ぶ権利が、あるというの?

 許せない。

 許せる訳がない。

 ――だったら。

 誰もお前たちを裁けないのなら。

 私が、お前たちを裁いてやる!

 この国が灰に還るまで、すべて燃やしてやる!

 「――アギディスの礎となるがいい!」

 振り下ろされた剣が、私を傷つける事は無かった。

 それは、私の身体に触れた瞬間、融解していたから。

 「何……!?」

 「……にく、イ。すべてガ、憎イ」

 身を焼き尽くす程の激情が、全身を駆け巡っていく。

 いつの間にか私の身体から痛みは消え失せていた。

 痛覚が無くなっただけじゃない。

 私の身体は、新しい別の“何か”に生まれ変わっていたのだ。

 取り戻した視界は、炎のように赤々と燃えている。

 「こ、この化物めェェェッ!!」

 何か叫んでいた男たちは、私が手をかざしただけで黒い塊に変わった。

 私に剣を振り下ろした男も、今はただ、ごうごうと燃える火柱になっている。

 ここにもう用は無い。

 次は、上の階の奴らを燃やしにいかないと……。

 「……ひ……イヤ……来ないで……」

 ふと、視界の隅で蠢く何かに気付く。

 それは、精霊の力で生きながらえていたセリエだった。

 「……ひっ、ウ、ウェスタ……ゆ、許して……」

 『貴女ニ、用はなイ。アギディスから消えテ……』

 「あ、ありがとう……ウェスタ……ごめんなさい……」

 牢獄を出ていくセリエを一瞥し、今も呆然と立ち尽くす憑代の少女たちを見る。

 すがるような視線が、私に注がれていた。

 「おねが、い……わたしたちも……」

 瞳からわずかに感じた“願い”。

 私は、少女たちを優しく抱きしめ、燃やしてあげた。

 これで、貴女たちを苦しめるものは何もないわ。

 「……ありが、とう……おねえ、ちゃん……」

 微かに聞こえた声。

 涙は一瞬にして蒸発してしまった。

 けれど、私の心の嘆きは収まらない。

 少女たちの願い。

 巫女たちの叫び。

 そして、シルビアの想い。

 渦巻く想いを胸に、私は一歩を踏みだした。

 アギディスにもたらしてあげるわ。

 すべてを灰塵に帰す、滅びの炎を。

EPISODE11 焔霊「これは、みんなを送る弔いの歌。すべてを焼き尽くすまで、私は唄い続けよう」

 アギディスの権力者たちは、ウェスタの一件で揺れていた。

 彼らが収容施設の中で目にしたのは、融解した鋼を飲まされ内側から燃やされた者、鉄の杭が口から突き出ている者など、様々な拷問を受けて燃やされた兵士たちで溢れ返っていた。

 この世とは思えない、地獄の光景がどこまでも続いている。

 施設の最奥――地下室へと続く階段は黒く変色していて、元の色がなんだったのかさえ判別する事が難しい。

 そして、光さえ吸収してしまいそうなその空間の中では、“人の形”をした黒い物体が、至る所に転がっていたのだ。

 死の匂いと、想像を絶する痛みが具現化した世界で正気を保っていられる者など殆どおらず。この一件の全容を解明するのに、アギディスは長い月日を費やしていく事になるのだった。

 加えて、捕らえていたはずの二人の巫女の行方も杳としてしれず、権力者たちはルスラ教国への侵攻計画を大幅に修正せざるを得なくなる。

 更に、彼らにとって誤算だったのは、ある日を境にして囁かれるようになった『異形』の存在だった。

 アギディスの権力者たちは、ソレの存在を野放しにしたまま戦争はできないとして、以来、長い歳月をかけソレとの戦いに時間を割いていく。

 アギディス国内で度々目撃される、燃え盛る炎を身にまとった“何か”。

 精霊の力を自在に操り、生半可な傷はたちどころに再生させてしまうソレを倒す事は困難を極めた。

 アギディスの革新的な技術で作られた鋼の鎧や武器でさえ、ソレの前では紙同然に燃やされてしまう。

 灼熱の炎を纏い、目に映るものすべてを燃やし尽くすその姿こそ、本来あるべき『火の精霊』に近い。

 アギディス辺境の集落でソレが討ち取られるまで、破壊の限りを尽くす『焔霊』の名は、アギディス全土に知れ渡っていく。

 獣のごとき咆哮は、誰かを想う嘆きか、はたまた、巫女たちに悲劇をもたらした者への憤怒の慟哭か――その答えは、誰一人として分からない。

EPISODE1 神に焦がれて「人間達にこの世界は相応しくない。この僕が、ネフェシェ様と共に理想の世界を築き上げるんだ」

 箱庭の世界で繰り返される巫女たちの宿業。

 その物語の始まりは、今より遥か昔、人々の幸福を願う少女のもとに四つの希望の力が舞い降りた事から始まる。

 少女の名はネフェシェ。

 神の力を行使する少女は、自らが思い描く理想郷――“平等な幸福を享受できる世界”を作るため、箱庭の世界を少しずつ満たしていった。

 その恩恵は世界の各地にまで及び、荒れ果てていた地には恵みの雨と、豊かな緑があふれ始める。

 やがて箱庭の世界に住まうものたちは、豊穣をもたらす神として少女を奉った。

 神がもたらす恩恵は、いつまでも続いていく――人々が祈りを捧げる限り。

 しかし、ネフェシェが想い描いた理想郷は、彼女の生誕祭での悲劇を発端に一変してしまう。

 ネフェシェの従者である少女の裏切りによって、ネフェシェの権能の一部が剥がれ落ちてしまったのだ。

 それに気付いた人間達が我先にと襲い掛かる中をどうにか切り抜け、ネフェシェ達は国を後にする。

 だが、逃げた先でもネフェシェは、人間達の醜悪な姿を目の当たりにしてしまうのだった。

 幾度も困難に見舞われてきたネフェシェの護衛官達は、苦難にあえぐネフェシェを支えつつ、安住の地を求めて北を目指す。

 その道の先にこそ、救いがあると信じて。

 だがその中でだた一人、違う思惑を抱く者がいた。

 (奴らは獣に過ぎない。どれだけネフェシェ様が手を差し伸べようとも、ただ肥え太るだけ。好き勝手に暴れていとも簡単に壊してしまう! そのような奴らにネフェシェ様の寵愛を授かる資格など!)

 黒髪の護衛官――アヴェニアスは、ネフェシェへと向けられた人間達の欲望に塗れた眼を思い起こし、血が滲む程に唇を噛む。

 (ネフェシェ様は誰にも渡さない。彼女を護るのも寵愛を受けるのも、全てを捧げてきたこの僕だけだ!)

 煮えたぎるような激情を胸に、アヴェニアスは往く。

 やがてその熱が、自身を焼く事になるとも知らず。

EPISODE2 埒外の脅威「創造神……だと? ハッ、笑わせる。神はこの世に一人、ネフェシェ様をおいて他にない!」

 ネフェシェを神と崇める箱庭の世界には、人類より前に誕生した原初の種族がいる。

 原初の種族は生殖機能を持たず、自然発生的に姿を見せる魔物に近しい性質を有していた。

 故にその絶対数は少なく、後から誕生した人類によって徐々にその生活圏を脅かされていく。

 そこに待ったをかけたのが、ネフェシェだった。

 平等で幸福な世界を理想郷とする彼女にとって、全ての生き物は等しき存在。

 ネフェシェは人間からぞんざいな扱いを受けてきた原初の種族達を自身の護衛官として登用し、以降、その慣習を今も守り続けている。

 護衛官筆頭のアヴェニアスもまた、その一人だ。

 アヴェニアスはネフェシェの理想の世界を築くため、彼女に害なす者を排除し続けてきた。

 彼女の利益になるのなら、それが人間達の依頼であっても構わない。

 そうさせるだけの価値が、彼女にはあったのだ。

 「……アヴェニアス殿、何故あの地を離れてしまわれたのですか? サラキア殿の力を借りれば、ネフェシェ様の御力を狙う者達にも対抗できたのでは」

 「彼の地はこれより激動していく。その渦中にネフェシェ様を晒す訳にはいかない。それに……」

 「何か?」

 「あの女が我々を庇うとも限らないのだから。いいか、人間は我々とは違うのだ」

 「しかし……我々だけで、どこへ向かえと……」

 「北だ。ネフェシェ様の神託を信じればよい」

 アヴェニアスはさも当然かの如く淡々と答えた。

 『北へ――向かってください』

 ――ネフェシェへと降りる神託。

 それは、いつの頃からか彼女の口から語られるようになった。

 その兆候自体は以前からあったのだが、より明確になったのは、ネフェシェの生誕祭で起きた事件が発端になっている……とアヴェニアスは推察する。

 「…………」

 「ネフェシェ様……」

 あれ以来、ネフェシェはただ静かに時を過ごすだけの時間が増していた。

 最近では深い眠りに落ちてしまう事もある。

 夢の中に現れる『創造神』なる者の声――彼女はそれが神託なのだという。

 今もネフェシェは心ここにあらずといった様子で、遥か北の山々を見据えていた。

 未だかつて開拓された事のない大地――アギディス。

 『創造神』は、そのアギディスより更に北にある地でネフェシェを待っているという。

 俄かには信じがたい、荒唐無稽な話に聞こえてしまうが、ネフェシェの言葉には変わりない。

 それは、護衛官達を奮い立たせるには十分だった。

 「おお……これぞ神の試練に違いない! ネフェシェ様と『創造神』が邂逅すれば、この世界は正しき方向へと歩んでいけるのだ!」

 「そうだ! ネフェシェ様の世界に幸あれ!」

 立て続けに舞い込んでくる苦難に憔悴しきっていた護衛官達は、矢庭に活気づいていく。

 ……ただ一人、アヴェニアスを除いては。

 (何を浮かれているんだ、こいつらは。この世界で神と呼べるのは、ネフェシェ様だけだろうに……!)

 噛み千切った唇から血が滴り落ちていく。それすらも構わず、アヴェニアスは敵意に満ちた瞳をアギディスの彼方にいるという神へと向けた。

 ネフェシェを己が従者のように使う『創造神』に、アヴェニアスは嫉妬と怒りを覚える。

 (傲慢なる偽りの神――そんなもの、存在していい筈がない。ネフェシェ様のみが神なのだ!)

EPISODE3 古き者達「未開の地に住まう者共……。本当にこいつらを信用していいのだろうか」

 ネフェシェの神託を頼りに、一行は遥か北にある地を目指す事になった。

 徐々に険しい山々が近付いてきた事で、ここもまたネフェシェの恩恵を受けているのだと、より肌で感じ取る事ができる。

 未開拓の地なだけあり、都市では見かけないような稀少な植物が生息し、至るところから生命の息遣いが聞こえてくるようだった。

 頂上へ向かえば向かう程、獣道は険しくなる。

 それにつれて、護衛官達はこの地が人間が暮らしていくには過酷な環境で、どこか拒んですらいるように感じるのだった。

 黙々と獣道を進む一行は、やがて急勾配へと差し掛かり、自然と進行速度も緩やかなものになっていく。

 これ程過酷な環境は想定していなかったのか、先頭を歩くアヴェニアスも、歳相応の少女と同等の身体能力しか持たないネフェシェを気にかけざるを得ない。

 どこか少しでも英気を養える場所はないかと、辺りに気を配ろうとしたその時、道の先に広がる茂みから何かが蠢く気配がした。

 「――ッ!」

 護衛官達に緊張が走る。

 蠢く何かがこの急な足場でも自由に動き回れるとしたら、アヴェニアス達にとっては非常に不利だ。

 直ぐに後続へ合図を送ると、アヴェニアスは茂みに向かって剣を構えた。

 それを皮切りに、他の護衛官達も次々と剣を構え、音のした方へと向き直る。

 「ガサガサ」と聞こえていた音は徐々に広がっていき――気が付けば、一行は取り囲まれていた。

 「魔物か? いや、これは……総員、命に代えてでもネフェシェ様を護り抜くのだ!」

 「ハッ!」

 不利な地形での戦闘は、一瞬の油断が命獲りになりかねない。

 「どうか、皆さんが無事でありますよう……」

 ネフェシェは前後を護衛官に護られながら、皆の身を案じつつ祈りを捧げる。

 その姿に奮い立った護衛官達は、敵の襲来を今か今かと待ち構えるが……茂みから姿を現したのは、一行が予想外だにしないものだった。

 それを捉えたアヴェニアスは、ただ一言つぶやく。

 「……人間、だと?」

 一行の前に続々と姿を現したのは、白いローブに身を包んだ者達だった。その長と思われる人物は、髪に隠れていた尖った耳を見せて語りかける。

 「我らは人間などではありませぬ。見たところ、あなた方も我々と“同じ”かとお見受けします」

 穏やかな口調でそう告げた老齢の者はオーシュと名乗り、一行を自分達の集落に迎え入れたいと申し出た。

 その温厚そうな態度と思わぬ同胞との遭遇に、緊張の糸が切れた護衛官達は自然と安堵の表情を浮かべ、オーシュの申し出を受け入れようと話し出す。

 「ふむ…………」

 アヴェニアスとしてはそんな提案を受け入れる気にはなれなかった。

 しかし、今は少しでもネフェシェを休ませたい。

 安全よりも休息を選んだアヴェニアスは、オーシュ達に鋭い視線を向けながら剣を収めた。

 警戒を緩めた訳ではない。

 (少しでも不穏な動きを見せたら、即座に断罪する)

 心の内で、アヴェニアスはそう言い聞かせていた。

EPISODE4 信奉者「イデア……それが神を騙る者の名か。ならば、この手で直接葬ってくれよう」

 未開拓地であるアギディスを訪れた一行の前に姿を見せたのは、アヴェニアスら護衛官達と同じ原初の種族。

 その者達は、この地に集落を築いているという。

 よもや同胞と出会うとは思っておらず、一行はオーシュに導かれるままに集落に足を運んだ。

 集落は山の各地に点在しており、オーシュ達が主に拠点として使っているのは、木々が鬱蒼と生い茂る森の中の洞窟だった。

 続々と中へ入っていく護衛官達の後ろ姿を見やり、アヴェニアスは独り言ちる。

 「……いくらなんでも、不用心が過ぎる」

 「どうしたのですか、アヴェニアス」

 「ネフェシェ様……やはり初対面の者を住処に招き入れるなど……これは罠かもしれません」

 「そうでしょうか、私は信じていますよ。すべては信じるところから始まるのです」

 アヴェニアスの警戒をよそに、ネフェシェはそう断言した。

 ネフェシェにそう言われては否定するわけにもいかない。アヴェニアスは黙ってネフェシェと共に洞窟の中へと踏み入るのだった。

 洞窟内は等間隔に設置された松明の灯りに照らされていて、そのまま進んで行くと所々に慎ましやかな生活の跡が見て取れる。

 更に進むと、そこはひときわ大きな空間だった。

 洞窟上部の岩の裂け目から僅かに漏れ射す明かりとは別に、目印のように松明が立てかけられている。

 その松明のすぐ横には小さな洞穴があり、先に案内されていた護衛官達は、ちょうどその中で腰を下ろして休もうとしているところだった。

 「あいつら……剣も放り出して、気が緩みすぎだ」

 「慣れない獣道を通ってきたのです。アヴェニアスも疲れているのではありませんか?」

 「そういうネフェシェ様こそ――」

 ネフェシェを気遣おうとしたアヴェニアスの言葉は、彼女の思いがけぬ行動によって阻まれてしまう。

 ネフェシェがアヴェニアスの両頬に手を添えていたのだ。

 「なっ、ネフェシェ様!?」

 「疲れが顔に出ていますよ? 私達もオーシュ様のご厚意に甘えましょう」

 「しかし、ネフェシェ様をお護りするのが……」

 「しっかりと疲れを取るのも、私を護る者の勤めではないでしょうか」

 咎めるような視線に射抜かれ、アヴェニアスは何も答えられない。仕える主を気遣えなかった事もあるが、それ以上にアヴェニアスは、息を呑む程のネフェシェの美しさに見惚れてしまっていたのだ。

 それに拍車をかけたのも、彼女の色褪せない瑞々しい雰囲気ではなく、普段は見られない疲労の色を隠しきれていなかったからなのかもしれない。

 「アヴェニアス……?」

 ただ、いたずらに時間だけが過ぎていく。

 アヴェニアスはためらいつつも、頬に添えられた手に触れようと手を伸ばす。

 そこへ、背後からオーシュの声が掛かった。

 「ここの護りなら心配は要りません。外に見張りを立たせていますので」

 「ッ……ああ、分かった」

 水を差された事に若干の苛立ちを募らせつつ、アヴェニアスは不機嫌そうに返す。

 そのまま、ネフェシェが休む洞穴の前に陣取るようにして、身体の疲れを取る事にした。

 ――その日の晩。

 洞窟の中では、焚火を中心にして談笑する護衛官とオーシュ達の姿があった。

 それとは対照的に、アヴェニアスは洞穴からただその光景を眺めている。

 ふと、賑やかな空気に混じって微かな声が耳に届く。

 「……ん…………」

 それは、アヴェニアスのすぐ近くで穏やかに眠るネフェシェの声。

 その声に導かれるように振り返ると、ネフェシェはまた『創造神』の夢でも見ているのか、幾度か声を漏らしていた。

 深い眠りについていても、その見目は溜息が出る程美しい。むしろ、神々しさすら感じる。

 アヴェニアスは呼吸をするのも忘れてしまうくらい魅入っていた。

 「あぁ……いで……あ、様……」

 思いがけず聞こえたその名に、興を削がれたアヴェニアスは誰にともなくつぶやく。

 「イデ、ア……? まさかそれがあなた様を唆す……」

 カラン、と突然背後から聞こえる乾いた音。

 アヴェニアスは剣を取り、背後にいる何者かへと剣を突きつける。その視線の先にいたのは、オーシュだった。

 その足元には、二人のために持ってきたと思しき果物と、木製の椀が乱雑に転がっていた。

 「オーシュ殿、脅かさないでもら――」

 「今……なんと?」

 「オーシュ殿?」

 「イデア様、イデア様と仰いましたね!? ええ、ええ、そうに違いありません!」

 オーシュの変わりように、アヴェニアスは不用意にその名を口にした事を悔やんだ。

 可能性を考慮しなかった訳ではなかった。

 もし仮にイデアなる者が創造神だとするならば、ネフェシェを信奉する者がいるように、同じような存在がいてもおかしくはない、と。

 だが、時は既に遅く、イデアの名を聞きつけた他の者達も続々とアヴェニアスの前に集まってくる。

 皆、熱に浮かされたように「イデア」の名を称え、交差させた両手を胸に当て、祈りを捧げ始めた。

 (どうする……力では我々に分があるとはいえ、数で押されてしまえばネフェシェ様を……)

 この状況を収拾できるか思案していた矢先、まるで仲の良い隣人へ話しかけるような調子で、他の護衛官がつい口を滑らせてしまう。

 「いるかも分からない神を信仰してるのか? 目の前に本当の神がいらっしゃるというのに」

 「――――ッ!!」

 その言葉に一斉に振り返った集落の者達を見て、護衛官もようやく失言したと理解する。

 皆、貼りつけたような笑みでこちらを見ていたのだ。

EPISODE5 神の権能「この狂信者共め……お前たちのやり方は、虫唾が走るんだよ」

 突然豹変した集落の者達を見て、護衛官達に緊張が走る。

 不気味なまでに統一された笑みに耐えかねた護衛官はネフェシェが見た夢の話を喋ってしまった。

 「おお……イデア様! イデア様!!」

 狂喜する姿に我に返ったアヴェニアスは、咄嗟にネフェシェを護ろうと振り返る。

 しかし、それを待っていたとでも言うように、頭に硬い何かが叩きつけられた。視界はぐらりと揺らぎ、アヴェニアスはあえなく地に倒れ伏してしまう。

 そこへ、集落の者達がのしかかってきた。

 他の護衛官達も同様に、群がられて身動きを取れずにいる。

 「オーシュ! 貴様ッ!?」

 「これより儀式を始めさせていただきます。どうかそこで見物していてください」

 そう言うと、オーシュはゆっくりとした足取りで、今も眠りにつくネフェシェの下へと向かう。

 乱暴に洞穴から引きずり出しても、ネフェシェは一向に起きる気配を見せない。

 眠りは、更なる深淵へと彼女を誘っていたのだ。

 オーシュはおもむろに懐からナイフを取り出す。

 「貴様……ッ! ネフェシェ様に傷ひとつでもつけてみろ、その命、必ず奪うからな!」

 「この世界におわす神は、イデア様のみ。我々にもこのお方が神なのかどうか、確かめさせてください」

 直後――ネフェシェの首から、鮮血が舞った。

 「――――っ!? んっ、か、ごぷ……っ」

 「貴様あああアァァァァァァァッ!!」

 オーシュはアヴェニアスの叫びなど意にも介さず、獣を解体するような手際の良さで、首を胴体から斬り離していく。

 やがて、引き千切るような音がしたかと思うと、“ソレ”は少女だった身体の上に無造作に置かれた。

 無惨な姿になった少女を無言で見下ろし、オーシュは変化が訪れるのを待った。

 するとどうだろう、気が付けばネフェシェの身体から止めどなく溢れ出ていた血は止まり、既に流れてしまった血はネフェシェの身体に吸い寄せられるように主の下へと戻っていく。

 「おぉぉぉ、これは……!」

 そして、身体の上で横倒しになっていた頭部までもが引きずられるようにしてあるべき場所に帰る。

 骨が、肉が、皮が。

 何事も無かったかのように繋がり、きめ細やかな肌までもが再生したのだ。

 そして、浅い呼吸と共に、閉じられた瞼がゆっくりと開かれ――

 「――満足、していただけましたか?」

 ネフェシェは弱々しく立ち上がると、オーシュ達に悲し気な表情を浮かべる。

 土と水の力を失い、以前程の権能を発揮できない彼女にはもう防衛反応すら見られない。

 身体を回復させるだけの力しか残されていなかった。

 「なんと、素晴らしい……」

 人知を超えた驚愕の光景に、オーシュ達は賞賛の声を浴びせる。その表情はどこか晴れやかだった。

 「どけッ! ネフェシェ様!!」

 拘束が緩んだ隙にネフェシェのもとへ駆け寄ったアヴェニアスは、ネフェシェの身体に異常がないかを確認していく。

 「私はなんともありませんよ、アヴェニアス」

 「ああ……よかった……」

 「これぞ正しく神の御業! よもや――」

 それ以上、オーシュが喋る事はなかった。

 アヴェニアスが剣を納めるのと同時に、べちゃりとオーシュの首が転げ落ちたからだ。

 「言っただろう。ネフェシェ様を傷つけたら、命はないと」

 そう吐き捨てると、辺りは妙にざわついていた。

 見れば、そこには平伏したままネフェシェの名をつぶやく者達で溢れかえっている。

 「これぞ神の奇跡……!」

 「おお、ネフェシェ様……ネフェシェ様……」

 「狂信者どもが……」

 アヴェニアスは吐き捨てるように口ずさむ。

 絶対に殺してやるとでも言うように。

EPISODE6 殉ずる者「神の供物となれるんだ。信奉する者にとって、これ以上の幸せはないだろう?」

 古くからイデア神を信奉しているという狂信者達は、ネフェシェが見せた権能を前に平伏した。

 そして、ほとぼりが冷めやらぬ内に思いもよらぬ事を提案する。

 「――共に、北へ向かうだと?」

 「はい、我々の種族の伝承には、イデア様が降り立ったとされる場所が語り継がれてきました」

 ネフェシェには心当たりがあるのか、何かを思い出すような素振りを見せた。

 「それは……水平線の果てのような場所ではありませんか?」

 「おお……正しくその通りです。ここより遥か北、過酷な死の大地を抜けた先にある『原初のうつろ』。イデア様は遥か昔、そこに降り立ったという伝承が残されています」

 「あぁ……私は、イデア様に呼ばれているのですね」

 「ええ、その通りです。彼の地へ導けるのは選ばれし者のみとされています。あなた様こそが、そのお方に違いないのです!」

 「ネフェシェ様……?」

 どこか浮足だった様子のネフェシェに、訝し気な表情を送るアヴェニアス。

 今の彼女は、心なしかいつもより幼い印象を受ける。だが、それを確かめる術はない。

 「どうか、どうか我らにも、ネフェシェ様の道行きを手伝わせてはもらえないでしょうか」

 狂信者達の言葉に、アヴェニアスは即答した。

 「同行を認めよう」

 アヴェニアスは狂信者達を見ていて気付いた事がある。彼らは神の権能を見せたネフェシェに興味を示すばかりで、他の事はまるで些事だと言わんばかりに興味を示さない。

 つまり、この者達にとってはイデアにまつわる事だけが全てであり、他の何よりも優先される。

 その狂信ぶりは、使い様によっては頼もしい戦力になる――そう判断したアヴェニアスは、内心でほくそ笑んだ。

 (こいつらにはせいぜい働いてもらう。イデアを我が手で葬るその時までな)

 そんなアヴェニアスの思惑など露知らず、歓喜に沸く狂信者達。

 一行は『原初のうつろ』への道行きに備え、眠りにつくのだった。

 翌朝、静まり返った集落に叫び声が響く。

 出立の準備をしていた一行の下に、外を哨戒していた護衛官が駆け寄ってきたのだ。

 「アヴェニアス殿! ル、ルスラ軍がすぐ近くまで迫っている!」

 「何ッ!?」

 ネフェシェの足取りを追っていたルスラ軍が追いつき始めている。

 まだ位置を特定できてはいないようだが、獣道の足跡が見つかってしまえばそれも時間の問題。

 今から出て行っても狂信者達と行動を共にすれば見つかってしまいかねない。かといって、この者達を置いていけば何をしでかすか分かったものではない。

 となれば、すべき事はひとつ。

 「奴らを迎え撃つ! 神の行く手を阻む邪悪なる背信者に、裁きを下すのだ!」

 アヴェニアスの掛け声とともに、一斉に決起の声を上げる狂信者達。

 いとも簡単に焚きつけられ、各々の武器を携えて洞窟を飛び出していった。数人の護衛官達も後を追うように駆けていく。

 そんな光景を眺めアヴェニアスは一人、口の端を釣り上げ歪んだ笑みを浮かべてみせる。

 「皆さん……どうかご無事で……」

 不穏な空気に心がざわめき、ネフェシェは物悲し気に祈りを捧げる。

 せめてもの祈りが、皆を護ってくれるように。

EPISODE7 歪な想い「僕はただ……あなたの理想郷を叶えようと……。何故だ、どうしてそんな顔をする!?」

 戦いは地の利を得たアヴェニアス側が優勢であった。

 しかし、それは時間と共に逼迫していく。

 訓練と研鑽を積み、効率よく相手の息の根を止める事に時間を費やし続けてきた人間達。

 片や、戦いもせず山奥でひっそりと暮らしていた、ただの狂信者。

 結果がどうなるかなど、火を見るよりも明らかであった。悲鳴と怒号が上がる中、次々と死体の山が築かれていく。

 それを安全な場所から眺めるアヴェニアスは、嘲るように笑った。

 「ハハ、これで奴らも満足に逝けただろう。さあ、ネフェシェ様、行きましょう」

 「えっ?」

 アヴェニアスはそう言ってネフェシェに促すと、戦地とは別の方角へ向かって歩き出す。

 「ア、アヴェニアス殿! 皆、ネフェシェ様のためにその身を捧げたのですよ!?」

 「信仰に殉じたまま逝けたんだ。これ以上の幸福があるか?」

 冷徹に言い放つアヴェニアスに不穏な気配を感じた護衛官達は、アヴェニアスを取り囲むように距離を詰めていくと、緊張した面持ちで問いかける。

 「あ、貴方は、そうやって同胞の命すら見捨てようというのですか?」

 「我らの命はネフェシェ様のためにある。当然だろう!?」

 「なっ……」

 「お時間を取らせてすみません、ネフェシェ様。今すぐここを――」

 アヴェニアスが振り返った先では、ネフェシェを護るように剣を構えた護衛官達が並んでいた。

 「お前達……何をしているのか分かってるのか?」

 「無闇やたらと命を犠牲にする……そんな考えには賛同できません!」

 「護らねばならぬ命はネフェシェ様のみ! 貴様らにネフェシェ様は任せておけん! さあこちらへ!」

 アヴェニアスが手を差し伸べようとしたその時、ふとその手が止まる。

 ネフェシェは首を左右に振り、アヴェニアスの方を見ようとしなかったのだ。

 「ネフェシェ様……何故……?」

 「アヴェニアス、どうか考えを改めてください。命はこの世界にとって必要なもの。無闇に失わせていいものではありません」

 「我々も事を荒立てたくありません。ネフェシェ様をこれ以上悲しませる事だけは……」

 ネフェシェ達の願いが届いたのか、驚愕の色を浮かべていたアヴェニアスは、ふと自嘲気味に笑う。

 「そうか……ああ、ああ。分かった――腑抜け共に、ネフェシェ様を護る資格などないという事がなぁ!!」

 「くっ、アヴェニアス殿!」

 「ネフェシェ様以外の事などどうでもいい!――ネフェシェ様!」

 アヴェニアスは剣を振り上げ、高らかに叫んだ。

 「僕だけが! 全てを捧げられる!」

 「何を、バカな……!」

 「止むを得ん、ここでアヴェニアス殿には退いていただく!」

 激昂したアヴェニアスに、四方から護衛官達の剣が迫る。互いの剣が獲物を捉えたそのひと刹那――

 「ッ!?」

 躊躇なく、ネフェシェは両者の間に飛びこんだ。

 だがアヴェニアスの剣は止まらない。

 咄嗟の出来事に勢いのついた剣は戻せず、その凶刃は真っ直ぐにネフェシェを貫いた。糸が切れた人形のように、ネフェシェはその場に膝をつく。

 「ネフェシェ様ッ!?」

 アヴェニアスはすぐさま剣を手放し、誰よりも早くネフェシェを抱きしめた。

 「ぁ――ああっ、ぁぁぁ……」

 弱まる鼓動と、熱を失う身体。

 密着した身体から徐々に命が消えていくのを感じ、アヴェニアスは自身が犯した罪の大きさに嘆き悲しむ。

 「ぁ――あああぁぁあぁぁああぁぁあ!?!?!?」

 端正な顔立ちはとうに消え失せ、流れた涙はネフェシェの血と混ざりあい、朱に染まる。

 「ア、アヴェニアス……怪我は、ありませんか……」

 「こ、こんな、こんなつもりじゃなかったんだ……! ぼ、僕はッ、た、ただ、あああなた、を……」

 アヴェニアスからネフェシェを引き剥がす護衛官達。

 離れていくネフェシェへ伸ばした手は届く事なく、振り下ろされた剣によって両断された。

 続け様に振るわれた剣に容赦なく貫かれ、アヴェニアスはなす術もなく地に倒れ伏す。

 「……アヴェニアス……!」

 ネフェシェが護衛官の手を払いのけ、重傷を負ったアヴェニアスのもとに、よろよろと駆け寄った。

 覆いかぶさるようにすがりついたアヴェニアスの身体は、どくどくと強く脈打ち、急速に命の輝きを失おうとしている。

 「ネフェ……ェ……」

 だが。

 それでもなお。

 アヴェニアスが想うのは――ただひとつ。

 誰よりも彼女を支え、全てを捧げ続けてきた神なる少女を護り続ける事。

 それこそが、ネフェシェへの信仰であり、愛なのだ。

 「ぼ、くが……ま、も……」

 「あぁ……アヴェニアス…………」

 ネフェシェが幾度も感じてきた小さな感情が、堰を切ったように溢れ出していく。

 それは、自分を心から信ずる者に何もしてあげられなかった事への、深い悲しみ。

 神でありながら、不条理に抗えない無力な自分への――絶望を。

 「……救けられ、なくて……ごめんなさい……アヴェニアス……お願い……“死なないで”――」

 ――その時だった。

 ネフェシェの身体から、赤い光が剥がれ落ちたのは。

 それはアヴェニアスの願いに呼応するように揺らめくと、ゆっくりとアヴェニアスの身体を包み込んでいく。

 やがて光は全身を満たし、溶け合い、ひとつになった。

 「ぁ……アヴェ――」

 ネフェシェが触れようとした瞬間、アヴェニアスの身体がドクンと脈打つ。

 「これ、は……」

 「あッ、ぐッ……ぎ……ァ、アァァァッッ!?!?」

 アヴェニアスは、燃えていた。

 その光景に思わずネフェシェは後ずさる。

 アヴェニアスを包む炎が地を走り、大地を焼く。

 それはもうネフェシェの足元にまで差し掛かっていた。

 それでもネフェシェはそこから離れようとはしない。

 誰一人言葉を発せない中、身体を灼かれ、痛みに喘ぐアヴェニアスの声だけが響き渡る。

 ネフェシェは、これが自身の火の力によって引き起こされた事に気付いた。

 だが、これまでの状況とは何かが違っている。

 希望に結びつくはずの力は、アヴェニアスの身体をいつまでも灼き続けていたのだ。

 「嘘……どう、して……?」

 「ここは危険です、ネフェシェ様!」

 悲痛な表情で佇むネフェシェを抱え、護衛官達は急ぎその場を離れていく。

 「いやっ、アヴェニアス、アヴェニアス――!」

 その声が届いたのか、アヴェニアスが僅かな反応を見せた。

 「ネ――」

 何もない虚空へと手を伸ばす。

 彼女の顔も、声も、匂いも、もはや分からない。

 だが、身体を蝕まれながらもアヴェニアスの心は歓喜に打ち震えていた。

 自分は――認められたのだ。

 彼女の力を授かるに足る、存在なのだと。

 「ネ――、――ェ、――」

 だからこそ、アヴェニアスは嗤った。

 与えられた愛を、貪り尽くすように。

 いつまでも、いつまでも。

 やがてそこに――天高く炎の柱が立ち登った。

EPISODE8 神の寵愛「この痛みも、この炎も、全て僕だけのもの! 僕は愛されている、愛されているんだァァァッ!!」

 ネフェシェにもたらされた希望の力。

 それは、人間の胎に宿る性質があり、性別を持たないアヴェニアスにとっては、制御できない代物だった。

 注がれてしまった力の暴走を止める術などない。

 ただ、それが朽ち果てるのを待つのみ。

 しかし、燃えて灰になるはずの身体は、力の暴走によって復元され、再び灰にしようと燃えたぎる。

 無限に繰り返される痛みと再生、肉を焼いたような醜悪な匂いに晒され、辛苦の螺旋が終わる事はない。

 「ネ……ふぇ、シ……ぇ……ァ、ァァ……あィ、シ」

 それでも、アヴェニアスは満たされていた。

 より強く、より激しく。

 ネフェシェの事だけを想い続ける。

 こうなってしまった事で、ネフェシェへの想いはより強固なものへと昇華されていった。

 そう――身体を灼くこの痛みが、苦しみが、唯一無二のネフェシェからの寵愛。

 これが続く限り、永劫に愛され続ける事ができるのだから。

 『ボク、ハ、アイサレ――フ、フフ、アハハッ――』

 ――

 ――――

 辺り一面が炎の海と化したアギディスの地に、ソレは揺らめいていた。

 「なッ!? 剣が、熔けて……、へ? 手、燃え――ぎああああああッ!!」

 運悪くソレに遭遇してしまったルスラ軍は、必死の抵抗を試みるものの、ソレが纏う炎の壁の前に全てが意味をなさない。

 触れたものはたちどころに炎上し、燃えカスになるまで容赦なく燃えたぎる。

 人間などはひと溜まりもなかった。

 さりとて、炎に囲まれたこの地から逃げる方法もない。

 人間達は選ぶしかなかった。

 ソレと戦い、勇敢な死を遂げるか、神に命乞いしながら、塵芥になるのを見届けるかを――。

 塵と灰だけになったアギディスの地に、風に乗って何者かの声が虚しく響いた。

 「ネ――、――ェ、――」

 ソレが滅びぬ限り、この地に生命が芽吹く事はない。

 炎の魔人は愛を確かめるように。

 アギディスを彷徨い続ける。

 ――いつまでも、いつまでも。
EPISODE1 神の住まう都、ルスラ「ネフェシェ様の側で感じる穏やかな時間……。それは私が大切にしているもののひとつです」

 箱庭の世界で繰り返される巫女たちの宿業。

 その物語の始まりは、今より遥か昔、人々の幸福を願う少女のもとに四つの希望の力が舞い降りた事から始まる。

 少女の名はネフェシェ。

 神の力を行使する少女は、自らが思い描く理想郷――“平等な幸福を享受できる世界”を作るため、箱庭の世界を少しずつ満たしていった。

 その恩恵は世界の各地にまで及び、荒れ果てていた地には恵みの雨と、豊かな緑があふれ始める。

 やがて箱庭の世界に住まうものたちは、豊穣をもたらす神として少女を奉った。

 神がもたらす恩恵は、いつまでも続いていく――人々が祈りを捧げる限り。

 しかし、その祈りに――神を信仰する人々の中に、一点の陰りが見え始めた。

 それは、痛んだ果実が他を侵食していくように、少しずつ、だが確実に腐食させていく。

 信仰によって成り立つ平和は、存外脆い。

 嫉妬や欲望は、生まれて間もない赤子でさえ持つ自然な感情。

 だからこそ。

 人が人である限り、安寧は仮初でしかないのだ。

 今は何も知らず安寧を享受する聖都アレサンディアの民達。

 彼らに奉られるネフェシェの側に、一人の少女がいた。

 彼女は柔和な笑みを浮かべながら、手慣れた様子でネフェシェの髪をとかす。

 これまでと何ら変わらぬ日常。

 だが少女は、その笑みの奥に秘密を隠していた。

EPISODE2 従者の一族として「ネフェシェ様は私が幼い頃より可愛がってくださいました。その思いに応えたいのです」

 ルスラの首都、聖都アレサンディア。

 外界より迫りくる災いから都を見守るように、アレサンディアに寄り添ってそびえる高山がある。

 その山頂に築き上げられた堅牢な宮殿に、ネフェシェは居を構えていた。

 国が国として、その形を保つためには、多くの務めをこなさなくてはならない。

 まして、神と奉られる者であるならなおさら。

 ネフェシェは慣れた様子で宮殿内を忙しなく渡り歩く。

 今日は貴族からのご意見聞きと、中央院からの定期報告が重なっているからだ。

 そんな彼女の後を一人の少女――テルスウラスはピタリとついて歩いている。

 「次は白百合の間でございます、ネフェシェ様。お疲れではありませんか」

 「私は大丈夫です。まだ予定もありますし」

 「ですが……最近は眠りにつかれる事があるようですので……」

 希望の力を持つネフェシェは老いる事もなく、本来であれば眠る事も必要不可欠ではない。

 「時にはそういう事だってありますから。ですが……ここ数日、眠る度に妙な夢をみるのです……どこからか不思議な声が聞こえてくるような……」

 テルスウラスはその言葉を聞き、心配そうな顔を向ける。

 「眠りにつかれるのはきっとお疲れの証拠です。政務の調整であれば、すぐにでも私の方から中央院に掛け合って……」

 「ありがとう。でも、本当に大丈夫なの。さあ、この話は終わりにして、急ぎましょう」

 テルスウラスの問いかけに、笑顔で返すネフェシェ。

 その表情には、テルスウラスに厚い信頼を寄せている事が見て取れる。

 テルスウラスは、この宮殿の外をほとんど知らない。

 彼女は代々ネフェシェに仕え、宮殿内で一生を終える従者の一族の生まれである。

 ルスラの民以上に並々ならぬ信仰心を持つ先祖達に倣い、従者としてその生を捧げるテルスウラスであったが、その中でも極めて聡明だった彼女は、まだ幼さの見える年頃ながらもネフェシェの傍仕えとして抜擢され、以来こうして神の一番近くであらゆる身の世話をするようになった。

