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ハンナ・アレント『責任と判断』

☆mediopos-2415  2021.6.27

わたしはなぜそうするのか
またなぜそうしないのか

「悪の凡庸さ」が示唆するのは
自分で考え判断するという
あたりまえであるはずのことを避け
他律的であることで起こりうる惨事だろう

mediopos-2411(2021.6.23)で
とくに学校・病院・交通において
わたしたち一人ひとりにあるはずの自律的な力を
専門家による制度的な他律によって
スポイルしてしまうがゆえに起こり得る
いやすでにその惨状が露呈されている
現代の状況について書いてみたが

他律的な態度で
代わって考えてもらい
代わって癒やしてもらうことを
多くの人は「悪」とはみなさない
むしろ管理社会が空気となっている社会では
「従順」さをもった「善」であるとみなされる
そこで「悪」とみなされるのは
むしろ「従順」でない者
じぶんで考え
じぶんで癒やそうとする者である

スーフィーの話に
人を狂わせる水の話がある

その水を飲んでほとんどの人は
狂ってしまうのだが
それを拒んだ男がいて
その男は狂人とみなされてしまう
それに耐えられずその男もまたその水を飲み
人々はその男を
「狂気から奇跡的に回復した男」と呼んだ

「悪の凡庸さ」を
人を狂わせる水としてとらえることもできる
山本七平の論じた「空気」にも
そこに「人を狂わせる」ものが混入すれば
同様なことは容易に起こるだろう

ハンナ・アレントのいう「責任と判断」でいえば
むしろそれは「悪の凡庸さ」への「服従」ではなく
「支持」としてとらえたほうがいいかもしれない
「服従」や「従順」という言葉は
アイヒマンのような
「組織の命令にしたがっただけだ」という
他律的な「責任と判断」の意味しか生みはしない
それを「支持」としてとらえたとき
はじめてそこに明かな「責任」が生まれ得る

注意が必要なのは
「悪」なるものを批判する者に関しても
その行為が自律的なものであるとは限らないことだ
批判もその多くは他律的なものにすぎない
自分への批判をも前提としないがぎり
それは他律的なものでしかないのだ
結局のところそれは
「ひとを呪わば穴二つ」になるだけのこと

■ハンナ・アレント(ジェローム・コーン=編 中山元訳)
 『責任と判断』(ちくま学芸文庫 2016.8)

(中山元「文庫の訳者あとがき」より)

「この訳書『責任と判断』の中心を占める「道徳哲学のいくつかの問題」という長文の講義録は、まさにこの問題(「悪の凡庸さ」)を軸にして展開される(・・・)。この講義では、ごくふつうのドイツ人が犯罪的なナチスの体制をどうして支持するようになったのか、そして多くの人が、ほとんど想像の域をこえた極悪非道の人道への犯罪に手を染めながら、どうして自分は組織の命令にしたがっただけだと言い逃れようとしたのかという重要な、そしてわたしたち日本人にとっても無関心ではありえない問題に焦点をあてている。
 アレントは、これらの人々がいかにして自己の道徳的な規範を喪失し、あるいは他者の道徳規範にすり替えてみずから道徳的な判断を行うことを停止していたかを、詳細に検討する。そしてこうした犯罪に手を染めることを避けることはできたのは、「そのようなことはできません」と、自分の信念から組織の命令を拒んだ人々だけだったことを確認したのである。
 アレントの語る「悪の凡庸さ」という言葉は。ナチスの犯した悪の巨大さを否定しようとするものではなく、ふつうの人々が自分で考え、自分で道徳的な判断を下すというあたりまえのことをすることを回避したことによって、そのような巨大な犯罪が犯されたことを告発する言葉である。わたしたちもまた、自分で考える責任を回避した瞬間から、こうした凡庸な悪に手を染めるかもしれないのである。」

(ハンナ・アレント「独裁体制のもとでの個人の責任」より)

