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吉田健一「早く年取ることが出来ればと……」(『作家の老い方』 草思社)/吉田健一『思い出すままに』

☆mediopos2892  2022.10.18

作家にかぎらず
それなりに仰ぎ見ていた
過去のひとたちが
次々と自分よりも
若くして亡くなっているのを知ると
それなりの感慨がわいたりもする

物理的に年を重ねたからといって
自分が成熟しているとはいえないし
かつてそれなりの事績やそれにともなった名を
残したひとたちと比べるなど烏滸がましくもあるが

なにをして生きてきたかというのはともかくとして
生まれてからそれなりの年数に渡って
太陽のまわりをまがりなりにも回ってきたことで
経験されるものもあるのではないかとも思う

そんななか『作家の老い方』という
「老い」を描いた作家のエッセイを集めたアンソロジーがあり
そのなかの吉田健一のエッセイがじんわりと沁みてきた

今年はじぶんにとって記念すべき?
シュタイナーの亡くなった年を越えた年齢になったが
吉田健一のそれまでにもすでにあと一年を切っている

じぶんが成熟しているなどとは露ほども思えないが
自分比だけでいえば若い頃よりは
なにがしかのことを少しは広く深く
考えられるようにはなってきてはいるのではないかと思える
逆にいえば若い頃はいまよりももっと粗雑に
しかも狭い範囲のことしかものを考えることができずにいた

年を経たことで変わってきたことがあるとすれば
エッセイのなかでふれられているように
「年を取ることで変わるのではなくて
それだけ自分になって行く」
それしかないことがわかってくることだろう

「○○のようになりたい」という人も多いだろうが
けっきょくのところ自分は自分にしかなりようがない
年を経てみればそのことは否応なくわかってくる

そして自分が自分になろうとするとき必要なのは
まさに生きて行く時間のプロセスなのだ
そのためにはそれなりに
「時間を掛ける」ということが不可欠となる

吉田健一曰く
「人間には成熟すること自体の他に目的がない」
つまり成熟にはゴールはなく
それは自分になって行くということに他ならないのだ

気をつけなければならないのは
そのプロセスにおいて
自分から逸れていかないようにするということだろう
(そのためにこそ「時間を掛ける」必要がある)
自分から逸れるとき
成熟とは反対に
未熟への道を歩んでいることになってしまうから

■吉田健一「早く年取ることが出来ればと…… 」
 (『作家の老い方』 草思社 2022/9 所収)
■吉田健一『思い出すままに』
 (講談社文芸文庫 講談社 1993/7)
 ※上記エッセイはその最終章の「Ⅻ」

「未熟である状態に最も欠けているのが時間の観念であると考えられる。既に早く年取ることが出来ればと思うことがどこか遠い先に自分が望む自分というものを置くことでそれならば現在は無我夢中のうちに過ぎ、その前後には空白があるばかりである。それでも時はたって行くことを我々は若いうちは知らずにいる・併し時間の経過を意識しないでいる為に時間が止まることはないのでその刻々に自分がいることに次第に気付くようになることで我々は大人の閾に近づく。それは我々がしたいことをするとか無智が知識で少しずつ埋められるとかいうことにも増してであって寧ろ時間の経過に気付くことで自分がしたことや知ったことが初めて自分のものになる。(…)
 年を取ることで変わるのではなくてそれだけ自分になって行くのである。まだ若いうちはその自分というものも不確かでどこまでが自分であるのか解らないのみならずこれを自分が努力する方向に変えて行けるという考えがあるからそれだけ事態が収拾し難い。これを庭前の梧葉風に言えば切磋琢磨という言葉も出来ていてそれが到底やれそうもないことという感じが必ずしもするものでもないので自分と呼べるものがあるのが又先のことになる。併し幾ら努力しても、或は踠いても自分以外のものになることは許されないのでそれが朧気にも頭に染み込んで来て漸く自分がいる辺りが見えて来る。或は少なくともそうとでも言う他ない。」

「若いうちというものが去っていつ人間が年を取って大人になるかということは人間の銘々が自分に即して考える他ないことのようである。今思い出してみると若いうちにこうであると思ったことはただそれだけを取り上げるならば凡て嘘だったという気がする。もし為にするということをそういう意味に用いることが許されるならばそれは何かの為にということがあって思ったことばかりでその仮設の必要がなくなれば直ぐに忘れられた。それが多種多様だったことも嘘の証拠で一人の人間に解ることはそう幾つもあるものでない。或は何れも世界を映して世界に繋る考えというものは人によって形は違っても幾つもあるのではなくていつ頃からのことなのか読むに値するものを書いた人間が言っていることはどれも際立った特色があるものでないことに気が付いた。或る種の味というようなものが共通でさえあって世界というものが一つしかない時にこれはそのことに気付くのに時間を随分掛けたことになる。
 併し時間を掛けるというのは何にでも必要なことであるらしい。」

「人間が成長することで次第に子供の状態から遠ざかって智能その他が複雑なものになるというようなことはない。或はその複雑は人間が生きて行く上で課せられる各種の条件に応じる為の複雑で更に子供というのもそれならば充分に複雑なものなのであってただ大人はその能力を用いることに熟しているだけ寧ろ単純なのである。もし考えずにただ平静な意識で何かするならばその為に精神がどれだけ複雑な働き方をしていてもそれは単純な行為なので意識もそれをそう受け取る。」

「そういうことから老後というのを風雨、波浪に存分に痛め付けられてから達する安息の地、港と考えるのは必ずしも当たっていない。それならばそれは苦労を散々した後である故にもう休んでもいいということになってただ後で少しばかり休めるから苦労することはない筈である。ここでお座なりに頼ることものないので世間並に立身出世とか今日風に何かの形で勲章を貰うとかいうことも人間が成熟し、老成する目的である訳がなくて人間には成熟すること自体の他に目的がない。それは人間であるから人間になることであってそれが簡単なことではないから若いうちというのが長い間続く。その上で人間になってからが余りに短いということがあるだろうか。これはいい思いをするのがなるべく長く続くことを望むということと違っていて今ここにいるというのは今ここにいることであってそのことに長いとか短いということはない。それが終わるのは死ぬ時だからで死に際して思い残すことがあるのはそれまでの成熟の仕方がまだ不充分だったのである。」

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