 テルスウラスは、ネフェシェが最も心を許している人物だといっても過言ではない。

 とある日、宮殿内の祈祷室。

 テルスウラスは大きな出窓から顔を出し、山下に並ぶ街並みを覗いていた。

 山頂にいながらも聞こえるほどの鐘や太鼓の音が鳴り響き、色とりどりの旗が街中で翻っている。

 「ネフェシェ様、街は大変な活気でございます」

 「そうですか。皆さん、私のために……ありがたいことです」

 「ええ、本当に……」

 今日は国中をあげて盛大に祝う、ネフェシェの生誕祭が行われる。

 普段、宮殿の中で豊穣の祈りを捧げるネフェシェが、唯一民衆の前に姿を現す――つまりは神に謁見できる祭りとあって、民の熱も尋常ではない。

 テルスウラスら従者の一族も、この日は宮殿を出て参列する事が唯一許されており、本来ならテルスウラスも大いに喜ぶべき日であった。

 だが、ネフェシェに笑いかけるテルスウラスの表情は、どこかぎこちない。

 彼女の中に秘められた、とある悲しい未来予想図。

 それが現実のものとなるかどうか。

 審判の日は、この生誕祭であったからだ。

EPISODE3 交錯する思惑「そんな事……神に許されるはずがありません! そう……許されるはずが……でも……」

 遡る事、数ヶ月前。

 テルスウラスは、とある若き護衛官――アヴェニアスに呼び出されていた。

 幼少より武をもってネフェシェに仕えていたアヴェニアスとは、似た境遇を持つテルスウラス。

 二人はいわば、幼馴染みのような関係であった。

 だが、多くの交流があったのはそれこそ幼き日の事。それが何の前触れもなく、ましてや『深夜、誰にも見つからないように来てほしい』と言われたのであれば、テルスウラスはどうしても警戒してしまうのであった。

 静まりかえった、深夜の宮殿。

 傍仕えとしての立場があるテルスウラスは、当直の衛兵にも怪しまれることなく、指定された場所へと足を運んだ。

 宮殿の地下、山をえぐるようにして作られた巨大な用水路。

 どこかで断続的に雫が落ちる音だけが響く薄暗いこの場所で、アヴェニアスは待っていた。

 「お久しぶりですね。こんな夜更けに呼び出して、何の用ですか」

 「少なくとも、色めいた用ではないという事は分かるだろう」

 「冗談に付き合うつもりはありません。単刀直入にお願いします」

 「ああ、そうさせてもらう」

 私情の類ではない、何かよくない話なのだろう。

 テルスウラスは薄々察していたが、それは自身の予想を遥かに超えた言葉だった。

 「ネフェシェ様の……暗殺が計画されている」

 「な……っ!?」

 ネフェシェ暗殺計画。その実行日は生誕祭に予定されており、さらには実行役として自分が選ばれてしまった。

 あまりに不穏な内容であるにも関わらず、アヴェニアスは淡々とそう説明する。

 驚き、声にならないテルスウラスをよそに、アヴェニアスはさらに続けた。

 「僕はその機会を利用して、逆に中央院を……この国を転覆させようと思っている」

 ルスラは現在、ネフェシェを奉るアテリマ教を第一とした宗教国という形をとっているが、実際の内情は中央院という政務機関が国を管理している。

 ネフェシェの存在を疎ましく思う中央院は、彼女の暗殺を企て、その実行役としてアヴェニアスが選ばれたのだ。

 だが、アヴェニアスは中央院に忠誠を誓っているわけではなかった。

 誓うのは、ただ一つ。

 それはアテリマ教であり、ネフェシェそのもの。

 実行役という皮を被ったまま、生誕祭の日に暴動を起こして中央院を転覆させ、かつてのルスラのようにアテリマ教を中心とした国に建て直そうと計画していたのだ。

 「最もネフェシェ様の側にいるのはテルスウラス、君だ。君にはこの計画を知らせておく必要があった。生誕祭の日、君にはネフェシェ様を守って欲しい」

 ネフェシェを守るという事に異議は無い。

 だが、テルスウラスは僅かに狼狽の表情を浮かべる。

 彼女は分かる。分かってしまっている。

 ネフェシェを暗殺するという、“中央院の動機”を。

 その戸惑いに気付いたのか、アヴェニアスは疑念の目をテルスウラスに向けた。

 見開いたその目はギラギラと光り、熱を孕んでいる。

 彼は幼少の頃からそうだった。自分の理想のためならどんな手段でも問わずに行使する。

 その危険性を、テルスウラスは知っていた。

 今は同意するのが得策である。

 そう考えた彼女は、ゆっくりと首を縦に振らざるを得なかった。

EPISODE4 神の預かり知らぬ所「一方を守れば、一方が苦しむ……そんな残酷な決断を、どうして私が下す事ができましょう……」

 ネフェシェに仕える従者達は、基本的に政務に関わる事を許されていない。

 だがテルスウラスは、ネフェシェの最も近くにいるものとして、中央院やアテリマ教などの政治的動向には敏感にならなければいけなかった。

 それはネフェシェを守るためという思いから来るものだったが、彼女はあまりに聡明すぎた。

 テルスウラスは日々考える。

 政治、経済、民の暮らし。

 日常の中で耳に入ってくる情報をきちんと整理し、この国が抱えている問題を導き出す。

 中央院という組織が何をしたいのか。

 彼らがなぜネフェシェの暗殺を企てるのか――。

 “ネフェシェが掲げる理想郷”とは、平等幸福という誰もが均等に幸福を享受するというもの。

 それは、裏を返せばどこまでも平行線であり、変化を認めないという事でもある。

 自然溢れる大地はネフェシェの私物とされ、開拓は許されない。ましてやその土壌で生きる生物を、人間の損得で人工的に増減させるなどもってのほかであった。

 だが民の暮らしが安定すればするほど、ルスラの人口は急激に増え続けていく。

 多くの民の受け皿となる土地や、彼らを賄う食料など、様々な問題が限界を迎えるのは時間の問題だった。

 また、危惧すべきはルスラ国内だけではない。

 ルスラ建国当初、諸外国は豊穣の神を手中に納めようとルスラに対しネフェシェの身柄を求めた。

 それを武力で抑圧しようとしたルスラであったが、ネフェシェはそれを諫める。

 それぞれの思惑と主張の一つの着地点。それは条約という形で結ばれた。

 『ネフェシェの恩恵を平等に受ける権利を持つ代わりに、諸外国はルスラに干渉または進入しない』

 この条約の下に各国――特にルスラは安寧を得たが、それは時の流れと共に崩れ去ってしまう。

 ネフェシェを諦めた代わりに自由な発展を許される他国は着々と力をつけ、今ではすでにルスラ以上の技術力、武力を有している。それはルスラにとっては十分すぎる脅威であった。

 対抗策として、ルスラは条約とネフェシェという存在を利用し、他国へと与える豊壌を取り上げる事を切り札としてチラつかせた。

 そんな事はネフェシェ本人が許すはずもないが、そんな彼女の意思を悟られないようにしながら、何とか牽制を続けてきたのだった。

 ネフェシェの統べる世界では平等が最優先され、発展は許されない。

 しかしルスラは今、ネフェシェが想定していない諸問題に板挟みにあっている。

 神を取るか。民を取るか。

 決定権を神から人へと完全に取り戻し、この国をより豊かに発展させる。

 中央院が企てているネフェシェの暗殺計画は、民の未来を思うからこそ決断されたものだったのだ。

 テルスウラスのアテリマ教に対する、ひいてはネフェシェに対する信仰心は強い。

 しかし、このままでは多くの民が苦しむ事になるのは目に見えている。

 この国に残された選択肢。

 そのどちらを選んでも、辿り着く先は悲劇だろう。

 一族の中でも特に聡明で、自分の力で物事を考える力を持つテルスウラス。

 だからこそ、彼女は信仰という名の下に思考を放棄する事ができない。

 「私はどうすれば……」

 残酷な天秤は、テルスウラスの中でゆらゆらと揺れ続けている。

EPISODE5 バースデードレスは何色に「誰も幸福になれないのなら、少しでも望みのある方へ。それが……私の答えです」

 そして、生誕祭当日。

 ルスラの首都、アレサンディアの大聖堂前には生誕祭を祝う会場が作られ、民たちは思い思いの祝福の言葉をネフェシェに投げかけている。

 それに手を振り応えるネフェシェの半歩後ろに立つテルスウラスは、過剰なまでに神経を尖らせていた。

 『祈りの鐘が鳴ったら、それが合図だ。君たちはネフェシェ様を連れて逃げてくれ』

 あの日、テルスウラスはアヴェニアスからそう伝えられていた。

 生誕祭は予定通りに進んでいる。

 祈りの時間はもうすぐだ。

 ――失敗は、許されない。

 教会の最上部から、清涼さと青銅の鈍さを含んだ鐘の音が街を包んだ。

 瞬間、会場を囲うように扇型に配置された護衛官たちが、一斉に剣を抜く。

 ネフェシェ暗殺計画の実行役に選ばれたのは、あのアヴェニアスひとりではなく、志を共にした護衛官全員だった。

 生誕祭の熱狂の中という事もあり、民たちはまだ異変に気付かない。見世物だと思って囃し立てる者もいる。

 そんな彼らを気にする様子もなく、護衛官達は真っ直ぐに切っ先を向けた。

 ネフェシェではなく――中央院の高官が座る席へと。

 みるみる青ざめていく高官達に向かって、護衛官達が距離を縮めていく。

 さすがに異常な雰囲気だと察したか、民たちの間でおきたどよめきは、一瞬で伝播し会場は大混乱の様相を呈した。

 「これでこの国は変わる」、護衛官の一人であるアヴェニアスがそう思いながら剣を振り上げたその時。

 「ネフェシェ様!!」

 民の中から、よく通る女性の声が会場に響き渡った。

 その音色に疑問を感じたのは護衛官達だ。

 ネフェシェに剣は向けられていない。

 何かがおかしい。

 誰もが声の指し示した方へと視線を向ける。

 「申し訳ございません」

 そこには、真っ白なドレスを赤く染め、髪を乱して倒れるネフェシェ。

 そして、ドレスと同じ赤を纏うナイフを持ったテルスウラスが、顔を伏せて立っていた。

 テルスウラスは選んだ。神ではなく、人間である自分たちで掴む未来を。

 ネフェシェを殺めれば、確実に自分の命も無い。

 それでも。板挟みのまま少しずつ腐り落ちていくよりも、祖国の民を、未来を、彼女は選んだのだ。

 ネフェシェへの信仰を捨てたわけではない。

 どんな利益を説いたところで、彼女の意思が変わるような事はないと。

 むしろ、それほどまでに世界の幸福を願うからこそ神に選ばれたのだと。

 ネフェシェを誰よりも一番近くで見てきたテルスウラスには分かっていた。

 彼女は、ここまで純粋に――ともすれば偏執的に幸福を願ったネフェシェが、自分の力無さによって世界が崩壊していく様を見せたくなかったのだ。

 それはネフェシェに対する信仰というよりも、愛するがゆえの選択だった。

 テルスウラスは膝をつくと、血に染まったネフェシェを抱き抱えようと手を伸ばす。

 己の手で殺めたにも関わらず、亡骸になった姿を未だ信じられないかのように。

 慈しむように。

 「ネフェシェ様……民を、国を守るためには、こうするしかなかったのです……」

 テルスウラスがそう呟いた時だった。

 会場に置かれたテーブルがカタカタと音を立てて小さく揺れたかと思うと、地の奥底から強烈な地響きが鳴り出した。

 中央院への反乱、凶刃に倒れるネフェシェ、大地の異変。

 立て続けに起こる事件に、ルスラは混乱の坩堝へ落ちていく。

 地響きは、低く不穏な音を奏で続ける。

 それはまるで、獰猛な獣の唸り声のように。

EPISODE6 神の力、ネフェシェの愛「幸福を願う貴方様の愛が、これほどのものとは……。私の信仰など、あまりにも浅かった……」

 ルスラの民、高官、護衛官、そしてテルスウラス。

 誰もが事態を飲み込めずに慌てふためいている。

 そのさなか、倒れたネフェシェの身体が、ピクリと動いた。

 血に染まったドレスの胸が上下し、僅かではあるが呼吸を取り戻す。

 ネフェシェがただの少女であれば、テルスウラスの刃は十分に致命傷となっていただろう。

 だが、彼女はただの少女では無い。

 四つの希望の力を持つ――神である。

 希望の力たちは、延命処置をネフェシェの肉体へと施していく。

 ゆっくり、ごくゆっくりではあるが、流れ続けていた血は止まっていき、浅い呼吸はリズムを取り戻す。

 その光景は、紛れもなく神の力そのものだった。

 しかし、これで事態が収まるわけではない。

 息を飲む一同に、ネフェシェに宿る四つの希望はさらなる力を見せつける。

 依代とする少女への防衛反応。

 テルスウラスを“ネフェシェを傷つけた者”と判断した四つの希望は、その力を彼女へと行使しようとしていた。

 火、水、土、風。

 自然を司るその全ての力が混ざり合った、光の蔓のような物がネフェシェの体から無数に伸びたかと思うと、テルスウラスに襲いかかる。

 己の死を直感したテルスウラスは目を瞑った。

 だが、待てども危害を加えられた感覚がない。

 「やめ……て……」

 聞き慣れたその声に、テルスウラスは思わず目を開ける。

 その視線の先には、苦しそうにもがくネフェシェ姿があった。

 ネフェシェは防衛反応を取る希望の力を抑え込もうとしていたのだ。

 誰も傷つけたくない。

 世界に幸福を与える事以外で神の力を使いたくない。

 自らの命が危機に晒されるほどの出来事があったにも関わらず、ネフェシェの精神は折れなかった。

 だが、希望の力はネフェシェが抑え切れるものではない。

 行き場の無くなった力たちはネフェシェの体内で暴走し、蹂躙する。

 「あ……ぐ……苦しい……」

 血を吐き、肉体は切り刻まれ、皮膚をただれさせながらのたうち回るネフェシェ。

 そんな惨状を前にし、民衆はもちろん、高官や宮殿関係者の一部までもが恐れ逃げていく。

 だが、テルスウラスはネフェシェの近くに立ち尽くし、涙を流しながら呆然とその様子を眺めていた。

 テルスウラスは知らなかった。

 神の力の、本当の強大さを。

 人間の浅はかな考えで、思い通りにできるようなものではないという事を。

 やがて、神の力による蹂躙は収まっていき、かろうじて人間の姿を留めたネフェシェは、テルスウラスの近くで倒れた。

 あたりはシンと静まりかえり、誰もが夢を見ていたかのように呆けている。

 神の力を、ネフェシェの愛を、痛いほど感じた。

 だから、今度こそ。

 取り返しのつかない事をしてしまったと、詫びるように。

 テルスウラスはネフェシェの身体を、強く強く抱きしめた。

EPISODE7 剥離する希望「これは、私が持つようなものではありません! ああ……私はどれほどの罪を……!」

 痛ましいほどに傷ついたネフェシェをテルスウラスが抱きしめた――その時。

 テルスウラスの胸にあるネフェシェから、“何か”が流れ込んでくるのを感じた。

 瞬間、周りの木々が風もなくざわめいたかと思うと、自らの体を中心に放射線状に草花が生えていく。

 硬い石畳を割りながら、花開いては枯れ、花開いては枯れ、一生を一瞬で繰り返していく草花。

 気付けば、胸に抱いたネフェシェの身体が、あれほどの損傷であったにも関わらず完全に治癒されている。

 テルスウラスは、この現象に心当たりがあった。

 先祖代々語り継がれてきた伝承。

 とある少女の元に希望の力が舞い降りた奇跡。

 目の前に広がる光景は、伝承の中のものとまったく同じだった。

 同時に、テルスウラスはもう一つの事実にも気が付く。

 先ほど自分に流れ込んできた“何か”。

 それは、本来ネフェシェが持っていなくてはいけないはずの力の一部だという事に。

 希望の力を抑え込み、その力に蹂躙されたネフェシェは、生物が共有する絶望の概念である“死”に直面していた。

 ナイフで傷つけられた程度では、神を宿すネフェシェが死ぬ事はない。

 だが、守護するはずの力そのものに傷つけられたとあらば例外だ。

 死という絶望に襲われたその瞬間、ネフェシェから希望の力のひとつが剥がれ落ちた。

 行き場を失った力は、次なる依代へ。

 「未来を自分たちの手で掴む」という、テルスウラスの希望の元へと、吸い寄せられていたのだった。

 だが、未だ現実を受け止めきれないテルスウラス。

 その混乱に呼応するように、“土の力”が大地を揺らし始めた。

 揺れは瞬く間に膝をついてしまうほど大きくなり、聖都アレサンディアの地面はいくつかに裂き離れ、飛び越える事など不可能なほど深い谷が生まれ、テルスウラスとネフェシェは引き離れてしまう。

 「ネフェシェ様!!」

 テルスウラスは叫んだ。己の主の名を。

 今も彼女の、従者であるかのように。

EPISODE8 パーティーの終わり「決して償う事などできない、私の罪。でも少しでも。最後の時までは……」

 揺れが収まり、残された者たちがかろうじて落ち着きを取り戻し始めた頃。

 早くも彼らは“次”を考え、行動を起こそうとしていた。

 逃げ遅れた民衆を含め、ルスラの人間はその目で見てしまった。

 希望の力はネフェシェのみに許されたものではない。

 希望の力は“奪い取る”事ができる。

 その事実を。

 現状を好機と見た中央院の高官、それに反する過激派のアテリマ教徒、醜い野心を持つ民。

 彼らは一斉にネフェシェへと襲い掛かる。

 彼女を守るべく必死に奮闘する護衛官。その中に、あのアヴェニアスの姿もあった。

 誰もが顔を歪め、欲望にまみれた暴力を交わし合う。

 およそ理想郷とは呼べない光景。

 割れた大地の谷を挟み対岸に残されたテルスウラスはどうする事も出来ずにそれを見ているしかなかった。

 ――全て……神を虐げようとした私への罰なのですね……。

 神の国、民の国……もはやそのような世迷言を吐けもしないほどに、私はルスラを壊してしまいました……。

 ああ、ネフェシェ様……。

 あなたを思うこの気持ちだけは、どうか……。

 どうか……。

 誰に教わったわけでもない。だがテルスウラスは不思議と理解していた。

 神の力の使い方を。

 「ネフェシェ様……貴方様の傍仕えとして、最後の仕事をさせてください……これが終わったら、私は長い暇を頂戴しようと思います……」

 テルスウラスは、対岸で争いを続ける者たちへとゆっくりと片手を伸ばす。

 途端、地面から太い蔓が伸び、ネフェシェを襲っていた者たちを吹き飛ばすと、蔓はそのまま身体にまとわりつき、彼らを石畳へ縫い付けるように拘束した。

 そしてテルスウラスは、もう片方の腕も伸ばす。

 すると今度は、ネフェシェたちのいる対岸の崖の断面から無数の木々が伸びていき、崖と崖を繋ぐ橋が築かれた。

 それはテルスウラスの方ではなく、ルスラから出国する道の方へ伸びていた。

 唖然とするアヴェニアスを促すように、テルスウラスは声をかける。

 「ルスラにいるのは危険です。ネフェシェ様を連れてお逃げください」

 「貴様ぁ……!」

 アヴェニアスは怒りを露わにしてテルスウラスを睨みつけた。

 助力してもらったとて、元凶は計画を裏切ったテルスウラスそのものだ。

 何より、狂信的なまでに崇拝するネフェシェを傷付けた事が、アヴェニアスには許せなかった。

 だが、今はやるべき事がある。

 アヴェニアスはテルスウラスを睨みつけたまま、他の護衛官に指示を出す。

 そしてネフェシェを抱き上げると、木々の橋を渡りルスラを離れていった。

 それを見届けると、ほんの少し前までの華やかさを失った生誕祭会場で、テルスウラスは一人呟く。

 「どうかご無事で……そして、さようなら……」

 豊穣の神ネフェシェを失ったルスラは、壊滅状態に陥った。

 だが、その後ほどなくして、神を奪った大罪人が新たな王としてルスラを治める事となるのだが――

 それを知る者は、今はまだいない。

EPISODE1 一縷の望み「多くを失った少女は、ただ果てを目指す。そこに、世界を正しく導くものがあると信じて」

 箱庭の世界で繰り返される巫女たちの宿業。

 その物語の始まりは、今より遥か昔、人々の幸福を願う少女のもとに四つの希望の力が舞い降りた事から始まる。

 少女の名はネフェシェ。

 神の力を行使する少女は、自らが思い描く理想郷――“平等な幸福を享受できる世界”を作るため、箱庭の世界を少しずつ満たしていった。

 その恩恵は世界の各地にまで及び、荒れ果てていた地には恵みの雨と、豊かな緑があふれ始める。

 やがて箱庭の世界に住まうものたちは、豊穣をもたらす神として少女を奉った。

 神がもたらす恩恵は、いつまでも続いていく――人々が祈りを捧げる限り。

 しかし、ネフェシェが想い描いた理想郷への道は、どこで違えてしまったのか、いつしか大きく逸れていってしまう。

 幾多もの困難に見舞われ。

 信じてきた者達も、今となっては僅かばかり。

 彼女が持つ力までもが剥がれ落ちてしまった。

 彼女の手元に残っているものは、いか程か。

 それはもはや彼女にも分からない。

 だが、それでも往かねばならないのだ。

 彼女を信じてくれた多くの者達に、報いるためにも。

 北へ、北へ。

 前へ、前へ。

 どんな強風が吹きつけようとも、進むしかない。

 彼女に下された神託に、一縷の希望をかけて。

EPISODE2 風の吹くままに「吹きすさぶ風に誘われて辿り着いた異郷の地。そこでの出会いは、彼女に何をもたらすのだろうか」

 ネフェシェ達の旅は、アギディスの険しい山々を抜けて西に降り、砂漠が広がる丘陵地帯へと差し掛かろうとしていた。

 年がら年中、一帯に強い風が吹きつけていて、陽射しも肌を容赦なく焼く程に鋭い。

 ルスラやアギディスと比べると、緑の少ない地ではあったが、そこには独自の進化を遂げてきたと思われる生態系が形成されていた。

 この地域には強い陽射しから逃れられる場所が少ない。そんな過酷な環境の中でも生きている生命の逞しさに、ネフェシェは小さく口元を緩めた。

 「このような地でも生命はしっかりと芽吹いているのですね。素晴らしいことです……」

 辺りを見回しながら歩いていたネフェシェだったが、どこか足取りが覚束ない。

 「ネフェシェ様? お顔が優れないようですが……あっ!」

 言い終わらぬ内に、ネフェシェはそのままもつれるように足を絡ませて崩れ、座り込んでしまう。

 「ネ、ネフェシェ様!!」

 「ぁ…………」

 ほんの一瞬で、ネフェシェは眠りについてしまった。

 いくら揺れ動かしても、起きる気配は一向にない。

 彼女はいつの頃からか、歩いている際中にも突然眠りに落ちる事が増えていたのだ。

 まるで、何者かに誘われるように。

 「どうする? どこか休める場所を探さなくては」

 「日陰となる場所もあるにはあるが……」

 「待て、あれを見ろ」

 護衛官が指さした方角に目を向けると、遠くの方で微かに立ち昇る煙が見えた。そのまま視線を下に滑らせると、巨大な岩石が横たわっているのが見える。

 「行ってみよう」

 護衛官達は頷き合い、歩を進めるのだった。

 巨岩が近づくにつれて、その存在感に圧倒され感嘆の声を漏らす護衛官達。

 そのまま辺りを調べてみると、切り出された岩場が道のように続いている事に気付く。

 続けて断崖絶壁の道を進み、程なくして開けた場所に出た。

 その中心には、支え合うようにして大小様々な岩が立ち並んでいる。よく見れば、それは岩を上手く利用して造られた住居であった。

 中には岩を器用に削ったものや、土を塗り固めた壁で補強したものまで様々だ。

 ここに居を構える者達からは、自然と共存するという強い意思が伝わってくる。

 「ともかく、誰かいないか探そう」

 護衛官達が集落の奥へと進もうとしたその時、ふと背後から物音がした。

 「……お前ら、何者だ?」

 振り返ると、そこには日に焼けた肌を露出させた数人の男女が立っている。肩には近くで狩猟してきたと思われる獣を担いでいて、各々が弓や石のナイフなどを握っていた。

 数は圧倒的に彼らに分があった。

 「クッ……!」

 護衛官達はどうにかネフェシェを護る術はないかと周囲に目を配りつつ、剣の柄に手をかける。

 だが、護衛官の視線にいち早く気付いたリーダー格の男は、手を前に出してやんわりと告げた。

 「剣を収めろ。俺達、戦わない」

 男の瞳に敵意は感じられない。

 それを悟った護衛官達は渋々警戒を解くのだった。

EPISODE3 砂漠に生きる民「ネフェシェを真に救えるのは、創造神イデアのみ。眠りにつく少女の姿をした神に、護衛官達は誓う」

 僅かな緑と砂漠が広がる地でネフェシェ達が出会ったのは、自然と共存しながら生きる人間の狩猟民族「メーヴェ」。

 元は流浪の民だったが、この地に流れ着いてからはここを拠点にして狩りを行なっているらしい。

 そう教えてくれたのは、リーダー格の男。

 彼らは部族名を持ってはいるが、個別の名前を持たない文化のようだ。

 彼らからは独特ななまりを感じたが、言葉が通じない訳ではなかった。

 護衛官はネフェシェの身上などは伏せたまま、これまでの経緯や目的を話して聞かせる。

 「……東の赤い空、理解した。だが、何故お前たち、砂漠に来た?」

 「我々は彼女を護衛しながら、ここより遥か北にある場所へ向かわなければならない」

 男は岩陰に寝かしつけられたネフェシェを見やった。

 ネフェシェと彼女の護衛についている者の周りに、子供達が群がっている。

 ネフェシェの透き通るような白い肌と金色の髪に、皆興味津々なのだろう。

 「悪気はない、大目に見てくれ」

 「あ、ああ……」

 「北の地、俺達も近付けない場所。辿り着けない時、またここに戻ってこい。いつでも、歓迎する」

 男はそう言うと、奥に作られた小屋を指差した。

 そこを寝床に使えと言う事だろう。

 「ありがとう。貴方がたの申し出は嬉しいが、ネフェシェ様の疲れが取れたら直ぐに出発させてもらうよ」

 男と別れた護衛官は、他の護衛官と共にネフェシェを小屋に運ぶのだった。

 干し草の上に寝かしつけると、護衛官達は安堵の息を漏らす。

 「何事もなく済んでよかったな……」

 「ああ、ここの者達はルスラやティオキアの人間達と比べると、雰囲気が違うというか」

 「何れにせよ、以前のような事態だけは避けたいところだな」

 「何としてでも、ネフェシェ様を送り届けねばならぬ」

 「それが我らの使命だからな」

 ネフェシェは今も深い眠りに落ちている。

 力が剥がれ落ちてからというもの、彼女は突然意識を失う事が増えていた。

 その頻度と深さは、ルスラの時と比べると雲泥の差である。

 もはや彼女に残されたのは、風の力だけ。

 もし、それさえも失ってしまったら……彼女は一体どうなってしまうのだろうか。

 気が気ではない護衛官達だったが、考えたところでそもそも彼女とは見えている世界が違いすぎた。

 不死の身体を持つ彼女の気持ちを推し量る事もできなければ、その逆もまた然り。

 本当に彼女を救えるのだとしたら、それは彼女が夢に見たという神――創造神イデアをおいて他にはいないのだろう。

 護衛官達は願った。

 数々の困難に直面してきた彼女が、どうか救われるように、と。

EPISODE4 与えられた幸福「幸福とは、ただ平等に分け与えたところで意味をなさない。少女がそれに気付いた時、異変は起きた」

 私は、またあの夢を見ていました。

 せせらぎにも似た音に包まれながら、私へと語り掛けてくる声に耳を傾けます。

 最初は、ほんの小さな声でした。

 ですが、何度も逢瀬を重ねるうちに、ゆっくりと大きくなっていったのです。

 あなたは決まって、先の見えない道で手を差し伸べてくれましたね。

 悩み、苦しみ、悲しみに暮れた時もそうでした。

 わたしが望む時に、必ずあなたは現れるのです。

 だからでしょうか。

 わたしはすっかりあなたの声に、すがるようになってしまいました。

 あなたは、どんなお顔をしているのでしょう。

 あなたは、どんなお声でほほ笑むのでしょう。

 あなたに逢えるのなら、私はどれ程の苦難が待ち受けていようとも、乗り越えられるのです。

 あと少し、あと少しであなたに手が届く。

 そうすれば、私は――

 「――ェ、ネフェシェー?」

 「っん……あ……私、また眠っていて……」

 私は、目の前にいた女の子の声で深い眠りから戻ってきました。

 何か言いかけていたような気もしましたが、どうにも思い出せません。

 「良かったー! ネフェシェ、起きないから死んだと思った!」

 この子がそう思うのも無理はありません。

 皆さんが言うには、本当に死んだように眠っているそうですから。

 最初は、寝て起きても気持ちのいいものではありませんでした。ですが、あの声が鮮明に聞こえるようになってからは、晴れやかな気持ちで目覚める事ができるようになったのです。

 「ネフェシェー? また死んじゃったー?」

 「いいえ、起きていますよ。それより……あなたのお名前は?」

 「名前? 名前、ない! アタシ達、メーヴェ! 砂漠で狩りしてる!」

 メーヴェと名乗る女の子はそう言うと、痩せ細った身体を揺らしながら「にしし」と笑っていました。

 砂漠という過酷な地に生きているにも関わらず、私には何故か楽しそうに見えたのです。

 私は自然と、彼女に尋ねてしまいました。

 「あなたは今、幸せなのですか?」

 「幸せ……? よく分からない。でも、父と母いる。アタシ、いつも楽しい!」

 彼女はまた幸せそうに笑います。

 この辺りは、私の力も行き届いている訳ではありません。なのに、ここに暮らす人々は、とても幸福で満ち足りているような気がしたのです。

 「……私がいたルスラとは大違いですね」

 「ネフェシェ、よく分からない! でも、楽しい!」

 この時、私は思いました。

 最初からこの世界に私などいなくとも、日々を生きる者達にとっては些細な事だったのかもしれないと。

 ただ与えられるだけの祝福に意味はなかったのです。

 そこでようやく私は気付きました。

 私が見ていたのは、世界に生きる者達の未来ではなかったのだと。

 むしろ、私よりも彼女の方がずっと先を見ているとさえ思う。

 長い時を生きてきたのに、私は今まで何を見てきたのでしょうね……。

 もっと早く気付いていれば、私は皆を喪わずに済んだかもしれないのに。

 叶うのならば……もう一度私は――

 「っ……ん!?」

 「ネフェシェ、どうした? お腹、痛い?」

 突然の痛みが私を襲いました。

 その時、私は何かを感じたのです。

 ――今のは、声……でしょうか。

 それは、自身に絶望した私が、

 この世界に授ける最後の祝福でした。

EPISODE5 異形「少女が身籠ったのは、この世に存在する形とは似て非なるものだった」

 それは、明朝の事だった。

 ネフェシェの呻き声に気付いた護衛官達が小屋に駆けつけると、彼女が地面に蹲ったまま動けずにいたのだ。

 「ネフェシェ様!?」

 駆け寄って調べてみると、ふとネフェシェの周りだけ地面が湿っている事に気付く。

 外傷も見られない。

 だが何故これ程までに苦しんでいるのか、彼女を仰向けにしてみると、ようやく原因と思われるものが何か分かった。

 ネフェシェの下腹部が、大きく膨れていたのだ。

 「ま、まさか……これは!?」

 この苦しみように、ここまで極端に張った腹ともなれば、自ずと答えは見えてくる。だが、それはいくらなんでも急過ぎた。

 なんの兆候もなしに、突然“身籠って”しまうなど。

 さすがの護衛官も直面した事がない事態に、急ぎ集落の女たちに助けを求めた。

 小屋にやってきたのは、昨日ネフェシェと戯れていた少女と、少女の母親だった。

 女はネフェシェの腹と顔を見るなり、既にネフェシェが破水している事に気付く。

 オロオロと動揺するだけで何もできない護衛官達を追い出すと、女はネフェシェの下腹部に手を沈める。

 それから数時間後――

 陽が傾き始めた頃に、女は腕に赤子を抱きかかえて小屋を出てきた。

 ネフェシェは無事に子をなしたのだ。

 余程疲れたのだろう、ネフェシェは女が話しかける前に深い眠りの中に落ちていた。

 女は、母親の近くに赤子を置こうとしたところで、ようやく何かがおかしい事に気付く。

 子供が全くと言っていいほど、産声をあげていない。

 いや、それ以上におかしな点がある。

 子供の頭をよく見てみると、耳の少し上の辺りにザラっとした硬い何かが触れたのだ。

 「なんだい、これ……?」

 その得体の知れない何かは、人の子であれば生えてこないもの。

 しかし、その何かは母親がよく目にする物でもあった。

 そう、それはメーヴェの民達が狩りで捕らえてくる獣が生やす――角によく似ていた。

 内巻きに伸びた、真っ黒な角。

 赤子の異様な風貌に、誰も言葉を発せずにいた。

EPISODE6 メーヴェ「生まれた子に未来を託し、ネフェシェは向かう。イデアが待つ原初のうつろへと」

 「私が……この子を、生んだのですか?」

 意識が戻ったネフェシェは、目の前の赤子を見て小さく首を傾げた。

 ネフェシェの胎から突然産まれた子。

 それは、誰も見た事のない姿をしていたのだ。

 褐色の肌に、小さく渦を巻いた二本の角。

 通常の人間の子供ならば、今も産声をあげているはずである。

 しかし、その子供は一度も泣き叫ぶ事もなく、穏やかに寝息を立てていた。

 誰も状況を飲み込めていない中で、ネフェシェは一人思案する。

 「……あの時、私が願ったから……」

 すると、ネフェシェは目を閉じ、何かを確かめるように内側に意識を傾ける。

 程なくして、ネフェシェは告げた。

 「……風の力が、私からその子へ移ったようです」

 驚愕する護衛官をよそに、ネフェシェは至って冷静にしている。

 そのまま間髪入れず、護衛官達に話しかけた。

 「お願いがあります。どうか、その子を皆さんで育ててはもらえないでしょうか」

 「ネ、ネフェシェ様?」

 「希望の力は、私からすべて失われました。もはや豊穣の神などとは呼べません。ですが、私が『原初のうつろ』にてイデア様と邂逅する事で、次の時代が訪れるでしょう。その時に、この世界には彼女がいなくてはならないのです」

 「で、ですが……我々にはネフェシェ様を送り届ける使命が……!」

 「私と共に来ても、その先に未来はありません。イデア様と邂逅する事こそがすべての力を失った私の最後の使命。ですが、その子には未来と希望があるのです。どうかお願いです、私ではなく、その子を護ってあげてください」

 「…………」

 ネフェシェがこうまでして意固地になるのは初めての事だった。それ程までに、この異形の赤子を気にかけているのだろう。

 「…………ネフェシェ様の願いは分かりました。しかしながら我々は、ネフェシェ様とこの赤子の両方をお護りし、身命を賭して行く末を見届けたいのです」

 「ここに残る者達は、この地でメーヴェの民と共に暮らしましょう。いつの日か、ネフェシェ様が戻って来られるその日まで」

 「皆さん……ありがとうございます……」

 それは、ネフェシェが久しぶりに見せた笑顔だった。

 慈愛とも悲哀ともつかぬその笑みは、どこか憑き物が落ちたようですらある。

 誰も彼もが言葉を失い動けずにいると、不意にネフェシェは懐からある物を取り出す。

 それは、一振りの短剣だった。

 全体を翡翠色で覆い、金の装飾を施した儀式用の物。

 「お願い“メーヴェ”を護って……」

 ネフェシェはその刀身へ祈りを込めるように口付けを交わすと、それを護衛官へ渡した。

 その日の内に、ネフェシェ達は集落を後にする。

 イデアが待つ、原初のうつろを目指して。

EPISODE7 想いは、風に消えて「ネフェシェが去りし後、集落に訪れる黒い影。それはすべてを巻き込んで、荒野へと消えた」

 数人の護衛官を連れて創造神イデアが待つ場所へ向かったネフェシェ。

 半数の護衛官は集落に留まり、メーヴェを育てる事を選択したが、その生活は長くは続かなかった。

 夜、寝静まった集落を野盗の一団が襲撃したのだ。

 寝込みを襲われながらも応戦する男と護衛官達だったが、圧倒的な数の野盗を前に、抵抗も虚しく殺されていく。

 夫を殺され、後を追うように自害した女を除いて、女子供は奴隷として囚われてしまった。

 そして、野盗達の魔の手はメーヴェが眠る小屋へと伸び――

 「あぅ……まぁ……」

 「ハァ!? あいつら必死に守ってやがるから、お宝があんのかと思ったらよぉ! 外れじゃねぇか!」

 「物好きな奴にゃ“売れる”かもしれねぇが、邪魔なだけだ殺しちまえ」

 「ヘッヘ、元からそのつもりよ。ガキはやわらけぇ、端からちょっとずつバラすのが……あ、なんだこりゃ」

 「どうした?」

 メーヴェに手をかけようとした男の声に、もう一人の男が振り返る。

 ちょうどメーヴェに手をかけようとした男が、メーヴェの首根っこを掴んで持ち上げている所だった。

 「なんだこりゃ? 頭に変なもんがくっついてやがるぜ」

 「ぅぅ……やぁ……」

 「ハハハ! いっちょ前に嫌がってるぜ! オラ、さっさと泣けよ!」

 男はメーヴェの足を持ち、逆さにするとそのまま地面に叩きつけようと振り上げ――その瞬間、小屋に一陣の風が吹いた。

 「オォ!? ゲホッ、なんなんだ、今の風は!」

 「なんでこんなとこに……って、お前! その腕どうしたんだよ!」

 「あん? 何を騒いで……は!? お、俺の腕が! アァァアァァァ!!??」

 泣き叫ぶ男の足元に転がる腕。

 その横では、メーヴェが小さな手足を上に向けてバタバタと動かしている。

 「まぁ……」

 「まさか、このクソガキ――」

 それが、男の最期の言葉だった。

 突如、集落をまるごと消し飛ばす程の暴風が吹き荒れたのだ。

 人も、物も、すべてが風によってバラバラになり……何もかもが吹き飛んだ後に残されていたのは、穏やかな寝息を立てるメーヴェと、その近くで転がる翡翠色の短剣のみ。

 傍から見れば、ただの赤子に過ぎないメーヴェ。

 だが、希望の力によって形作られたその身体は、ネフェシェと同じく彼女を生かし続けるように絶えず力を消費する。

 それは、皮肉にもネフェシェがもたらした豊穣の力を奪い取っていくかのようであった。

EPISODE8 その瞳に映る世界は「豊穣の神から祝福された少女は、ただ世界を彷徨い続ける。一振りの短剣を、旅の道連れにして……」

 希望の力が周囲の力を吸い取ってメーヴェの生命を維持させようとした結果、環境は荒れ果て、見る影もなく衰退していった。

 吹き付けていた風も止み、辺りは静寂に包まれている。

 辛うじて生活する事ができた風と砂の大地は、一瞬にして過酷な環境へと成り果ててしまったのだ。

 ――それから、次にメーヴェが目を覚ましたのはネフェシェが死の大地へ向かってからおよそ100年の歳月が経過した頃だった。

 周囲の力を吸い上げてきたメーヴェの身体は、彼女が眠っている内に成長していたのだ。

 人の身でいえば12歳ぐらいの身体つきだろうか。

 照りつける陽光に晒される中で、メーヴェはただぼんやりと果てのない砂漠を眺めていた。

 ふとメーヴェは空に浮かぶ太陽が気になったのか、それを掴み取ろうと立ち上がる。

 しかし、何故か体勢を崩して砂地に顔を埋めてしまった。

 大きく成長していた角に、脚を取られてしまったのだ。

 メーヴェは何度も転がりながら、ようやく感覚が馴染んできたのかその場で立ち上がると、ゆっくりと歩き始めた。

 行く宛てなどない。

 頼る者もいなければ、言葉も持たない。

 今の彼女にできるのは、ただ果ての見えぬ広大な砂漠を彷徨い続けるのみ。

 「まぁ……まぁ……」

 異形の子として産み落とされた少女――メーヴェ。

 果たして彼女は、この世界で何を見て、何を感じるのだろうか。

 ネフェシェが祈るように、彼女が正しき道を歩むかどうかは、まだ分からない。

EPISODE1 ルスラからティオキアへ「この国は素晴らしいものがたくさんあります。ただ、私達が恩恵に預かれることはありません……」

 箱庭の世界で繰り返される巫女たちの宿業。

 その物語の始まりは、今より遥か昔、人々の幸福を願う少女のもとに四つの希望の力が舞い降りた事から始まる。

 少女の名はネフェシェ。

 神の力を行使する少女は、自らが思い描く理想郷――“平等な幸福を享受できる世界”を作るため、箱庭の世界を少しずつ満たしていった。

 その恩恵は世界の各地にまで及び、荒れ果てていた地には恵みの雨と、豊かな緑があふれ始める。

 やがて箱庭の世界に住まうものたちは、豊穣をもたらす神として少女を奉った。

 神がもたらす恩恵は、いつまでも続いていく――人々が祈りを捧げる限り。

 しかし、永遠に続くかと思われた仮初の幸福は、ネフェシェの生誕祭を境に脆くも崩れ去った。

 人の欲望によって神は政治の道具へと成り下がり、それをめぐる思惑が幾重にも交差し衝突した結果、ネフェシェは神の力の一欠片を失い、定住の地であったルスラを追われる事となってしまう。

