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岡﨑乾二郎「掃き掃除」 (『絵画の素』)/ユング『ヨブへの答え』/シュタイナー『アントロポゾフィー運動のカルマ的関連』・「ミカエルと龍の戦い」

☆mediopos3443  2024.4.21

岡﨑乾二郎『絵画の素』のなかに
「掃き掃除」という章がある

英語では「掃き出す」ことも「追放」も
同じくexpulsionというそうだが

「楽園追放」といえば
エデンの園のアダムとイブ
岡﨑乾二郎はトマス・コールの《楽園追放》を観て
「神は二人にむしろ冒険=駆け落ちの
機会を与えたとも思えてくる」という

そこからさらにイメージは広げられ
イエスが神殿から「掃き出した」「市場、商い」も
むしろ「神殿の外に「解放」したのではないか」と連想し

レオナルド・ダ・ビンチは
「「死」とは精神に束縛されていた物質を世界に解放する
————つまり物質が自由をとりもどす機会だと捉えた」
というのに対し

寒山と拾得の話では
「むしろ拾得は寒山を自由奔放に寺の中に
(箒を振って)招き入れた」とそれらに対比させている

こうした「掃き掃除」の話から
「ヨブ」に関するユングの視点と
ミカエルに関するシュタイナーの視点を参照しながら
人間が人間であることの意味について少しばかり考えてみたい

「ヨブ」に関するユングの視点は
「神の人間化」と「人間の神化」というイメージを
背景にしたものである

「神の人間化」とは
ヨブへの試しを通じ
対象化・客体化によって
みずからを意識化することであり

「人間の神化」とは
ヤーヴェの試しを通じ
内なる神としての自己を知ることであった

いうまでもなくこれは
人間の魂における錬金術的なプロセスのことであり

ヨブへの試しは
「楽園追放」によって得ることによる
魂の「冒険」でもあったともいえる
そしてそこには蛇(サタン)が関わっている
その唆しは両義的であり
いうまでもなく自由と同時に
そこには堕落が待ちかまえている

シュタイナーは霊界における戦いで
アーリマンとその眷属たちは
1879年に霊界から地上に追い落とされ人間界に降り
今やそれらの存在はこの地上において
人間のなかに入ってきているのだというが
ある意味でそれは
ヨブの話のように人間への試しのようでもある

人間の知性は
太陽のミカエルに由来しているというが
その後その太陽知性から惑星の知性が解放されることで
人間のなかでも両者が対立するようにもなっている

これは個人的な(恣意的な)イメージに過ぎないが
ごく単純に表現すると
霊的世界における高次存在は
地上的な物質的世界で生きている人間へ働きかけることで
みずからを変化させる力を得ている
つまり人間界は神的存在たちの反射板となっている
人間はある意味実験場ともなっているともいえる

これはヨブに対する働きかけ(客体化)によって
ヤーヴェがみずからを意識化するというプロセスでもある

人間にとってそれは
神からの働きかけによって
みずからを変容させるという機会でもあり
そこに「自由」もありまた「堕落」もある

それは「追放」され「試し」にあうことによって
はじめて可能となる機会だということができる

それを昨日の古東哲明の視点に置き換えれば
生きることの「否定性(無根拠・無目的・無常)自体が、
じつは在ることの最大肯定の論拠」だ
ということにもつながる視点でもあるだろうか

まさに「在ることの否定的な性格は、
在ることの途方もない肯定性や神秘を逆証(裏語り)」
しているのである
そのことに気づくことで
「瞬間を生きる」ことが可能となる

つまり楽園から掃き出され「追放」されることによる
人間だけが得ることのできる恩寵であるともいえるだろうか

それは寒山と拾得の話のように
「追放」ではなく「招き入れる」ことでも
得られる境地でもあるのだろうが
それは「狂」さえも内包し得ることで
はじめて成り立ちもする
さらに困難な「冒険」なのかもしれない

