見出し画像

『井月句集』/『近現代詩歌』/池内紀『山の本棚』

☆mediopos3520  2024.7.7

「井月(せいげつ)」は
名の知られた俳人とはいえないかもしれないが
河出書房「日本文学全集29『近現代詩歌』」の
俳句(小澤實選)のいちばん最初に置かれ
「明治俳諧 江戸と明治をつなぐ」とされている

文政五年(一八二二年)に生まれ
亡くなったのが明治二十年(一八八七年)
享年六十六歳

近現代の俳句として五十人が選ばれているなかで
(選定基準はすでに没している者)
井月の次にくるのが内藤鳴雪(一八四七−一九二六)
「正岡子規門 明治[ホトトギス]俳諧と新風と」
村上鬼城(一八六五−一九三八)
「高浜虚子門 大正[ホトトギス]分身としての動物」
続いて正岡子規(一八六七−一九〇二)
「大原其戎門 明治[ホトトギス]近代俳句の始祖」

池内紀の『山の本棚』に
『井月句集』がとりあげられていることもあり
近世俳人最後の高峰とされている井月について
覚書をつくっておくことにする

井月が五歳の文政十年(一八二七)に
一茶が六十五歳で亡くなっているが
その後俳諧は急速に衰えていき
「俗宗匠」の跋扈する
子規曰く「月並調」俳句の時代になっていく

井月はそんな時代に芭蕉を仰ぎながら
漂白の内に孤高の生涯を終えた行脚詩人である

俳句にも極く不案内なので
井月の句の良し悪しについて云々できはしないが
『井月句集』の解説(復本一郎)で
子規の欲する俳句と「月並調」俳句との対比を
見ておくことにする

 感情に訴える
  − 智識に訴える
 意匠の陳腐を嫌う
  − 意匠の陳腐を好み新奇を嫌う
 言語の懈弛(たるみ)を嫌う
  − 言語の懈弛を好み緊密を嫌う
 雅語・俗語・漢語・洋語を用いる
  − 洋語を排斥し雅語や幅広い漢語表現を用いない

井月が著したという『俳諧雅俗伝』には
(『井月句集』にも収録されている)
「有の儘」そして「自然(じねん)」を事とするという
俳論が記されているが

これは俳句だけではなく
すべての言語表現について
「月並調」かどうかを問う重要な視点となると思われる

上記の観点を敷衍しながら
俳句に限らない現代の「月並調」を挙げると

知性を装ったやたら難しい表現
型にはまった言葉や表現
無駄や繰り返しの多い散漫な表現
言葉の多様性を排し過去だけを向いた表現

とでもいえるだろうか

さらにいえば
わかりやすさと子供っぽさを混同する
正確に表現することをなおざりにする
冗長に自分語りをする
といったことも
注意する必要のある「月並調」だろう
 
さて井月の生涯をみてもそうだが
俳人には強烈な個性をもって
壮絶な生き方をした方のなんと多いことか

そうした生き方はじぶんにはできそうもないし
ましてやそうした才もなく
かといって「俗宗匠」のようにはなりたくないので
個人的には風狂もどきくらいにしておくことにする

■池内紀『山の本棚』(山と溪谷社 2023/7)
■『井月句集』(復本一郎編 岩波文庫 2012/10)
■『近現代詩歌』(河出書房「日本文学全集29」2016/9)

**(池内紀『山の本棚』〜『井月句集』より)

*「俳人井上井月(一八二二−八七)は「乞食井月」「虱井月」などと呼ばれた。生まれは越後・長岡。十代の終わりに故郷を出奔して東北から関西まで放浪。どうやら芭蕉の足跡を追ったらしい。齢五十近くになって信州・伊那谷に居ついた。

 とはいえ一処不在。旧家などでつかのまの厄介になり、「小さな古ぼけた竹行李と汚れた貧弱な風呂敷包み」を両掛けにして、腰に酒を入れた瓢箪をぶらさげ、村道を歩いていた。犬が吠えたて、村の悪太郎が小石を投げつけてくる。明治十九年(一八六六)、ボロをまとった行き倒れで見つかり、翌年、没。六十六歳だった。

 死後四十年ちかくたって、伊那出身の医師下島勲が俳句をまとめ、友人芥川龍之介の跋文つきで公刊、風狂俳人を世に出した。現在では研究者の詳細な注解つきの文庫で親しむことができる。

 伝わっているエピソードの一つによると、ある日、伊那村富家の主人が某宗匠の短冊を井月に示して、おまえも発句(俳句)をやるそうだが、この先生にはかなうまいと言ったところ、井月は答えた。「美しい細君を持って、贅沢をして、机の上で出来る発句だもの、うまい筈よ」。

 俳句史でいうと幕末から明治初期は、子規が痛罵した「月並俳句」の時代であって、井月が笑ったような宗匠たちがハバをきかせていた。その奇行ぶりからつい見落とされがちだが、井月はしっかりとした俳論をもち、感覚をとぎすまして自然に対処する方法を身にそなえていた。放浪はこの短詩型詩人に必然の生き方だった。

  山冷えに濃き薄きある紅葉かな
  迷い入る山に家あり蕎麦の花
  吹き寄せるかぜもこの葉の名残かな

 酔余のフラつく足で山国の小道を行きながら、冴えざえとした感覚に言葉をあてる。注によって上五や中七を慎重に入れ替えたことがわかる。「俗なる題には風雅に作り、風雅なる題には俗意を添へをかしく作るは一つの工風なり」。近代詩人にひとしい発句法といえるだろう。