 ネフェシェは、彼女を信仰し続ける護衛兵達を連れて逃げ続ける。

 ひたすら北へ、北へと。

 やがて一行は、ひとつの都にたどり着く。

 そこは、豊かな自然と質の良い水源を有するティオキアという国だった。

 ルスラの隣国の内の一つではあるが、長い時を宮殿で過ごしてきたネフェシェにとって、そこは何もかも見知らぬ土地。

 そんなティオキアで、彼女は一人の下女と出会う。

 彼女達の運命の歯車は、今廻り出した。

EPISODE2 ルールという運命「頑張っても頑張っても、暮らしは良くならない。でも、それでも歩き続けるしかないわ」

 「サラキア、それが終わったら次は客間の掃除をして頂戴」

 「はい。かしこまりました、奥様」

 「まったく。指示される前に自分で動いて欲しいものね」

 「大変申し訳ありません……」

 貴族の屋敷で、なんとか形を留めているだけのぼろぼろの服を身に纏い、せっせと雑務を続ける下女がいた。

 彼女の名はサラキア。

 遺児である彼女は孤児院で生まれ育ち、数年前になんとか今の仕事を見つけて以来、今日まで汗水垂らして働いている。

 彼女は十分な教育を受けられていたわけではないが、生来の器量の良さがあるため、本来であればもっと稼ぎのいい仕事ができるはず。しかし、この国でそれは許されない。

 ティオキアは、物流の要であるティオキア港を取り仕切る豪族が統治している。

 完全階級制の所謂貴族政治は、貴族の利益を第一に考えており、下級市民は多大な税をかけられ厳しい生活を強いられていた。

 職業選択の自由などなく、サラキアのみならず、彼女たち下級市民は皆同じような暮らしを送っていた。

 だが、当然そんな現状に甘んじるはずがなく、下級市民たちは支配階級を打ち倒そうと静かに反乱軍を立ち上げる。

 サラキアは直接的に加わってはいないものの、身近に一人、反乱軍の中枢メンバーがいた。

 「よう、サラキア。昼休みにしちゃ遅いね」

 「ちょっとお仕事で粗相をしちゃって……サンディアは仕事?」

 「ああ、アタシはこれから港で積荷を下ろすとこさ」

 「サンディアは凄いなぁ……頑張ってね」

 「おう、サラキアもな」

 腕っぷしを買われ、港で力仕事をするサンディア。

 同じ孤児院出身の二人は、幼馴染みであり、大の親友同士であった。

 17歳である彼女達は、来年には孤児院を卒院する。

 子供達の中でも最年長者である二人は、皆からは第二の母のように慕われていた。

EPISODE3 ルスラからの客人「なんだろう……ただの貴族にしてはあまりにも雰囲気が……何かもっと、特別な……」

 二人の暮らす孤児院に、奇妙な客人たちが訪れる。

 いくらかの護衛と、それを引き連れた幼き少女という一団が。

 彼女達の顔はいささか疲れているように見えるが、身に着けている物の質は良い。

 何かのっぴきならない事情があるのだろう。そう思わせるのは風貌のせいだけでなく、この孤児院を頼ってきたという時点で明白だった。

 サラキア達の暮らす孤児院は、アテリマ教を信仰している。

 自分たち以外を信ずる者の存在を嫌った豪族達は、アテリマ教を懲罰対象と認定し、このティオキアという国では異教とされている。

 信仰が公となれば粛清は免れないのはもちろん、密告者には報奨金まで出すほどの手の込みようである。

 そんなティオキアにおいて、ここは孤児院でもあり、アテリマ教会の隠れ蓑でもあったのだ。

 「サラキアさん。あの方達は大切な客人です。失礼のないよう丁重におもてなししてください」

 「はい、分かりました。院長」

 院長が念押しするほど、客人達は恭しく丁寧に扱われた。

 特に一行の中でも、美しい金色の髪を持つ少女。彼女に対する院長の対応は異常なほどだった。

 聞けば、彼女たちはルスラからやってきたのだという。

 そのきめ細かな肌と上品な振る舞いは高貴さを感じさせた。

 (落ちぶれた貴族の子供かしら?)

 日頃から虐げられ、上流階級に良い感情を持たないサラキアは、一行を見やり眉をひそめる。

 だが、ルスラからやってきた少女は気位の高さを鼻にかける素振りなどはまったく見せない。

 それどころか孤児院の子供達から早々に懐かれ、ままごとをしたり、読み聞かせをしたり、率先して世話を請け負ってみせていた。

 しかし、彼女は時々思いつめたような表情をすることがあった。

 身分の違いはあれ、きっと苦労の末ここに辿り着き、それでも子供達と親しく、何事もないように接してくれているのだろう。

 その姿に、サラキアの警戒心も段々と解けていったのだ。

 「子供達、すごく懐いてますね」

 「ふふ。すっかりお世話になってしまい、申し訳ありません。でも、本当にサラキアさんは好かれているのですね」

 「え?」

 「みなさん、頻繁にお話されるのですよ。優しいサラキアさんが、みんな大好きだって」

 「そうですか……ちょっと、照れてしまいますね」

 「子供は人をよく見ていますから」

 和やかに親睦を深める、サラキアと少女。

 だが、サンディアだけは少女と一行に疑いの目を向け続けていた。

EPISODE4 その背中に祈りを「ネフェシェ様、お願いです……どうか、私の大切なサンディアをお守りください……」

 孤児院に奇妙な一団がやってきてから、しばらくの時が経った頃。

 反乱軍による上流階級への襲撃決行の日が決定した事を、サラキアは突然知る事となる。

 「機は熟した。明日、アタシたち実行部隊は襲撃を開始する。子供達は街に一歩も出させないでくれ」

 小声でサラキアにそう告げるサンディア。

 いつかはこの時が来るとは思っていた。

 だが、あまりに前触れがなかった。

 「そんな、突然……」

 「どうもルスラで大きな事件があったらしい。そのせいか豪族共が何やら慌ただしく動き回ってるんだ。おかげで城の警備が薄くなってる。やるなら今しかない」

 「そう、なの……」

 サンディアが反乱軍に属している事は、孤児院ではサラキアしか知らない。

 サンディアはサラキアの幼馴染みであり、大切な親友だ。

 反乱を起こせば、最悪の事態だってあり得るだろう。

 サンディアには傷つくような目に遭ってほしくない。それがサラキアの本音だ。

 だが、サラキアたち下級市民の苦しみはもう限界に来ている。そのために立ち上がったサンディアの覚悟に水を差すような事もしたくない。

 サラキアはしばしじっと目を瞑り、胸に置いた拳をぎゅっと握ると、サンディアを激励する。

 「分かった。絶対成功させて……生きて帰ってきてね」

 「当たり前だろ。サラキアは何の心配もしなくていいんだ」

 「孤児院は、私が守るから」

 「うん、任せた。それじゃあ行くよ。明日に備えてアジトに泊まるから、今日はここには帰らない」

 そう言って、孤児院の門を開くサンディアが、何か思い出して付け加える。

 「そうだ、あの客人達からは目を離さないでくれ」

 「……?」

 「彼らは、この戦いの鍵になるかもしれない。あの女はもしかしたら……いや、今はやめておく」

 言い濁して、サンディアは孤児院を去っていく。

 その背中にアテリマの祈りを必死に捧げながら、サラキアは願う。

 人間らしい平等な暮らしを送れる未来。

 そしてサンディアの無事を。

EPISODE5 燃ゆるティオキア「あの護衛の方……心の底から主を信じ切ってる……。あれほど誰かに心酔している人、見た事ないわ」

 反乱軍の準備は周到に行われていたのだろう。

 襲撃の合図が下ったのとほぼ同時に、ティオキアの貴族が持つ屋敷という屋敷から火の手が上がっていく。

 中でも実質的に政治の実権を握っていた豪族の屋敷は、武器を手に取った反乱軍である市民に包囲されていた。

 情報の漏洩を防ぐため、反乱軍以外の市民は襲撃計画を知らない。

 突然街中で起こった暴動と燃え広がる炎に、誰もが慌て逃げ惑っていた。

 「慌てないで! ここまで来ればもう大丈夫です!」

 街の中心から離れた小高い丘の上に建つ孤児院は、逃げるにはうってつけの場所だ。

 サラキアは命からがら逃れてきた市民を招き入れると、子供達と一緒に孤児院の中で一番広い講堂へ避難するよう促した。

 不安そうな顔を浮かべる市民や、子供達。

 その中には、ルスラからやってきた一行の姿もある。

 「一体何が……」

 「あんなに早く火が回るなんて……」

 「おかあさん! おかあさん!」

 市民達の雑多な声が講堂を埋め尽くしていく。

 それに対し、ルスラからの一行の中でも比較的若い黒髪の護衛が、募る苛立ちをぶつけるように机に拳を振り下ろして叫んだ。

 「なんなんだ、この争いはっ!?」

 別の護衛が問いに答える。

 「どうやら反乱軍による豪族への襲撃のようです」

 「襲撃だと? こんなところで……!」

 酷く焦る様子を見せる黒髪の護衛は、苛立ちを隠せず忙しなく身体を揺する。

 やがて意を決したようにサラキアや院長の方へと向くと、こう宣言した。

 「我々はティオキアを出る! 道を開けるのだ!」

 「なりません! 街の関はすでに封鎖されていると聞きました。それに、あの火の中を通り抜けるのは不可能でございます……!」

 サラキアの返した言葉は全て事実だった。

 関はすでにティオキア軍――実質貴族の所有する軍が、反乱軍を逃さぬよう堰き止めており、孤児院を出るということは丘を下って燃え盛る街を通らなくてはならない。

 つまりは今、ティオキアを脱出する事は不可能という事だ。

 「クソッ……!」

 苛立ち床を蹴る黒髪の護衛。それを宥めるように声を発したのは、一行の中のあの少女だった。

 「落ち着いてください。焦ってもどうにもならないでしょう。それよりも今、私たちにはやるべき事があります。さあ、怪我をした人たちの手当てを」

 「……はっ!」

 あれほどまでに感情を露わにしていたにも関わらず、少女の言葉で黒髪の護衛が背すじを伸ばした。

 ただ貴族に仕えているだけの兵ではない。何かとてつもなく深い忠誠心が言動の端々から溢れている。

 サラキアはそれが一瞬気にかかるが、さらに押し寄せてきた避難民達の保護で忙殺され、霧散していった。

EPISODE6 暴かれた正体「まさか……私はずっと神と一緒にいたなんて……。疑う余地もない。それほどまでに、あの方は……」

 反乱軍による上流階級への襲撃は、周到に準備されていたという事もあり、勝利は確実かと思われた。

 だが、軍を名乗っているとはいえ、あくまでも貧しい下級市民の寄せ集め。

 随所に見られる練度不足と、貴族たちティオキア軍の物量を前に、ひとり、またひとりと力尽きていく。

 戦闘不能となった者達は、ろくに設備も整っていない診療所や、集会所、そしてサラキアのいる孤児院に運ばれていった。

 「頼む! また怪我人だ! 傷が深い、急いで手当てしてやってくれないか!」

 「分かりました! こちらへお願いします!……サンディア!?」

 サラキアの元へ運ばれてきた怪我人。それは親友であり反乱軍中枢メンバーのサンディアだった。

 手製の担架に乗せられ、苦しそうに脂汗をかくサンディア。

 その腹部には、肉が削げるほどの大きな傷を負っていた。

 サラキアは迷わず走って駆け寄ると、だらりと下がった腕を取る。

 「サンディア…! ああ……なんてひどい……」

 「サラキア……ごめん、しくじった……」

 「しゃべらなくていいわ。今手当てしてあげるからね」

 サラキアの言葉にサンディアは微かに笑みを浮かべると、うわ言のように呟いた。

 「……ネフェシェ様……アタシ達にお力をお貸し下さい……」

 神への祈りを口にしたのだと思ったサラキアは、サンディアを鼓舞しようと声をかける。

 「ネフェシェ様はルスラにおられるのよ。今は自分たちの力で勝たなくちゃ」

 「いや……神は……ネフェシェ様はすぐ近くにいらっしゃるんだ……」

 「……そうね。私たちの胸の中にずっといらっしゃるわ。だから――」

 「違う。そうじゃないんだサラキア……神は、そこに……」

 サンディアはゆっくりと指を差す。

 その先にはルスラからの一行、金色の髪を持つ少女がいた。

 「ネフェシェ様だって!?」

 「ルスラが崩壊してネフェシェ様がお逃げになったという噂は……本当だったんだ!」

 どよめきが孤児院の講堂を包み、誰しもが少女を見る。

 ネフェシェと呼ばれた少女は気丈に立っているが、その顔は少し青ざめていた。

 サンディアは力を振り絞って叫ぶ。

 異教と呼ばれ排他されながらも信じ続けたアテリマ教、その始祖への懇願の言葉を。

 「ネフェシェ様……どうか、どうか……我ら信徒にそのお力を……っ!!」

EPISODE7 啓示は誰のもとに「みんな自分のことばかり……これでは私たちを苦しめる、あの貴族達と何も変わらない……」

 「希望の力は……使えません……」

 サンディアの懇願は、ネフェシェによって拒否される。

 ルスラの時と同じ。ネフェシェはいかなる状況であっても人を傷つける事を良しとしない。その強固な思想が曲がる事は絶対にない。だからこそ彼女は、神に選ばれた。

 だが、ネフェシェを奉っていたルスラではなく、他国であるティオキアの民はそれを知る由もない。

 伝承や人伝により語り継がれた“神”は、“期待”によって誇張され膨らんでいる。

 「なぜです!? 民に平等な幸福をお与えくださるのではないのですか!?」

 「このままでは、さらに多くの者が傷ついてしまいます!」

 もはや神に対するものとは思えない、非難にも似た言葉が次々とネフェシェに投げかけられていく。

 だが、それに反論する事もなく、ネフェシェはただじっと黙って俯いていた。

 そのうち、サンディアは傷口を抑えながら、よろよろと立ち上がった。

 そしてネフェシェへと真っ直ぐ向き合うと、口の端を歪めて言う。

 「ご自身には関係のない他人事のつもりでございますか。もし我々市民が負ければここにも軍が訪れ、貴方様方もお捕まりになることでしょう」

 「それは……」

 「それとも……いざとなればルスラでの事のように、身を挺して我らをお救いくださるのですか?」

 サンディアの言葉を聞いて、黒髪の護衛が激昂する。

 「貴様っ! なぜそれを……っ!!」

 サンディアはそれを無視して続ける。

 今度は嘲笑するような態度ではない。

 ネフェシェの前に片膝をつき、まるでこれから崇高な儀式が始まるかのように。

 「私は……アタシには力を授かる覚悟がありますっ! 平等な幸福を! ネフェシェ様!!」

 ルスラで生誕祭が執り行われたあの日。

 ネフェシェに宿る四つの希望が見せた、禍々しいまでの神の力。

 それを目の当たりにした民たちは驚愕したが、それ以上に誰よりも驚いていたのはネフェシェ本人であった。

 人の命など軽々と屠ってしまう力。

 本来、幸福を与えるはずのそれが、人々を虐げる可能性を孕むものなのだと実感したネフェシェは、己に、希望の力にひどく怯えていた。

 ましてや、今ネフェシェの中の希望はひとつ失われ、その均衡を崩している。

 もしも今、ティオキアの民達がネフェシェに牙を向いたとしたら。

 それを守ろうと暴走する力を、今度は抑え切る事はできないだろう。

 ネフェシェは決断を迫られる。

 武力として力を行使するか、見殺しにするか。

 あるいは、そのどちらでもない方法か。

 「……分かりました」

 「ネフェシェ様!」

 あの日剥がれ落ちたのはひとつではない。残りの力も依代への定着が不安定になっているのを、ネフェシェは理解している。

 強烈な絶望を体感した自分と比べ、未来への希望を持つ者であれば、依代を移す事も可能だろう。

 「力を……授けましょう」

 「で、ではすぐに……!」

 「しかし、それは貴方ではありません」

 喜び勇むサンディアを制すると、ネフェシェは指を差す。

 一連のやり取りを不安げに見つめていた、彼女を。

 「……サラキア。貴方に授けます」

 ネフェシェは――希望の力はサラキアを選んだ。

 力を渇望するサンディア。彼女のティオキアを救いたいという思い自体に偽りは無いが、その原動力は豪族への“憎しみ”によって生み出されていた。

 対して、サラキアの胸の中に灯り続けているのは、“希望に溢れるティオキアの未来”。

 サラキアなら、明るい未来を築いていける。そして、希望の力も彼女を求める。

 ネフェシェは、そう考えたのだった。

EPISODE8 守れた者、守れなかった者「みんな、ごめんね。でも、おかげで気付いたんだ。やり方を間違えなければ、理想郷は創れるんだ、って」

 事態の終結は、あまりにあっけなく終わった。

 丘の上にある孤児院からティオキアの街へと降りたサラキアは、その細い腕を天へとかざす。

 瞬間、空から豪雨が降り注ぎ、燃え盛る街をたちまち鎮火させてみせた。

 同時に、街を走り抜けたネフェシェ達は手はずどおりにティオキアを離れ北へ向かっていく。

 ネフェシェという存在を独占していたルスラがみすみす彼女を手放すはずがなく、追手を寄越している事は明白だった。

 休息と物資支援のため孤児院を頼ってティオキアにやってきていたネフェシェ一行だったが、これ以上の滞在は危険と判断し、事態の収束を見届ける事なくここを去ったのだ。

 それを見送ったサラキアは、おもむろに手を合わるとアテリマ教の祈りの祝詞をぶつぶつと唱え始める。

 すると、街のあちこちで息を潜めていた豪族たちが突如もがき苦しんだかと思うと、一人残らず絶命していった。

 後にその遺体を検死して分かる事だが、死因は全員“溺死”であった。

 サラキアは、圧政から開放された下級市民や反乱軍らによって盛大に讃えられる。

 「希望を継ぐ者」「ティオキアの女神」だと口々にサラキアを讃え、巻き起こる熱狂の渦のさなか。称賛に応えるのもそこそこに、サラキアは急ぎ足で向かう。

 生まれ育った、あの孤児院へと。

 ――私、やったよ……!

 もうこれで、苦しくて、貧しい暮らしなんかしないで済むわ!

 ネフェシェ様に授かったこの力……。

 これからはこの力を使って、新しいティオキアを作っていくの!

 孤児院にたどり着いたサラキアは、勢いよく扉を開け大声で叫んだ。

 「サンディア! みんな!!」

 だが、その声に返事はない。

 どころか、まるで朽ち捨てられてしまったかのように静まり返っている。

 いつもなら大勢の子供達で常に賑やかな孤児院。

 こんな雰囲気は初めての事だ。

 サラキアは不思議に思いながら奥へと歩を進める。

 みんなまだ戦いが終わったことを知らず、息を潜めているのだろう。

 そう考え、サラキアは講堂の扉を開ける。

 だがそこには、信じられない光景が広がっていた。

 「そんな……!! ライラ!! イーサンッ!!」

 子供達、そして院長ら職員まで。

 ひとり残らず、孤児院にいた全員の首が講堂の長机に並べられ、ステンドグラスから差し込む光に照らされていた。

 その中には、サラキアの一番の親友である彼女の顔もあった。

 「ああっ……!! サンディアッ!!」

 サラキアはたまらず駆け寄り、その顔を胸に抱いた。

 すでに血を失った彼女からは、ぬくもりを感じられない。

 「なんてこと……どうして……」

 抱きしめ夢中で髪を撫でる度、彼女達の死が事実であるという実感が湧いていく。

 サラキアは涙をこぼしながら、理解できないこの現状を嘆いた。

 その時、講堂の影から怯え切った声がサラキアにかけられる。

 「サラキア……お姉ちゃん……」

 驚き振り向くと、まだ幼い少女が立っていた。

 その首元に、刃をあてがわれながら。

 「エルマ!!」

 「お、お姉ちゃん……」

 エルマと呼ばれた少女の後ろで、刃を構える中年の男がニヤリと笑う。

 ネフェシェを追うルスラの者でもない、ティオキア軍でもない。

 男は、どこにでもいるティオキアの一般市民だった。

 「動くなよ。お前もアテリマ教の信者だな?」

 「貴方は……! 一体何をしたのっ!!」

 「何をだって? すっとぼけるな! この孤児院が異教徒の隠れ家だって事は分かってんだよ!」

 「それが事実だったとしても……どうしてこんなむごい事を……」

 「へへ……異教徒の首を差し出せば、貴族様から報奨金がもらえるからなぁ! にしても、この人数……こりゃガッポリ儲かっちまうぜ!」

 「なっ……!」

 「前々から怪しいとは思ってたけどよ、お前らガードが固くてなぁ。けどよ、街が大騒ぎになったのを見て……俺はチャンスだと思ったね!」

 怪我人や避難民の受け入れで、人の出入りが激しくなっていたこの孤児院。

 非常事態ということもあり、普段よりも警戒心が低くなっていたのは確かだった。

 男はまるで自分の手柄を誇るかのように、得意げになって続ける。

 「ババアと子供を殺るのは楽なもんだったぜぇ!」

 「なんて……なんて……愚かなの……」

 サラキアにとって家族と呼べる人々を、報奨金欲しさに殺めた男。

 貴族にへつらう事が心根まで染みつき、軽薄で短絡的な殺人の理由。

 それは、貴族達の豪勢な振る舞いによって一見豊かに見えるティオキアの、まさしく負の側面を煮詰めたかのような行いだった。

 なぜなら――男が金を受ける日など、絶対に訪れないのだから。

 「……貴族は皆死んだわ。貴方に報奨金を払う者などもうどこにもいない」

 「あぁ? 死んだ? ビビりすぎて頭でもおかしくなってんのか? くだらねえ嘘吐きやがって」

 「私は正常よ、それに嘘でもない。なぜなら――“私”が殺したから」

 「けっ、イカれやがって。まあいい、さっさとこのガキから片付けて……」

 そう言いながら、男は刃を子供の首元に食い込ませる。

 「お姉ちゃあん……」

 「大丈夫よ、エルマ。心配いらないわ」

 真っ直ぐ男を見据え、冷ややかな視線を向けながら冷静に言うサラキア。

 男は小馬鹿にするように一度笑うと、少女を手にかけようとナイフを持つ手に力を込めた。

 だが、ナイフはピクリとも動かない。

 「な、なんだこりゃ……力が……入らねえ……」

 「これで信じられますか。貴族達を殺したのが私であると」

 「こ、こいつは……てめえの仕業だってのか……」

 自分の身に起きた、説明のつかぬ異変。

 それが本当にサラキアによるものだと理解した男の顔は、徐々に青ざめていく。

 「貴方だって……少なからず貴族達から虐げられてきたのでしょう? これからティオキアは平和になって……穏やかな暮らしが待っていたというのに……」

 「ま、街でそんな事になってるなんて知らなかったんだ!! もし分かっていたら……」

 「こんな事にはなっていなかったでしょうね。でも、それは過程の話。全ては貴方自身が撒いた種……」

 「おい……何をする気だ……やめ、やめてくれ! 俺には家族がいるんだ!」

 「私達にも“いました”よ、大切な家族が。でも……もうここへ帰ってくることはない……」

 「わ、悪かった! 俺が悪かった! 罪は償う! だから……!」

 つい先ほどまでの彼女であれば、少女ともども殺されるしかなかっただろう。

 だが、今は違う。

 彼女は――神になったのだ。

 「何でもする! 許してくれ!」

 「新しいティオキアの未来に……」

 「頼む…………!」

 「……貴方は必要ありません」

 「こんの……異教徒風情がぁ……あぁ? ああおぉぉぉぉ!!?」

 男が喋り終わらぬうちに、その身体は醜く歪に膨れ上がる。

 すかさず少女の手を引いたサラキアが、彼女を抱いて背中を向けた瞬間。

 男の身体は水風船が割れるように、その内側から破裂し、四散した――。

 まるで見せしめの如く惨たらしく殺された、血は繋がらなくとも家族というべき存在であった者達を前に、サラキアは悲痛に暮れる。

 だが悲しみと同時に、それに相反するかのような小さな炎が彼女の胸に灯っていく。

 己の欲望のため、民に圧政を強いていた貴族。

 虐げられながらも暮らしを守るため、子供達を殺した民。

 ティオキアというこの国は、自分が思っていた以上に腐り切っていた。

 その闇は根深く、ちょっとやそっとでは生まれ変わる事はできないだろう。

 サラキアはそう考えながら、決意する。

 「平和な国を作るために必要なもの、必要ないもの。それを見極める必要があるわ……私ならやれる……私にはそれができる……! 完璧な理想郷を、この手で創りなおしてみせるの!!」

 二度とこんな悲劇が起こらないように。

 誰一人として道から踏み外すことのないように。

 今まさに新たな王が生まれ、ティオキアは未来へと歩き出す。

 彼女の想う、理想の国へと。
EPISODE1 ある生還者の証言 「炎の魔人は今も山中を彷徨い続けている。もしかして あいつは、何かを探してるのかもしれねえ」

名前:炎の精霊

年齢:不明

職業:炎の精霊

 ソレが最初に観測されたのは、まだアギディスが未開拓の山岳地を指す名に過ぎなかった頃だ。

 真偽は不明だが、ソレは全身が炎に包まれているにも関わらず、燃え尽きる事なくアギディスの険しい山々を彷徨っているらしい。

 らしいというのは、幸運にもソレと遭遇していながら生還を果たした男の証言。

 しばらくソレの行動を観察した男が言うには、ソレは何かを捕食するわけでも目に付くものすべてを焼き尽くすわけでもないそうだ。

 そうしている内に、男はある事に気がついたと言う。

 山中を歩き回るのは、ソレが何かを求め続けているのではないかと。

 男は最後に、こう続けた。

 「こんな事を言っても信じてもらえないのは分かってる。でも俺には、あいつの遠吠えを聞いてるとなぜか“悲しい”と思ってしまったんだ。俺も昔、仲間を山の中で失くしたからさ、ひょっとしたら、あいつも同じなんじゃないかって……」

 男の話にある事ない事様々な尾ひれがついて広まるにつれ、ソレは多くの名で呼ばれる事となったが、時が流れるうちに、やがてひとつの名で定着した。

 畏怖と畏敬の念をこめて、「炎の魔人」と。

 かつて、豊穣神ネフェシェを信奉する国で巻き起こった悲劇。

 分不相応にもネフェシェの内に宿す神の力を手中に収めようと動いた愚者たちによって、世界と、人々の運命は瞬く間に歪められてしまった。

 彼らがそうまで欲した神の力とは、精霊の力である。

 火、水、土、風の四元素からなる力。

 それぞれが作用し合う事で、世界の安定と繁栄、そして生命の循環をもたらすのだ。だが、調和はすでに崩れ去り、世界の命運を決する天秤は今も緩やかに破滅へと傾きつつあった。

 ネフェシェから離れた精霊の力は、彼女が望むと望まざるとに関わらず、四者へと継承された。

 土の力はテルスウラスへ。

 水の力はサラキアへ。

 風の力はメーヴェへ。

 火の力はアヴェニアスへと。

 平等と安寧を祈り、身を捧げてきたネフェシェの願いが届く日は訪れるのであろうか。

 願いが地に満ち、光溢れる時代が戻るのであろうか。

 箱庭の世界に綴られた一編の物語を、今再び、ここに紐解くとしよう。

EPISODE2 イダールの子、イーリオス 「故郷を捨てた我が一族は、この未開の地で再興を 誓った。誓いは、果たされねばならない」

 アギディスの大山脈を一望できる切り開かれた地に、シュッと風を切る音が鳴り響く。

 音の間隔は規則正しく、その音に合わせてやや荒れた息遣いと地面を擦る音が聞こえてくる。

 そこには、皮の鎧をまとう栗色の髪の戦士がいた。

 ただ一心不乱に、年季の入ったブロードソードを振り続ける。

 季節は、生物が暮らすには最も過酷となる冬季へと移ろいつつあった。山の麓とはいえ、寒さを感じずにはいられない。

 だが、戦士にとっては瑣末な問題に過ぎなかった。

 戦士はお構いなしに剣を振り続ける。

 露出した手足は日に焼けていて、滴る汗が剣を振るたびに鍛え抜かれた肉体の上を滑り落ちていく。

 不意に、乾いた風が戦士の頬を強く撫でつけた。

 戦士は不敵な笑みを浮かべると、大自然に歯向かうように剣を大上段から一気に振り下ろした。

 しばらく同じ姿勢で微動だにしない戦士だったが、やがて張りつめていた糸が切れたのか大きく息を吐いた。

 「……遅ぇな。こんなんじゃ親父にも届かないし、誰もオレを認めない。アイツにだって……クソッ」

 悪態をつき、再び剣を握る手に力を込めようとしたその時、どこからか低く落ち着いた声が響き渡る。

 「やはりここにいたか、イーリオス」

 「親父……なんの用だよ」

 戦士は声がした方を振り返る事なく、不満たっぷりに抗議する。親父と呼ばれた男はイーリオスよりも二回りほど大きく、まだ小柄なイーリオスと並び立てばその差は歴然。

 筋骨隆々とした体格とは裏腹に、男は足取り軽くイーリオスの前までやってくると、汗に濡れたままの肩を軽く叩いて言った。

 「征伐の日は近い。修練に明け暮れるのもいいが、越冬に向けた狩りを疎かにするのはいただけないな」

 「別に、オレなんかが行かなくても」

 「ならん」

 その瞬間、父の身体が一回り大きくなったようにイーリオスには感じられた。それと同時に、自分が踏み越えてはいけない境界を侵してしまったと悟る。

 「民は、長の背中を見てそいつが長に相応しいか判断する。だが、今のお前はどうだ? お前はいつも人を遠ざけ、強さを求める事に終始している。それで皆を納得させられるのか? 窮地に立たされた時、手を差し伸べる者がいるとでも?」

 「わ、分かってるよ……それぐらい。でも」

 慣例を大事にするあいつらが相手にしてくれないのなら意味がない。

 そんな独りよがりな考えを、偉大な父の前で口にする事はできなかった。

 「さあ行くぞ」

 丘を下っていく父の背中を真っ直ぐ見つめる。

 「親父も本当は分かってるんだろ。親父とオレとではどうにもならない“差”があるって事を」

 勇敢な戦士であり、集落に暮らす全氏族を束ねるイーリオスの父。そして、未開の地に新たな国を興そうと考える男――イダール。

 傷だらけの背中は強く逞しく。

 それゆえに、大きかった。

EPISODE3 ティオキアの豪族たち 「死を選ぶのは愚か者の所業だ。泥水をすすってでも 生き抜いて、最後に立っていた者こそ勝者となるのだ」

 英雄王イダール。

 後にそう呼ばれる男の起源は、アギディスから遠く南方に位置する水の都・ティオキアにある。

 彼はティオキアに一大勢力を誇る豪族の血を引く者の一人だった。

 一族は複数の氏族に分かれ、それぞれが商業や工業の分野に精通し、多くの富を築き上げていく。

 その影響力はティオキアの民にも及び、彼らがティオキアを実質的に支配していたも同然だったのだ。

 彼らは、未来永劫自分たちがティオキアの民を自由に扱う権利を持つと信じて疑わなかったが、その体制はある日を境に激変してしまう。

 豊穣神ネフェシェから水の精霊の力を継承した少女――サラキア。

 彼女を中心に集まった者たちによって、不透明だった対立構造が、可視化されていった。

 都市を思うがままに支配するならば、金と暴力による統治が最も簡潔で効率が良い。だから、それに異を唱えるサラキアたちは、確実に排除する必要があった。

 豪族たちの中でも荒事に特化した男たちが中心となって、サラキアをねじ伏せようと動いたのだ。

 『精霊の力などまやかしに過ぎない』

 『たかが女一人、幾らでも従わせる方法はある』

 汚い言葉で散々彼女を罵り、寄ってたかって嬲ろうとした男たちだったが、彼女に指をさされるたびに次々と“溺れ死んだ”。

 神のごとき精霊の力の前に、人間など無力。

 それを目の前で証明されてしまえば、いかに傲慢な豪族とて、サラキアに服従の意を示すほかなかった。

 同胞や他の豪族が少女の前にひれ伏す中、イダールの氏族を中心として違う動きを見せる者たちがいた。

 彼らはサラキアに従う事も、ましてや無駄に命を投げ出す事もせず、あっさりとティオキアを見限ってしまったのだ。

 彼らの気質は商人に近い。

 政局が大きく変われば、商人の財産は為政者に狙われやすい。

 財産を接収されてしまえば、一族が継承してきたものがすべて消えてしまう。

 ならば、危険を承知で新天地を目指すのは、当然の結果と言えよう。

 その後、一族は北を目指しながら集落を移動するうちに、アギディスに現れた炎の魔人の噂を聞きつけ、未開の地での建国を試みた。

 彼らは既に理解していたのだ。

 精霊の力を支配する者が、新たな世界秩序を築く。

 精霊の後ろ盾がなければ、既に力を持つルスラとティオキアに、永遠の服従を誓う事になると。

 一族がアギディスの山脈の麓に集落を築いてから、すでに十を超える歳月が過ぎ去った。

 開拓は順調に進み、周辺地域に点在する原住民たちを取りこんで、勢力は水面下で拡大を続けている。

 それと並行して、一族は集落の女たちに子を産ませ続けた。

 すべては、炎の魔人を討伐する戦士を輩出せんがため。

 炎を操る精霊を支配し、その力を利用できれば、不当な侵略に遭わない盤石な国が誕生するのだ。

 ――

 ――――

 越冬に向けた狩猟を終えたイダール一行は、山の中腹から麓への帰路についていた。

 以前は人間が立ち入るのも困難な獣道だったが、土木作業を得意とする氏族たちの協力によって、不自由のない行き来を可能にしたのだ。

 人々の努力の結晶を眺めながら、イダールは思う。

 (多くの力を結集させれば、非力な人間にもできる事はある。それは炎の魔人の討伐とて例外ではない。奴を倒す策も既に――)

 「親父! 空が!」

 物思いに耽るイダールの思考は、イーリオスによって遮られた。指し示された方角を見やると、遠方の空に赤黒い煙が立ちこめている。

 「あの方角には、集落があったな」

 「確か……川の近くに移り住んできた奴か?」

 「そうだ」

 今も煙はもうもうとその量を増やしていた。心なしか何かの焼ける匂いが風に乗って漂い始めたようだ。

 するとイダールは、背後で待機する仲間たちへと振り返り、叫ぶ。

 「腕の立つ者は俺と共に来い! 炎の魔人が集落にいた場合、状況を見て征伐を執り行う! あとの者は万が一に備えておけ!!」

 「「オオォォォッッ!!!!」」

 地鳴りのような戦士たちの声が続く。

 若い男衆はイダールの集落へ、その場に残った屈強な男たちは、イダールと共に黒煙立ちこめる集落へと急行した。

 イダールの言う“万が一”とは、イダールが戦死した場合に備えて予め定められた規律だ。

 複数の氏族からなるイダールの一族は、氏族ごとに長が存在し、序列まで決まっている。

 何があっても即座に立て直せる、強固なつながりを持つ組織構造。

 それこそが、この一族の強みなのだ。

 イダールたちが川沿いの集落に到着したのは、陽が傾きかけた頃だった。

 近づくにつれて強くなった匂いの正体も、今ではハッキリと分かる。

 「……うっ」

 それにまだ慣れていないイーリオスは、反射的に手で口元を覆ってしまう。慣れがあるとはいっても、他の戦士たちも顔をしかめずにはいられないようだ。

 「今のうちに慣れておけ! 戦いで立ち止まる者は、同じ道をたどるのだからな!」

 「お、親父、これって……まさか……」

 征伐を生き残った者たちは、今もその臭いを忘れられずにいると言う。

 香ばしい匂いに紛れた、醜悪な臭い。

 それは、人間の焼ける臭いだった。

EPISODE4 征伐者たち 「弓を持て! 剣を掲げろ! 今こそ、奴を仕留める 好機である!」

 泥レンガや藁で作られた家屋が点々と続く集落は、大半の家屋に火がつき、パチパチと燃える音とともに黒煙を吐き出していた。

 すぐ近くには、炭化するほど燃やされた家畜と人間の亡骸が転がっている。

 臭いの元はイダールたちの予想通り、人間のものだった。ひび割れた腹部や頭から零れ落ちる臓器と脳漿は、熱せられていた事も相まって、辺りに強烈な臭いをまき散らす。

 「惨いな」

 「イダール様、やはりこれは……」

 男の言葉に、イダールは静かに首肯した。

 「炎の魔人だ。奴が麓に現れた事は一度も無かったはずだが……まだこの辺りに奴が潜んでる可能性もある。生存者の確認と周囲への警戒を怠るな」

 戦士たちが散開して生存者を探しにいく中、イーリオスは未だ動けずにいた。

 「イーリオス」

 「……あっ、な、なんだ親父?」

 イダールは背中の剣を引き抜くと、自分とイーリオスとを隔てるように地面を斬りつける。

 そして、再びイーリオスを見やった。その眼差しは、イーリオスも見た事がないほど鋭いものだった。

 「ここが分水嶺だ。この線を越えるも良し、黙って引き返し、一族のために本来の“役目”を果たすも良し。好きな方を選べ」

 「……ふざけんなよ。オレは、戦士になって親父の跡を継ぐと決めたんだ。今更ひっくり返すわけない!当然オレだって行くぜ!」

 「ならば、止めはすまい。成す事を成せ、戦士イーリオスよ」

 「ああ、やってやるよ……ッ!」

 ――

 ――――

 他の者たちが集落内や火災を免れた家屋の中を散策する中、イーリオスは至る所に転がる亡骸に辟易し集落の外れを探索する事にした。

 「はぁ…………少し楽になった……」

 まともな空気を吸いこみ、幾らか気持ちに余裕を持てたようだ。その影響なのだろうか、周囲に気を配る余裕が生まれた事で、今まで気づけなかった音を察知

した。

 爆ぜる音に微かに混じった、川のせせらぎ。

 「そういや、川沿いにあるんだったな」

 音のする方を見れば、切り拓かれた狭い道が続く。その先に住民たちが使う川があるのだろう。

 「あの向こうに魔人がいたりしてな――」

 まさかな。と独りごちるイーリオスだったが、一度浮かんでしまった考えを消し去る事はできなかった。

 答えを求めるように、川へと歩を進める。

 膨らむ期待感に比例するように、川を流れる音は大きく、明瞭になっていく。

 やがて開けた場所に出ると、すぐさま視界に緩やかな流れの川が飛びこんでくる。

 「やっぱ魔人なんていねえか――ん? なんだあれ」

 川べりに黒い塊が転がっていた。

 目を凝らして注意深く観察すると、微かにではあるが動きがある。

 「生き残りか? 川の水でも飲んでんのかな」

 続けてイーリオスは「おーい!」とその塊へ向かって叫んだ。けれど、返事はない。更に近寄ろうと一歩、また一歩と進む。

 距離は縮まったというのに、それは未だに「黒い」という事以外に何も分からない。

 その時、不意に黒い塊がゆっくりと身を起こす。

 「おいアンタ!! 集落の仲間は他に――」

 そこまで言いかけた刹那、イーリオスは横っ飛びに近くの岩場へと身を隠していた。

 「な、なんだよ、アレ……」

 脂汗がじわりと浮かぶ。

 アレは明らかに異質な存在だった。

 イーリオスはようやく自分の軽はずみな行動が間違いだったと気付く。

 一瞬で目にやきついた禍々しい姿は、全身が炭化したように黒く焼け焦げている。

 ひび割れた身体は、雨にでも穿たれたのか所々形が崩れている。

 極めつけは、真っ黒で何もない双眸からちろちろと蛇の舌のように見え隠れした炎。

 「ま、魔人だ……」

 イーリオスの声に反応したのなら、いずれここにやって来るだろう。

 この場から今すぐ離れたいところだったが、魔人に近付きすぎたせいで、小道に戻る前に背後から襲われる可能性がある。

 「クソ……脚が勝手に震えてきやがる! ハァ、ハァ……ッ、こうなたったら……殺るしか、ねえ。オレが、あいつを!」

 自分を認めてもらうためにも、男たちが押し黙る程の圧倒的な功績が、イーリオスには必要だった。

 魔人と戦う決意を固めたイーリオスは、岩から顔を出して様子を伺う。魔人との距離は更に縮んでいた。だが、攻撃を仕掛けるにはまだ遠い。

 (あと十歩、あと十歩詰めれば俺の距離だ)

 再び身を潜め、全神経を集中させてその時を待つ。ズルッ、ズルッと微かな足音が、着実にこちらへと迫る。

 ――ザッ。

 気配は、右から来た。

 「……オオォォォォオオオッッ!!」

 瞬間、獣の咆哮にも似た声を上げ、イーリオスはブロードソードを勢いよく前方へと突き上げた。

 剣を握る手に、ハッキリと貫いた感触が伝わる。

 (剣が通る……! オレでもやれるッ!)