■岡﨑乾二郎「掃き掃除」
 (岡﨑乾二郎『絵画の素』岩波書店 2022/11)
■C.G.ユング(林道義訳)『ヨブへの答え』(みすず書房 1988/3)
■ルドルフ・シュタイナー(浅田豊訳・解説)
 『アントロポゾフィー運動のカルマ的関連』(涼風書林 2021/5)
■ルドルフ・シュタイナー
 「ミカエルと龍の戦い〜霊主体従 1917年10月14日 ドルナハ)
 (高橋巌訳『シュタイナー 悪について』春秋社 2012/2)

**(岡﨑乾二郎「掃き掃除」より)

*「「しつこく居座る客を追い返したければ、箒を逆さまに立てろ」という、「いけずな習慣」が京都にはある(という)。気位の高い古都にありそうな風習だが、された客は気づかないことも多く、ただなんとなくいづらくなりお暇するのである。ここで言う箒は、気に入らぬ客をゴミのように追放する(英語では「追放」も掃除で「掃き出す」こともexpulsionという)ことの隠喩のようにも思えるが、それならば、エデンの園からアダムとイブも、塵や芥のように掃き出されたのだろうか。

 トマス・コールの《楽園追放 Expulsion from the Garden of Eden》を見ていると、この追いだされた二人の行く末に幾多の困難が待ち受けているとしても、それはむしろ自由の証であって、神は二人にむしろ冒険=駆け落ちの機会を与えたとも思えてくる。

 神殿から市場、商いをイエスは掃き出したが、イエスがむしろ神殿に積み上げられた財、事物を神殿の外に「解放」したのではないかと連想は展開する。いわば神殿に財を集めるのではなく、神殿から何かを放出し発信する、その能力を高めた。イエスは、その行為を結果として世界中に撒き散らし、広めたとは言えないか。

 ちなみにレオナルド・ダ・ビンチは、「死」とは精神に束縛されていた物質を世界に解放する————つまり物質が自由をとりもどす機会だと捉えた。

 さて拾得(じっとく)は、唐の時代、天台山国清寺で修行する行者だったけれど、奇行で知られた。その彼に親友ができる。寒山(かんざん)という名の詩人は深い教養があったけれど、行動はおなじく野生の動物のようで、人の道に反していたから、その振る舞いはまるで予測できない。一方、寺に勤める拾得がまともにできる仕事は、箒で掃除することくらいしかなかったが、彼はこの野生の知識人————寒山を決して掃き出しはしなかった。むしろ拾得は寒山を自由奔放に寺の中に(箒を振って)招き入れたのである。寒山と拾得が自由奔放に闊歩している国清寺は、自由あふるる別天地として知られるようになり、やがて寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩とみなされるようになったという。」

**(ユング『ヨブへの答え』より)

*「『ヨブ記』は、信仰あつく神に忠実であるのに神に打ちのめされた男を見通しのよい舞台の上に立たせ、そこで彼は世界中の耳目の前に自らの問題を繰り広げてみせる。すなわち驚くほど易々よ、また理由もなく。ヤーヴェは息子たちの一人である疑いの心にそそのかされて、ヨブの忠実に疑いをもたされてしまう。彼は持ち前の過敏症と猜疑心のために、ただ疑わしいというだけで興奮してしまい、彼がすでに楽園での試みのさいにとったあの独特の行動をとらざるをえなかった。すなわち肯定と否定とかならなる両面的な行動様式であって。彼は最初の両親に対して樹に注意を向けさせておきながら、同時にその実を食べることを禁じた。それによって彼は彼らが知らず識らずのうちに罪を犯すように唆したのである。今度もヤーヴェは、ヨブの忠実と不動の心を確信しているにもかかわらず、しかも彼の全知をもってすれば————彼がそれを使いさえすれば————そのことを疑いの余地なく確かめられるにもかかわらず、忠実な僕ヨブを理由もなく益もないのに道徳的に試みようとするが、そうした試みがなされ、非良心的なけしかける者との掛け金なしの賭が無力な被造物の背後でなされねばならないのは、なぜなのか。ヤーヴェが忠実な僕を即座に悪魔の手に委ね、冷酷無情に肉体的道徳的苦痛のどん底に突き落とす光景は、けっして気持ちのいいものではない。この神の振る舞いは人間の立場から見るとあまりにひどいものなので、その背後には何か深遠な動機でも隠されているのかと考えさせられてしまうほどである。」