「ここで二つの問いを提起したいと思います。最初の問いは、一生を通じて、ナチス体制に協力せず、公的な生活に関与することを拒んだ数少ない人々は、どのような形で他の人々と違っていたのかというものです(もちろんこうした人々は叛乱に加わることはせず、叛乱を起こすこともなかったのですが)。もう一つの問いは、いずれかの次元で、いずれかの方法で、こうした悪に寄与した人々は、決して怪物のような存在ではないとしたら、これらの人々がこのようにふるまったのはどうしてなのかというものです。ナチス体制のもとで犯罪を犯した人々は、体制が倒壊し、「新しい秩序」と新しい価値が崩壊したのちに、法的な根拠ではなく、どのような道徳的な根拠から、自分たちの行動を正当化したのでしょうか。
 最初の問いに対する答えはかなり簡単なものです。公的な生活に関与しなかった人々は、大多数の人々からは無責任と非難されたのですが、あえて自分の頭で判断しようよした唯一の人々だったのです。そして自分で判断することができたのは、より善い価値の体系を確立していたからでも、心と両親のうちに昔ながらの善悪の基準がまだしっかりと根をはっていたからでもありません。わたしたちのあらゆる経験が教えているのは、ナチス体制の初期の知的かつ道徳的な大変動に影響を受けず、それでいて最初にこれに屈したのが、尊敬すべき社会の人々にほかならなかったということです。これらの人々は、ある価値の体系を別の価値の体系に置き換えたにすぎないのです。
 ですから逆に、公的な生活に関与しなかった人々は、良心をこのようにいわば自動的な形で機能させなかった人々だと言えるのです。良心が自動的に機能する場合には、あたかもわたしたちの心のうちに、すでに習得した規則や内的な規則がそなわっていて、特定の事例が発生すると、この規則を適用するだけでよいのです。その場合にはすべての新しい経験や状況は、あらかじめ判断されていて、習得していたか、あらかじめ所有していた規則に従って行動するだけでよいわけです。
 しかし良心が自動的に機能しない人々は、もっとも別な基準にしたがっていたようです。こうした人々は、特定の行為を実行したあとでも、自分と仲違いせずに生きてゆける限度はどこにあるかと問うのです。そしてこれらの人々は、公的な生活にはまったく関与しないことを決めたのですが、それはこのことで世界がより善くなるからというのではなく、そうしなければ、自分と仲違いせずに生きてゆくことができないことを見極めたからです。ですから公的な生活に参加することを強制された場合には、これらの人々は死を選びました。残酷な言い方ですが、こうした人々が殺人に手を染めることを拒んだのは、「汝殺すなかれ」という古い掟をしっかりと守ったからではなく、殺人者である自分とともに生きていることができないと考えたからなのです。」

「独裁体制のもとで公共生活に参加しなかった人々は、服従という名のもとにこうした支援が求められる「責任」ある場に登場しないことで、その独裁体制を支持することを拒んだのです。十分な数の人々が「無責任に」行動して、支持を拒んだならば、積極的な抵抗や叛乱なしでも、こうした統治形態にどのようなことが起こりうるかを、一瞬でも想像してみれば、この<武器>がどれほど効果的であるのか、お分かりいただけるはずです。二〇世紀に発見されたのは、こうした非暴力行動と抵抗のさまざまな形式のひとつなのです(たとえば市民的な不服従のもつ力をお考えください)。
 それでもわたしたちがこうした新しい種類の戦争犯罪人、すなわち自発的にはいかなる犯罪にも手を染めなかった人々にも、やはりみずから行ったことにたいして責任を問うことができるのは、政治的な問題と道徳的な問題に関しては、服従などというものは存在しないからです。奴隷でない成人において、服従という概念が適用できる唯一の圏域は、宗教的な圏域であり、宗教の場では人々は神の言葉と命令に服従すると語ります。というのは、神と人間の関係は、大人と子供の関係で考えるのがもっとも正しいからです。
 ですから、公的な生活に参加し、命令に服従した人々に提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく、「なぜ支持したのか」という問いです。たんなる「言葉」が、ロゴスをもつ動物である人間の心にどれほど強く、奇妙な影響を与えるかをご存じであれば、服従から支持へと言葉を変えることは、意味論的に無意味ではありません。この「服従」という悪質な言葉をわたしたちの道徳的および政治的な思想の語彙からとりのぞいてしまえば、どれほど事態がすっきりとするでしょう。この問題を考え抜いてみれば、わたしたちはふたたびある種の自信と、ときには誇りをもてるようになるでしょう。かつては、人間の尊厳と名誉と呼ばれていたものをです----おそらく人類の尊厳と名誉ではなく、人間であるという地位に固有の尊厳と名誉を。」

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