 イーリオスの剣は、魔人の腹部に深々と突き刺さった。左の脇腹から入った剣は、肋骨辺りを通って反対側に飛び出している。

 魔人への奇襲は成功した。

 剣を飲みこんだまま、魔人は何の反応も示さない。

 だが相手は魔人だ、向こうが何もしないなら、攻撃を続けるだけ。

 剣を抜いて追撃しようとした刹那。

 「……ッ!?」

 魔人の身体に収まったままの剣身が、赤い熱を帯びていたのだ。気づけばひび割れた魔人の身体の内側に、赤い光が灯っている。

 魔人の顔が、軋んだ音を響かせながらイーリオスへと向けられた。

 空洞になった双眸に、赤々と炎が灯る。

 非現実的な光景に魅入られでもしたのか、身動きひとつ取れないイーリオス。

 そこに魔人の左腕が、向けられ――

 「前に走れ! イーリオスッ!!」

 「――ッ!」

 即座に反応を示したイーリオスは、剣を諦めて前方――魔人の横を転がるように全力で駆け抜けた。直後、先ほどまで立っていた地面に火柱が上がる。

 少しでも遅れていたら、今頃イーリオスは魔人のように炭化していただろう。

 「奴の視界に入らないよう動き回るんだ!」

 声の主――イダールが、的確に指示を飛ばす。

 イダールはイーリオスがその場から離れられるよう、仲間とともに矢を放って魔人を牽制する。

 「ネ――、――ェ――」

 「ッ! 散開!」

 「おおッ!」

 イダールは魔人の注意がこちらへ向くやいなや、散り散りになって木陰や岩に身を隠していった。

 その間も矢による攻撃は続き、魔人の判断を鈍らせている。

 彼らの戦いぶりは、炎の魔人と何度も対峙してきた事で積み重ねられた経験が息づいていた。

 「……た、助かった、親父」

 「話は後だ! 奴は今、力が弱まっている!」

 「あ、あれで!?」

 「聞け、イーリオス。これはまたとない好機なのだ。奴の力が回復し、全身が炎に満ちれば矢による攻撃は通用しなくなる。そうなってしまう前に、致命傷を与えなければならん」

 「致命傷ったって、横っ腹に剣生やしたまま動いてる奴にどうしろってんだよ!?」

 「奴は身体の再生に力を使う。奴の胴体を見ろ、ひび割れた腹の奥で炎が蠢いているだろ?」

 イダールの指摘通り、魔人の身体はイーリオスが剣を突き刺した時よりも熱を帯びている。

 全身に行き渡る光は、まるで血管のようだった。

 「奴と渡り合うには、もう一つ重要な事がある」

 「それって、確か……」

 「――ギャァアアアアアアアッ!!!」

 イダールの説明を遮るように悲鳴が上がる。

 見れば、戦士の一人が全身を炎に焼かれながらのたうち回っていた。

 仲間がやられたにも関わらず、戦士たちの攻撃の手が止む気配はない。だが、いずれ形勢は覆されてしまうだろう。

 イダールは口早にまくし立てた。

 「我々が知る限り、あの力には“指向性”がある。魔人は自分の意志で、害をなす敵に対して反応を示すのだ」

 そう言うと、イダールは背中に背負った二本の鞘から幅広の剣を抜き、片方をイーリオスへと渡す。

 「攻撃を決めるのが頭ならば、首を斬り落とし、頭を覆ってしまえば魔人の動きは止まる」

 「と、止まらなかったら?」

 「俺たちに続く者が、仇を取るだけの事!」

 イダールは、空に向かって剣を高々と掲げ叫んだ。

 「炎の魔人の伝説は、ここで潰えるのだ! 行くぞ、イーリオスッ!!」

EPISODE5 受け継がれしもの 「我々が今、こうして生きていられるのも、先人たちの 導きがあってこそなのだ」

 炎の魔人との戦いは、熾烈を極めた。

 魔人の注意が弓矢に向けられている一瞬の隙を突き、イダールが懐深くまで攻め入る。狙うは、意思を司るとされる頭部だ。

 振り下ろした剣の軌道は、寸分違わず首を捉えていた。

 しかし、その一撃だけでは不十分で、剣身を首筋に食いこませたまでは良かったが、断ち切るまでには至らなかった。

 「――ァ、――シェ――」

 「ちぃッ!」

 「ハァァァァッ!!」

 燃える瞳がイダールを捉えるよりも速くイーリオスの剣が舞う。魔人の狙いは逸れ、大地に新しい火柱が立ち昇った。

 イーリオスが斬りこめば、隙を補うようにイダールの剣が魔人を襲う。

 共に修練を積むような間柄では無かったが、二人の連携は互いの呼吸を熟知するかのような同調を見せていた。

 「やれるぞ、親父ッ!」

 「ああ、だが油断するな!」

 魔人を征伐するために修練を積み重ね、知恵を受け継いできた人間たちと、人知を超えた精霊の力を行使する魔人との戦い。

 この世のものとは思えない光景は、思わず見惚れてしまうほどに壮絶で、美しい光景だったに違いない。

 戦いは魔人が十分に力を発揮できないよう立ち回る人間側に分があり、もはや魔人の首をはねるのは時間の問題。その場にいる誰もがそう信じていた。

 キィン――と甲高い音が鳴り響く。

 「なっ……!?」

 知らず知らずのうちに蓄積した疲労が、イーリオスの剣を鈍らせ、魔人の腹部に突き刺さったままの剣とかち合ってしまったのだ。

 予期せぬ反動が自身へと降りかかり、イーリオスが姿勢を大きく崩す。

 「しまっ――」

 だが時既に遅く。

 皆が攻撃を加えるよりも早く、魔人の掌がイーリオスへと向けられ――炎が放たれた。

 「イーリオス!」

 自身の死を強く思い浮かべたイーリオスは思う。

 ――ああ、これで、オレはすべてのしがらみから解放される。区別される事もない。もう何も思い悩む事はなくなるんだ。

 息苦しさに満ちた世界も、異端を認めない規律も。

 死が、すべての抑圧から解放してくれる――

 鎌首をもたげる強烈な死への誘惑。

 自身を諦めへと導く甘い言葉が次々と浮かんでは消えていく中、イーリオスが選んだのは。

 ――違うだろッ!!

 カッと目を見開いたイーリオスは、咄嗟に身体を半歩ずらして左半身を魔人に晒すと、剣を地面に突き刺し盾とした。

 直後、魔人の炎がイーリオスへと襲い掛かった。

 「……ぐっ、あ、ぁああああああああッ!!」

 「イーリオスッ!」

 「やれぇぇぇぇッ!! 親父ぃぃぃぃ!!」

 「オォ――――ッ!!」

 イーリオスの言葉に報いるように、イダールが剣を振るう。狙いは寸分たがわず――見事に魔人の首を撥ね飛ばした。

 切り離された魔人の身体が、糸の切れた人形のように倒れ伏す。首の断面には、燻るようにチカチカと瞬く炎が見えたが、やがて音もなく消え去った。

 魔人を斬り伏せたイダールは、自身の身体が焼けるのもいとわず、膝をついたまま動かないイーリオスを川辺へと運び、できる限りの応急処置を施した。

 咄嗟の判断が生死を分けたのだろう。イーリオスは半身を蝕む大きな火傷を負ったが、命を落とさずに済んだのだ。

 「討伐に至るまでに数々の幸運が重なったのも、俺たちが歩みを止めなかったからだろう。これは、我々が手繰り寄せた結果なのだ。道をつないでくれた同胞たちに、感謝する」

 ここに、長年にわたって続けられた魔人征伐が、幕を閉じた。

 その後、魔人がすぐに再生できないように魔人の四肢を切断したイダールは、生き残った戦士たちとともに集落へと帰還するのだった。

 ――

 ――――

 アギディスの夜は過酷だ。

 昼夜の寒暖差がもっとも広がる冬では、皆で暖を取り寒さを凌がなければならない。

 そんなアギディス人たちにとって欠かせないものがあった。

 熱気浴と呼ばれるものだ。

 集落のすぐ近くにある小高い丘に、数人が入れるほどの大きさに掘られた穴がある。その中には、石を積み上げて組んだ内壁と簡易的な炉が設けられ、炉を囲むように木製の板が積まれている。

 炉は、熱した石を収納する役目を持つ。そこへ適度に水を掛けてやる事で熱い蒸気を生みだし、外気温を遥かに超える室温にする。

 穴の中で身体を熱し、外へ出て冷たい外気に身体を晒す。これを繰り返す行為は、アギディスの民にとって至上の快楽なのだ。

 「――くぁぁあぁぁっ……っ! 痛ってぇぇぇっ!」

 そんな中、誰もが寝静まる真夜中であるにも関わらず蒸気に身体を晒す者がいた。

 大火傷を負ったイーリオスだ。

 イーリオスは一糸まとわぬ姿で、火傷と切傷だらけの身体に鞭を打ち続けていた。

 炎の魔人によって燃やされた左半身は、赤くただれた皮膚を露出させ、いかに凄惨な戦いだったかを如実に物語る。

 日に焼けて色褪せた栗色の髪も、今となっては黒く焦げた皮膚と同化するようにへばりついたまま。

 イーリオスは、自分の顔がどうなったか知らない。

 父であるイダールによって止められていたからだ。

 「オレにも親父の気持ちは分かる。でも……まぁ、皆の反応を見りゃ、嫌でも分かっちまうよな」

 女子供の怯える目。男たちの憐れみの目。

 まるで、化物扱いだ。

 だからこそイーリオスは、痛みで嫌な事を考えずに済むよう、皆が寝静まった真夜中にここへ来ていた。

 「生きる事を選んだんだ、その結果に文句つけてもしょうがねえ……ああ、ダメだ! つい考えちまう!」

 そう叫ぶと、イーリオスは外へと続く階段に向かおうと立ちあがり――丁度階段を降りてきた人物と鉢合わせてしまった。

 「イ、イーリオス様!?」

 向かい合う形でイーリオスを見下ろしていたのは、細い身体の少年。集落で家畜の面倒を見る役目を負う氏族の出だとイーリオスは記憶している。

 「どうしたんだ、お前も眠れなかったのか?」

 「ええ、まあそんなところです……って、どうして裸なんですか!?」

 「どうって事ないだろ。いつも遊んでた仲なんだ、オレはまったく気にしない」

 「ぼ、僕が気にするんです!」

 人と出くわした事で冷静になり、素っ気なく答えるイーリオス。少年は信じられないといった顔で口をもごもごと動かしたあと、「帰ります!」と叫んで穴から出て行ってしまった。

 「あ、おい……!」

 少年を引き止めようと手を伸ばす。しかし、その手は疼いた火傷の痛みによってうまく動かせなかった。

 「なんだよ、お前までオレを化物扱いするんだな……染みるな……本当に……」

EPISODE6 錬成 「親父もよく考えるよ。炎の魔人の力を宿す武器か…… 本当に実現するなら、世界が変わっちまうな!」

 炎の魔人を討伐してから数日。

 各氏族の長たちが集う会合の席で、早速建国に向けた協議が進められたが、思いの外難航していた。

 慎重を期する者たちを納得させるためには、一刻も早く火の精霊の力が掌握できる事を証明する必要があったのだ。

 集落の外れには、熱気浴用の穴がある丘から更に登ったところに竪穴が設けられている。

 本来の用途は、規律に背いた者を三日三晩にわたって隔離し、暗闇の恐怖の中で反省を促すために使われる。

 穴は深く、それでいてよじ登れないように幅が広く取られた構造は、魔人を隔離するにはうってつけの場所だった。

 竪穴を見下ろすイダールは、穴の底から聞こえる魔人の怨嗟の声にも似た音を聞きながら、満足そうに口を歪める。

 「魔人の再生は胴体から始まったか」

 イダールは魔人との戦いの最中、ある疑問を抱いていた。

 一体、魔人の再生はどこから始まるのか?

 それを検証するために、イダールはバラバラに切断した魔人の頭、腕、脚を別の場所で保管する事にしたのだ。

 胴体以外は石棺に保管し、見張りの者を配置していたが、イダールの下に再生が始まったという報告は上がっていない。

 詰まるところ、再生は胴体から始まり、やがて細部へと移る。

 「これは……使えるかもしれん」

 「――親父はこんな事まで見越してたんだな」

 「イーリオスか。どうだ、身体の方は」

 「ハーブを染みこませた軟膏が効いたみたいだ。痛みも昨日よりマシになったよ」

 イーリオスはそう言うと、麻の包帯をグルグルに巻きつけた左腕を振ってみせた。

 医療知識に長けた氏族の処置による所が大きいが、育ち盛りのイーリオスの若さと父親譲りの体力も貢献しているのだろう。

 「そうか。ならば、お前にひとつ頼みたい事がある」

 「親父が頼み事なんて珍しいな、何をすればいい?」

 「切断した魔人の残骸を使い、武器を作れ」

 「武器? オレが?」

 「これはまだ可能性の話でしかないのだが、頭や腕にもしも精霊の力の残滓があったとしたら……我々にも力を発現できるかもしれない」

 「はぁ!?」

 「そうはならなかったとしても、お前に一生残る傷を負わせた魔人だ、好きなだけ怒りをぶつけるといい」

 「怒りなんて……まぁいいや、分かったよ」

 「石棺は工房に運ぶよう伝えておく。任せたぞ」

 イダールはそれだけを告げると、近くで様子を伺っていた者たちに向けて、声高らかに宣言した。

 「皆の者! もはや炎の魔人は過去となった!恐怖を克服した我々には、輝かしき未来が訪れるであろう! そう、炎の魔人の力を利用した“精霊炉”によってな!」

 「「オォォォオオッ!!」」

 イダールの宣言に、不安に駆られていた者たちも一斉に活気を取り戻していく。

 熱気冷めやらぬ民を眺め、イダールは確信を深める。

 魔人の炎があれば、凍死者を出さずに越冬を可能にし、より強固な武具を製造する事で他国には真似のできない技術力を手にすると。

 技術力の高さは武力に直結する。

 ひいては、戦士たちの生存率も向上するのだ。

 「ティオキア、水の精霊……必ずや、我が手中に収めてくれよう」

 ――

 ――――

 「さて……そろそろだな」

 イダールたちが精霊炉の製造に取り掛かる間、イーリオスの作業は山場を迎えつつあった。

 太陽はもう間もなく、アギディスの山々の裏に沈みゆく頃合いだ。

 夕焼け空と夜の空が混ざり合う幻想的な光景が広がる中、イーリオスの周りだけは太陽光が降り注いでいるかのような輝きに満ちていた。

 イーリオスが見下ろす切株の上に転がる、太陽のごとぐ真っ赤に燃えたぎる歪な球体。

 それは、炉の中で長時間熱せられた、黒みを帯びた鉄鉱石と木炭、魔人の残骸が混ざり合う銑鉄だ。

 周りにこびりついていたカスをハンマーで叩く内に、それは人間の頭部ほどの大きさになった。

 続けて、息を大きく吸いこみながらハンマーを持ち上げ――

 「……フッ!」

 息を吐き出すとともに、燃えたぎる銑鉄へと振り下ろした。

 ――――ゴギャッ!

 『――――――ッ!』

 「っぐぁ……っ! なんだよ今の音……耳が、キンキンしやがる……」

 打ち所か悪かったのだろうか。ハンマーを叩きつけられた銑鉄が、悲鳴のような金切り音を響かせた。

 やや遅れて、まだ固まっていない中心部からは銑鉄が涙を流すようにどろりと零れ出し、切株を伝い放射状に広がっていく。

 すると、地面に流れた銑鉄は空気に触れた途端、熱を失い黒い塊になっていった。

 鉄を作り出すのは、時間との戦いなのだ。

 「慣れるしかねえ。冷えて固まったらそこでお終いだからな」

 イーリオスは懸命に銑鉄へとハンマーを叩きつける。

 その度にイーリオスの顔には苦悶の色が浮かんでは消えていった。

 「魔人の悪足掻きってか? どれだけ人様に迷惑をかけりゃ気が済むんだよ!」

 『――――くれ――』

 「あ……?」

 『――で、――――くれ――』

 すぐに慣れると思っていた金切り音。

 それが頭の中で反芻し続けたせいか、いつしかイーリオスを蝕む幻聴に変わっていたのだ。

 締め付けるような痛みに、冷静さを欠いていく。

 これ以上は、自分の身体がもたない。

 「オ、レの、頭ん中で……喚くんじゃねぇ!いい加減、大人しくなりやがれッ!!」

 怒りに任せて振り上げたハンマーが、平たく潰れた銑鉄に叩きつけられ――

 ――グシャッ!

 渾身の一発が、銑鉄をひときわ強く飛び散らせた。

 「ハァ……ハァ……」

 あれほど苛んだ音と声は、いつの間にか綺麗さっぱり消え失せていた。

 冷静さを取り戻したイーリオスは、そこでようやく全身に強い疲労感が満ちている事に気付く。

 形を整える作業は果たせたはず。疲れを取るために、今日はもう寝よう。

 そんな考えが浮かんでは消えていく中、銑鉄からおもむろにハンマーをどかす。

 「……え?」

 そこにあったのは、割れた頭蓋から大輪の花を咲かせるように脳漿をまき散らす頭部だった。

 「なん……で……」

 口元以外、原型を留めてはいない。

 辛うじて分かるのは、燃えるような美しい髪と、生前は少年のような少女のような、判別のつきにくい端正な顔つきだったという事。

 口元を押さえてへたりこんだイーリオス。

 本当に自分がした事なのか注意深く観察しようと、切株の台座を見たその時。

 イーリオスは何故か、頭部の残骸と目が合ったような気がした。

 「ひっ――」

 だが、目を擦ってもう一度台座を見た時には、ただ整形された鉄塊が何事も無かったかのように鎮座しているだけだった。

EPISODE7 どこにでもある黄昏 「ああそうか。ずっと探していたんだな、お前は。 お前が愛した、大切な人を……」

 幻覚だったとはいえ、自身が子供の頭を叩き潰した悲惨な光景。

 それから逃げるように寝床へと入ったイーリオスは、珍しく夢を見た。

 妙に鮮明な夢だった。

 凹凸のない石造りの壁へ等間隔に設置された灯り。

 絨毯の重厚な質感。自身の背丈を優に超える窓を柔らかく覆うビロードのカーテン。

 おそらくは、何処かの国の宮殿なのだろう。

 目に映るものすべてが、イーリオスが暮らすアギディスとは余りにも違いすぎた。

 「もしかして、ここがルスラって国なのか?」

 幼い頃に父親から聞いた昔話を、この夢は再現しているのかもしれない。

 ただ呆気に取られていたイーリオスだったが、不意に視界が揺らぎ、身体が勝手に前方へと進み出した。

 「うおっ、どうなってんだ……!」

 己の意思とは裏腹に、歩く速度は増し、視界が次々と変わる。

 何かを祀る煌びやかな祭壇が映ったかと思えば、瞬きした途端に薄暗い用水路を歩いていた。

 そうして何度も移り変わるうちに、突然絨毯が敷かれた床を見つめたまま動けなくなってしまう。

 どうやら、誰かに向かって跪いているらしい。

 足元に高級そうな黒い革靴が映る。一目見ただけで、それが丁寧に仕上げられていると分かった。

 そこでイーリオスは、ようやく自分が自分ではない誰かの視点を通して、夢を見ていた事に気がつく。

 心の中で「動け!」と念じてみたものの、やはり靴の持ち主が動く気配はない。

 「やけに意識がハッキリしてる。おかしな夢だ……早く動いてくれよ、靴の持ち主さん!」

 諦めて動向を見守る事にしたイーリオスだったが、ふと何かの物音がしたかと思えば、次の瞬間には靴の持ち主が勢いよく立ち上がっていた。

 続けて視界に飛びこんできたのは、どこかこの世の者とは思えない、作り物めいた美貌を持つ少女の姿。

 淡い灯りに照らされて艶やかな光沢を放つ金色の髪。

 心の内を見透かされてしまいそうな慈愛に満ちた瞳。

 自身とは真逆の、傷や染みのないきめ細やかな肌。

 一目見ただけで、イーリオスは少女の美しさに心を奪われてしまった。

 『初めまして、私はネ■■シェ。あなたが新しく着任したアヴェニアスですね? もしかして、緊張しているのですか?』

 『い、いえ、そのような事は……っ』

 視界がもの凄い勢いで左右にブレた。

 『そうですか。でしたら……』

 少女は小さく微笑むと、吐息を感じられそうな距離にまで詰め寄る。そして、アヴェニアスの両頬を細く小さな掌でそっと包みこんだ。

 『う、ひぁっ!? ネ、ネ■■シェ様!?』

 『これで緊張は解けましたか? ……まだ眉間に皺が寄っていますね。では次は』

 『も、もう大丈夫です! それに、僕は護衛官。ネ■■シェ様の身辺をお護りするのが使命であり――』

 「ハハ、こいつ、もしかして惚れちまったのか?初心(うぶ)だねえ」

 まあ気持ちは分からなくもない。そんな考えが頭を過ると同時に、イーリオスは何故自分がこんな夢を見ているのかと疑問を抱く。

 「……ハッ、まさかオレにもこんな願望があったのか?」

 普段見る夢とはかけ離れた世界に、思わず自嘲する。

 「しっかし、そろそろ飽きてきたな。なあ、寝てるオレよ! さっさと目ぇ覚ましてくれー!」

 その思いが届いたのか、再び場面が切り替わった。

 貝殻のような白い家屋が立ち並ぶ、懐かしさを憶える街並み。人間が立ち入るのを拒絶する険しい山道。仄暗い洞窟。横たわる少女の上に、ぼとりと落ちた――彼女の生首。

 「――っ!?」

 不意を突くように出現した残酷な光景を皮切りに、アヴェニアスと呼ばれた人物の世界は激変した。

 目まぐるしく切り替わっていく光景は、もう認識すら困難だ。記憶は濁流のように押し寄せ、時の流れに逆光する動きまで見せ始める。

 終いには、切り抜かれた記憶のひとつひとつが複雑に溶け合い、色褪せ、無彩色の黒で塗り潰されていく。

 そのどれもが、少女との間に築かれた記憶だった。

 「こいつ……そこまであの女を……」

 アヴェニアスの心が、バラバラに砕け散った。

 そして、他人事でしかなかったはずのアヴェニアスの想いが、痛みが、怒りが。

 いつの間にかイーリオスの身体を支配していた。

 刹那、視界が赤一色で塗りつぶされ――。

 ――ゴギャッ!

 何かを叩きつける金属音が響いた。

 『奪わないでくれ!』

 ――僕は誓ったんだ。

 ――ゴギャッ!

 『僕から、ネ■■■ェ様を……』

 ――貴女を悲しませるすべてから護ると。

 ――ゴギャッ!

 『ネ■■■■様との、想い出を……』

 ――僕だけが救えるんだ! 彼女を、彼女の……。

 ――グシャッ!

 『■■■■■……■■■■■……!』

 ――僕が……護って……。

 ぁ、れ……僕は、誰を護りたかったんだ?

 一体、誰のために、この手を血で染め上げた?

 一体、何のために、燃やし尽くしてきたんだ?

 ……嫌だ。イヤだッ! 奪わないでくれ……ッ!

 僕はただ、ただ――

 「いや……僕は、誰なんだ」

 口を突いて出た言葉が、空へと昇り消えてゆく。

 上空に広がる空には、夕暮れと夜とが混ざり合った雲が浮かんでいた。

 ふと、視界が何かに塞がれる。

 見れば、そこにはハンマーを大きく振り上げたイーリオスが立っていて――

 「――うわあああああああっ!!!!」

 イーリオスは寝床から跳び起きた。

 今見てる世界は現実なんだと言い聞かせるように、何度も何度も周囲を確認する。

 「ハッ……ハッ……ハァッ……」

 壁に立てかけられたブロードソード、脱ぎ散らかした衣服。全身を伝う汗の冷たさ。

 何度も何度も確かめて、ようやくイーリオスはここが現実なんだと納得できた。

 「クソ、手の震えが止まらねえ……あんなの、ただの夢じゃねえか。オレらしくもない……」

 イライラした時は、熱気浴に限る。

 苛立つ感情を静めるために丘へと向かう。

 「ん……? やけに騒々しいな……」

 周囲には不安そうな様子で丘を見上げる住民たちがいた。様子を伺うだけで誰も動かない事から、襲撃に遭ったわけではないようだ。

 「あの方角はまさか……」

 彼らの視線は、炎の魔人を隔離した竪穴の方へと注がれているのだった。

EPISODE8 そして、託宣は下された 「お前はアギディスの礎に相応しい。これより世界は 変わるのだ! アギディスの名のもとに!」

 竪穴へと向かったイーリオスは、急ごしらえで建造された精霊炉に、人々が空気を送りこもうと奮闘する光景を目の当たりにした。

 竪穴の中に生まれた燃え滾る太陽は、いまや風前の灯火と化していたのだ。

 どれだけ空気を送り燃焼材を投入しても、魔人の炎が再び竪穴を照らす事はなかった。

 燃えカスとなった魔人の胴体は何も語らない。

 精霊の力の消失。

 それは、数多もの同胞の死を乗り越え、それでも歩みを止めずに突き進んできた者たちを立ち止まらせるには十分だった。

 「再生を続けていたはずなのに、何故急に……。我らの希望の灯が……」

 イーリオスは、精霊炉の前で呆然とする男が父だとすぐに気づけなかった。全氏族を率いる長として、皆の前で堂々と振る舞う事を常としてきた父。

 「親父……」

 落胆の色を浮かべる父の肩に、気遣うように優しく手を添える。

 振り返った父の目は、驚愕に見開かれていた。

 「な、なあ、きっと、まだやれる事はあるって。精霊の力もいつかまた手に入る。それに、魔人の残骸で作った武器はあるんだ。オレももっと頑張るから……、だから……」

 「……した」

 「え?」

 ぼそりと呟いた父に問い返そうとしたその時。

 イダールの腕が、イーリオスのまっさらな“左腕”を強く握り締めた。

 「っ痛ぇ……何すんだよ、親父!」

 訝しむようにイーリオスの身体を眺めるイダールの瞳が見開かれ、ぎょろりと揺らぐ。

 その口元は、狂気じみた笑みを浮かべていた。

 「イーリオス。その顔はどうしたんだ」

 「あ……しまった! 包帯巻くの忘れちまった!」

 「そんな事はどうでもいい!」

 イダールの両手が、イーリオスの胸ぐらを掴む。

 そして、有無を言わさず――破り裂いた。

 「っな、おい、何するんだよ!?」

 縦に破かれた衣服の下に隠されたイーリオスの身体。日に焼けた身体を走る刀傷と半身を覆うはずの火傷は綺麗さっぱりと消え失せ、引き締まった肉体とその上に

乗った豊かな“乳房”を露わにしていた。

 イダールは淡々と“愛娘”であるイーリオスを問い詰める。

 「身体の傷はどうした」

 「はぁっ? な、なんだ、これ……火傷が!」

 「どうしたと聞いているッ!」

 「だ、だから! オ、オレにも、何がなんだか――」

 戸惑いの色を浮かべるイーリオスに、夢の中で見た光景が怒濤となって押し寄せる。

 アヴェニアスと呼ばれた人物が、思いがけず少女から授かってしまった火の精霊の力。

 炎の魔人となり、身体を蝕まれながらも想い人を探し続けたアヴェニアスが川べりで見た、己の醜い姿。

 イーリオスは気づいてしまった。

 それらすべての記憶を、自分が継承している事に。

 そして――

 困惑するイーリオスの背後で悲鳴が上がった。

 彼ら彼女らが指し示していたのは、いつの間にか炎に取り巻かれていた自分自身。

 「イ、イーリオス!?」

 イダールたちは見た。

 イーリオスを取り巻く、異形の姿を。

 それは、蛇のようにうねり、4本の腕を持つ炎の怪物だった。

 陽炎のように揺らめくソレを、イーリオスはまるで自分のものであるかのように動かし、やがて掌の上に収まっていくうちに、炎の塊へと変わった。

 だが変化は、それだけではなかった。

 イーリオスの栗色の髪が、炎のように鮮やかな赤い髪になっていたのだ。

 「ど、どうしよう、親父……オ、オレ……オレ!」

 喜びとも悲しみともつかぬ歪な笑み。

 父もつられてぎこちない笑みを返す。

 「そ、そうだ。これならオレも、認められるよな?親父の跡を継ぐ、後継者に相応しいって!! 皆も認めてくれるよな! 女のオレでも関係ないだろ!?」

 「……ああ、そうだな。お前ならしっかり役目を果たせるだろう」

 「ハ、ハハ……オレ、絶対にこの力を使いこなしてみせる! オレがアギディスを導くんだ!」

 歓喜にわくイーリオス。

 しかし、彼女は嬉しさのあまり気づけなかった。

 イダールの言葉の、その真意に。

 こうしてイダールの娘イーリオスは、精霊の力を継承する火の巫女<シビュラ>となった。

 彼女がアギディスにもたらす繁栄という名の厄災。

 それは、幾度となく繰り返される戦争と死を世界にまき散らし――やがて、欲望にまみれた真の怪物たちをアギディスに産み落とす。

 世界の在り方を歪められた世界は、果てしなく突き進むしかないのだ。

 箱庭の世界に終焉が訪れるその日まで。

EPISODE1 神を傷つけたその手で「悪夢であればいいのに。何度そう思ったことか。でもこの痛みは……紛れもなく現実なのですね」

名前:土の精霊

年齢:不明

職業:土の精霊

 聖都アレサンディア。

 ルスラの首都であるこの地にかつて、4つの希望の

力を有する少女がいた。

 少女の麗しい肉体は老いることも腐ることもなく、

果てしない時の間、世界に恵みを与え続けていた。

 大地を、草花を、動物を――そして生まれた人間が

欲望に狂うまでは。

 全ての母なる少女を神と崇め、恩恵を受けていた

はずの人間達は、その立場も忘れ欲してしまう。

 彼女が振るう希望の力を。

 欲望の火種はやがて燃えさかる炎となり、世界を、

そして神を燃やし尽くしていく。

 激動のうねりの中、少女の神の力は4つの精霊として

その身から剥がれ落ち、愚かな人間へと継承されて

いった。

 火の力はアヴェニアスへ。

 風の力はメーヴェへ。

 水の力はサラキアへ。

 土の力はテルスウラスへと。

 神の力と人間、終焉へ向かう物語の幕を開ける誘因と

なったテルスウラス。

 愛深き彼女は、その愛ゆえに間違いを犯した。

 テルスウラスは罪への代償として罰を背負う。

 ルスラと、望んでもいない精霊の力を。

 “豊穣神”なきルスラなど許されない。

 聖都アレサンディアが“聖都”であるためには、

早急に空いた玉座を埋める必要がある。

 代々従者の一族として仕え、ルスラはおろか宮殿の

外の世界を知らずに生きてきたテルスウラス。

 ただひとつ、精霊の力をその身に宿していると

いうだけで、己の意思とは無関係に歩む道が

決められていく。

 かつて――今も愛する少女が座っていた椅子へと。

 血で汚れた手を隠しながら。

EPISODE2 新たな豊穣神「これが償いだというのなら、私には受け入れることしか……それが民を欺くことだとしても」

 ルスラの首都、聖都アレサンディア。

 豊穣心ネフェシェが身を置く聖地であるため、大陸の中でも特に厳格な宗教国家であるこの国は、これまでにないほどの混乱に未だ包まれている。

 あの日、民達の目の前で凶刃に倒れたネフェシェ。

 国の根幹とも呼べる存在を守れず失ったことは、信者である民にとっては己という存在意義を疑うほどの衝撃であった。

 同時に、ネフェシェが去ったルスラの大地は急速に痩せ衰えていく。

 それはネフェシェという神がこの地にどれだけのものをもたらしていたのか再認識させ、さらなる悲しみを与えるには十分すぎるものだった。

 この事態に、ルスラ中央院の高官達は迅速に動く。

 国内政務の実権を握っていた中央院こそネフェシェ暗殺を企てていた張本人であり、国が混乱に陥ることはすでに想定していたことだったからだ。

 だがひとつだけ想定外だったのは、テルスウラスの存在。

 あの日、中央院が選出した実行犯ではなく、ネフェシェに手をかけたのは彼女の侍女であるテルスウラスだった。

 中央院の高官達が予想だにしなかった“精霊の継承”。

 ネフェシェを排し、精霊の力だけが残った。

追い風と言わんばかりに好都合なこの現状を、彼らが見過ごすはずがない。

 「さあ、テルスウラス。ワシにその力を見せてみよ」

 「…………」

 「聞こえないのか? ワシの一存でいつでも兵を出せること……忘れてはおるまい?」

 「……っ!」

 中央院で最も位の高い最高官。その立場にある年老いた男が、俯くテルスウラスへとそう言い放つ。

 少しの沈黙の後、テルスウラスが立つ石造りの宮殿の床に、足下から広がるようにして草花が生えていった。

 それを見た最高官は、手を叩いて笑う。

 「ホーホッホ! それでいい! ワシに従っておれば国や民も安泰。そして……ネフェシェの身もな」

 「はい……」

 テルスウラスは、ネフェシェを害したまさにその手で彼女を逃がしていた。

 生きて、ここではないどこかで別の幸福を実らせてほしいと。

 だが、その光景はあの場所に居合わせたいくらかの人間に目撃されてしまう。その中には最高官も含まれている。

 彼はその事実をもとにテルスウラスに取引を持ちかけた。

 『傀儡となるのならネフェシェを追うことはしない』と。

 その手にかけるほど、純粋すぎる歪んだ愛をネフェシェに捧げるテルスウラスは、この取引を飲んだのだった。

 「中央院の者達以外の“目撃者”の始末は完了した。ワシが……ワシこそが! このルスラを支配する時が来たのじゃ!! 王……なんたる甘美な響き……なんとワシにふさわしいことか……」