*「ヨブの友人たちは彼の苦しみに道徳的拷問を付け加えようと力の限りを尽くし、神に裏切られた彼の傍らに少なくとも暖かい心をもって付き添っていてやり代わりに、あまりにも人間的な・すなわち退屈な・説教をし、同情や人間らしい理解をしてもらうという最後の望みさえ彼から奪い取ってしまう。この場合にそれを神が黙認していたのではないかよいう疑念を完全に振り払うことはできない。

 ヨブの苦しみと神の賭がなぜ突然終わるかは、簡単には理解できない。ヨブが死なないかぎり、この無用の苦しみはいつまでも続きそうである。しかしわれわれはこの出来事の背後に眼を向けなければならない。その背後でならば、何事かが・すなわちこの無実の苦しみに対する補償が・次第に形をなしつつあったということも、ありえないことではないだろう。補償についてヤーヴェは、もちろんかすかに予感する程度であったとはいえ、知らぬ顔をきめこむことはできなかった。すなわち罪もないのに苦しんだ者は、我知らずまたそのつもりもないのに、いつの間には神でさえ持っていない神的な認識の高みにまで昇りつめていたのである。もしヤーヴェが彼の全知を駆使していたなら、ヨブが彼より優れたところを持つということにはならなかったであろう。しかしその場合にはもちろん、その後のいろいろなことも起こらなかったであろう。

 ヨブは神の内的な二律背反を認識し、それによって彼の認識の光はおのずと神のヌミノースな性質にまで達する。このような発展の可能性は、推測するなら、人間が神の似姿であるということに基づいている。もちろんこれを姿形が似ているという意味にとってはならない。この誤りをヤーヴェ自身は偶像禁止によって予防した。ヨブは聞き届けてもらえるという希望がなくても、神に対して事情を説明するという考えを変えようとしないで、神に立ち向かい、そのために困難に出会ったが、この困難を通じて神の本質が明らかにならざるをえない。この劇的な盛り上がりの中で、神はこの残酷な賭を突然中止する。しかし中傷者[サタン]に対して彼の怒りが向けられることを期待するなた、ひどくがっかりさせられるであろう。ヤーヴェは息子[サタン]の言うとおりにしたのに、息子に責任を取らせようとは考えもしなければ、彼の行動をヨブに説明することによって少なくともある種の道徳的な弁償を与えようとは思いつきもしない。その代わりに彼は嵐を巻き起こしながら全能をひっさげてやってきて、踏み潰されそうになっている虫けらのような人間に雷のような非難の声を浴びせる。

  「無知の言葉をもて
  神の計りごとを暗かしむるこの者は誰そや?」

 ここでこれに続くヤーヴェの言葉を考慮に入れてみるならば、「ここで誰がいかなり計りごとを暗くしているのか?」と問いかけざるをえない。なぜ神がサタンと賭をしなければならなかったのかということこそ、まさに暗いことではないか。」

*「それゆえヤーヴェの問いに対しては次のように答えざるをえない。それはヤーヴェ自身である。彼が自分自身の計りごとを暗くし、彼が無知なのである、と。彼はいわば鉾先をかえて、自分のしていることについてヨブを非難している。つまり人間は神について意見を持つべきではないし、ましてや神でさえ持っていない知恵を持つことは許されないと、言っているのである。」