  鍛冶の槌桶屋の槌も師走かな

 伊那地方は大きなV字谷がうねりながらつづいていく。カンカン、トントンの木槌の音、金属音が谷あいにこだまして、年の瀬のせわしさからか、槌音のテンポがこころもち早いのだ。小道に立ちどまって、虱男がじっと耳を傾けている。遠くにつづく山並みと、その上の大きな空。槌音が澄み返った虚空に吸われるように消えていく。

 幕末、明治の大きな転換期に行き合わせた。身分制が消え失せ、誰もが立身出世に血まなこで、成金富豪の世の中にあって、わが身は無用の人生と思い定めて発句にいそしんだ。詠み捨てたぐあいだが、一五〇〇句あまりが残ったのは、作者が余に残る「工風」をしていたからではないだろうか。厄介になる旧家をきちんと選別して、そこに句稿を託していた。

 身は虱のたかる乞食同然でも、感性はつねに山国の大気に洗われていた。そこから一瞬の太刀さばきのような句ができた。」

**(『井月句集』〜復本一郎「解説」より)

*「一茶没後、俳壇全体のエネルギーは、急速に衰えていった。俗宗匠が我物顔に跋扈していた、子規いうところの「月並調」俳句の時代への突入である。時代でいえば天保期(一八三〇−一八四四)。井月が俳諧にかかわることになったであろう青年時代を迎えたのは、まさにそんな時代であった。それでは子規が言うところの「月並調」俳句とは、どのような俳句を指していたのであろうか。子規は、左のように述べている(『俳句問答』参照)。

  ○我は直接に感情に訴へんと欲し、彼は往々智識に訴へんと欲す。
  ○我は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼は意匠の陳腐を嫌ふこと我よりも少し。寧ろ彼は陳腐を好み、新奇を嫌ふ傾向あり。
  ○我は言語の懈弛(たるみ)を嫌ひ、彼は言語の懈弛を嫌ふ事、我より少し。寧ろ彼は懈弛を好み、緊密を嫌ふ傾向あり。
  ○我は音調の調和する限りに於て雅語、俗語、漢語、洋語を嫌はず。彼れは洋語を排斥し、漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし、雅語も多くは用ゐず。

「我」は子規、「彼」は「月並調」俳句にかかわる人々である。大変わかりやしく納得のいく説明である。子規は、右の、子規とは反対の作品を標榜する範疇に入る俗宗匠を中心とする人々の作った俳句を「月並調」俳句、「月並句」と見做したということなのである。」

「井月の発句(俳句)十句を左に示してみる。

  梅からも縄引張て掛菜かな
  よき水に豆腐切り込む厚さかな
  泥くさき子供の髪や雲の峰
  旋花(ひるがほ)や切れぬ草鞋の薄くなる
  塗り下駄に妹が素足や今朝の秋
  朝寒や片がり鍋に置く火ばし
  稲妻や藻の下闇に魚の影
  魂棚や拾はれし子の来て拝む
  春を待つ娘心や手鞠歌
  子供等が寒うして行く火燵かな

 十句、いずれも折紙付の上質な発句(俳句)作品であると思われる。井月は、明治八年(一八七五)六月、座右の伝書『俳諧雅俗伝』なるものを書写し、長谷杉島(伊那)の俳人久蘭堂に与えている(竹入弘元氏説)。他にも伝本があり、そこには「右正風俳諧の秘書、他門の論にあらず」と記されている由(『漂白詩人井月全集』参照)。井月は、その内容に共感、自らの俳論と見做し、秘伝として示していたようである。その中に左の一説がある。

  詞(ことば)は俗語を用ゆると雖も心は詩歌にも劣るまじ、と常に風雅に心懸く可し。句の姿は水の流るるが如くすらすらと安らかにあるべし。木をねじ曲げたるやうごつごつ作るべからず。良き句をせんと思ふべからず。只易す易すと作るべし。何程骨折りけ(た)りとも骨折の表へ見へざるやうに、只有の儘に打聴ゆるが上手のわざなりと心得べし。俗なる題いは風雅に作り、風雅なる題には俗意を添へをかしく作るは一つの工風なり。

 全十句、まさしくこの秀逸論に叶った作品であるということができよう。ちなみに、この部分、芭蕉の門人土芳が記した俳論書『三冊子』〈赤双紙〉中の、

  高く心を悟りて、俗に帰るべしとの教也。つねに風雅の誠を責悟りて、今なすところ、俳諧にかへるべしと云る也。常風雅にゐるものは、おもふ心の色物と成りて、句姿定るものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはずからざれば、外に言葉を工む。是則常に誠を勤ざる心の俗成り。

 との一節を下敷きにしての論であろう。一言で言うならば「有の儘」の俳諧(発句)、「自然」の俳諧の標榜である。そして、先の子規の「月並」論の発言にも繋がっていくのである。」

**(『近現代詩歌』〜「小澤實選 俳句/井月」より)

*「  何処やらに鶴(たず)の声聞く霞かな

 どこかに鶴の鳴いている声が聞こえている。あたり一面の霞である。
 臨終の際、友人に勧められて、すでに作ってあったこの句を墨書したと伝えられている。鶴は千年生きると伝えられている鳥で、仙境に棲むもの。霞が濃くて何も見えず、この世がそのままかの世になるような不思議さがある。「何処やらに」と口語でくずしたところに井月の肉声が響く。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?