 ――数日後。

 アレサンディアの大聖堂前にテルスウラスの姿があった。

 その歳と顔立ちには似合わない、臀部が覗くほど背中が開いた、露出が多く下品な色使いのドレスを纏った姿で。

 自らが選んだそのドレス姿を満足げに眺めていた最高官は、集まった民達へと宣言する。

 「ルスラを守る新たな豊穣神のご誕生である!!」

 それを合図に、テルスウラスはゆっくりと手を挙げる。

 すると、“あの日の事件”であちこち割れたままの石畳が元の姿へと戻り、折れて枯れ始めていた街路樹は再び青々と天を突いていった。

 それはまさに、ネフェシェが振るったものと同じ神の力。

 途端、湧き上がる歓声に驚き、ビクリと肩を振るわせたテルスウラスは、初めて顔をあげる。

 そこには、新たな神の誕生に沸き立つルスラの民達の姿があった。

 誰もが歓喜の表情に満ちており、テルスウラスがネフェシェに刃を向けたその人だと気付いているものはいない。

 代々従者の家系として宮殿内で生まれ育ち、宮殿の外に出ることがほとんど無かったテルスウラス。

 そのため、あの一瞬の間に彼女の人物像が伝わることはなかったのだ。

 だがその事実を、他ならぬテルスウラス本人は落胆して受け止める。

 (私に気付いて……ネフェシェ様を失う原因となった大罪人だと……石を投げ、鞭を打ち、そして……殺してください……)

 最高官が取引を持ちかけるまでもなく、あの瞬間からすでにテルスウラスの心は壊れかけていた。

 愛ゆえに取った己の傲慢な選択は間違いであり、“あるべき姿を破壊してしまった”のが自分であること。

 どんな悲しみも、怒りも、ぶつける相手は己以外にいない。

 それでも。

 それでもネフェシェから継承した精霊の力は確かにここにある。

 どこにも逃げ場などない。それに気がついたとき、テルスウラスは己の力で物事を判断することができなくなってしまった。

 聡明だったかつての少女は、もういなかった。

EPISODE3 崩壊の兆し「私の全てが、私から奪われていく。それを取り戻す資格さえ、この手の中にはない」

 中央院による手段を選ばぬ手回しの末、テルスウラスはルスラの新たな豊穣神として祭り上げられた。

 だが元来、ルスラの民は敬虔で熱心なアテリマ教徒である。

 眼前でテルスウラスによる精霊の力を見せられたとて、ネフェシェへの厚い信仰心はそう簡単に崩れるものではなかった。

 そんな不安定な状況下であるにも関わらず、中央院はテルスウラスを象徴とした新たな権力構造の構築を強引に推し進める。

 結果、ルスラ国内で信仰の二分化と断絶という事態を引き起こしてしまう。

 ネフェシェこそが永遠の唯一神であると信じる『旧神派』。

 精霊の力を持つものこそが真の神であると信じる『新神派』。

 宗派の対立は対立を生み、やがて小さな小競り合いから内戦が勃発してしまうまでになっていた。

 「うっ……くっ…………」

 「ホッホッホ! 声が出ぬほどよいのか?それとも、生娘を演じてワシを悦ばそうとしておるのかの」

 「あぐっ……」

 「好きにすればよい。精霊の力も、その肉体も、ワシのものであることには変わらぬのだから……なっ!!」

 テルスウラスが、力の入らぬ身体でベッドに倒れ込む。

 弄ばれるまま、されるがまま。人形のように横たわるだけ。

 こんな夜は、もう数え切れないほど繰り返されている。

 最高官はそんなテルスウラスを気にかけることもなく、老いた肌を晒しながら窓際に立ち宮殿の外を見下ろした。

 闇夜の中、いくつかの炎が上がっているのが見える。

 少し前まで友人だった者、それどころか家族だった者達までもが、宗派の違いから今日も争いを繰り広げている。

 聖都の惨状を目の当たりにしながらも、最高官は口元に笑みを浮かべたまま呟いた。

 「愚かじゃのう……旧神が貴様らを救うことなどないというのに……」

 新神――テルスウラスを祭り上げているのが中央院という時点で、結末は決まっている。

 中央院がひとたび腰を上げれば、国軍を使った武力行使でもって強制的に鎮圧できるからだ。

 過激な旧神派による血を伴う暴動は各地で起こっている。軍を出す“口実”はすでに揃いつつあった。

 ガウンを羽織った最高官は、裸で横たわるテルスウラスを下卑た眼差しで一瞥すると部屋を出て行く。

 それと入れ替わるように、ドアの前で待機していた侍女が入ってくると、テルスウラスの側へとやってきた。

 「ああ……今晩は特に非道い……テルスウラス様、お身体は大丈夫ですか?」

 「ええ……」

 「さ、湯浴みに参りましょう。私がお手伝いいたしますから」

 「分かりました……」

 よろりと立ち上がり、大腿から体液を垂れ零すテルスウラスを侍女が支えると、恭しくローブを羽織らせる。

 そして今度はテルスウラスの手を取ると、ゆっくりと先導しながら浴場へと向かっていく。

 テルスウラスに仕える侍女。二人の外見年齢はさほど変わらない。

 精霊の力を持つ豊穣神に心から忠誠を誓い仕えるその姿は、かつてのネフェシェとテルスウラスを彷彿とさせるものであった――。

 「お加減いかがでしょうか?」

 「…………」

 テルスウラスが何も答えないことには慣れている。

 侍女は気にせず彼女の背中を泡立てると、桶に溜めた湯で一気に流し落とした。

 「さ、綺麗になりました! 湯を張ってありますから、今日は少しでもお浸かりになられては――」

 そう言いかけたところで、侍女はテルスウラスの異変に気がついた。

 浴場の掃除に用いられる固い毛の生えたブラシを持ったテルスウラスが、自身の手を何度も擦り続けている。

 どれほどの力を込めているのだろうか、柔肌は真っ赤に腫れて剥がれ落ち、シャボンの泡が赤く染まりだしている。

 侍女が慌てて制止するもテルスラスは抵抗し、力任せにブラシを奪ってやっとその手を止めることができた。

 「どうしてこんなことをなさるのです!」

 「落ちない……」

 「……?」

 「汚れが落ちないの……身体についた汚いもの……全部……」

 虚ろな瞳でボソボソとそう呟いたテルスウラス。

 途端、侍女は胸からこみ上げてくるものを抑えきれず、テルスウラスの身体を子供のように抱くと優しく囁いた。

 「……大丈夫ですよ。ほら、私がこうやって抱いているではないですか。テルスウラス様は汚れてなどいません」

 呆然としたまま抱かれるテルスウラスの頭を撫でながら、彼女は決意の光を瞳に灯す。

 「いつでもこうして差し上げます。私が守ります。だから……安心してお休みください」

EPISODE4 闇に跋扈する猟奇「命の炎が燃え尽きるのを感じる。ルスラの大地に芽吹いた、愛すべきはずの命が」

 旧神派と新神派の内戦は膠着状態に入っていた。

 急速に激化した争いは互いに失うものも多く、主義主張は変えないながらもにらみ合いの形に収まっている。

 そんな聖都アレサンディアの中心から少し外れた一角にある、旧神派の民が集う食堂。

 本来であれば夕方までの営業にも関わらず、夜の都の中で煌々と明かりがともっている。

 中には酒を酌み交わす若者達が十数人。誰もが上機嫌で、たがが外れた笑い声が店の外まで聞こえるほど深酒しているようだ。

 敬虔なアテリマ教徒は祝いの場くらいでしか酒を飲まないが、ここルスラといえども一部の血気盛んな若者は別。

 平時では荒くれ者と呼ばれるような者たちが、こと内戦においては心強い戦力として働いてくれていることもあり、食堂の店主が店を貸し与えていたのだ。

 「――だからよ、俺はあの新神派の馬鹿に思い切り蹴りを入れてやったのよ!」

 「ギャハハハ! アレ、下手すりゃ今頃死んでるくらいの良い蹴りだったな!」

 「死ねばいいんだよ! あっさりネフェシェ様を見捨てやがって……裏切り者どもが……!」

 その言葉に、一同は怒りを滲ませながら拳を握る。

 「中央院め……宮殿に石でも投げてやりたいぜ」

 「やめとけ。門前の警備を知らないわけじゃないだろ。ちょっとでもおかしな真似したら、国軍に殺されちまう」

 「……クソッ! あんな小娘が神なわけがねえ!豊穣神を騙ってるだけだ! 好機があれば、俺がこの手で化けの皮剥がしてやるのに……!」

 若い男はそう吐き捨てると、手元の杯を一気に煽る。

 しばらく悔しそうに唇を噛んでいたが、一度大きく息を吐くと、おもむろに立ち上がった。

 「おい、どこ行くんだよ」

 「少し飲み過ぎたらしい。夜風に当たってくる」

 店外に出た若い男が、酔いを覚ますかのように軽く頭を振ったその時、彼の元へ近づいてくる人影に気がついた。

 暗闇の中から現れ、店から漏れる明かりに微かに照らされたその姿は、一人の女。

 歳は男よりも少し下くらいか。近くで見なくても美女だということがすぐに分かった。

 男は、思わず生唾を飲む。

 「夜も深いというのに、なぜこんなにいい女が」

 そんなことを考えながら眺めていた男の胸中を察しているかのように、女は微笑を携えながら声をかけた。

 「随分盛り上がっているんですね。何かの集まりですか?」

 「あ、ああ。旧神派の会合……のようなもんだ。まさかアンタ、新神派じゃないだろうな」

 「ふふ、どうでしょう。もしもそうだと言ったら、乱暴されちゃうのかしら? 色々と」

 「アンタ……」

 蠱惑的な笑みで楽しそうに言う女に、男は思わず手を伸ばす。

 もはや宗派の違いがどうこうといった話など頭にない。明らかに“誘っている”と分かるその行為に、抗えずにいる。

 「ねえ、ここは明るいわ。あっちでお話ししましょ?」

 今度ははっきりと言葉で誘われ、男は何度も勢いよく頷いた。

 女の後ろをフラフラと歩き、暗い路地裏までやってくると、辛抱たまらず背後から抱きしめる。

 「あん……焦らないで。順序くらいは守れるでしょう?」

 女はそう言うと、後ろ手で背中のボタンを外し、そのままストンと地面へワンピースを脱ぎ捨てた。

 ここまでこの格好で歩いてきたのだろうか。下着の類は上下共に着けていない。

 暗闇に慣れた男の目に、女の身体が青く映る。

 その肢体は女性らしい丸みを持ちながらも、まだ少女のそれを色濃く残した肉付きの薄さをみせている。

 それはどこか神々しささえ感じさせ、同時に自らの手で汚してしまいたくなるような加虐心を男は覚えた。

 「い、いいんだろっ? なあ? 今さら嫌だって言われても止まらねえぞ?」

 「うふふ。そちらこそ、嫌だって言っても許しませんよ?」

 「へへ……俺がそんなこと言うもんか。ああ、こんな極上の女……夢みたいだ……」

 男は目を血走らせながら、それでいて恍惚の表情を浮かべつつ女の身体を貪っていく。

 よほど興奮状態だったのだろう。自身の肉体の異変に少しの時間を経て気がついた。

 「――夢を見るにはまだ早いですよ。まあ……もうすぐ見られるでしょうけど」

 「あ……?」

 覚えのない痛みを感じて、男は自分の腹部を見る。

 そこには、何か鋭利な杭のような物が深々と突き刺さっていた。

 下腹部へ、そして脚へと流れる生暖かいものが、己の血液だと遅れて理解する。

 「いったい何が」、混乱する思考はまとまらないが、「誰が」行ったものかは消去法で分かる。

 男は顔を上げて、女の顔を見た。

 そこに恍惚の表情はない。あるのは恐怖に歪んで引きつる顔だけ。

 「い、嫌だ……やめてくれ……」

 「あはは……許さないって、言ったじゃないですか!!」

 腹に刺さった杭のような物を抜き取られた男が床に倒れた瞬間、今度は喉元へとそれを振り下ろされる。

 悲鳴さえあげられなくなった男の身体は、繰り返し繰り返し打ち付けられ、もはや人間ではなく“肉片”と呼べるような何かへと変貌していった。

 やがて手を止めた女は、満足げに呟く。

 「守らなくては……他でもない、この私が……」

 女はおもむろに歩き出し、今度は男の仲間達が酒盛りをしている食堂へと向かっていくと、裸の姿のまま、その扉を開け放つ。

 間を空けず歓喜に沸く男達の声だったが、その声はすぐさま悲鳴へと変わっていった。

EPISODE5 人形と精霊「苦しみから己を救うことさえも許されない。そう……すでに私は人と呼ぶことさえできない存在なのですね」

 「昨晩、聖都で非道い事件があったようです。なんでも旧神派の一味がたくさん亡くなられたとか」

 「…………」

 「新神派による犯行だ、なんて言われていますが、失礼ですよね。テルスウラス様を信ずる者がそんなことするはずがないというのに」

 「…………」

 「同じ国の民同士で争うなど、なんと愚かなんでしょう。皆、目の前のテルスウラス様のお導きに従えばいいものを……」

 「…………」

 鏡台に向かい、表情一つ反応を見せないテルスウラス。

 それを気にもとめず、侍女はそう言いながらテルスウラスの髪を梳かし続ける。

  ――昨晩、食堂で起きた凄惨な事件は、アレサンディアの民を震撼させた。

 店内に十数名、そして外の路地裏に一名。どれも男性と思われる遺体が、無残な姿で発見されたのだ。

 床一面に広がる血だまりの中、“細切れ”と表現していいほど損傷の激しい肉片が混ざり合ってしまっていたため、正確な人数も把握できないほどであった。

 だが何より、否が応でも人々の関心が高まる猟奇的な理由がもう一つあった。

 それは、遺体に食いちぎられたような痕跡が残されていたこと。

 歯形から人間の仕業であることが判明し、その痕跡の数の多さから、確かな意図があることを感じさせた。

 これほどまでに醜怪な事件が風化するはずもなく、当てずっぽうな憶測などが肥大しながら、アレサンディアのみならずルスラ中へと爆発的に広がっていったのだ。

 また、犯人に思惑があったかどうかは定かではないが、この事件は旧神派と新神派の内戦を再度激化させる原因になってしまう。

 新神派による犯行と断言し、暴力をもって報復を行う旧神派。

 その報復によって生まれた怨恨を、さらなる報復で返す新神派。

 ついには新神派の最たる主である中央院の高官が暗殺されるまでに発展し、ルスラという国の崩壊の兆しが見えるほど国内分断は進み続けるのだった。

 「――はい、できました。お美しいですわ、テルスウラス様」

 髪を梳き、化粧を施し、テルスウラスを手際良く飾り終えた侍女は弾んだ声をかけた。

 だがその声色とは裏腹に、彼女は悔しさに耐えるよう強く拳を握る。

 間もなく、このテルスウラスの部屋には最高官がやってくる。

 侍女がテルスウラスを飾るのは、あの醜悪な老人を悦ばせるための仕事であるからだ。

 ネフェシェが倒れ、ルスラの混乱が始まったあの日。侍女は一部始終を“目撃”していた。

 中央院は真実を知ってしまった高官以外の人物を残さず“始末”したつもりだったが、唯一逃れることができたのが彼女だった。

 ネフェシェに仕える従者の一族であるテルスウラスの親類は追放され、新たな中央院が作り上げられる際、血縁のない外部から雇用されていた彼女は、テルスウラスの侍女に自ら志願した。

 中央院が不穏な企てを画策していることは、宮殿にいれば肌で感じ取れる。

 また、目撃者であることが露呈すれば自身の命は確実に亡きものとなるだろう。

 理解していながらも彼女は、テルスウラスの側にいることを望んだ。

 なぜなら、あの日見たネフェシェを愛するからこそ手を汚したテルスウラスに、深く深く心酔していたからだ。

 結末がどうであろうと、愛ゆえの限りなく純粋で傲慢な行いに。

 精霊の力を継承したことに意味はなく、ただ“テルスウラスという女”を神以上に崇める彼女は、側で仕えることを望んだのだ。

 だからこそ歯がゆさを覚えてしまう。

 仕える者として命には従わなくてはならない。だがそれが、愛する者が汚されることに加担する行為であるという事実が、彼女の胸を強く締め付けていた。

 「ホホッ! 今日はまた一段と……早くも疼いてしまうわい」

 見計らったかのように最高官がテルスウラスの部屋へとやってくる。

 品のない笑みを浮かべながら、もはやその下劣さを隠そうともしていない。

 恭しくお辞儀をしながらも、冷ややかな視線を送る侍女が入れ替わるように部屋を去ると、鏡台の前に座ったままのテルスウラスを最高官は抱きしめて囁く。

 「今すぐにでも食らいついてやりたいところじゃがの。その前に、おぬしには神としての仕事をひとつ果てしてもらおう」

 そう言って取り出したのは、数枚の書類。

 混乱を極める国内情勢に中央院を狙った暗殺事件など、もう十分“大義名分”は揃っている。

 暴力の応酬を鎮圧するため、それ以上の暴力で鎮圧する。書類は、本格的な内戦鎮圧に軍を派兵するための許可証であった。

 たとえ形だけであっても、国の最高位に君臨するテルスウラス。彼女のサインでもって書類は完成するのだ。

 ここまで表情一つ変えなかったテルスウラスが、初めてその目を見開く。

 派兵すれば、多くの民が命を落とすだろう。

 このサインは、回り回ってテルスウラスが引き金を引くことと同義であった。

 最高官に無理矢理ペンを握らされるが、その手は小さく震えたまま動かない。

 「確かに人は死ぬ。じゃが、ここで手を下さなくてはさらに多くの者が死ぬことになるぞ? ネフェシェが愛したこの国すら消え去るかもしれぬ。さあ……おぬしなら、本当に賢い行いというものを理解しておるだろう……?」

 しばらくの沈黙の後、テルスウラスはその書類にサインをした。

 『軍の派兵』。そして『必要とあらば精霊の力をふるう』ことを約束する書類に――。

 その夜。

 自室の床にひとり座り込んだテルスウラスは、窓から差し込む月明かりに照らされ、青白い顔をより一層白く光らせていた。

 その手には一振りの短刀が握られている。

 焦点の合わない目で部屋の隅をじっと見つめていたかと思うと、おもむろに短刀を逆手に握り直し、その切っ先を勢いよく自身の胸へと振り下ろした。

 ためらいのない、心臓への正確なひと突き。

 間違いなく致命傷となるはずのその行為は、テルスウラスの意思とは裏腹に無に帰されてしまう。

 刃がテルスウラスの身体に触れようとする直前、その短刀は刃先から木屑へと一瞬で変化していき、ついには柄さえも手のひらからバラバラと崩れ落ちていった。

 ――テルスウラスに宿る土の精霊は、彼女の選択を拒否していた。

 「死ぬことさえ……許してくれないの……」

 意思も、肉体も、己の生き死にでさえ、もうテルスウラスのものではない。

 ただ使われ、犯され、愛する者を傷つけた罪すら償えない、ただの人形。

 あの日精霊を継承して以来初めて、テルスウラスは大声で泣き叫んだ。

EPISODE6 証言「この光景を見たら、あの方はなんとおっしゃるでしょう。愛する大地が腐っていく光景に」

 ルスラ国軍による反乱分子の弾圧作戦は、中央院の想定よりも順調には進まなかった。

 元々信仰の厚いルスラの民である彼ら旧神派は、ネフェシェを否定するくらいなら死を選ぶ、という覚悟で軍との衝突を繰り返していく。

 家屋は倒壊し、石畳はめくれ上がり、床に転がる遺体の処理などとうに追いつかない地獄のような光景。

 ネフェシェが作り上げた博愛の国ルスラは、たった1年も経たぬうちに見る影もなくなってしまっていた。

 流れる血が日に日に増していく最中、その血に紛れるようにして再びあの猟奇的な事件が増えていく。

 旧神派、新神派、はたまた国軍の兵士など、もはや手当たり次第といった具合に、ルスラの男達がむごたらしく殺されていく。

 最初の被害者達と同じ、変わり果てた姿になりながら。

 これまで被害に遭ったものは確実に殺されており、目撃者もない。だが、あまりに被害者が増えたことで、幸か不幸か“生き残った者”が現れた。

 穴の開いた脇腹から、はらわたを垂らしながらも必死に逃げ切ったひとりの兵士。

 治療を施しながら行った取り調べによって、その人物像と犯行の手口がおぼろげに浮かんでいく。

 その日、兵士は所属する分隊兵と共にアレサンディアの夜間警邏に当たっていた。

 かつてのルスラの首都としての面影はすでに無く、軍による鎮圧と新神派を含めた一般人はとうに退避していることで、都はひっそりと静まりかえっている。

 冷たい風に身体が冷えたのか、油断したのか。催した兵士は仲間を先に行かせ、路地裏で小用を足した。

 息をつき、追いつこうと駆け足で戻った時には、もう仲間達は肉塊へと成り果てていた。

 苦しみながらも淡々と話す兵士に、取り調べを担当する中央院の役人は身を乗り出しながら問いかける。

 「犯人はどんな姿だったのだ。年齢は? 性別は?」

 「うう……女、だった……それも若い美女だ……」

 「女だと!? あれほどの人数を……信じられん」

 「はっきりとは見えなかったが……間違いない……誰もが、振り返るくらいの……」

 仲間と、“女”に出くわしてしまった兵士。

 彼は見てしまう。ある種の儀式のような犯行は、まだ終わっていなかった。

 「“食ってた”んだ……猛獣みたいに噛みちぎるだけじゃなく……まるで夕食を楽しむように咀嚼して……」

 「なん、だと……」

 「その光景に呆けていたら……いつの間にか腹を……うっ……!」

 「……分かった。もう休め」

 兵士の証言が事実であれば、犯人はもはや常人の思考から外れている。

 女の力とは思えないほど激しく損傷した遺体と、その数。

 そして、人間の肉を食すというあまりにおぞましい行為。

 「化物か……?」

 役人はひとり、思わず呟く。

 怪人や人ならざるものが跋扈する娯楽小説のような出来事が、現実に起こっている。

 そんな存在が以前からこの国に潜んでいたのか、それともこの悲惨な内乱が生んだのか。

 分からないことだらけではあるが、証言のおかげで対策は取れる。

 軍の兵士はもちろん、ルスラの民へ、安易に見知らぬ女に近づかぬよう流布すること。

 その後に、国中の若い女を捕らえ徹底的に調べ上げればいいだけだ。

 旧神派と軍との衝突とはいえ、その武力の差は比べものにならない。日に日にジリ貧と化している旧神派の様子を見れば、内戦が終わるまでそう時間はかからないだろう。

 「内戦が終わり次第本格的な捜査を」役人が高官達へそう進言してまもなくの事。早くも次の犠牲者が現れてしまう。

 アレサンディアの食堂でも路地裏でもなく、他ならぬ中央院の高官とテルスウラスが住まう、ルスラを象徴する大宮殿の中で。

 宮殿への出入りは選ばれた者しか許されていない。

 つまりそれは、少なくとも中央院に関係する人物が犯人であることを意味していた。

EPISODE7 薄ら寒い宮殿の中で「流れる血が命の熱を奪っていくように……冷たい空気が流れている……新しい死を誘いながら……」

 「なんとしても捕らえるのだ! 豊穣神……いや、このワシが狙われるかもしれぬのだぞ!!」

 近衛兵のみならず、旧神派の鎮圧を担当する兵まで集めた最高官は、激高しながら叫ぶ。

 一連の猟奇的殺人は最高官が企てたものではない。

それが内部で起きたとなれば、実権を握る現在の

中央院を転覆させるための反乱である可能性は大いにある。

 喉元まで切っ先を当てられたような気分になった最高官は、明らかに冷静さを欠き、辺り構わず怒鳴り散らし続けていた。

 証言を元に、宮殿内のあらゆる女が強制的に隔離され、厳しい尋問が一日中繰り返された。

 だがそれらしい人物は見つからず、宮殿内は張り詰めた空気が流れたまま夜を迎える。

 「次は拷問されるかもしれない」、隔離された女達は恐怖に震えながら肩を寄せ合う。

 男達も見知った顔や身内である女を疑わなくてはならないことに、精神を疲弊させた。

 そんな異常な雰囲気に包まれる真夜中の宮殿で、最高官は廊下を歩いていた。

 何度も説得する近衛兵を一蹴し、護衛もつけずたったひとりで。

 こんな事態だというのに、その足はテルスウラスの部屋へと向かっている。

 下劣な最高官とはいえ、想定以上に内戦が激化してからこの数ヶ月は執務に忙殺されていた。

 その重圧や恐怖を紛らわそうと、欲情を吐き散らかす算段であった。

 「ヒッヒ……神でさえ我が物にするこのワシが、こんなところで倒れるはずがないのだ……」

 言い聞かすようにそう呟きながら、醜く老いた顔の皺を下卑た笑みで歪めてゆく。

 やがてテルスウラスの部屋の近くまで辿り着いた最高官は、薄暗い夜の廊下で、扉の前に誰かが立っていることに気がついた。

 「……誰じゃ」

 「こんな時間にいかがなさいましたか? 最高官様」

 その声に最高官は胸を撫で下ろす。

 金色の長い髪、白い宮殿の給仕服。見慣れたその姿は、テルスウラスの侍女その人だったからだ。

 もはや自身の身の回りのことさえ出来なくなっているテルスウラスのために、彼女だけは隔離されることを免除されていた。

 「それはワシの台詞じゃ。お前こそ何を――」

 「いつもこの時間に一度目を覚まされるので。新しい水をお持ちに」

 「ふむ……もうよい。下がれ」

 そう言われた侍女であったが、微笑を携えたままその場から動かない。

 絶対である最高官の言葉。それに背く行為に眉をひそめた時。

 「私とは……遊んでくださらないのですか?」

 侍女はそう言ってスカートの裾を掴むと、ゆっくり持ち上げはじめた。

 最高官をまっすぐ見つめ、挑発するように。

 「ワシに抱かれたいと……? 立場をわきまえよ」

 「不敬な真似であることは承知しております。でも……私がそうしたいからするのです」

 「貴様、何を口走っているのか分かっておるのか」

 「ええ、もちろん……それより、最高官様のほうが分かっていらっしゃらないようなので、教えて差し上げます」

 そう言って、侍女は裾を腰まで一気に引き上げる。

 露わになったその脚は、彼女の顔や肩口から覗く白い肌ではない。

 樹木の幹を思わせる、くすんだ色。

 明らかに人間のものでないことは一瞬で理解できる。

 色、質感、関節、その数も。ヒトの形状からは大きく外れた脚が、8本。

 それは――巨大な蜘蛛。

 反射的に嫌悪感を覚えてしまいそうなほど、おぞましく巨大な脚が、カサカサと不規則に動いていた。

 最高官は後ずさりしながら、震える声で糾弾する。

 「き、貴様だったのか……」

 「さあ、なんのことをおっしゃっているのやら」

 言いながら蜘蛛は、脚のうちのひとつを持ち上げる。

 鋭利に尖ったその脚先を自身の服に引っかけたと思うと、よく磨いだナイフで紙を切るように、一気に切り裂いていく。

 途端、最高官の眼前に、現実とは思えないものが現れた。

 うら若き女の柔肌を携えた人間の上半身と、いくつもの脚が生えた蜘蛛の下半身。

 人間の下腹部にあたる箇所には蜘蛛の口がモゾモゾと蠢いているのが確認できる。

 「ば、化物め……!」

 「まあ非道い」

 「何が目的だ……貴様に恨まれるようなことは――」

 「恨み、ですか……恨みというよりも、私は“守りたかった”だけ。でも、それも叶わないようなので。好きにしているだけですわ」

 「……だ、誰か! 誰か助けてくれ!!」

 我に返ったように最高官はそう叫ぶと、ひいひい息を漏らしながら老いた身体で宮殿の廊下を逃げ走る。

 その背中を追う蜘蛛は、鋭く尖った脚を何度も繰り返し伸ばしていく。

 ヒュッと風切り音がするほどの“刺突”とも呼べるその一撃は、石造りの宮殿の壁に容易く穴を開けるほどのもの。

 これまで多くの人間を肉塊へと変えた凶器、それがこの蜘蛛の脚だった。

 最高官の老体などひとたまりもない。だが蜘蛛は、あえて直撃させることはせず、恐怖に逃げ惑う姿を楽しんでいる。

 「あははははははははは!!!」

 まるで子供が追いかけっこをしているかのように、蜘蛛は狂った笑い声をあげる。

 その耳をつんざく声と、カチャカチャと床を鳴らして迫る足音に恐怖する最高官は、気付けば失禁したまま走っていた。

 だがすぐに、老体に限界が訪れる。

 大広間までやってきた最高官は床へ倒れ込むと、側までやってきた蜘蛛はそれを見下ろして言う。

 「もうおしまいですか」

 「や、やめろ……殺さないでくれ……」

 「ごめんなさい、それはできないんです。あなたは誰よりもむごたらしく殺せと、“この身体”が言っているものですから」

 そう言って、蜘蛛は最高官の腕へと脚を振り下ろした。

 かわす間もなく脚は腕を貫き、老人の身体は床へと磔になる。

 「ぎゃああああああ!!!」

 「叫び声も醜いのですね。まずはその口を塞ぎましょうか」

 喉を潰すための次の一撃。それが振り下ろされようとした瞬間、蜘蛛の動きが止まる。

 真夜中の宮殿。豊穣神であるテルスウラスの部屋がある階層は、他の者とは離れた場所にある。

先ほどまでの助けを求める最高官の声も、誰かに届いていたかどうか。事実、兵達が駆けてくる音もない。

 蜘蛛と老人、それ以外は存在しないはずの空間。

 だがそこに、姿を現した人物がいた。

 「な……どういう、ことなんじゃ……」

 その人物は混乱している最高官を一瞥すると、今度は傍らに背を向けて立っている奇怪な姿をした“誰か”を見据えた。

 十中八九危険な存在であることは予想できるが、それでも脚を震わせながらも問い詰める。

 「あ、あなたは誰ですか……! ここで何をしているのです!」

 応えるように、背中を向けていた蜘蛛はゆっくりと振り返り始めた。

 蜘蛛の脚を器用に動かしながら、ゆっくりと。

 やがて正面へ向き直ると、両者はまっすぐに対峙する。

 人間の上半身と蜘蛛の下半身。

 その異形の姿への恐怖ではなく、こぼれたのは矛盾への疑問。

 「――――“私”?」

 金色の長い髪に白い給仕服を身に纏った――テルスウラスの侍女。

 蜘蛛と同じ顔をした“ヒトの姿”の彼女が、そう呟いた。

EPISODE8 呪われた子供達「ありがとう……それから……本当にごめんなさい……」

 「え……どうして……私の、顔……」

 自身と同じ顔をした存在が目の前にある。だが、決して鏡などを覗いているわけではない。

 瓜二つなのは上半身のみで、下半身はおぞましい虫のそれだからだ。

 悪夢のような光景に、侍女の呼吸は次第に荒くなる。

身体の震えも止まらない。しかしそれでも尋ねずにはいられなかった。

 「あなたは、何?」

 「アナタハ、何?」

 「なぜ私の顔をしているの」

 「ナゼ私ノ顔ヲシテイルノ」

 同じ声、同じ口調、同じリズム。寸分違わず再現されるオウム返しに、侍女はさらなる畏怖を覚え顔がこわばる。

 逆に蜘蛛のほうは微笑を崩さずに小さく笑い声を漏らしていた。

 侍女は考える。

 最高官の腕にいまだ突き刺さっている蜘蛛の脚を見れば、こちらに敵対する者だということは明らかだ。

 中央院の転覆を目的とする暗殺者か。はたまた魔女に呪いでもかけられた化物か。

 蜘蛛の正体は分からないが、最高官を殺めた後は確実に自分も殺されるだろう。

 だとすれば、何かがおかしい。

 こうしている間にさっさと手をかけてしまえばいいものを、まるで何かを待っているように蜘蛛はじっとこちらを見つめている。

 「何をしておるのじゃ! こ、こいつを殺せ!!連続殺人の犯人は、この化物なのだぞ!!」

 痺れを切らした最高官が、床でもがきながら叫ぶ。

 そう言われたからとて、侍女が行動に出ることはない。

 彼女は剣も握ったことのないただの人間。その細腕に出来ることなど何もないからだ。

 とはいえ、黙って殺されるわけにもいかない。

 侍女にとって最高官の生死はどうでもいい。

重要なのは、自分達を殺した後、テルスウラスへ危害を加えることだけは阻止したい。

 少しでも時間を稼ぐため、やぶれかぶれではあるが侍女が次にとった行動は“対話”だった。

 「あなたが起こした事件は私も知っています。目的は何?」

 「目的……なんと言えばいいのでしょうか――」

 持ちかけた対話に、蜘蛛が乗った。

 確実な前進に、侍女は悟られぬよう息を飲む。

 「――やはり、“守りたかった”。そう表現するしかないですわ」

 「守る? 誰を?」

 「……テルスウラス。あなた達が担ぎ上げた、哀れな人形」

 思わぬ人物の名に、侍女と最高官は驚く。

 心を病み、口を閉ざてしまったあのテルスウラスが、異形の怪物と繋がっていたのだろうか。

 そんなはずがないと叫び出しそうになるのを抑えながら、侍女は蜘蛛の言葉を待つ。

 「ルスラの民、国軍、中央院の高官……あの子を苦しめる者を消してしまえば、救えると思っていました。でも、そうじゃなかった……」

 「それは……テルスウラス様の望みだったのですか」

 「そうだとも言えますし、違うとも言えますわ。あの子が望んで、あの子が拒絶したのだから……」

 「…………」

 要領を得ない蜘蛛の話に、侍女は黙り込んでしまう。

 大広間に流れる沈黙を破ったのは、蜘蛛の方だった。

 「……終わりが近いようです。もう“私”が目覚める時間」

 「……何を言っているの? 言っている意味がさっきから――」

 「すぐに分かります。だから……こっちに来て私の手を取って……」

 気付けば、先ほどまでの禍々しい殺意は消え失せていた。

 蜘蛛は最高官を貫いていた脚を抜き、侍女に向かってゆっくり踏み出し始める。そして眼前までやってくると、まっすぐに手のひらを差し出した。

 異形の者であることを忘れてしまいそうなほど、その表情は慈愛に満ちている。

 侍女は警戒しながらも自身の手をおずおずと差し出すと、蜘蛛の手へと乗せた。

 蜘蛛はそれを両手で優しく握り返しながら、口を開いた。

 「あなたは、あの子を大切に思ってくれているのですね?」

 「……ええ。テルスウラス様は、私の光」

 「ならば、ひとつだけ約束して欲しいのです。あの子の望みを、必ず成就すると」

 「……テルスウラス様が望むのなら」

 「よかった――」

 そう言った途端、蜘蛛の肉体が変容し始める。

 侍女と同じ顔と肌をした上半身が泥のような土色に変色し、瞬間的に硬化していく。

 土になり、岩になり、樹皮のようになり。

目まぐるしくその性質を変え続け、最後に砂となった。

 その砂が、重力に従ってサラサラと流れ落ちる。

 まるで虫が脱皮するように、新たな肉体がそこにあった。

 侍女ではない、ひとりの少女の姿に。

 「テルスウラス様ッ!!!!」

 蜘蛛の正体は、テルスウラスであった。

 侍女の頭に、自身の時のように肉体を模している可能性がよぎったが、すぐに霧散する。

 何度も梳かした髪、洗い上げた肌。自分のよく知るテルスウラスそのもの。

 だがそれだけでなく直感で分かった。彼女が紛れもなく愛する主であると。

 「どうして……なぜこのようなお姿に……ああ、何からお聞きすればよいのか……!」

 「驚かせてごめんなさい……でも、もう時間がないの」

 「時間……何をおっしゃっているのか……」

 「心の奥にある醜い願望……それを土の精霊が叶えてくれた……だけど、その度に私の心はバラバラになっていったわ……割れた器は、もう戻らない……」

 蜘蛛――土の精霊は、器であるテルスウラスを守るため、それを蝕む者達の排除を行っていた。

 だが心とは、天秤のように単純なものではない。

 殺戮を繰り返せば繰り返すほど、自身と、そしてネフェシェが愛したルスラの民を殺めたことに、心はさらに壊れていく。

 自分の意思であり、自分の意思ではない。

 循環し続ける地獄の輪廻の中で、テルスウラスの精神は限界に達しつつあった。

 とうに彼女は、“この世界”に執着していない。

 「テルスウラス様……」

 それ以上言葉が見つからずにいる侍女を置いて、テルスウラスは大広間の最奥へと歩き出した。

 ルスラの伝統芸術で一面を飾られた壁。十字にかけられていた2振りの細剣の中からひとつを取り戻ってくると、それを侍女へと差し出して言う。

 「約束してくれたわよね。これで……私を殺して」

 「え……」

 「お願い……自分で自分を殺すことさえできない……“私がどこにもいない”この世界から救って……」

 「そんな……」

 差し出されるまま、侍女は剣を握る。だが、愛するテルスウラスを殺すなどできるはずがない。

 立ち尽くす侍女の背後で、腰を抜かして床にへたり込んでいた最高官が叫んだ。

 「や、やめろ!! そんなことをしたら、精霊の力はどうなるのじゃ!! ワシの力……ワシのルスラが!!そ、そうだ! ネフェシェはどうする! ワシの一存で捜索兵を出せるのだぞ!!」

 だが、彼女は意に介さない。

 初めから追っ手は出されていた。最高官はそれを伏せ、騙し続けていたのだ。

 テルスウラスはその事実を知っていた。知りながらも人形に甘んじていたのは、逆説的にネフェシェの無事を知れるから。

 ネフェシェを捕らえたという情報がないまま半年以上過ぎている。つまり、ルスラの兵からは逃げおおせたのだろう。

 最高官が喚く中、侍女は何かに気がついた。

 殺したくない。死なせたくない。生きていてほしい。

生きるなら、いくらでも方法はあるではないか。

 そう思った途端、堰を切ったように感情が溢れ、目に涙を溜めながら侍女はテルスウラスへと懇願した。

 「そう、生きればよいのです!! 生きてください、テルスウラス様!! あなた様が心を痛め、死ぬ必要なんてありません!! 国も、神としての責務も捨て、どこか遠い地へ移りましょう!!」

