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吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑥扱いづらいことばの半人前」(群像 2024年1月号)/ケイレブ・エヴェレット『数の発明』

☆mediopos3320  2023.12.20

言語的相対論または言語的相対性原理という
サピア=ウォーフの仮説がある

それは
「ヒトは言語によって思考が、
果てには認識が決定づけられている」というような
「言語決定論」と勘違いされることもあるが

「ヒトは使用言語によって
異なった考えかたへと方向付けされる」というものだ

多かれ少なかれ言語は
ヒトの思考を規定していることはたしかだろう

吉岡乾の連載
「ゲは言語学のゲ⑥扱いづらいことばの半人前」では
主に数とくに〈単数〉と〈複数〉に関する
「言語的相対論」の視点が示唆されている

言語における数の区別は
〈単数〉と〈複数〉だけではなく
〈単数〉・〈双数〉・〈複数〉という
三区分を用いる言語もあり
〈単数〉・〈少数〉・〈多数〉という言語もある
日本語では数の区別はない

いうまでもなく言語において
数の区別はないからといって
数を数えることができないわけではない

数を持たずに生き生きと暮らす人々もいれば
数の区別をしない言語をもつ日本人のように
むしろ計算が得意なこともある

吉岡乾いわく
「言語は、何を言うこともできるが、
何をどう言わなければならないかを
制限しているものである。」

単数と複数を区別する言語では
どちらかで表現しなければならないし
「〈敬体〉と〈常体〉との文体差を持つ日本語では、
敬語や丁寧な口調でもタメ口でもない言い方を
発話することができない。」

それぞれの言語の文法において
規定されているカテゴリーのなかで
すでに用意された語を使わざるをえないのである

それは必ずしも思考を規定するものではないだろうが
その影響は多かれ少なかれ思考に影響する

思考の自由を得るために重要なのは
その影響を意識し理解した上で
規定された使用法における語の概念を
フレキシブルに操ることだと思われる

思考が硬直化して死んだ思考となるのは
語の概念をスタティックにしか理解できず
それを決して変わらない形の箱を積むようにしか
とらえることができないときだろう

語は世界のなにがしかを対象化し
それを切り取るものでもあるが
それは自在に変化可能なものである必要がある

それがスタティックなものになるとき
世界もまたスタティックになり
世界を想像/創造する自由は失われてしまう

■吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑥扱いづらいことばの半人前」
 (群像 2024年1月号)
■ケイレブ・エヴェレット(屋代通子訳)
 『数の発明――私たちは数をつくり、数につくられた』
 (みすず書房 2021/5)

(吉岡乾「ゲは言語学のゲ⑥扱いづらいことばの半人前」より)

「サピア・ウォーフの仮説、もしくは言語相対論という名で知られているアイディアを耳にしたことのある人は、言語学界隈とは接点のない方々の中にも、結構居るのではないだろうか。
 漠然と言えば、ヒトは使用言語によって異なった考えかたへと方向付けされる、という仮説理論である。この話は、反対派によって極端な話に単純化されてしまい、ヒトは言語によって思考が、果てには認識が決定づけられている、みたいな主張だと勘違いされ、そして「そんなバカな話があるものか」として撥ね除けられることが多い(この極端な見解は、言語決定論とも呼ばれる)。しかし本来の仮説は、言語は認識に影響を及ぼす思考の習わしを供するものである、くらいの、かなり迂遠でほんわかした話でしかない。」

「言語決定論の荒唐無稽さは、例えば次のような理屈に窺えるだろう。日本語には単数形と複数形との区別がないから、日本語話者は物が単数あるか複数あるか認識できない————。読者の中で、「なるほど」と思える人はあるだろうか。このぶ厚い雑誌『群像』が何百ページもあるか、1ページしかないか、判らないなんて人は存在するだろうか。

 けれども、場合によっては、ある対象を果たして単数と見るべきなのか複数と見るばきなのか、解らないだなんてこともある。日本語(日琉語族)には文法的に名詞類の数を区別して表現するきまりがないから、そもそもそんなことを気にする必要もないと言えば、ないのだが。自分の元々用いているのとは別の言語を身に付けよう、別の言語で話そうとした時に、第一言語とは異なる文法の求める概念が、改めて解らないという状況に直面するのだ。未だに僕は、例えば英語(インド・ヨーロッパ語族)の冠詞の使い方だって全然理解できていないのだが、それよりももっと直感的っぽく思える数に関してすら、曖昧さはある。眼前にある具体的な物体であっても、それが〈単数〉か〈複数〉か判らないという状況は、確かにあるのだ。
 想像できるだろうか。
 言語における数の区別は、何も〈単数〉・〈複数〉ばかりではない。〈単数〉・〈双数〉・〈複数〉という三区分を用いる言語もあって、そういう言語では、《1つのもの》・《2つのもの》・《3つ以上のもの》を文法的に区別することになる。《3つのもの》を指すための〈三数〉という概念を持つ言語もあれば、〈単数〉・〈少数〉・〈多数〉という言語だってある。勿論、日本語のようい、数の区別を持たない言語だってある。」