 「…………」

 「それとも、あなた様を苦しめる者を私が殺してさしあげましょうか!! あそこで喚く醜い老人も、今すぐこの手で!!」

 情けない悲鳴を漏らしながら後ずさる最高官を一瞥したテルスウラスは、ゆっくり首を横に振りながら、優しく語りかけるように侍女に言う。

 「あの人は……殺さないであげて」

 「なぜです!? あの下衆がテルスウラス様にしてきた仕打ちを考えれば、殺しても殺したりないくらいなのに!!」

 「でも……“必要”なのです……」

 「どうして……」

 「そして、国を捨てることも……私にはできない……私にとっての希望は、もうこの世界にないから……」

 「嫌……」

 「お願い……約束、叶えて……」

 「嫌ぁぁぁぁーーー!!!!」

 侍女はもう分かってしまった。

 彼女だからこそ、分かってしまった。

 テルスウラスにとって幸福は、死をもってしか成就できないのだと。

 「…………」

 侍女は黙ったまま、手の中で持て余していた剣の柄を握り直すと、その切っ先をテルスウラスの胸へと向けた。

 流れる涙を拭うこともせず、荒い呼吸を繰り返し吐きながら、泣き喚く子供のようなくしゃくしゃの顔でテルスウラスを見つめ続ける。

 それを見たテルスウラスはほっと息を吐くと、全てを受け入れるように目を細めた。

 二人を止めるべく、床を這いずりながら最高官が叫ぶ。

 「やめるんじゃーーー!!」

 「お願い!!」

 「やめろぉぉ!!!」

 「早く!!」

 最高官とテルスウラスの声が交互に響き渡る。

 それを聞きながら、侍女は一瞬苦悶の表情を浮かべると、迷いを振り払うように声を上げた。

 「あああああぁぁぁぁーーーーー!!!!」

 その時、テルスウラスが微かに笑ったかと思うと、侍女の叫びでかき消えてしまうほど小さな声で呟いた。

 「ふふ……あなたなら、よかった――」

 胸へと突き刺さった刃から、血が伝い流れる。

 テルスウラスへ手を伸ばした侍女だったが、その手は頬へ触れることなく空を切った。

 テルスウラスの顔も、蜘蛛の身体も霧散していく。

 ただひとつ、まばゆいほどの光を放つ“何か”が、宙を漂っていることを覗いては。

 光は、まるで“そこへ向かうのが当たり前”かのように、侍女の元へ吸い寄せられたかと思うと、彼女の腹の中へと同化していった。

 その光とは――精霊の力。

 あの日、ネフェシェとテルスウラスに起こったように土の精霊は新たな器として侍女を選んだのだった。

 「お、お前が継承したというのか! 精霊の力を!」

 テルスウラスの生死など眼中になく、精霊の力の行く末だけを案ずる最高官が、そう叫ぶ。

 何が起こったのかまだ理解ができず、戸惑う侍女であったが、その足下にある石造りの床から生い茂る草花が、紛れもない事実を何よりも証明していた。

 「どうやらそのようじゃな……ほっほ……お前であれば何も問題はない……容れ物が変わろうとワシの手の中にあることには違いないからの……」

 テルスウラスは分かっていた。侍女が精霊の器になり得る存在であると。

 彼女は分かっていながら、己を苦しめ続けた力から、そしてこの現世から解放されるため、差し出したのだ。

 だが、テルスウラスが残したものはこれだけではなかった。

 「……うっ!?」

 身体の違和感に気がついた侍女が、床にうずくまる。

彼女に医学の心得はない。だが直感で、“身体が作り替えられている”と確信した。

 腹の中に微かに感じる、己のものではない鼓動。

生娘である侍女に覚えはない。だが確かにそれは、赤子が発する命の鼓動そのものだった。

 異変に気がついた最高官が駆け寄ると、その様子からひとつの答えを導き出した。

 「まさか……! 力と共に宿した子も受け継いだということか!? あやつめ!孕んでおったのか!!」

 「う、うう……」

 「ひゃひゃひゃひゃ!! ワシの子じゃ!!我が一族は精霊に選ばれた! ルスラを統べる高貴な血統がここにある! なんという僥倖か!!」

 狂乱状態にある老人の憶測からくる妄言であったが、奇しくもそれは事実であった。

 老人の欲望により、テルスウラスに芽生えてしまった新しい命。

 だからテルスウラスは、心の奥で最も憎みながらも、最高官を最後の最後まで殺すことができなかった。

 最高官を殺してしまえば、その座を狙う別の高官によって、無防備な子供の命が脅かされるかもしれないという懸念。

 それは決して、母としての愛などではない。

 “死”という救いの世界へ旅立つのに、重荷はいらない。かといって、子が不幸になる原因にはなりたくない。

 己が救われるためならば、全ての責務を放棄するという、身勝手で、無責任で、自己愛に満ちた、テルスウラスの本質が溢れだしたような醜い思索によるものだ。

 当然侍女も、テルスウラスにとって特別な存在ではない。

 ただ精霊の容れ物として、そして子の容れ物として、向けられた愛を利用するのに都合が良かっただけ。

 それだけのことだった。

 こうしてテルスウラスは最後の望みを叶え、その物語に幕を閉じる。

 彼女の思惑にも気付かず、侍女はテルスウラスを愛し続け、愛する人が残したものを守るために、言われるがまま最高官の傀儡となっていく。

 何かが変わるわけではない。

 ただ、精霊を取り巻く少女達の悲しみの連鎖が繋がっていくだけ。

 それはルスラに、この世界にとって、序章にすぎない出来事であったが、それを知る者は未だどこにもいなかった――。

 ――そして、しばらくの時が過ぎる。

 中央院の本格的な武力介入により、新神派と旧神派の内戦が半ば強制的に沈静化された頃。

 奇跡の力によって処女受胎を果たした“侍女だった少女”は、“ふたり”の子を産んだ。

 テルスウラスの面影を感じさせる双子の女児が自力で乳を飲むことが出来るようになった頃、最高官の指示により、ふたりはそれぞれ貴族の家へと養子に出されることとなった。

 ひとりはプテレアー家、もうひとりはクレスターニ家へと。

 貴族として、そして最高官にとって“都合の良い”教育を施し、次に精霊を継承する容れ物として育て上げようという算段である。

 だが、縁組にはまた別の目論見があった。

 今は赤子であるふたりが、やがて成長し残すであろう子供。その子供、さらにその子供。

 親交の深い両家の螺旋に組み込むことにより、老い先短い自分に代わって、己の血統を未来永劫ルスラの地に残そうとしていた。

 そこに神への信仰や、精霊の力を守るといった意図は欠片もない。

 ただただ純粋に、歪んだ顕示欲から生まれた醜い打算であった。

 最高官の支配の元、皮肉にもルスラは安寧の時代へと突入する。

 ネフェシェを名ばかりの神として据え置き、これまで以上に強固に確立された制度と信仰で民を管理する宗教国家として。

 その大地が狂った欲望で耕されていることも知らずに、ルスラの民は神と、神の力を行使する聖女を今日も崇める。

 やがて彼らは、精霊の力を継承する聖女を巫女<シビュラ>と呼び、その名は世界へと伝わっていくのだった――。

EPISODE1 砂漠の海で「めーべは、めーべ、だよ」

名前:風の精霊

年齢:不明

職業:風の精霊

 誰もが幸福で、誰もが平等でいられる世界。

 それを実現させられたのは、唯一無二にして生ける神

――ネフェシェの存在があればこそ。

 神の御業によって、世界には常に正しさが満ち溢れ、

誰もが皆他者を想い合い、手を差し伸べられる。

 あまねく世界に、ネフェシェの慈愛があるかぎり。

 だが、神をもってしても見渡す事のできぬものが

あった。

 それは――欲望。

 人々の内面に潜み、獲物を虎視眈々と狙い続ける、

獣のごとき心だ。

 それがいかに危険をはらむものか気付けなかった

ネフェシェは、洪水のように押し寄せた欲望の餌食に

なってしまう。

 人間たちが欲したのは、彼女の内に宿る精霊の力。

 どこまでも執拗に追いかける人間たちの魔の手は、

全ての力が零れ落ちるまで彼女を追い続けた。

 そして――4つの精霊の力は、4者へと継承される。

 火の力は、アヴェニアスへ。

 水の力は、サラキアへ。

 土の力は、テルスウラスへ。

 風の力は、メーヴェへと。

 ネフェシェの失踪と精霊の力の継承以降、世界の

均衡は脆くも崩れさった。人々は力を巡って争いあい、

多くの悲劇を絶え間なく生み出し続けていった。

 人の欲望に限りはない。

 貪り喰らい、皿が空になれば“餌”を求めるのだ。

 ――次は? 次は? 次は?

 それこそが、人間の本質。

 ――次だ! 次だ! 次だ!

 獣。人もまた獣なのだ。

 ――雨もろくに降らない砂漠地帯。

 ここにもまた、欲望のままに生きる人間たちの姿が

あった。

 「へへ、まさか砂漠ん中で、こんな上玉を拾える

なんてよぉ!」

 みすぼらしい格好の二人の男が、目の前でぼんやりと

突っ立っている少女へと舐め回すような視線を向ける。

 対する少女は、頭からボロ布をかぶり、体格に

見合わない翡翠色の短剣を手に持っている。

 風に吹かれるたびに、ボロ布の下に隠れた裸体が

チラチラとのぞく。

 とてもではないが、旅人のような格好ではない。

 「……?」

 歳は10を過ぎたあたりだろうか。少女は小首を

傾げたままこれといって反応を示さなかった。年頃の

女性なら、鼻息を荒くする大人の男に囲まれれば、

何かしら拒否反応を示すだろう。

 「こいつ妙に大人しいな。目は見えてるみたいだが」

 そう言って、もう一人の男が少女の顔をよく見ようと

布を乱暴に取り払った。

 「なんだこりゃ……角が生えてるぞ!?」

 それは、羊のような角だった。髪をかき分けてみると、

耳の斜め上辺りに付け根がある。

 「たまげたぜ……。おいお前、名前はあるのか?」

 「な……ま、え……?」

 「おお、そうだよ名前だよ名前!」

 少女は眠たそうな目で空を見つめたまま、少しの間

思案する。ようやく思い出したのか、のんびりとした

口調で言った。

 「めえべ」

 「メーヴェ? どっかで聞いた気もするが……まあ、

んな事はどうだっていい。へへ、俺たちはついてるぜ!

こいつは間違いなく“売れ”る。金になるねぇ!」

 品定めでもするように、男の瞳が弧を描く。

 下衆な視線を向けられても、メーヴェは純粋な

眼差しを向けるだけで、嫌がる素振りを見せない。

 「さあ、お嬢ちゃん。俺たちが良い所へ連れてって

やろう」

 「いい、ところ?」

 「ヒヒ、ああ、とーっても“気持ち良い”ところだ」

 「ん……わかった」

 彼らは知る由もなかった。

 褐色の肌に獣の角を有す少女――メーヴェ。

 彼女が、風の精霊の力を宿している事を。

EPISODE2 ならず者たちの理想郷「たべるため、いきるため、めーべはたらく」

 どこまでも遠く、果てのない青い空の中を、白い鳥の

群れが南を目指して飛んでいく。

 その下では、空と対をなすように広がりを見せる

黄色い砂漠があった。緩やかな傾斜が絶え間なく続き、

時に風に乗って方々へと散っていく。

 自由気ままに、あるがまままに――。

 無垢なる少女メーヴェが、男たちに連れてこられた

場所は、砂漠の中に築かれた街だった。

 街とはいっても、ルスラやティオキアのように

煌びやかでもなければ整然としてもいない。

 どこもあばら屋だらけで、とてもではないが人が

暮らしているようには見えなかった。だが、物陰からは

獲物を狙う肉食獣のような鋭い眼光がチラチラと見え

隠れしている。

 ここは、居場所を求めて彷徨い歩いたならず者たちが

自然と集まって築かれた共同体。共同体と言っても、

明確なリーダーもいなければ遵守すべき規律もない。

 無法が日常の街なのだ。

 そうして曲がりくねった路地を歩くうちに、不意に

まともな造りをした、3階建ての大きな館が現れた。

 「さあついたぞ、メーヴェ」

 「今日からここがお前の家だ」

 「……めーべの、いえ?」

 「ああ。この中にいるかぎり、お前は安全に暮らす

事ができる」

 「ん」

 「たぁだし! タダでここに寝泊まりする事は

できねえんだ。お前が食ってくためには、働かないと

いけねえ」

 「……? はたら?」

 小首を傾げたまま、メーヴェは男たちの言葉を待って

いる。ここまで言われても、やはりメーヴェは警戒する

素振りを見せない。

 男たちは目配せすると、血色の悪い唇をニイっと

歪ませて笑いあった。

 「じゃあ、早速“実践”といこうか」

 「ヒヒ、しっかり“教育”してやらねえとなぁ!」

 屋敷の主である男たちは、この辺りを縄張りとする

奴隷商人だ。

 奴隷には、使い道がふたつある。

 労働用か愛玩用だ。

 己の身体を捧げて貢献する事は同じだが、意味合いは

大きく異なる。

 労働は、いつ死ぬかも分からない過酷な環境で少ない

資源を探る事。

 愛玩は、金を払った相手に身体を使って奉仕する事。

 純真無垢で身目麗しいメーヴェは、当然後者だった。

 ――

 ――――

 すえた臭いが充満する薄暗い部屋。

 室内を占有するベッドの上には、人としての尊厳を

奪われ、あられもない姿を晒して横たわるメーヴェの

姿があった。

 自分の身に何が起きたのかも分かっていないのか、

ただぼんやりと染みがこびりついた天井を眺めている。

 そんな彼女を見下ろしながら、男たちは情けない

格好のままで淡々と告げた。

 「メーヴェ、お前の仕事は明日からだ。今日仕込んで

やった事をちゃんとこなすんだぞ?」

 「……ん……、わかった」

 「俺としては、もう少し感情が表に出てくるように

なってほしいところだが」

 「なぁに、その逆が好きな奴もいる。これぐらいが

むしろ丁度イイんだよ」

 男たちが身勝手極まりない会話を繰り広げていると、

部屋の外から物音がした事に気付く。

 それで男は何かを思い出したのか、外に向かって

大声で叫んだ。

 「お前ら、入ってこい!」

 そう言われてぞろぞろと入って来たのは、衣服を

まとう事を禁じられた、年端もいかない少年少女たち。

 否、正確にはひとつだけ身につけているものがある。

 ――シャラ、シャン。

 歩くたびに小さく揺れる鈴。

 鈴をくくりつけられた粗雑な首輪だけが、子供たちの

唯一の所有物なのだ。

 その扱いは、家畜そのものだった。

 「今日からお前らの仲間になるメーヴェだ!」

 「いつも通り、あとの事はお前らがやっとけ」

 そういうと、部屋を出て行こうとする男たち。

 すると、男の一人が「そうだった」と、ベッドに

放ったままの翡翠色の短剣に手を伸ばす。

 その時、身動きひとつしなかったメーヴェが、突然

感情的な反応を示した。

 「……やっ。それ、めーべのっ」

 “教育”を受けていた時にも見せなかった、初めての

執着。だが、男はそんな事を意にも介さず、腕にしがみ

つこうとするメーヴェを突き飛ばした。

 「……かえ、して……」

 「返して欲しかったら、その身体を使ってしっかり

働くんだなァ。働かない奴に、権利なぞないんだよ!」

 男たちが部屋を出ていったあと、残された子供たちは

メーヴェを気遣うようにベッドに集まった。

 「大丈夫? 怖かったよね……」

 「……? こわく、ない」

 「えっ?」

 「でも、痛かったでしょ?」

 「いたい、って、なに……?」

 子供たちが同じ目に遭った時は、泣き叫んで

泣き叫んで、それでも内からこみ上げてくる感情を

処理できなかった。今でも悪夢にうなされるほどに。

 だから、メーヴェの予想外の返答にどう声をかけて

あげればいいのか分からずにいた。

 「めーべの、かえして……」

 疲労がたまっていたのか、メーヴェはうわごとの

ように同じ事を何度もつぶやいているうちに、深い

眠りの中に落ちていくのだった。

 「どうしよう、寝ちゃったよ」

 「とにかく、身体だけでも拭いてあげよう」

 「うん」

 子供たちは頷き合い、丁寧に身体に付着した汚れを

拭き取っていく。

 「その角、本物?」「きれいな瞳」

 各々が様々な反応を見せる中――ひとりの少年が、

遠巻きにメーヴェを見つめていた。

EPISODE3 見せしめ「しあわせ。みんなでいることは、めーべのしあわせ」

 起きて、食べて、働いて。

 働いて、食べて、寝る。

 メーヴェが館に連れて来られてから、多くの月日が

経過した。

 他人からは何を考えているか読めないメーヴェ。

 だが、意外な事に誰よりも物覚えの良さに秀でて

いた。

 人間は、今までの人生で培ってきた考えや経験を基に

何かと比べたり判断したりするもの。

 無理やり館に連れて来られでもしたら、大抵は

生命の危機を感じて抵抗するし相手を嫌悪するだろう。

 そんな基準を一切持たないメーヴェは、この生活が

普通の生き方なんだと捉えていたのだ。

 大人たちの欲望を、その小さな身体で受け止め続ける

メーヴェが“お気に入り”になるのは、必然だった。

 これには奴隷商人たちが「化物の子」として、周辺の

共同体や都市に噂を流して回った結果でもある。

 ひたむきに生きる彼女の姿は、いつしか仲間からの

信頼も得るようになり、日常的な会話をなんなく

こなせるようになっていった。

 「……うん。メーヴェはおぼえた」

 「ふふ、えらいえらい。じゃあ今度は――」

 言葉への理解は、世界の見え方を変えると言っても

過言ではない。

 曖昧だったものが明確になっていく事で、彼女は

すこしずつ人間の感情に理解を示していく。

 中には、未だに彼女の角を不気味がる者もいたが、

それ以上にみんなの心をつかんで離さない魅力が、

彼女にはあったのだ。

 「……ふふ」

 「あっ、いま笑った!」

 「ん? ……メーヴェ、わらってた?」

 「うん、幸せそうだったよ」

 「……しあわせ? わらうと、しあわせなの?」

 彼女たちの暮らしは、決して良いとは言えない。

 だが、束の間であったとしても心安らげる場所が

あるのは、それだけで生きる希望になるのだ。

 だから、メーヴェは初めて願い事をした。

 これからも“しあわせ”でいられるようにと。

 だが、そんな小さな世界の終わりは、唐突にやって

きた。

 朝、いつもなら皆で集まるはずの広間に、誰ひとり

顔を見せなかったのだ。

 「どうして、みんなこないの?」

 「――教えてやろうか、メーヴェ」

 メーヴェの問いかけに応えたのは、気性の荒い

奴隷商人。男は、顎を横に振ってついて来るように

命じると、そのままづかづかと館の入り口へと進む。

 そして、勢いよく開かれた扉の先で彼女を待って

いたのは――杭に裸のままはりつけにされた仲間たちの

姿だった。

 「……ぅ、……ぁ?」

 メーヴェと仲が良かった子供たちは、もはや

人としての形をなしていなかった。

 皆等しく拷問にでもあったかのような痛々しい

傷痕が浮かび、激しく凌辱された痕が残っている。

 誰が見ても、もう彼らが生きていない事だけは

分かった。

 風に乗って醜悪な臭いが鼻を突く。

 「……っ、ん……ぁ」

 自身を苛む初めての感情に、メーヴェはどうすれば

いいかも分からず、立ち尽くすだけ。

 「こいつらは、俺の店の秩序を乱した悪! お前を

そそのかし、仕事の質を低下させた悪だッ!」

 男は更にまくし立てた。

 悪は正しく裁かれねばならないと。

 「なんで、こんなこと、するの……? みんなは、

ここで、いきるために……」

 「ハッ、すっかり染められちまったようだなァ」

 圧制者は、己の意にそぐわぬ者を忌み嫌う。それが

例え、年端もいかぬ子供たちの中で広まる“思想”で

あったとしても。

 今はまだ小さな波紋に過ぎなくとも、放置すれば

いずれ寝首をかかれる事になりかねないのだ。

 「お前は、この俺がしっかり再教育してやる」

 男の頬に、深いしわが刻まれる。

 もはや“教育”という言葉に隠された意味を

理解できるようになったメーヴェは激しく抵抗した。

 「やっ! ぜったい、行かない!」

 「ハァ……俺は悲しいぜ、メーヴェ。ここへ来た時は

あんないい子だったのによぉ」

 すると、男は呪文でも唱えるように何かつぶやいた。

 ロノ、ミリ、イエナ……。

 まだ殺されてはいない、メーヴェと交流がある

子供たちの名前だった。

 「……っ! だめ、やめて……」

 「すべてはお前次第だ。元のお前に戻らなければ、

あの死体をあいつらに喰わせた後で同じ目にあわせて

やる。どうするんだァ、メーヴェぇぇぇ?」

 「っ……」

 メーヴェが男の脚にしがみつき、懇願するように

必死に身体をこすりつけた。まるで、自分はただの

卑しい家畜だと訴えかけるかのように。

 「そうだ、いい心掛けだ! だが、満足させるには

全然たりねえ。お前に家畜としての生き方をもう一度

すりこんでやる!」

 メーヴェは、男に角を掴まれたまま、男の部屋へと

引きずられていくのだった。

 「メーヴェ……」

 その様子を物陰からこっそり覗く者がいた。

 浅黒い肌と陽に焼けた黒髪を有す少年――ルシェ。

 メーヴェをずっと遠巻きに見ていた少年だった。

 彼は胸に手を当てながら小さく呼吸を繰り返すと、

やがて何かを決意するように頷き、彼女の後を追うの

だった。

EPISODE4 温かな風「これは、いつもメーヴェといっしょだった。メーヴェのいちばんのたからもの」

 奴隷商人の男――ダルバは、メーヴェを自室にまで

連れこむと、大の大人が四人は寝転がれるような

ベッドの上に突き飛ばした。

 息を荒げたまま食い気味に問いかける。

 「おいメーヴェ、どうするか覚えてるよなァ?」

 「……」

 以前のメーヴェなら、すぐにでもダルバに仕込まれた

男を悦ばせるための技を披露していただろう。しかし、

芽生えてしまった感情がそれを躊躇させる。

 「やだ……やだ……!」

 「てめぇ、何しおらしい事言ってんだよッ!」

 振り下ろされた手が、容赦なくメーヴェの頬を

叩いた。ベッドの軋む音に紛れて、くぐもった鈴の音が

シャラと響く。

 ダルバはろくでもない男である。

 苛立つとすぐに周りに八つ当たりするだけでなく、

己の不満と欲望を解消するためだけに商売道具である

子供に手を出す悪癖を持っているのだ。

 ダルバの全体重を受け止めたベッドが、大きく軋む。

 自身より遥かに大きな身体を持つ男から逃れようと、

メーヴェは後方に這いずっていくのだが……すぐに壁に

追い詰められてしまった。

 「やめて……」

 「悲しいねえ、これでも俺は感謝してるんだぜ?

お前はどれだけ苦しくても嫌がらねえし頑丈だ。怪我も

あっという間に治っちまう。だから俺は、商売道具を

壊さずに済んでたんだ。でもまぁ、ちょうど良かったの

かもしれねぇな」

 「……え?」

 「ぶっ壊したくて、たまらなくなるだろォ!?」

 「……っ、そんな……」

 ギシ、ギシとベッドを軋ませながらダルバが迫る。

 眼が血走り、だらしなく涎を垂らした醜い顔。

 その姿はまさしく、餌を寄こせと貪欲に吼える獣だ。

 ダルバが「どこにも逃げ場はねえ」とメーヴェの

目の前で囁いたその時、締め切った扉が開かれた。

 「おっ、もう始めてたのか」

 ダルバの仲間の奴隷商人だった。

 彼の前には、青白い顔をしたまま目を伏せる少年、

ルシェが立っていて――

 「おいおい、お前も混ざりたいってか?」

 「ち、違う、僕はただ……!」

 「黙れ変態野郎。こいつはな、ずっと部屋の様子を

伺ってたのさ。メーヴェがダルバに教育される所を

見たくて仕方なかったんだろ?」

 「なんだよルシェぇぇ、やっぱり加わりたいんじゃ

ねえか。それともアレか? お前は見る方が好きか?」

 「か、勝手な事を言うな……っ! 僕を欲まみれの

お前たちと、い、一緒にするんじゃない!」

 「嘘だな。俺は知ってるぜ、お前がいつもコソコソと

メーヴェを見てたのは。どうせ、メーヴェが男を相手に

してる時も見てたんだろ?」

 「ルシェ……ほんとう、なの?」

 メーヴェの問いかけるような眼差しを、ルシェは

直視できなかった。羞恥心と罪の意識を感じた途端、

つい顔を背けてしまう。

 「グハハッ! やっぱりお前は変態野郎だ!」

 「ちがう……僕は、ちがう……」

 自分の事は棚に上げて、ゲラゲラと笑うダルバ。

ルシェは挑発にまんまとのせられているとも知らず、

潔白を訴え続ける。

 「ちがう、ちがう、ちがう……! 僕は……っ!」

 そう叫んだルシェは、皆の気が緩んでいる隙を突き、

棚に置かれた翡翠色の短剣を手に取った。

 「め、メーヴェに触れるなッ!!」

 「いいぜ、やってみろよ。そんな玩具で本当に

殺せると思ってるならな」

 「え……っ?」

 ルシェの意識が短剣に向いたその瞬間、ダルバは

ベッドからルシェの目の前へと飛び跳ねた。続く動きで

ルシェの手首に手刀を叩きこみ――辺りに金属の音が

鳴り響く。

 「ぅ――ウワアぁぁぁっ!!」

 「遅ぇッ!」

 がむしゃらに掴みかかろうとしたルシェの脇腹に、

ダルバの膝が深くめりこんだ。

 「ルシェっ!」

 「……ぎ、ぁ……ぇ、っ……」

 「弱い奴は奪われる! それがこの街の掟よ!

常に奪う側の俺が、お前なんぞに負けるわけが

ねえんだよッ!」

 ダルバは床に転がった短剣を拾うと、それをベッドの

上に寄りかかるルシェの左手へと突き立てた。

 「いっ、あぁあああああああああああ!!!」

 「おう、それとなぁ、こいつはもちろん本物だ」

 もがき苦しむたびに、腕の先がじんじんと痺れる。

 頭が真っ白になるほどの痛みは、ルシェの反抗心を

一瞬で摘み取ってしまう。

 ダルバは短剣を上下させて更なる痛みを加えた後、

それを一気に引き抜いた。

 「――――――ッ!!」

 「おっとやり過ぎちまった、もう自分を慰めることも

できそうにないなぁ。ゾラ、そいつを押さえつけとけ」

 「へいへい」

 「ルシェぇぇ、お前には一番近くで見せてやる。

この化物が、泣き叫ぶ所をなァ!」

 ダルバは動けないでいるメーヴェの角に手をかける。

すると、ふと何かを思いついたのか、メーヴェに笑い

かけた。

 「なあ、そういやずっと気になってたんだがな、

この角は斬り落としてもまた生えてくるのか?

ちょっと試させてくれよ」

 「や、やだ! いやっ!」

 「やめろ……めぇ……ヴェ……」

 (たす、けて――)

 短剣を胸元へと引き寄せ、角の根本に刃を突き立てた

刹那、部屋に一陣の風が吹いた。

 「なん、だ。今のは……」

 それは、とてもあたたかくて優しい風。

 ダルバは風を浴びながらほんの一瞬、メーヴェの

背後に蠢く何かを見た。

 羽を広げた姿は獣のように雄々しく、それでいて

慈愛に満ちている何か。

 まるで、居もしない母親に抱きとめられて、眠りに

つくかのような――。

 湧き上がる幸福感に包まれながら、それきりダルバは

物言わなくなった。

 彼は、自分が“死んだ”事も分からないまま細切れの

肉片と化していたのだから。

 「ダ、ダルバぁぁぁ!?」

 目の前の光景が信じられず、ゾラは叫び声をあげた。

 ダルバを殺せるような者は、ここにはいないはず。

 未知の恐怖にバクバクと心臓がうなる。

 その時、不意にベッドが軋む音がした。

 そこにあったのは、宝石のように輝く琥珀色の

瞳で――

 「――ッ」

 細切れの肉片が、宙を舞った。

 「め……メーヴェ、君は……何を……」

 「……ん?」

 その問いに、メーヴェは首を傾げるだけだった。

EPISODE5 欲望は蜜の味「ここはメーヴェたちの街。わるい大人はもういない。もう誰にも、こわされない」

 「メーヴェ、君が無事でよかったよ」

 「ルシェ、だいじょうぶ?」

 メーヴェの視線は、ルシェの手へと注がれている。

 きれいな布で手をきつく縛ってはいるが、血は今も

垂れ流され、赤い染みを作り続けている。

 とても大丈夫と言えるような状況ではなかったが、

ルシェにはそれよりも解決したい事があったのだ。

 「メーヴェ、お願いだから、服を着てくれないかな」

 「ん……なんで?」

 「ダルバたちは死んだんだ。だから、僕たちを縛り

つけるルールはもうない。首輪もいらないし、好きな

服を着たっていいんだよ」

 「……ひつよう?」

 ルシェの目の前で、ぴょんぴょんと飛び跳ねる

メーヴェ。どこか場違いな鈴の音だけが、室内に

シャン、シャラと木霊した。

 「ひ、必要なんだ! 外の世界では、みんな服を着て

暮らしてるんだよ!」

 「ん……わかった」

 そうは言ってるが、まだどこか納得しているように

見えない。あとでちゃんと教えようとだけつぶやいて、

ルシェは部屋の奥にある棚から、メーヴェに合う服を

探す事にするのだった。

 「……ふぅ、これで安心だ」

 「ん、じゃあ行こう」

 「え? どこに行くの?」

 「外にいる、わるい大人をやっつけてくる」

 背筋が凍るような体験をしたにも関わらず、彼女は

いつもと変わらない眠たそうな表情をしている。

 彼女はまだ幼いはずなのに。

 それでも平気でいられる理由は、元の形が分からない

ぐらい、ダルバたちがバラバラだからか。

 それとも、本当にメーヴェは、彼が言ったとおりの

化物なのか――そんな言葉が口を突いて出そうに

なったのを呑みこんで、思いつきで別の話を振った。

 「まずは、館にいるみんなを集めよう!」

 その後、ふたりは館の中にいる子供たちを探して

回り、ダルバからの解放を伝えた。

 「無理に身体を売る事はない」「君たちは自由だ」

 何度も何度もそう言って、安全を訴えた。

 しかし、そんなルシェの想いとは裏腹に、誰ひとり

として彼に感謝する者はいなかったのだ。

 奴隷生活からの解放、それ自体は喜ぶべき事に

違いない。

 だが、それはあくまでも、他に生きる術を持つ者の

考えでしかないのだ。

 基本的に、街のならず者たちから狙われずに済んで

いたのは、権力を持つダルバあってこそ。

 彼らはそれをちゃんと理解していて、力のある大人に

生き方を管理されている方が、路頭に迷うよりも遥かに

“まし”と考えていたのだ。

 ――

 ――――

 ほとぼりが冷めるのを見計らって、ルシェは館の

大広間に子供たちを集め、これからの方針を話しあう

事にした。

 ルシェは皆で生きていく事、団結する事の大切さを

訴え続けたが、やはり素直に賛同してくれる者は

いない。

 そこで彼は、ダルバの部屋で見たメーヴェの力を

話して聞かせた。反応はまちまちだが、メーヴェが

目の前で披露した風の精霊の力を見るや否や、多くの

者が仲間に加わってくれるのだった。

 皆の意見をまとめるのに時間はかかったが、街の

浄化に向けてルシェたちは動き出した。

 危害を加える大人を排除し、誰にも侵略されない

子供たちだけの街をつくるために。

 ――

 ――――

 メーヴェが操る精霊の力を利用した一方的な街の

浄化は、ならず者たちを追い出し目覚ましい成果を

見せた。

 街が子供だけの楽園になってから数日。

 ふとした事で仲間同士の衝突はあったが、とりわけ

大きな問題に発展する事もなく、街の安定に向けて

皆が前向きに動き出していた。

 子供だけでの運営は、とても順風満帆と言えるような

ものではない。けれども、誰も見た事がない世界と、

自由への期待が、彼らを後押ししていたのは確かだ。

 街は着実に良い方向へと進んでいる。

 そう、誰もが信じていたのだが。

 「――チチチ、初めまして。ワタシはアキナイ、

しがない行商人です」

 変化の兆しは、ほんの些細な事だった。

 生まれ変わった街に最初にやってきた人物は、

定期的に街に食料などを卸している流れの行商。

 ルシェと大差ない小柄な身体に、貼りつけたような

笑みを浮かべる男は、口惜しそうに言った。

 「しばらく見ない内に変わってしまいましたねぇ。

実に勿体ない……聞けば、ダルバ様は死んだと言うじゃ

ないですか。ダルバ様の館は、過酷な砂漠を越えてきた

ワタシの、数少ない“癒し”だったのですが」

 この小男も、子供を食い物にする悪か。ルシェは男の

態度に警戒心を強めていく。実質的な街の代表として

メーヴェとともに会う事にしたが、すぐにその選択を

後悔するようになっていた。

 「勿体ない、ですか」

 「ええ、貴方がたの街はね純粋すぎるんです。

ここにはねえ、欲望が足りていません。甘いあま~い、

蜜のような欲望が、ね」

 「僕たちはずっとそれに苦しめられてきたんだ。

あなたは奪う側だからそれが分からないんですね」

 「チチチ、それは違う。ルシェくん、人はね、欲望を

解放できなければ人ではなくなってしまうんです。

だから、君にだってあるはずなんですよ。とびきりの

欲望が」

 そう言うと、アキナイは「ああ」と思い出したように

呟くと、包帯が巻かれたままのルシェの手を指差した。

 「貴方とのお近づきの印という事で、本日は無償で

食料と良質な軟膏をお譲りいたしましょう」

 「えっ……?」

 「お困りでしょう。血が滲んでいるし、包帯も

綺麗なものが尽きているようだ。食料だって、皆さんを

養うのなら多いに越した事はない」

 「ですが、そんなにもらうわけには……」

 アキナイは、ルシェの煮え切らない返答に商機を

見出したのか一気にまくし立てていく。

 「ではでは、こうしましょう。ワタシに、自由に街の

中を見学させてください。ここに必要な物資は何か、

自分の目で確認しておきたいのです。それで等価交換と

いきましょう」

 「い、いえ、そこまでは……」

 さして大差ない背格好なのに、アキナイには妙な圧が

あった。彼は、街を渡り歩く商人だと言った。

 そんな彼が今までダルバを相手に商売を続けて

こられたのも、ルシェにはない狡猾さを持っているから

なのだろう。

 「――ルシェ、街を見るぐらい、いいよ」

 「でも、メーヴェ――」

 「では決まりですね! ありがとうございます、

宝石のような美しい瞳のお嬢さん」

 アキナイは、ラバから下ろした積荷のほとんどを

ルシェたちに預けると、すぐに街の散策を始め……

陽が暮れる前に街を去っていった。

 しきりに嗅ぎまわっていたようだが、これといって

街に何かが起きる事もなく。

 慌ただしい毎日に忙殺されていくうちに、ルシェの

頭からはその事がすっかり抜け落ちてしまうのだった。

EPISODE6 楽園は地に堕ちて「みんな変わっちゃった。もうここにはいられない」

 ――誰がやった! 犯人は誰だ!

 その日、街はかつての不穏な喧噪を取り戻していた。

 暴れ回る者、嘘をつく者、分断を煽る者――まるで

何かに取り憑かれたかのように、好き勝手に振る舞って

いる。

 その原因となったのは、館で保管していた食料が

一夜にして空になった事だ。

 食糧庫には交代で見張りを立たせていたが、その

見張りは倉庫内で殺害されていた。そのせいで事態の

発覚に時間がかかってしまったのだ。

 「どうしよう、ルシェ……みんな、あちこちで

ケンカしてる」

 「こんな、こんなはずじゃ……一体、誰が……」

 騒ぎは街の広範囲にまで広がっている。

 暴徒化した群れを鎮めるには、ルシェの言葉だけでは

足りない。

 メーヴェの力を使えば、事は容易に進むだろう。

 だが、暴力で支配するような事だけは避けなければ

いけなかった。

 一度でも暴力に頼ってしまえば、ルシェが理想とする

街は夢と消えてしまう。

 暴力以外の方法で解決する道筋。

 それは、若き指導者と世間を知らぬ少女には、到底

見いだせるものではなかった。

 ふたりを悩ませていたのは、それだけではない。

 弱者を護る立場にあるはずの年長の男が、隠れて

何人もの少女たちに乱暴を働いていたのだ。

 ルシェの最大の過ちは、館を解放したあとに

子供たちに教育を施さなかった点にある。

 館に連れて来られた子供たちは、大半がまともな

教育を受けていない。

 ましてや、ダルバみたいな圧制者が間近にいれば、

同じ思想を持つようになってもおかしくはなかった。

 そうこうしてる間に、騒ぎの音は更に広がっていく。

 もはや共同体を維持し続ける事すら難しい水準に

達している。

 一刻も早く、決断する必要があった。

 「――チチチ、お困りのようですねぇ?」

 「あ、あなたは……」

 まるでタイミングを見計らったかのように館に姿を

現したのは、流れの行商人アキナイ。

 見れば、彼の後ろには年長の男を筆頭に多くの

子供たちが続いている。

 彼らの手には、大小様々な武器が握られ、その多くが

おかしな表情をしていた。目の焦点が合っていない

ような、心ここにあらずとでも言うような――

 「まさか……この騒ぎの首謀者は……」

 ルシェの怒りを押し殺した視線を浴びても、

アキナイは涼し気な顔で笑っている。

 「さて、なんの事でしょうね。ワタシはただ、

皆さんが暮らしやすいように協力してあげたまで」

 「協力? 街を破壊する事が、お前の協力だとても

いうのか?」

 「まさか。ワタシはそんな事望んでいませんから。

これは、彼らが望んだものなのです。ねえ皆さん?」

 男たちが思い思いに声を上げる。

 「ルシェ、お前だけ良い思いしやがって! 俺たち

に寄こせよ、その化物女を!」

 「ヒッヒ、その角、便利そうだなぁ……」

 化物、化物と男たちが下卑た欲望とともにメーヴェを

こき下ろす。誰一人とて、彼女を一人の人間として

扱う気がなかった。

 「……っ、メ、メーヴェは化物じゃ、ない……」

 「ああ、メーヴェは人間だ!」

 衆目の目から隠すように、ルシェがメーヴェの前に

立つ。彼がどれだけ異を唱えたところで、衆愚と化した

男たちは止められない。

 彼が殺されてしまう前に、どうにかしなくては。

 「ルシェ、もうだめだよ。やっつけよう?」

 メーヴェが翡翠色の短剣に手を伸ばす――それを

手で制し、ルシェは首を振った。

 「それはダメだよ、メーヴェ。そんな事をしたら、

僕たちもあいつらと同じになってしまう」

 「でも、それじゃルシェが……っ」

 「チチチ、それが風の力を操るという短剣ですか!」

 アキナイの上ずった声が響き、場が急に静まり返る。

 「では! やはり、やはり貴女こそが! 風の

巫女<シビュラ>なのですね!?」

 「シビュラ……?」

 「ルシェくん、貴方がそれを知る必要はありません。

知ったところでお子様の手には余るのですから。さて、

ひとつ提案なのですが、君の命を保証する代わりに、

彼女と短剣をワタシに譲っていただけませんか~?」

 アキナイはわざとらしく言葉尻を上げ、嫌みたらしく

不公平な要求をする。

 「これはただの脅しだ! 僕は、暴力には屈しない」

 「はい、そうですか」

 アキナイが男たちに指示を飛ばした。

 「では皆さん、ルシェ君を殺してあげてください」

 「メーヴェ! 逃げよう!」

 「うん……っ!」

 男たちが殺到するよりも早く、メーヴェが風の壁を

作り出す。自分たちとアキナイたちを隔てるように

出現した壁は、果敢にも突撃してくる暴徒たちを

難なく返り討ちにしていく。

 「チチチ、実に素晴らしい! 絶対に手に入れて

みせますからね! たとえ、地の果てでも!」

 ふたりは館からの脱出を果たし、街の外へと

逃げおおせるのだった。

 この日、子供たちの楽園は崩壊した。

 けれど、ルシェに後悔はなかった。

 なぜならば、美しくも恐ろしい力を持つ少女が、

自分を選んでくれたのだから。

 彼には、それが何よりも嬉しかったのだ。

 ――

 ――――

 着の身着のまま街を出たメーヴェたち。

 宛てのないふたり旅になるかに思われたが、

アキナイの統治を嫌った者はまだいたらしく、

彼らと合流し旅を続ける事になった。

 「ルシェ、これからどこへ行くの?」

 「正直に言うと分からない……でも、ひとつだけ

決めたんだ」

 ルシェは懐から麻の袋に入った種苗を取り出した。

 以前アキナイから譲り受けたものだったが、植える

場所を見つける暇がなくて入れっぱなしになって

いたのだ。

 「これを育てられる場所。そこを目指そう」

 「ん……分かった」

 小さな希望は芽生えたが、ろくな食料も移動手段も

持たない彼女たちの旅は、辛く苦しいものだった。

 木の根や虫で飢えをしのぎつつ、どうにか休息できる

場所を見つけては、次の地を目指す。

 だが、そんな旅が連日も続けば、弱い者から消耗して

いくのは避けようがない。

 そして、数日が過ぎ――脱落者が出てしまった。

 「……くそっ、僕が不甲斐ないばかりに……」

 「ねぇ、ルシェ……ふたりの、お墓を作って……

あげよ……?」

 「メーヴェ、君はなるべく動かないほうがいい」

 若い男たちの表情にはまだ若干の余裕があるが、

身体の小さいメーヴェは激しく衰弱していた。

 このままでは、次に後を追うのは彼女かもしれない。

 そこでルシェは、ある事を決断した。

 「聞いてくれ、みんな」

 ルシェの震える声を必死に抑えながら、絞り出す

ように告げる。

 「……コレは、だ、大事な“食料”だ。埋葬するのは

そのあとにしよう」

 「ルシェ……?」

 「お前……本気か!? どうしてそんな事言うんだ、

一緒に生きてきた仲間を、食べるだなんて……!」

 「分かってほしい。僕たちは、生きられなかった

ふたりの命を背負って生き抜かなくちゃいけないんだ。

苦しいけど、背に腹は代えられない……!」

 誰もがルシェの発言に驚きを隠せない。誰よりも

みんなで生きていく事を願った少年の面影は、連日の

過酷な旅で見る影もなくなっていた。

 「僕は、君たちに更に過酷な事を言うけど、どうか

分かってほしい……」

 これ以上、脱落者を生まないために、ルシェが何を

言わんとしているのか、皆察しはついていた。

 ――仲間を、解体するのだ。

 「公平を期すためにも、少しだけでも手伝って

ほしい。そして、もし耐えられなくなったら

こう口ずさむんだ。“私たちの血肉となり、共に永遠を

生きてくれてありがとう”って」

 「ルシェ……本当に、食べるの……?」

 「うん。僕は、君を失いたくないんだ」

 メーヴェの肩に、ルシェの手が触れる。

 その手は酷く震えていた。彼もまた、仲間を食べる

という行為に怯えていたのだ。

 「僕たちは、強い絆で結ばれた家族になるんだ。

辛い事も何もかも、みんなで分かち合おう」

 そう言ったルシェの瞳が暗く淀んでいる事を

指摘する者は、誰もいなかった。

 ルシェを頂点にして再度形成された共同体。

 かつての理想は、現実の前に儚くも消え失せ、

おぞましい何かを現出させようとしていた。

 ――

 ――――

 あれから時は経ち、メーヴェたちは砂漠の果てで

定住に適した洞窟を見つけた。

 水場もあれば、適度に湿った土もある。ここならば、

種を植える事ができる――これですべてがうまくいく。

 誰もが、そう思っていた。

 「くそ……また枯れてしまった! どうして

育たないんだ……!」

 たくさんあったはずの種苗は、既に尽きかけていた。

育つ環境は整っているはずなのに、何故……。

 結局、その日も何も得るものはなかった。

 夜。

 かすかに風の音が聞こえる薄暗い洞窟の中、ルシェは

メーヴェのために用意した寝床で彼女と肩を寄せ合って

いた。

 「メーヴェ……君はどこにも行かないでくれ……」

 次々と倒れていく仲間たちを前に、ルシェは正気を

保つのもやっとといったところ。

 その代償行為として、メーヴェの温もりを求める

ようになっていたのだ。

 初めて出会った頃から、すでに多くの歳月が

過ぎている。

 メーヴェと同じ背丈だったルシェは、今では彼女を

腕にすっぽりと収められるくらい大きくなっていた。

 共同体の仲間たちが成長していく中、メーヴェだけは

今も変わらずあの頃のまま。

 そんな小さな身体では、彼の背中に手を回すのも

難しい。だからメーヴェは、ルシェの首へと手をのばし

……うなじの辺りをやさしく撫であげた。

 「ルシェはみんなのために頑張ってる。きっと、

うまくいくよ」

 「ありがとう……メーヴェ……」

 いつもなら、そこでふたりの関係は終わりだった。

 「メーヴェ……っ」

 だが、皆の命を背負うという重圧が、ルシェの理性を

奪い――気づけば、メーヴェと唇を重ね合わせていた。

 「……っ、ぼ、僕は何を――」

 荒い吐息が漏れる。口づけを交わしただけなのに、

心臓はひどく脈打ち、強い衝撃に頭が揺さぶられた。

 怖い。怖い怖い怖い。

 まるで、自分が自分でなくなっていくような――

 「大丈夫……」

 「――っ」

 ルシェにすべてを委ねるように、身体を開く。

 ルシェの脳裏に、初めて彼女を目にした光景が蘇る。

 産まれたままの姿で、欲望を受け止める彼女の姿を。

 本当は、ずっとこうしたいと願っていた。

 一度だけでもいい。彼女を己の欲望の許すかぎり、

思うがままに貪りたいと。

 「メーヴェは、どこにも行かないよ」

 ルシェはずっと、その言葉を追い求めていた。

EPISODE7 不揃いな命たち「ルシェ、メーヴェはずっと一緒だよ」

 ――明くる日の朝。

 ルシェは酷い倦怠感に苛まれながら、微睡む視界の

中で何かの声を聞いた。

 隣で眠るメーヴェが寝言を言っているのだろう。そう

考えたルシェは辺りを探るように手を伸ばす。

 しかし、そこにあるはずの温もりはない。

 「――――っ」

 また声がした。今度ははっきりと聞こえてくる。

 音は洞窟内に響き、まるで警鐘を鳴らしているかの

ようだ。

 「まさか――追手が!?」

 ルシェは反射的に飛び起き、入り口へと駆けた。

 「メーヴェ……! メーヴェッ!」

 求めたものは、すぐに見つかった。

 彼女は、入口の近くで他の仲間たちにとり囲まれる

ようにして立っていたのだ。

 ほっと安堵の息を漏らす。こちらに背を向けている

彼女を呼ぼうと声をかけようとするが……。

 「ん……?」

 見間違いだろうか。彼女の背格好がいつもより大きく

見えたのだ。

 メーヴェの背丈は、ルシェの胸の高さにも満たない。

いつも一緒にいたし、昨夜気を失うまで彼女を抱いたの

だから、見違えるはずがない。

 では、自分と“同じ”背丈の彼女は、一体誰なのか。

 「あ、ルシェ。おはよう」

 ルシェの存在に気付き、メーヴェが振り返る。

 はにかむように笑う彼女の腕には――彼女に瓜二つの

小さな女の子がふたり、抱きかかえられていたのだ。

 「るしぇ、るしぇ――」

 「――しぇ、――しぇ――!」

 メーヴェの腕から飛び降りた女の子は、しっかりした

足取りでルシェの下へやってくると、膝に抱きついた。

 浅黒い肌に琥珀色の瞳。そして――獣のような角。

 彼女たちは、メーヴェそのものだった。

 容姿が幼くなった以外は、声も仕草もどこか彼女に

似ている。いや、“似過ぎて”いるのだ。

 「――っ」

 それを認識した途端、ルシェの背筋に冷たいものが

走った。キュッと心臓が締めつけられる。

 (ぼ、僕は……いったい、“何と”交わって

しまったんだ……!?)

 人間とは明らかに違う、異形の生命。

 彼女は、いや、彼女たちは、何者なのだろうか。

 その時、ふと頭に浮かんだのは、アキナイが必死に

メーヴェを欲していた事。

 ――風の巫女<シビュラ>。

 彼はこの事実を知っていたのだろうか。

 彼女のような異形の存在を欲して、街を渡り歩いて

いたとしたら――

 「ん、どうしたの、ルシェ?」

 「ち、近寄るなぁぁぁっ!!」

 ルシェの豹変ぶりにメーヴェはかける言葉を失った。

 洞窟内に鋭く響いた声は、彼の膝で遊んでいた

娘たちを驚かせるには十分だったようで、蜘蛛の子を

散らすように母の後ろへと隠れてしまう。

 「……メーヴェ、何か悪い事しちゃった?」

 ルシェの顔色を伺う瞳には怯えが見え隠れし、今にも

涙が零れ落ちそうなぐらいに潤んでいる。

 「……」

 「なにか、なにか言って」

 震える手がルシェの頬に触れようとした瞬間――

ぱん、と乾いた音とともに弾かれた。

 「君は、いったい誰なんだ……」

 「え? メーヴェは、メーヴェだよ?」

 「いや……違う。違うちがうちがう! 君は、

メーヴェじゃない! 僕の知ってるメーヴェは……

メーヴェは……っ!」

 街にいた頃のルシェなら、メーヴェが急に成長して

しまった事に疑問を抱く余裕があったかもしれない。

 だが、心を蝕まれ、ただ求めるだけの獣に成り果てて

しまった彼には、内からこみ上げてくる衝動を抑えられ

なかった。

 「“僕の”メーヴェを返してくれよッ! この……

化物ッ!」

 その言葉は、ルシェの心の奥底にひた隠しにされて

きたものだった。

 怒りに満ちた顔。恐怖に見開かれた瞳。

 愛する者が全身で表した否定の感情は、純粋な

メーヴェの心を深く、深く貫いた。

 「ぁ……ぁあ――――」

 洞窟内に、メーヴェの悲痛な叫びが木霊した。

 感情の爆発は大きなうねりとなり、無意識のうちに

風の精霊の力を呼び覚ます。

 風が止んだ時、そこに生きている人間はいなかった。

 ともに歩み、喜びも悲しみも分かち合った大切な人。

 彼は、物言わぬ肉片として辺りに散らばっていた。

 「――ル、――ルシェ――」

 彼の唇が形作ろうとした言葉が、何を言おうと

していたのか。その答えを知る者は、もういない。

 「ごめん、なさい……ごめんなさい……」

 琥珀色の瞳を真っ赤に腫らし、血の池に浮かぶ肉片を

かき集めながら、メーヴェはただうわ言のように何度も

何度もそう呟いた。

 「るしぇー?」「――しぇ、どこー」

 何が起きたのかを理解できない娘たちが、血の池の

上で足を踏みしめる。ぴちゃぴちゃと跳ねる水音が

心地良いのか、彼女たちはただ無邪気に遊んでいた。

 「おかあさん?」「どうしたの?」

 蹲って動かない母が気になって、彼女たちが声を

かける。「なんでもないよ」とメーヴェは力なく笑い、

彼女たちを静かに抱きしめるのだった。

 ――

 ――――

 その日の夜。

 メーヴェはルシェたちを弔う事にした。

 ルシェだった肉の塊は、彼を囲むように灯された光に

照らされ、つややかな輝きを放っている。

 「ねー?」「なにするのー」

 メーヴェは、これから始まる事に期待を膨らませる

娘たちに穏やかな声色で語りかける。

 父であるルシェによって築かれた共同体の、例外なき

規律を。

 「今日は、特別な日。みんなでおとうさんに感謝の

気持ちを伝えてから、おとうさんを食べるのよ」

 「んー」「かんしゃするー」

 「今からメーヴェが……ううん、おかあさんが言った

あとに続いて」

 「それしってるー」「こう?」

 「えっ?」

 娘たちは手を合わせて目を瞑り、たどたどしく感謝の

言葉を口にした。教えていないはずの文言をすべて。

 「この子たち、記憶を……」

 メーヴェは娘たちに急かされ、かぶりを振ると、

ルシェへと視線を落とした。

 今は亡き者を慈しむように、手を合わせ目を瞑る。

 「私たちの血肉となり、共に永遠を生きてくれて

ありがとう」

 愛する人の肉片は、とても柔らかかった。

EPISODE8 風は流れ、あるがままに「さあ、一緒に祈りを捧げましょう。この世の生きとし生けるもの、すべての生命に祝福を――」

 「ごめんね、ルシェ。最後の苗も枯れちゃった……」

 メーヴェは洞窟内にお墓を立てると、娘たちを連れて

宛てのない旅に出た。

 「おかあさん?」「どこいくのー」

 「ふふ、どこへ行こうかしら」

 原初の風の巫女<シビュラ>にして、豊穣神

ネフェシェを母に持つメーヴェは、彼女のように4つの

精霊の力を体内に宿していない。

 そのため、風の精霊の力だけで身体の多くが形成

されているメーヴェとその娘たちは、今の状態を維持

するために無意識のうちに多くの生命力を奪い取って

しまう。

 それは自然だけではなく、人間もまた同じだった。

 彼女たちは、自らの出自や自分たちが本当は何に

よって生かされているのかを知らない。

 それらの謎を少しずつ理解するようになって

いくのは、彼女たちが再び人間たちの醜い欲望に

晒され、汚される後だった――。

 ――

 ――――

 「チチチ、ここですか」

 ラバに乗り、洞窟を見上げる男がいた。

 名はアキナイ。かつてルシェとメーヴェが築こうと

した街を欲望に染め上げた小男だ。

 当時は黒々とした髪にすらりとした体型だったが、

今や丸々と肥え太り、枝のように細い手足を生やして

いる。白髪混じりの毛髪が、時の流れを感じさせた。

 そんな彼が、わざわざ護衛を引き連れて足を

運んだのには理由があった。

 『砂漠の果てには、男を虜にする楽園がある』

 その噂話は、アキナイが支配する欲望の街にいつの

頃からか流れるようになったものだ。

 曰く、そこへたどり着いた男は、琥珀色の瞳の

不思議な女たちに迎え入れられ、三日三晩にわたって

至上の快楽を享受できるという。

 「アキナイ様、この洞窟の中に本当にそのような

ものがあるのでしょうか?」

 訝しむ護衛に、アキナイは鼻息を荒くして答える。

 「噂が何もない所から生まれるはずがありません。

尾ヒレがついた話でも、その根本になったものは必ず

あるのですから。それに……チチチ」

 ブツブツと呟くアキナイを見て、護衛の男たちも

それ以上追求する気にはなれなかった。

 アキナイは、年老いてもなお精霊の力を有す少女――

巫女<シビュラ>を手中に収めようと躍起になって

いたのだ。

 ギラギラとした瞳には、アギディスやティオキア、

ルスラといったシビュラを擁す国への憧れが見え隠れ

していた。

 「さぁ、さぁ、早く行きましょう!」

 ラバを降りて、護衛とともに洞窟内へと踏み入った。

 洞窟の中は彼らが思っていた以上に深く、緩やかな

下り坂になっている。

 護衛が危険だと言っても、アキナイは我先にと進んで

しまう。いったい、あの老人のどこからそのような

活力が湧いてくるのだろうか。

 しばらく進んでいると――アキナイは奥から何かの

物音と灯りが漏れている事に気がついた。

 近づけば近づくほど、大きく強くなっていく。

 「チチチ、やはり噂は本当だったんですね!」

 「あっ、待ってください! アキナイ様!」

 護衛の静止を振り切って、深奥へとたどり着いた

アキナイが見たものは――

 「あ、あぁっ――」「ふっ、ふぅっ、んっ――」

 「も、もう、無理だ……た、たのむ、やめ――」

 一糸まとわぬ男女が、蛇のように絡まりまぐわい合う

狂乱の宴だった。

 どれだけの間そうしているのだろう。男たちの中には

「帰らせて」と情けなく許しを乞う者もいた。だが、

彼らの上に跨る女たちは、どこ吹く風と言わんばかりに

精を吸い上げ続け……足りないと要求する。

 皿が空でも、次は? 次は? と餌をせがむ。

 貪欲なまでに喰らうその姿は、まさしく獣だった。

 「チチチ、いやはや、これほどとは……」

 女たちの年齢は不揃いだった。幼い子供もいれば

少女もいる。妙齢の女に壮齢の女もいた。

 欲望の権化であるアキナイですら、初めて目にする

異様な光景を前に驚きを隠せない。

 湧き上がる唾を飲みこみ、食い入るように男女の

交わりに見入っている。

 「ワ、ワタシも……中へ、あの中へ加わりたい!」

 「アキナイ様、ご無事ですか!?」

 その時、ガシャと護衛の男たちの足音が洞窟内を

駆け巡った。行為に耽っていた女たちが、一斉に

アキナイの方へと振り返る。

 琥珀色の瞳に、獣のような角。

 皆が皆、同じ顔で笑い、同じ顔で男をいざなう。

 そのどれもが、アキナイには見覚えのある顔だった。

 「メ……メーヴェ……!」

 異常な状況に、冷静な判断を下す思考は彼には

残されていなかった。

 ただ何かに惹かれるように、アキナイはメーヴェと

同じ顔をした女たちの中へとひた走る。

 服を脱ぎ捨てるたびに、心臓がはち切れそうなほどに

興奮している事が分かった。それでも、己の欲望は

叫び続けている。

 はやく、あの女たちを喰わせろ! と。

 アキナイは、女の海へと飛びこんだ。

 ――どれだけ交わり続けていたのだろう。

 一時なのか、はたまた一晩なのか。

 仄暗い洞窟の中は、時間の感覚を狂わせる。

 それに加えて、アキナイすら唸らせるほどの男を

悦ばせる技術を持つ彼女たちの要求が、思考を遮り、

意識すら朦朧とさせてくるのだ。

 それはまるで、ひとつの生命に混ざり合い、溶けて

いくかのような。

 ふと、寝そべったままのアキナイの視界に、護衛の

男たちの姿が映る。

 彼らは、既にただの獣と化していた。

 いずれは自分もああなってしまう。

 アキナイは辛うじて残っていた理性を振り絞り、

自分に跨っている少女に叫んだ。

 「も、もう……止めろ! たくさんだッ!」

 「どうして? まだ足りないよ、アキナイ?」

 「なっ……ワタシの名を……やはりあなたは……」

 気づけば、周りには自分を取り囲むように大小様々な

メーヴェたちが立っていた。

 皆が、歌うようにアキナイの名を口ずさむ。

 同じ顔で、同じ瞳で、物欲しそうにアキナイを

見ている。

 アキナイは、彼女たちの中でひとりだけ違う視線を

向ける女がいる事に気がついた。

 「懐かしい顔ね?」

 メーヴェたちの中でひときわ歳を重ねた女が現れる。

 目を細めて、想い出を懐かしむように笑うメーヴェ。

 彼女こそが、アキナイが出会ったメーヴェ本人だった

のだ。

 「チ、チチ……久しぶりですね、メーヴェさん」

 「ええ、本当に久しぶり。私は、ここにあなたが

来てくれるって信じてたわ」

 「……そ、それは、まさか……」

 メーヴェが不敵な笑みを浮かべた。

 「貴方には、ここはどう見えるかしら。欲望に満ちて

いて、美しい街に見えるでしょう?」

 「チ、チチ……」

 「ふふ、みんなも早く食べたいって顔をしているわ」

 寝そべったままのアキナイの身体に、女たちが群がり

始めている。

 ひとりを相手にしただけでもこの有様なのだ、もし、

こんな化物たちと交わり続けたら――

 「お、おお男なら、いくらでもワタシが用意する!

だから、たすけて、救けてください……!」

 「大丈夫、私があなたを救ってあげる」

 「へ――?」

 アキナイは、母のように穏やかな笑みを浮かべる

メーヴェに見守られながら、女たちの中へと消えて

いくのだった。

 ――

 ――――

 メーヴェたちに貪られ続け、骸となったアキナイ。

 綺麗に切り分けられたその首を天へと掲げながら、

母たるメーヴェは祈りを捧げる。

 「この世の生きとし生けるもの、すべての生命に

祝福を」

 男の表情は、恍惚に満ちていた。

EPISODE1 力と犠牲「誰もが幸福を享受する新しい国……必ずや、この地を理想郷へと作り上げてみせます」

名前:水の精霊

年齢:不明

職業:水の精霊

 ――全ての事象は、代償の上に成り立っている。

 生きるために植物を食む家畜。

 生きるためにそれを食す人間。

 家屋を作るため森を切り、道を作るため山を削る。

 何かを成すためには、それに見合う『犠牲』を

払わなくてはならないのが世の理である。

 かつて、豊穣神「ネフェシェ」を崇めるこの大地で、

その神の力を我が物にするべく大きな争いが起きた。

 その御霊を4つに分けた神の力は精霊として顕現し、

神の意に限らず4人の少女へと継承されていく。

 火の力はアヴェニアスへ。

 土の力はテルスウラスへ。

 風の力はメーヴェへ。

 水の力はサラキアへと。

 精霊の依代である巫女となった少女たち。

 その道の先に抱えきれぬ悲劇が待っていることなど

知らず、彼女らはそれぞれの思惑を胸に歩き続ける。

 「新たな国を作り直す」。

 水の巫女「サラキア」がそう決意してから、すでに

十数年が経とうとしていた。

 まだ築城されて日が浅い城内のテラスから、眼下に

広がる都の風景を彼女は眺めている。

 豊かな資源を有し、繁栄を続ける都「ティオキア」。

 かつて、徹底的な階級社会と苛烈な搾取を繰り返す

貴族政治によって見せかけの平和を保っていたその街は

ある日たった一晩、たった一人の手によって全てを

作り替えられた。

 反乱などという生易しいものではない。人知を超えた

圧倒的な力によって、圧政を敷いていた貴族達は残らず

絶命し、ティオキアは新たな国として文字通り

生まれ変わったのだ。

 新たに建城されたばかりのティオキア城。

 そのバルコニーから城下町を見下ろす女性がひとり。

 ティオキアの新たな国主――サラキアは、陽の光に

瞳を輝かせる。

 そこには一点の曇りも見られない。

 自らの手で国を希望あふれる未来へ導くことが

出来ると信じているからだ。

 「この身に宿した精霊の力。この奇跡の力さえ

あれば――」

 だが、国の繁栄を成すにも、それに見合った

『犠牲』を払わなくてはならない。

 人知を超えた存在である精霊の力とて、その理から

外れることはできないのだ。

 与えられる幸福がどこからやってきたのかも

気付かずに、ティオキアの民は安寧を貪り続けていく。

 「無」から「有」が生まれることなどない。

 胸の希望を燃やしながらも、この国でサラキア

ただひとりだけが、それを真に理解していた――。

EPISODE2 友が残したもの「精霊の力だけじゃない。貴女がいたから今のティオキアがある……だから、せめてもの餞に」

 上座に鎮座するサラキアを囲むように、円卓に顔を

並べる女王の臣下達。

 彼らは皆、サラキアの亡き親友であるサンディアが

所属していた、反乱軍のメンバーだった者達だ。

 私欲のためにティオキアの民へ圧政を強いていた

貴族を討ち、サラキアの手で革命が起こされた後、

彼らが王政へ関与する存在となるのは自然なことで

あった。

 「件の新設上下水道は何の問題も無く機能して

おります。これでさらに民の生活は良くなるでしょう。

すでに農地拡大の計画も進んでいるようです」

 「そうですか。それは喜ばしいですね」

 「これもひとえにサラキア様のお力があってこそ。

偽りの富に飾られたあの頃の国と比べたら……まるで

夢を見ているようです」

 「ふふ、あれからもう何年も経っているというのに。

でも、今のティオキアがあるのは私ではなく精霊様の

おかげ。短い時間でここまで国が豊かになったのは、

精霊様の力があったからこそです」

 ティオキアの繁栄に最も貢献した要素。それは

“水”であった。

 旧貴族制時代より他国からは豊かな国と

認識されていたが、それは大陸において重要な港を

有するティオキアが、貿易で築き上げたもの。

 元来土壌として保有していた良質な自然と水源は、

金を持つ商人貴族達の元へ。そうではない民は恩恵に

あずかれることもなく厳しい暮らしを。貴族は手元の

富を維持するため民に圧政を強い続けていく。

 それがかつてのティオキアに蔓延っていた

“偽りの富”であった。

 だがそれも、サラキアによる革命によって

払拭される。

 女王となったサラキア王政の管理の下、国が持つ

資源は適切に民へと行き渡るよう体制が整われて

いった。

 しかし、ここでひとつの問題と対峙する。

 質の良い水源を持つティオキアであったが、国中へと

与えるには“量”が圧倒的に足りなかったのだ。

 頭を抱える臣下達。だがサラキアは、困った様子を

見せることもなく、ティオキアにとって二度目の

“奇跡”を起こす。

 新たに上下水道を繋げた施設を作り上げると、

そこから無限に思えるほどの水が湧き上がり国中を

満たしてゆく。

 サラキアが振るったのは水の精霊の力。偶然か

必然か、その力はティオキアが抱える問題にピタリと

合致していたのだ。

 水は大地を濡らし、植物を育み、それを食む家畜は

肥えていく。

 偽りなどではなく、名実ともにティオキアは大陸一の

豊かな国へとなっていった。

 「――では報告会はここまで。サラキア様、

ご準備を」

 「ええ。大事な式典ですものね。遅れるわけには

いきません」

 この日、ティオキアは祝日である。

 “革命が成し遂げられた日”である今日は、午後から

王城前にて国民総出で参加する式典が行われる予定だ。

 革命直後、サラキアはこの日をかつての友の名を

取って『サンディアの日』とすることを提案した。

 反乱軍の中枢メンバーであり、実質的に

リーダーであったサンディアを慕っていた臣下達

からは、一人として異論を述べる者はいなかった。

 革命の日――それはサンディアの命日でも

あったのだ。

 「それじゃあ今年も……まずは私たちだけで」

 「……はい」

 サラキアと臣下達は円卓から席を外して集まると、

互いに手を取り輪になっていく。

 そして一様に目を閉じ、口を揃えて呟くように言う。

 「新たなティオキアの母、サンディアよ。そして礎に

なった尊き命達よ。その魂に永遠の安寧が

あらんことを――」

 かつて誰よりも国を憂い、革命の最前線に

いた者達による、友を想った私的な儀式。

 それは翌年も、その翌年も、十年、二十年、

それ以上の時が経っても、忘れることなくかかさず

行われた。

 繋いだ手に皺が増え、腰が曲がり、頭髪から色が

失われても。

 だがその小さな輪の中、サラキアだけは変わらず

若々しい少女の姿のまま。

 前例のない最初の精霊の巫女であるサラキアは

知らなかった。

 あの日、精霊をその身に宿した時点で、自身が不老の

身体になっていたことに。

EPISODE3 独りぼっちの女王様「大切な人は皆いなくなって、残されたのは私だけ。誰か教えて……この道が正しいのかどうかを」

 サラキアの臣下の者達は、病や寿命によって一人、

また一人と円卓から去っていく。

 残された者達は寂しさを感じながらも、共に年齢を

重ねていく上で“死を受け入れる”心持ちが

できているのに対し、サラキアの悲しみは筆舌に

尽くしがたいほど深いものだった。

 サラキアにとって臣下達は、自身に仕える者であると

同時に、サンディアという大切な思い出を共有する

友人。

 あの日、家族と呼べる存在を皆殺しにされた

サラキアにとって、彼らは現在の精神的支柱と

いっても過言ではなかった。

 だが今、再び別れの時が訪れている。

 精霊を身に宿したからといって、資質が

一変するわけではない。

 数十年の時の中で様々な経験をしたとて、サラキアの

精神は円熟したとは言えぬものだ。

 精霊の力は不老という“変化”を拒むのと同時に、

“成長”も抑制している。

 サラキアはあくまでも、少し気弱で繊細な心を

持った、どこにでもいる少女。

 彼女の時は、止まり続けていた。

 一方で、ティオキアの時間は流れ続ける。

 友である臣下の最後の一人を亡くし、サラキアが

悲しみに打ちひしがれる頃。

 円卓には国の新たな未来を担う若者たちが顔を

並べていた。

 「――以上の報告から、深刻な水不足は

避けられません。早急に対応を進めるべきです」

 「そう、ですね……」

 サラキアが統治するようになって数十年。

 ティオキアはすさまじい勢いで都市拡大が進み、

人口爆発が起きた。

 それはこの国が平和であることの証明では

あるのだが、人口に対して水の供給が追いつかない

という事態へと直面してしまう。

 全てをまかなうには、精霊の力といえどもう限界に

達していた。

 「サラキア様、どのようにお考えで?」

 「私も考えてはいます……でも今は、

決定的なものは……」

 不敬にならぬよう気を使ったつもりの小さなため息が

どこからか漏れた。

 人知の力を除けば、サラキアはただの少女だ。

元々国政を舵取りするような才能もなく、奇跡を

もって革命を起こした当事者として、彼女を心の底から

崇拝する臣下達の知恵でこれまでやってきた。

 だが、彼らはもういない。

 今ここにいる若き臣下達は、貴族に搾取されていた

かつてのティオキアを知らない。飲食に困らず仕事も

ある、平和になったティオキアで生まれ育った者達

なのだ。

 国中が崇めてやまない女王の実態を知り、彼らは

落胆の色を隠せずにいた。

 「今は具体的なことは述べられません。ですが、必ず

私がなんとかしてみせます。信じて預けて

もらえないでしょうか」

 それでもサラキアは気丈に振る舞い、皆に向けて

言う。思うことはあるものの、その言葉に臣下達は

うなずくしかなかった。

 この国の水の供給は、今や8割以上が精霊の力に

よってもたらされている。

 その力を行使する唯一の存在であるサラキアに

そう言われては、口を挟むことなどできないからだ。

 「……承知しました。一刻も早い対応を心待ちに

しております」

 合議を終え、サラキアが円卓を去って行く。

 その背中を見送った若い臣下達は、臣下としての

振る舞いも崩し、密談を始めた。

 「なあ、本当に大丈夫か? 今度の水不足は、国が

傾きかねない危機なんだぞ」

 「『ティオキアの奇跡の女神』が

ああおっしゃってるんだ。我らがどうすることも

できないだろう」

 「おい、おかしな言い方をするな。聞かれたら

コトだぞ」

 「構うものか。皮肉などいくらでも言ってやる。

確かに今の国を作ってくれたことには感謝している。

だが、女王といっても水の供給だけで、政治は

からきしではないか」

 「それはそうだが……サラキア様の水が

あったからこそ、ここまでティオキアは栄えることが

できた」

 「分かっている。問題は国政の最終決定権が女王に

あることだ。女王は穏健すぎる。我らなら今以上の

繁栄を国にもたらせるはずだ。政治が分からぬのなら、

我らに任せておけばよいのだ」

 「ふむ……」

 ティオキアに革命を起こした奇跡。あの奇跡を

目にした者達でさえ、幸福というぬるま湯に溺れ

記憶を風化させていく。

 それは、奇跡を知らぬ若者達であれば

なおさらのこと。

 若き彼らはギラギラとした野心を持つ。

 だが、それを実現するためにはサラキアの持つ権力が

障害になっていた。

 ティオキアの中枢は、すでに一枚岩ではない。

 不穏な気配が城を満たしていくのを、サラキア自身も

感じ取っていた。

EPISODE4 女王と国の変革「私の国に必要ないはずのものばかりが増えていく。理想郷と呼ぶには、ほど遠いものばかりが」

 ティオキアが直面していた水不足危機は、あれから

ふた月もかからず宣言通り解消された。

 だが、サラキアが表向きに施した対策は、いくつかの

上下水道を増やす工事をしただけ。

 精霊の力を使ったことは間違いないと思われるが、

具体的にどんな対策を施したのか臣下達が訪ねるも、

サラキアは言葉を濁すばかりで答えることはなかった。

 大きな問題は解決したものの、その日以来サラキアの

表情には陰が差し、日ごと憔悴した様子を見せるように

なっていく。

 気付けば臣下達の忠誠心の綻びは、サラキア本人も

感じるほどあからさまなものになっており、軍備の

過剰な拡大や、利益を第一に置いた強引な国策など、

これまでのサラキアなら聞くまでもなく却下されて

いたであろう国政案を平然と議題にあげるように

なっていた。

 サラキアの求める理想郷とはかけ離れた思想。歯車が

確実に狂い始めていることに焦燥感を覚えながらも、

サラキアは毅然とそれに首を横に振り続ける。

 ますます臣下達からの不信感が高まる中、ある日

こんな国政案が合議の場に上がった。

 「罪人への処罰が軽すぎるかと。移民も増え、

これだけの人口を有する我が国では、厳格すぎるほどの

罰を与えねば治安を維持できません」

 打ち首、鞭打ち、入ったが最後実質終身刑である

投獄。

 かつて貴族が統治していたティオキアで、

サラキアをはじめとする民はそれらに怯える

存在であり、その恐怖はいまだサラキアの中に

根強く残っている。

 また、新たなティオキアに厳罰に値するような罪を

犯す者はいない、という性善説にも似た盲信もあり、

これまで死に直結するような罰は設けていなかった。

 だがそれを今、見直すべきだと臣下は言う。

 事実、ティオキアの治安は悪化しつつある。人間の

集まるところに必ず争いは起こるもの。見せしめとして

民に示すことは、治安回復の手段としてはもっとも

手っ取り早いものだ。

 それでも、提案した臣下は半ば諦めていた。どうせ

この甘い女王が首を縦に振ることはないだろう、と。

 「……いいでしょう。極刑を含め罪人に厳罰な処置を

与えることを認めます。罪ごとの罰、そして新たな

牢獄の建設など、必要なことを取りまとめてください」

 サラキアから出た意外な答えに、驚きとまどう

臣下達。

 違和感を覚える者もいたが、好機を逃すまいと

それを受け入れていく。

 サラキアの心境にどんな変化があったのか、それは

サラキア本人以外誰も分からない。

 だが確実なのは、今のティオキアにおいて、

サラキアの変化は国の変化であるということ。

 日増しに暗く陰を落とす表情を見せる彼女と

比例するように、ティオキア国内は物々しい雰囲気が

漂い始めていた。

 やがて、初めての“処刑執行”が行われてから

しばらく経った頃。

 いまだ明るい表情を見せることのない

サラキアの下に、他国から一人の客人が現れた。

 名をゲルダというその女性は、アギディスの優秀な

文官候補生であり、発展目覚ましいティオキアで国政を

学びたいのだという。

 卓越した工芸技術を持つアギディスと友好を

深めることはティオキアにとっても大きな利であり、

国はこれを受け入れることにしたのであった。

 「お会いできて光栄です、女王陛下。此度の受け入れ

感謝いたします」

 サラキアの前で恭しくひざまずくゲルダ。その姿を

瞳に映すサラキアは、目を見開き言葉を失ってしまう。

 姉妹も、アギディスに親類もいなかったはず。

隠れて子を成していたなんてこともあり得ない。

何より、あの日からあまりに時が経ちすぎている。

 だが、眼前でゲルダと名乗った女の風貌。

 それは、かつてサラキアの親友だった

サンディアその人に、生き写しと言ってよいほど極めて

酷似していたのだった。

  

 以来、サラキアは身の回りの世話をする

従者達よりも、ゲルダを自身の側に置くようになる。

 女王としての執務を行うときはもちろん、やがては

自室で寝食を共にするほどまでに。

EPISODE5 あなたの顔、あなたの声「独りぼっちだった世界に、貴女が帰ってきたみたい。もうどこにもいかないで。ずっと私の側にいて」

 「ねえ……頭を撫でてちょうだい?

そうしてくれたら眠れるから」

 「もちろんですとも。ふふっ、サラキア様は

甘えん坊ですね」

 「わ、笑うなんてひどいわ……」

 「ごめんなさい。ただ、私には何から何まで全てを

見せているのに、今さら子供のようなことを

おっしゃるのがおかしくて」

 「――っ!! げ、下品なこと言わないで!」

 ベッドの上。顔を赤くして顔を背けたサラキアを

抱き寄せると、ゲルダは多少強引に彼女の顎を掴んで

自身へと向き直させる。

 そのまま唇を重ねると、サラキアは

抵抗することもなく、そのまま目を閉じた。

 毎夜繰り広げられる、サラキアにとって唯一の

至福の時。

 いつからか極度の不眠を煩っていたサラキアは、

ゲルダに触れて貰う間だけ眠りにつくことができた。

 かつてのティオキアでは味わうことができなかった

平穏な日々の中、サンディアと築くはずだった思い出を

取り戻すかのように欲しがるサラキアに、ゲルダは全て

応え続ける。

 いつしか依存しあっているように見えるほど二人の

距離は縮まり、亡くした親友とはまた違った関係が

生まれていた。

 「なんだか怖いの……この国が理想から

離れていくような気がして……私には精霊の力

しかないから……」

 「そんなことありませんよ。きっと皆も

分かってくれます」

 「だって、ゲルダはもう知ってるでしょ?