「算えられるものと算えられないものとか、数え易いものと数え難いものとかもある。数の区分をしない言語では無視して通れるかも知れないが、数の区別がある言語では数え易さも念頭に置かなければならないのではないか。僕は日本語が第一言語なので、「想像の域を出ないが。
 しかもこの数えられるか否かは、言語によって異なっている。ブルシャスキー語(パキスタンの山奥で話されている系統的孤立語)では、名詞を大きく4つにグループ分けして、ヒト男性か、ヒト女性か、具象物か、抽象物かを文法的に区別する。この内の、抽象物の名詞というのは、数え難いものが括られるカテゴリであり、例えば液体とか、抽象概念とか、髪の毛とか抽象物扱いになる。そういうと、英語の不可算名詞みたいなもののように思えるかもしれないが、ブルシャスキー語の抽象物はカウントできるし、〈複数〉形も持っている。water(ウォータ)「水」は基本的に〈複数〉にしないが、/chil(ツィル)/「水」には/chilmiŋ(ツィルミン)/という〈複数〉形がある。
 いや、そうは言いながら英語のwaterも可算名詞だったり不可算名詞だったりするので、最早「××名詞」として括るの自体がおかしい。(・・・)
 ブルシャスキー語の抽象物じゃ、ごちゃっとしてて個々の輪郭が判然としないことが多く、従って一個ずつを分けて数えたくならないような事物を差し示す名詞類が該当する。(・・・)林立する建物とか鬱葱と茂る木とか、感情とか気象とか書籍とかも抽象物だ。動物とか実とか天体とか乗り物ろか山とか携帯電話とかは、数え易いので具象物として扱われる。」

「言語は、何を言うこともできるが、何をどう言わなければならないかを制限しているものである。言葉を尽くせば何だって言えるのだが、「ねばならぬ」のルールを破ってはその言語として通用する文にはならない。実際にそこに複数のものがあるならば、英語では基本的に、sheep「羊」やdeer「鹿」、fish「魚」やcarp「鯉」など以外は、〈複数〉形にしなけえばならない。〈双数〉概念のある言語で2つある指示物を、〈複数〉だとして言うことも許容されない。〈敬体〉と〈常体〉との文体差を持つ日本語では、敬語や丁寧な口調でもタメ口でもない言い方を発話することができない。
 だとすると、言語相対論が意味するのは寧ろ、〈単数〉と〈複数〉とを区別しなければならない言語を使用している人々の思考では、〈単数〉か〈複数〉かを認識しないことは難しいというところなのではないだろうか。システム化されてしまっている認識を鈍化させることは難しく、故に分化させないままでの認識は得難い。文法デコヒーレンスで、不確定性原理の猫は〈単数〉Katze(カツ)か〈複数〉Katzen(カツン)かに収束せざるを得ない。
 文法カテゴリに候補が用意されている以上は、候補の中からどれかを選びしかなく。どれも選ばないという中道はその言語にはないのだ。」

(ケイレブ・エヴェレット『数の発明』〜「第二部 数のない世界/5 数字を持たない人々」より)

「数が認知に役立つのであれば、数を放棄したり、そもそも採り入れないという選択をする人々がいるのはなぜなのか。これに対して、「彼らは数字のないほうがうまくやれるから」などとさもよく考えたような回答をすることはできる。だがそうした上から目線の反応は、見当外れの文化相対主義というものだろう。真実は、文字のない彼らの文化の、記録されなかった歴史に葬られている————少なくとも、ピダハンとムンドゥルクの人々の場合には。彼らにしても、数という認知を助ける素晴らしい道具を導入すれば、その恩恵はないはずがない。ただ確かなのは、彼らはその環境で、数の助けなしに長い年月を生き延び、充分に素晴らしく生きてきたということだ。
 数の有用性、さらにはそれが世界各地の言語にほぼもれなく組み込まれている事実に鑑みると、数を持たずに生きる人々がいるのはある意味以外この上ない。だが当然ながら、地球全体の言語を棚卸ししてみれば、言語におけるある種の人類共通であるに違いないというわたしたちの予測など、もろくも打ち砕いてしまうような例外は見つかるものだ。文化も言語も、恐ろしく多様なのである。そう考えれば、世界のどこかで、数の言葉を持たず。数字を知らず、数を表す身振りもせず、そのほか、量を示唆する表象もなしで生きている人たちがいるのは、またある意味、さほど驚くことでもないのかもしれない。(・・・)数を持たずに生き生きと暮らす人々がわたしたちに開いてくれたのは、量を捉える人間の思考のありようを見るために、他に代えがたい窓だ。数がなければ、私たちは小さなものから大きなものまであらゆる量をきちんと捉えるべく、生まれ持った感覚を鍛え上げていけないことを、彼らは明らかに示してくれている。」

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