私なんて精霊の力があるだけで、何もできない

娘でしかないって」

 「それでいいじゃありませんか。皆がどんな謀を

巡らそうが、サラキア様の力が無ければティオキアは

成立しないのです。自信をお持ちください」

 大きなブランケットに、一糸まとわぬ姿で

くるまる二人。

 自信を元気づける言葉を聞いて、サラキアは

子供のようにゲルダの胸へと顔を埋める。

 「私がここへ来た時も、サラキア様は危機的な

水不足を解消されたところでした。そんなことが

できる方はサラキア様以外におりません」

 「…………」

 サラキアは顔を埋めたまま表情を見せない。だが、

わずかにその身体をこわばらせた。

 その様子にゲルダは気づきながらも、

思い出したかのように続ける。

 「以前からお聞きしたかったのですが、一体

どんな力をお使いになったのですか? サラキア様の

力の偉大さは聞き及んでおりますが、この国中を

救うとなるとあまりにも……」

 「……特別なことはしていないわ」

 「私にも秘密、なのですね。もしかして、時折

夜な夜なお一人で外出なされることに何か関係が?」

 「……今日はずいぶんと強引なのね。私達の

仲とはいえ、貴女は他国の者。女王として

話せないことだってあるわ」

 今度は完全に拒絶を表すサラキアの意を感じ取った

ゲルダは、すかさず空気を柔和させるべく困り笑顔を

作る。

 「お気を悪くしないでください。秘密に

されていることが寂しくて、出過ぎた真似を

してしまいました」

 「怒ってるわけじゃないの。でも……今は

その話はよして」

 そう言ってサラキアはベッドを抜けだし

立ち上がると、サイドテーブルに置いてあった水瓶から

グラスへ水を注ぐ。

 水不足を解消するため、再度行使した奇跡の力。

それが一体何であるかを、ゲルダをはじめ誰一人として

サラキアは明かしていない。

 その“秘密”を抱え続けることは彼女にとって確実な

重荷であり、彼女の精神を疲弊させる

原因そのものであった。

 本当は誰かに話したい。

 だが、それを話してしまえば何もかもが崩れ落ちて

いくかもしれない。

 板挟みになって苦悩するサラキアは、思わず口から

漏れ出しそうになる言葉を押し込めるように、一気に

水を飲み干した。

EPISODE6 不可侵の秘密「私が招いた事態……それは分かっています……でも私にできる事なんて、他にないのです……」

 ティオキアを包んでいたきな臭い空気が具体的に

顕在化したのは、半年後のことだった。

 豊かに栄える国があれば、それを狙い悪事を働く者が

現れる。

 連日のようにティオキアに入国しては、徒党を組んで

犯罪を犯す他国の移民達。

 ティオキアとてそれらを野放しにするわけもなく、

速やかに捕らえては先の厳罰化によって

投獄などの処置を施し続ける。

 犯罪は増えたものの、適切な処置により均衡を

保っている。不安はありつつも、民達は

そう納得していた。

 だがある日、牢獄に収容されている移民達の

祖国から、身柄の引き渡しを要求されたことで事態は

一変する。

 自国内での罪をティオキアが裁くのは何ら問題は

ないのだが、外交を考えると突っぱねることに

利はない。国外追放が約束されるのであれば要求を

飲むのが得策だと、国は考えた。

 釈放する罪人のリストを片手に、サラキアの臣下が

派遣した男が、暗く劣悪な環境の牢獄を歩く。

 今回の対象者は20名ほど。引き渡す罪人を

確認する、ただそれだけの簡単な仕事のはずだ。

 だが、牢獄をいくら歩き回っても、対象リストの

移民が一人として見つからない。それどころか自国の

罪人の何名かさえ忽然と牢獄から消え去っていた。

 まるで、神隠しにあったかのように。

 「これは由々しき事態です。我が国への要求は急遽

反故にせざるを得ませんでした。今は小さくとも、

戦争の火種になりかねません」

 円卓に座る臣下の一人が、語気を強めて言い放つ。

 豊かなティオキアを移民が狙うように、いくつかの

他国も虎視眈々と機を伺っているのは事実だからだ。

 懸念すべきことはまだある。このような不気味な

事件は当然自国内にも知れ渡り、ティオキアの民達の

不安と不信は日に日に高まっている。

 「罪人の処遇はサラキア様直々の管理でございます。

原因に心当たりはないのですか!?」

 「手を尽くして調査しているのですが、何も……」

 臣下達は、もはや失望を隠さない。

 彼らの顔には、仕える女王が無能であることの失望と

落胆からなる“怒り”がまざまざと表れている。

 限界はとうに超えていた。

 いつからか臣下達はひとつの仮定を繰り返し

議論するようになっている。

 「もしも精霊の力を我らが手にすることができたら」

 無能な小娘の一存ではなく、優秀な自分達の

思惑次第で思いのまま行使することができたら、

この国はもっと豊かになるはずだと。

 だがそれは同時に、主君であるサラキアを絶命させる

ことを意味している。

 強大な精霊の力を奪うなど荒唐無稽な謀りに

見えるが、手がないわけではない。

 ネフェシェから零れ落ちた精霊の力。

土の精霊を授かったルスラの地では、ある要因によって

再び他者へと力が継承された――そのような出来事が、

巫女に近しい存在には歴史として伝わっている。

 それは――“絶望”。

 その命を投げ捨ててしまいたくなるほどの絶望に

落とせば、奇跡の力を別の器へ移し替えることは

可能なのだ。

 ほんの小さな毛糸の綻びが、少しの力で勢いよく

解けていくように、彼らの胸に渦巻く黒い何かが

急速に煮えたぎっていく。

 臣下たちはそんな思いを悟られぬようにしつつ、

数時間に及ぶこの日の合議が終わりを迎えた。

 机上の論争には限界がある。原因究明は

続けながらも、徹底的な再発防止を掲げ、罪人の管理は

サラキアから臣下へと権限を渡すことで話がついた。

 その晩。サラキアはひどく疲弊していたのか、

ゲルダの腕に抱かれるとあっという間に眠りについた。

 目にはうっすらと涙が浮かび、寝息が聞こえないほど

深く深く熟睡している。

 それを確認したゲルダはサラキアの首へ手を

伸ばすと、ゆっくりとネックレスを外した。

ネックレスからは小さなカギがぶら下がっている。

 そしてサラキアを置いてベッドを抜け出すと、鏡台に

置いてある小箱の鍵穴へとその鍵を挿した。

 箱の中に仕舞われていたのは一つだけ。鉄の輪に

通された、先ほどの鍵よりさらに大きな鍵がいくつも

連なった鍵束だった。

 ゲルダはサラキアの部屋を抜け出すと、迷わず歩を

進める。

 すでに技師が城前で待機しているはず。鍵の型さえ

とってしまえば、複製自体はゆっくり行えばいい。

サラキアが目を覚ますまでに元通りにすることなど

容易い。

 不可侵の秘密。

 サラキアが夜な夜な人目を忍んでどこへ

通っていたのか。調べはもうついている。

 月のない夜の闇に紛れ、ふらふらと歩く“亡者の

ような何か”を荷馬車に詰めたサラキアが

向かっていた場所。

 あの場所に、必ず何かが――。

 そう確信するゲルダの口元には、わずかに笑みが

浮かんでいた。

EPISODE7 命の水「どれも正解で、そして不正解だったのでしょう。ならば犠牲を払う道を、私は選ぶしかなかった」

 数日後。

 ティオキアの中心地から少し外れた小高い丘の上に、

臣下達は揃って姿を見せていた。

 眼前には、サラキアの命によって都市拡大の

計画地から外され、革命以前から手つかずのまま

保存されている建物が見える。

 かつてアテリマ教の隠し協会としても機能していた、

孤児院跡だ。残されてはいるものの、手入れされて

いるわけではない。孤児院だった建物は今や

あちこちが朽ちはじめていた。

 それでも元は重厚な造りになっていたのだろう。

雨風をしのぐくらいなら今でも役目を果たせそうでは

ある。

 悪戯や侵入防止のため周囲を囲っている塀を越え、

孤児院の前までやってくると、臣下の一人が鍵束を

取り出した。

 そのうちの一つを鍵穴に挿すと、抵抗もなく

カチャリと音を立て、扉が開く。

 中へと足を運ぶと、そこには孤児院としての名残は

一切感じられないほど荒れた光景が広がっていた。

 テーブルやイスといった壊れた日用家具は倒れ、

燭台やガラスなども床へと散乱している。じめっとした

空気を体現するように、室内のあちこちでは苔まで

生えている。

 “廃墟”、としか表現できない様相の中、臣下達の

持つランタンの明かりがあるものを照らす。

 「明らかに人の通った跡があるぞ……それも、一度や

二度ではない……」

 草木を踏み分けて現れる獣道のように、苔や埃、

ガラス片を払ったと思われる“道”がそこにあった。

 道は孤児院内の奥の奥へと続いており、それに従って

進む臣下達はとある扉へと辿り着く。

 「なんだこの扉は……本来ここにあるはずがない、

真新しい物だ……」

 彼らは何か寒気のようなものを覚えながらも、半ば

「まさか」と思いつつ、鍵束を取り出す。

 一つ目の鍵。

 二つ目の鍵。

 三つ目の鍵。

 過剰なまでに厳重に施錠された扉の鍵が、

呆気ないほど開いていく。

 間違いない。サラキアの秘密はここにある。

 これほどまでに他者を“拒絶”する場所に

踏み込むことに、空恐ろしさを感じるものの、それでも

臣下達は扉の向こうへと歩を進めた。

 手持ちのランタンでは先を照らし切れぬ、長い長い

通路。

 構造的には、孤児院の裏手から丘の中に穴を

空けたように作られたその通路は、明らかに孤児院に

備わっていたものではない。

 やがて行き止まりで待ち構えていた最後の扉の

鍵を開ける。

 その先に広がっていた光景に、臣下達は言葉を

失った。

 ただ一人、かろうじて喉から絞り出すように呟く。

 「これは……」

 円形に型でくりぬいたような、広い部屋。

 その部屋を囲っているのは壁ではなく、一面を

覆うガラス張りの水槽のような物だった。

 水槽からは等間隔に配置された管が伸び、

部屋の中央に空いた穴へと水が流れ続けている。

 その造りから、一見して貯水槽のような機能を

果たすものだと理解できる。

 だが貯水槽としては不可解な点がある。

 その機能を果たすのであれば、山の上流から流れる

水や雨水といった、“水槽に貯めるための水”が

必要なはず。にも関わらず、水位が下がるような

こともなく、無限に水を流し続けている。

 それは、明らかに自然の理に反する現象だった。

 「あれは、なんだ……?」

 臣下達の持つランタン頼りの薄暗い部屋の中、水槽の

中にいくつもの“何か”が漂っているのが微かに

見えた。

 魚の類ではない。その質感には既視感があり、

生物的な有機物だと分かる。

 意を決した臣下の一人が、恐る恐る水槽の前へと

近づいていく。

 そして、手に持ったランタンを照らすように掲げ、

ガラスの向こうをのぞき込んだ。

 「……ひいっ!!」

 「ど、どうした!!」

 残りの者達も慌てて駆け寄り、それぞれ同じように

水槽へランタンを掲げる。

 水の中の浮遊物は明かりに照らされ、その姿を

浮き彫りにする。

 臣下達はそれが何であるか一瞬理解できなかった。

 なぜなら、自分達が知る“それ”とはあまりに

かけ離れた姿だったから。

 それは――人間の死骸であった。

 死骸だと断言できるのは、この状態で生きている

人間などいるはずがないからだ。

 そのどれもが肉体の大部分を失っている。

 力任せに切り落とされたのではなく、まるで熱い

鉄板に押しつけた氷のように、なめらかに、

かつ不自然にえぐり取られていた。

 頭部、手足、袈裟斬りのように半身を大きく斜めに。

 規則性は感じられない。だが確実にどこかの部位を

失っているにも関わらず、なぜか血液が溢れることは

なく、露出する肉と骨の断面が嫌でも目に入る。

 「おい! まだ無事なものがいるぞ!」

 震え声でそう言い放った者の前には、

“人間らしい姿”を保ったまま正面を向いて

浮かぶものがいた。

 助け出したほうがいいのではないか、そう臣下達が

戸惑っている間、それは水流に従ってゆっくりと

水中で回転する。

 臣下達がその背中を見ることはない。

 縦に真っ二つにしたように、背面全ての断面を

露わにした死骸がそこにあった。

 理解が追いつかないまま呆然と眺めていた臣下の

一人が、こみ上げるものに耐えられず、床に吐瀉物を

まき散らしてしまう。それに釣られて一人、また一人と

嘔吐する者が現れた。

 地獄のような光景。

 どんな悪夢だろうとこんな光景を見せはしない。

想像、空想の領域を超えている。

 それでもこれは紛れもない現実。何か必ず

意味があるはずだと考えた一人が、焼ける胸を

こらえながら注意深く観察を始めた。

 「死骸から……水が湧いている……?」

 肉の断面をよく見ると、小さな水泡が

発生していることに気がつく。

 死骸は何かを生みだしている。

 無限に湧き出る水。

 人知を超えた現象――精霊の力。

 この光景が何を意味しているのか理解するのに

そう時間はかからなかった。

 精霊の力によって、死骸が水へ溶け出している。

水へ――変換されているのだと。

 頭部が残った死骸の顔に見覚えがあった。

牢獄から神隠しにあった罪人達だ。

 水不足の解消、言葉を濁したサラキア、全てが

結びついていく。

 「我らは……そして民は……この水で農耕をし、

身を清め、喉を潤していたのか……」

 「どうやらそのようだ。なんとおぞましい……」

 「女王は狂ったか! 人間の所業ではないぞ!」

 「ああ、人間ではない。人間に、こんな手段は

選べない……」

 腐肉から生まれた水を摂取して生を営んでいた。

その事実は、あまりに倫理から外れすぎている。

 だが、この事実は臣下達にとって好機でもあった。

 精霊の力を持つ小娘を女王の座から引きずり下ろし、

その力を手中に収めるための。

 「どうやってここまでたどり着けたのでしょう」

 臣下達が一斉に振り向くと、扉の前にはサラキアが

立っていた。

 何を述べても逃れられない状況に諦めているのか、

その瞳に光はない。

 「女王……ご説明願おう!」

 「……こうするしかなかったのです。必要な水は

精霊の力で賄える量を超えていました」

 「だからといってなぜ――」

 「私はこのティオキアの地に流れる水脈を

操っていただけ。無から有は生み出せません。それは

精霊の力も同じ。薪をくべて炎を燃やすように、動物を

屠って腹を満たすように、何かを為すには必ず犠牲が

必要なのです」

 「その贄として選ばれたのが人間、とでも!?

他に方法はなかったのですか!」

 「水は命の源。この全ての大地の母であり礎。

人の魂が昇華する瞬間の輝きと、肉体に刻まれた

叡智……代償として、対価として、ふさわしいのは

これしかなかった……」

 「魂の昇華……? では、この者達は

生きたまま……」

 そこで初めて、俯いたサラキアは悲しみをその表情に

滲ませる。

 水を生むための贄として、罪人とはいえ生ける人間を

使った。

 それは、紛れもない事実だ。

 「たとえそうであっても、こんな所業が

許されるものか!!」

 「ではどうすればよかったのですか!! 水脈に

負担をかけるのはとうに限界……すでにティオキアの

水は全て、この部屋のもので補っているのですよ!?」

 驚愕の事実におののく臣下達を気にもとめず。

 たった一人で抱え込んでいた苦悩を、サラキアは

初めて爆発させる。

 「このまま飢えて死ねと、貴方は民に

言えましたか!? ティオキアの地に生まれたのが

間違いだったのだと! 諦めろと言えましたか!?

貴方達は自身の権力を強固にしようとする

国政ばかり……できもしないことを私に

押しつけたのは貴方達ではないですか!!」

 いつも穏やかで、ともすれば気弱にも見えるほどの

サラキアが、そう言い放つ。

 無知な小娘とばかりに思っていた女王から、胸中を

見透かされていたと分かり黙り込む臣下達。

 綻んだ糸は、もう解けきっている。

 編みぐるみだったか、カーディガンだったか。何を

紡いでいたのかはもう分からない。

 ここにあるのはもう、形を為さず床に散らばる

ただの糸だ。

 そんな軋轢と緊張が高まりきった頂点で、サラキアは

最後の言葉を吐き捨てた。

 「貴方達を女王への不敬の罪で罰します。自身が

望んだ厳罰に処されるのは本望でしょう」

 その言葉に、臣下達の血が一気に冷えていく。

 もう誰も止める者などいない。

 まさに今サラキアの背後から、臣下の一人が短刀を

振り下ろそうとしていた――。

EPISODE8 水の都ティオキア「私の愛したティオキアの民の声が聞こえない……みんなどこにいるの? お願い、姿を見せて……」

 その日、ティオキアには珍しい雪が降っていた。

 城前に設けられた処刑場には斬首台だけがぽつんと

置かれており、それを囲むようにティオキア国民が

処刑場へと集まっていた。

 「罪人! 前へ!!」

 衛兵の声を合図に、繋がれた両手の縄を引かれて、

サラキアが処刑場へと姿を現した。

 薄汚れたボロ布ともつかない衣服を纏い、背中に

広がった血がどす黒く固まっている。

 冷たい板張りを裸足で歩く、青白い顔をした女王の

姿を見た民達は驚きと悲しみのため息を漏らした。

 「ティオキアの民よ! すでに通達している通り、

我が国の女王だったものは許されざる悪事を犯した!」

 ティオキアの民はすでに聞き及んでいた。

 女王であるサラキアが私欲のため一部の商人に便宜を

計らい、反する者は不当な理由で投獄するという、

かつてこの地にいた貴族と同じことを行っていたと。

 さらには、醜悪な趣向を持つ豪商達を喜ばせるため

罪人を牢獄から攫い、命を弄ぶような残虐なショーを

開いていたのだという。

 だが、ほとんどの民は未だその通達を信じ切っては

いない。

 優しく穏やかで、この国を救ったあの女王が

そんなはず――そんな考えを捨てきれなかった。

 その真偽を確認すべく、ほぼ全国民と呼べるほどの

民がこうして集まっていた。

 「我らとしても“奇跡の女神”に手をかけるのは

耐えがたい苦痛である! しかし! この者の下で

国が腐敗するのは看過できぬ! 断腸の思いで

あることは理解頂きたい!!」

 臣下の者がそう張り上げると、衛兵がサラキアの

背中を乱暴に押した。

 一歩、また一歩と、サラキアが重い足取りで歩を

進めるたび、民達から悲鳴の声が上がる。

 やがて斬首台の前までやってくると、力任せに

伏せられたサラキアの首が、穴の空いた木枠へと

収められていく。

 頭上には、縄で吊された巨大な刃が鈍い光を

放っている。人間の首を切り落とすためだけに

作られた、恐ろしい刃が。

 その時、これまで押し黙っていたサラキアが

初めて叫ぶように言った。

 「私は……! 私はそのような罪など

犯しておりません!!」

 その言葉に表情も変えず、臣下の者が答える。

 「此度の事件は冤罪であると申すか!

であるならば、最後に弁明の機会を与えよう!

お前を思い、こうして集まった民に示すがよい!」

 言われたものの、サラキアは口ごもってしまう。

 それを見た臣下の者は口元に薄ら笑みを浮かべると、

サラキアの側へと近づき耳元に囁いた。

 「真実を話してみればどうです。『私は民のため、

人の死骸で作った水を与えていただけだ』と。

『罪など犯していない』と。当然、その言葉がこの国に

どんな影響を及ぼすかお分かりでしょうが」

 「……っ!」

 サラキアはそれ以上何も言うことができなかった。

 真実を伝えたことで起こるであろう混乱が、多くの

悲劇を生むことは容易に想像できる。

 もうすでに手は残されていない。

 それは、臣下から裏切りの凶刃を浴びせられた時点で

決まっていたことなのだ。

 「何も言うことはないか! ティオキアの民よ!

この者は今、自らの罪を認めた!!」

 何かの間違い。そう信じていた民達は深く落胆する。

 それと同時に、崇拝の対象であったサラキアの

裏切りは、怒りへと容易く変容していく。

 ――殺せ。

 ――殺せ……殺せ……。

 ――殺せ……殺せ……!

 ――殺せ! 殺せ!! 殺せ!!!!!

 断罪を願う民の声が、大きなうねりとなって

こだまする。

 サラキアの瞳にはもう、愛したティオキアは

映っていない。

 圧政から救い、豊かな国を作り、誰もが平和で

心穏やかに暮らせる理想郷。

 そんなものは、どこにもなかった。

 欺瞞と怒りだけが満ちた、醜い邪悪が吹き上がる。

 大切な者を殺され、文字通り身を捧げたサラキアが

最後に手に入れたのは、こんな光景だった。

 壊れかける心に残された力を振り絞るように、

サラキアはかき消えそうな声で言う。

 「お願い……せめて最後に……ゲルダに会わせて……

そうしたら、きっと未練なく逝けるわ……」

 「いいだろう。せめてものはなむけに叶えてやる」

 臣下がそう言うと同時に、まるでこうなることが

分かっていたかのように処刑場へゲルダが現れた。

 ゲルダはサラキアの元までやってくると、伏せる

彼女の目線に合わせてしゃがみ込む。

 「ああ、サラキア様……おいたわしい……」

 「ゲルダ……来てくれたのね……あれから一度も

会えなかったから、最後に顔を見たかったの……」

 「なんたる光栄……でも――」

 言いかけて、ゲルダはこれまで見せたことのない

嘲笑を浮かべると、驚くサラキアを無視して続ける。

 「ちょっと呆れちゃうわね。世間知らずな小娘だとは

思っていただけれど、ここまで間抜けだなんて」

 「ゲルダ……?」

 「誰の手配で孤児院の鍵を用意できたと思う?

私よ、私。はあ……なんだか達成感がないわ」

 「そ、そんな……」

 「名前も出自も、全部嘘。この顔だってあんた好みに

作ってもらったものよ。あんたはずーっと前から罠に

かかっていたの。ティオキアの連中、本当にやり方が

えげつないんだから」

 「…………」

 「良い夢は見れたかしら? あ、最後にお土産」

 打って変わってゲルダは優しい微笑みを浮かべると、

サラキアにとって斬首以上の仕打ちを浴びせる。

 「『サラキア。アタシ達、ずっと友達だよな!』

――どう? サンディアとかいう女に似てた?」

 サラキアがサラキアであることを構成する何かが、

音を立てて崩れ落ちていく。

 その心が、あまりの絶望に破壊される瞬間。

 サラキアは最後に慟哭混じりの叫び声をあげた。

 「嫌ぁぁぁーーーーーー!!!!」

 サラキアの耳に、膜がかかったようなくぐもった声が

響く。

 そして間もなく何かが風を切るような音が

聞こえたかと思うと、サラキアの身体は呆気なく

二つに分かれた。

 孤児院の家族達が、サンディアが迎えに

来てくれることもない。

 月もない真夜中、ロウソクの明かりを

吹き消したように、ただ暗闇だけが終わりを

告げていた。

 「おお……おお……!!」

 その時、亡骸となったサラキアの身体に起こった

変化に、臣下の者が声を上げた。

 切り離されたその首からは血ではなく、透き通った

透明な液体がぶくぶくと泡のように吹き出ている。

 その液体は一つに寄り集まり、次第に海月のような

形を成したかと思うと、やがて少女のような姿へと

変容していった。

 笑っているような、哀れんでいるような。

 人間を模してはいるが、その表情からは

生物的感情が読み取れない。

 その瞳が側にいるゲルダをまっすぐ捉えていたかと

思うと、彼女の肉体へと同化していった。

 絶望によりサラキアという肉体を捨てた精霊は

選んだのだ。

 ゲルダを器――次の巫女として。

 「見たかティオキアの民よ! 精霊様は欲にまみれた

身体を捨て、次なる巫女にこのゲルダを

お選びなさった! 精霊様のご加護は消えぬ!!

この先もティオキアの未来は安泰である!!」

 鳴り止まないほどの歓声が響き渡る。

 それは、ティオキアの巫女が永遠に国の傀儡となった

瞬間でもあった――。

 その後、臣下であった者達の主導によって新たな

王政が作り上げられ、実質的に国の実権を彼らが

握ることとなる。

 そして、かつて異教と呼ばれたアテリマ教の布教を

推し進め、清貧という理念の元、欲望という感情を

抑制していく。

 全ては王族という地位を守るため。

 握った権力を、一族代々我が物にするため。

 形は違えど、それは革命以前のティオキアと

何ら変わらない。

 理想郷を作るというサラキアの夢は、最後まで

叶わず消えていった――。

 それから、幾ばくかの時が流れる。

成り行きで継承したゲルダは巫女としての才に乏しく、

サラキア亡き後、ティオキアに必要な水量を

維持することができなかった。

 あれほど隆盛を極めていたのが嘘だったかのように、

貧しいものから飢え、そして死に、多くの者は国を

捨てていく。

 そんな混乱から落ち着きを見せた頃、ティオキアは

決して豊かだと呼べない国へと成り下がっていた。

 だが、権力者達は甘んじてそれを受け入れていた

わけではない。

 かつてのティオキアを取り戻すため、己の描く理想の

国を作るため。

 “その時”を待ち続けていた。

 ――国の主導で新設された、広大な土地に建てられた

レンガ造りの建造物。

 その中庭で、完成を祝う式典が執り行われていた。

 祝賀ムードに包まれる宴の中、かつてサラキアの

臣下であり、今や国の主権を握る者達の姿がある。

 彼らは肩を寄せると、微笑みを崩すことなく

囁き合う。

 「巫女育成のための学園……これで全てが

揃いましたな」

 「ああ、我らの計画は順調だ……」

 サラキアやゲルダのような偶発的なものではなく、

力の継承、ふさわしい人物の育成、それら全てを

“学園”という施設を通して国で管理する。

 それは、精霊の力を意のままに振るうのは

巫女ではなく、実質的にその権利を国が握ることを

意味していた。

 しかし、この学園の存在意義はそれだけではない。

 「思えば“彼女”は巫女としての才覚が

あったのでしょう……我々ではあのような方法を

導き出せなかった」

 「“代償”、か。ようやくあの境地へ辿り着くことが

できる……」

 近い未来、この学園で多くの人間が命を落とす。

 喜び、悲しみ、希望、欲望、そして絶望。

人の持つあらゆる感情が混ざり合い、ぶつかり合い、

生と死の狭間で醜く美しい混沌が生まれる。

 それらが散りゆく瞬間、魂はこれ以上ないほど

上質な贄となり、精霊の力をより強大なものへと

育んでいく。再び国中を水で満たすほどの“奇跡”を

おこせるほどに。

 サラキアは、この国に残していった。

 何かを為すには犠牲が必要だということ。

 そして、命は命を使って救えることを。

 ――どれほどの時が経っただろうか。

ティオキアは以前と同じ活気に満ちており、街を

行き交う人々は皆笑顔を浮かべている。

 港では浅黒く肌を焼いた威勢の良い漁師が、今日の

漁獲に満足そうに頷く。

 羊飼いは犬と戯れて笑い、農家の娘は両親を手伝い

種を撒く。

 井戸に集まる婦人は噂話に花を咲かせ、学生は

急ぎ足で駆けていく。

 誰もが当たり前に享受する、平和な日常風景。

 その平和をもたらしているティオキアの水を、今日も

誰もが撒き、浴び、飲んでいる。

 質の良い、美しく透き通った命の水を。

 これからも、遙か先の未来まで。
EPISODE1 求めよ、されば与えられん「創造神とは箱庭の世界の観測者。世界の行く末に干渉することはできない」

名前:ネフェシェ

年齢:不明(外見年齢16歳前後)

職業:希望の巫女

 この世界に希望の力がもたされたのは、もう一千年も前のことであった。

 誰より人類を想い嘆いた希望の巫女――ネフェシェ。

 彼女が創造神イデアから与えられた力は、正しくも歪に扱われ続けてきた。

 不安定な人間が大きな力を扱い続ければ、いずれ耐えられなくなる。

 数百年の栄華ののちに、希望の巫女を中心に回る歪な世界は突如として終わりを迎えた。

 そのきっかけは、ごく小さなズレ。

 神と、人と、巫女。

 それらは同じ人形であったとして、同一ではない。

 正確に言えば、種は同じであっても、同一であるものなどこの世界に存在し得ない。

 そのズレを――欠けた何かを埋めるために、人は誰かを求める。

 そんな当たり前のことさえも、ネフェシェは理解できなかった、それだけのことであった。

 その、終わりすら神によって定められた未来さえ。

 だからこそ、ネフェシェは神に選ばれたのだ。

 幾多の人形の中からただ一人、彼女だけが神の寵愛を受け、巫女は生まれた。

 それは神の気まぐれ。

 自らの欲を満たすための、どうしようもない我儘。

 だが――人形に、それを知る術などないのだ。

EPISODE2 光あれ「神もまた、与えられた役割をこなすだけ。それでは自らの人形と何ら変わらない」

 イデアが望んだのは、完璧な世界だった。

 彼女は世界を創り出した唯一神にして創造神。

 全てを自らの思うがままに創り育てたい――だが、その目論見はすぐに崩れ去ることとなる。

 産み落とされた世界は、彼女を拒んだのだ。

 ――何故?

 イデアはその時にようやく理解した。

 それは神に定められた楔。

 神であっても、より上位に位置する大いなる意思に逆らうことなどできないのだと。

 彼女は嘆く。

 創り出したモノをただ見届けるだけの日々を。

 決して満たされることのない自らの欲を。

 それを是としなければならない退屈な世界を。

 ――そうだ。

 それは単なる思いつきだった。

 だが、あくまで神にとってのこと。

 人形の住まう世界には、それによって大きな変化が訪れることとなる。

 世界の在り方を、イデアは変えてしまったのだ。

 ――希望は引力、絶望は斥力。

 世界を創り出すのに使った4つの元素と、魂を入れられたことで人形となった器の数々。

 希望によって与えられた力は願いを受けて大きくなり、絶望によって引き剥がされて、いずれ神へと還る。

 ――そう、叶う。全てが、叶う。

 自らを、世界から得た力で別の存在へと昇華する。

 観測者である自分を書き換えるのだ――

 神ではない、けれど神以上のナニカへと。

 そして、必要になるものは――

 ――みつけた。

 長い退屈の中で、彼女の目に叶った器は、ただひとつだけ。

 その器たる人形の名は――ネフェシェ。

 イデアにもっとも近しい姿と意識を持ったモノ。

 ――はっ。

 イデアは微かに嘲笑う。

 その美しくも歪んだ笑顔は、ようやく遊び道具を見つけた子供のようだった。

EPISODE3 美しき世界「一遍たりとも歪みのない世界。そんな世界こそが理想郷なのだ」

 自ら創り出した世界に干渉するため、創造神イデアは希望と絶望による力の輪廻を生み出した。

 生命は神の意に関わらず生まれ、世界を埋めていく。

 イデアが考えた世界から、逸脱していく。

 いつか来たる、世界への顕現。

 それを成立させるための神の恩寵を与える器はすぐには現れなかった。

 長い時の中で、ほんの小さな干渉を続け、僅かにその存在を仄めかしてきたイデアは世界においても神として崇められる存在となっていたのだ。

 しかし、精霊の力を受け止めることができ、かつイデアとの親和性が高い人形――そんな都合の良いモノが生まれる可能性はほとんど奇跡に近いといえる。

 だが、彼女が生まれたのだ。

 運命の巫女――ネフェシェ。

 イデアと最も近い姿と魂を持つ、世界の忌み子。

 ――私は、貴女。貴女は、私。

 世界をより清く、より美しくするための力を天が与えてくれる。

 ネフェシェにとって、それは奇跡そのものであった。

 直接話したことはない。

 しかし、夢の中で神託は降りる。

 彼女は依存した。

 神たる存在に、その力に。

 与えられた精霊の力はネフェシェの思想の元、世界に祝福を与えた。

 しかし、際限なき豊穣は人形を堕落させる。

 もっと、もっと、もっと――果てなき欲望により、世界は歪に形を変えていった。

 だが、そのことにネフェシェだけが気づかない。気づいていない。

 世界にただ一人の依代たる彼女は、創造神イデアにとっての完全であって、世界にとっての完璧ではない。

 見初められた彼女もまた、人の器を超えた存在。

 神の意思は理解できても、自分が他の人形と違う――そんな当たり前のことに、気づけなかったのだ。

 ――どうして、わかってくれないのだろう。

 ネフェシェの疑念は、積もり続けていく。

 心の軋みに、気づかないまま。

EPISODE4 無垢なる魂「無垢とは無知でもある。それは必ずしも美徳とは言えない」

 ネフェシェは、初めて自分のために動いていた。

 きっかけはルスラで起きた従者の裏切り。そして、自らにのみ与えられたと思っていた力を失ったこと。

 彼女は無垢で、何も知らなかった。

 故に彼女はようやく気付かされたのだ。

 ずっと感じ続けていた疑念の正体――人の持つ、邪悪な側面に。

 そしてネフェシェはわからなくなった。

 神の言葉――自分の言葉が、届いていたのか、いないのか。

 彼女は世界を、全ての生命へ祝福を、福音をもたらせると信じていた。

 ――神よ……創造神イデアよ。

 神の声を聞きたい。

 だが、応えはなかった。

 ――私は、見つけなければならない。

 神を――ただ一人、自分を完璧に理解する者を。

 決意とともに、彼女の瞳から一滴の涙が零れ落ちた。

 それは、ネフェシェが初めて抱く悲しみと苦しみ。

 それは、見捨てられないよう泣き喚く赤子のようで。

 そんな無垢なる魂ゆえに、神の依代となり得る――ネフェシェがそれを知る瞬間は、未来永劫訪れない。

EPISODE5 神の在処「ただ生きていくだけなら、己を信じればいい。しかし、それに耐えられず、誰かを信じるのだ」

 今のネフェシェには、やるべきことがある。

 目的は唯一つ――創造神イデアを見つけ出すこと。

 信仰ゆえ、だけではない。自らの心を護るためだ。

 人の住処から離れ、ネフェシェは神を探す道を往く。そんな彼女が最初に訪れたのはルスラだった。

 不安を抱え訪れた街は今までと何ら変わらない。

 ――神よ、私は必要ない存在なのですか。

 それは、民にとっての幸福であったが、今のネフェシェを酷く傷つけることだった。

 次に訪れたのは、革命が起きたばかりのティオキア。

 そこは水の都として、以前より活発さを見せていた。

 ――私が最も使いこなさなければならなかったのに。

 ネフェシェから剥がれ落ちた水の力は、より多くの人形を幸福に導いた。

 それを目の当たりにしてしまったことで、ネフェシェの心はさらなる揺らぎを見せる。

 ネフェシェが姿を消したことをきっかけに、この世界で人の在り方は変わり始めていた。

 正確には、彼女が生を受ける以前に戻ったのだ。

 神より与えられし精霊の力という歪みを残しながら。

 ――え?

 そんな彼女に、突如神託が降りた。

 アギディスより遙か北方にある水平線の果て――原初のうつろで神はネフェシェを待っている。

 ならば、ネフェシェは向かう他ない。

 信じられるのは唯一、創造神のみなのだから。

 そして――無垢なる信仰は、狂気に足を踏み入れる。

EPISODE6 翼は溶けて「得ることもあるのだから、失うこともある。それを悔やむことはない。それは運命なのだから」

 原初の種族である人形たちと共に、ネフェシェは原初のうつろを目指した。

 いつしかネフェシェの狂気は伝染し、人形全てが狂い出す。

 その悲劇の果て――それが炎の精霊の誕生であった。

 ――どうして、おいていくの。

 変わり果てた使徒達に、ネフェシェはどれだけ心を痛めただろう。

 しかし、それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。

 悲しくても、悔しくても、羨ましくても。

 神に応えることこそが、ネフェシェの本懐だ。

 たとえ全てを失い裁かれるのだとしても、ネフェシェは往くしかない。

 ――呼んでいる。わたしを……

 神託が降りるたびに、ネフェシェの世界は色づく。

 彼女を求める声が、大いなる存在が、勇気を与える。

 そっと、聖母のように背中を押してくれるのだ。

 ――ああ、イデア様。できるならば証をください。あなた様が待っているという、証を。

 気づけばネフェシェは願っていた。

 それは、自らの理解から最も遠い感情――

 貪欲な、人の願いだということも気づかずに。

 だが、創造神はそれを叶えてしまう。

 神の福音は風の力と引き換えに、彼女の胎内に新たな命をもたらしたのだ。

 そうして残されたのは、かつて巫女であった何者でもないがらんどう。

 それでも、ネフェシェは満足そうに微笑っていた。

 安らかに、美しく。

 歓喜と、幸福と、期待とが入り混じった顔だ。

 もうすぐ会える。

 今のネフェシェにあるのは希望のみ。

 深い絶望の淵から引き揚げられた、とてもとても大きな希望の塊だった。

 神もまた、彼女を見て嘲笑っている。

 とても――都合が良い、と。

EPISODE7 うつろなるもの「とても、とても果てしない刻の中の奇跡――だけれどそれは、永遠でもあり一瞬でもある」

 ネフェシェが信じるものは、創造神イデアのみ。

 創造神イデアが欲するものは、ネフェシェのみ。

 互いに求めるものはあまりにも違う。

 しかし、本質的に同じであった。

 神と、その器――奇しくも人から離れた存在。

 だが人は、神の姿を模して作られた。

 ならば神もまた、感情という不完全さを持つ、歪な生命に変わりない。

 人は独りを恐れる――神もまた、そうだった。

 箱庭の世界に手を伸ばすのも、自らの孤独ゆえ。

 長い旅路の果て。

 ネフェシェがようやく辿り着いた場所。

 原初のうつろと呼ばれるそこは、歪だった。

 地面が浮かび上がり、行き場のない光が揺蕩う、全ての法則が乱れたような世界。

 この場所がこの世の果てであると言うならば、誰もがそうだと頷くだろう。しかし、神の居所だと言われれば、皆疑念を持つに違いない。

 ――ああ、ああ!

 ネフェシェに一切の疑念は生まれなかった。むしろ、笑顔を浮かべていた。

 達成感と高揚感で満たされた顔。

 それはまるで、訪れる幸福を待ちわびる、無垢なる少女のようで。

 ――ずっと、この時を待っていました。

 祈りを、言葉を捧げるネフェシェは、会いたかったとは口にしない。

 きっと言葉では言い表せないものだと、彼女自身が理解していたから。

 ――……ぁ……

 ネフェシェは息を飲む。

 光が屈折し何かを形作ろうとしていたのだ。

 それは、扉のように見えた。

 だが扉というには、まるで鏡のように滑らかだ。

 一向に開かずに、ただネフェシェの姿を映している。

 ネフェシェは言葉を失い、ただそれを見つめるだけ。

 だが――ネフェシェの写身は、嘲笑ってみせた。

 彼女が一度たりとも見せたことのない顔で。

EPISODE8 神の器「ああ、とても――しあわせ」

  原初のうつろとは、世界の果て。

 神の領域と箱庭の世界が交わる境界線上の空間。

 ――ずっと、待ち望んでいた。

 扉に映る自分から発せられる声を聞きながら、ネフェシェは思わずそっと唇に触れる。

 しかし、彼女の唇は言葉と共に揺れた形跡はない。

 それならば、簡単なことだった。

 ここに映る、もう一人の自分。

 彼女こそが、神なのだと。

 ――あなたはわたし、わたしはあなた。

 がらんどうになったネフェシェを求めてくれる存在は創造神の他にいない。

 だからネフェシェは全てを受け入れる。

 既に理由なんて必要なかった。

 神だけが、欲するもの全てを持っている。

 必要なのは、愛だけだ。

 欲望も、孤独も、全て愛ゆえに生まれては消える。

 ――さぁ。

 ふと、輪郭が歪んだ。

 享受される愛に、魂が溶けていく。

 それでもなお、彼女を支配するのは幸福だけだ。

 なにもかもが、溶けていく。

 とてもとてもきれいな、抜け殻だけを残して。

 ――――

 ――――――

 ――――――――

 ――器は成った。

 やがて彼女は、扉の向こう側から現れた。

 見ることしかできなかった世界を謳歌するため――もしくは、全てを望むがままやり直すために。

 はっ――と、彼女は嘲笑ってみせる。

 幾多の魂を喰らい、力は肥大化していくのだ。

 その時が訪れるのはまだ、遥か遠くの未来。

 ――真に美しい、世界のために。

 この日、この時をもって――創造神イデアは箱庭の世界に

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