*「[ヤーヴェの]性格を判断すると、それは客体によってしか自分の存在感をもてない人格に相当することが分かる。主体が自己反省せず、したがって自分自身への洞察を持たないときには、客体への依存は絶対である。主体は自分が存在していることを確信させてくれるような客体を持っていることによってのみ存在できるかのように見える。ヤーヴェがもし本当に自分のことが分かっている————少なくとも物の分かった人間ならそうなるはずである————ならば、彼は実際のありようを考えて彼の義への称賛を止めさせたはずである。しかし彼はあまりに無意識的であるため、「道徳的」であることができない。道徳性は意識を前提とする。このことはもちろんヤーヴェがグノーシス主義のデミウルゴスのように不完全であるとか邪悪であるとかいう意味ではない。彼はどの性質をとっても全存在においてその性質であり、なかでも義であることにおいてどこまでも義であるが、その反対であることにおいても同じように完全である。彼という存在について統一的なイメージを作ってみようとするならば、少なくともこう考えてみるよりないのである。この場合われわれはここに描いたイメージが擬人的なものにすぎず、それも特別に具象的なものではないことを承知していなければならない。この神の現れ方を見ると、個々の性質が互いにあまり関係をもっていないために、分裂してそれぞれが矛盾した動きをするのだということが分かる。たとえばヤーヴェは人間を造ったことを後悔するが、しかし彼の全知をもってすれば、その人間が何をしでかすかは初めから分かっていたはずである。」

**(ユング『ヨブへの答え』〜「訳者解説」より)

*「本書を理解するためには、「神の人間化」と「人間の神化」というイメージの意味を理解することは是非とも必要である(・・・)。「神の人間化」とは結局「神の意識化」ということであり、「人間の神化」とはつまり人間が内なる神を(ユングの用語で言えば自己を)知る(体験する)ということであった。

 ユングは「インドに教わること」という短文の中で、「仏陀という全世界の精神的先達は、悟りを開いた人間はその神々に対してさえ教師であり救済者であると言った」が、これは「神々を意識に統合すること」「神が理念へと変容すること」を意味しており、「人間の意識の極度の発達にかかっている」が、それは当時の人々の手にあまることであり、それゆえ仏陀は歴史に負かされたのだと論じている。

(・・・)

 人間が神を意識化し、自らの内なる神である自己に気づくと、人間は「自我インフレ」の危険にさらされる。外の権威がなくなり、自我が内なる神と同一化すると、人間は無限のヒュブリス(傲慢)に陥るのである。それを防ぐには、「人間が、堕天使からこっそり渡された超人的な力に対抗できるほどの、高い道徳的段階に・すなわち高い意識水準に・まで昇る」ことによって、「自分自身の性質についてさらによく知るようになる」しかないのである。

 人間の内には、一方ではパウロが述べているようにサタンの使いから逃れることのできない罪人がいると同時に、他方には「その姿はどれほどの広がりをもつのか見当もつかず、彼をあらゆる方面から包み込んでおり、地の底のように深く天のように拾い」神的なものが存在している。人間はその間の分裂に悩まされなり、どちらかに憑かれて翻弄されないためには、その両方を意識化するのでなければならない。それが神の善悪両面を認識するということなのであり。神を知るとは自分自身を知るということに他ならない。本書を通じてユングが言わんとしたことはまさしくこのことであったとは言えないであろうか。」

**(シュタイナー『アントロポゾフィー運動のカルマ的関連』〜「講演11(1924年8月8日)」より)
 
*「これは常にそうだったのですが、ミカエルが太陽知性を一人で管理していたとは言えなかったのです。そうではなく、宇宙知性全体は太陽知性と、水星、金星、火星などの知性に細分化されているのです。宇宙の知性は大天使の位階の個々の存在によって一緒に管理されていますが。しかしそれら全ての上に立って常に管理しているのがミカエルです。ですから、宇宙の知性の総体はミカエルによって管理されているのです。当然のことですが、全ての個人は以前も一人一人の人間でした。ミカエルが宇宙の知性を管理し、その一条の光は一人一人の人間の中には要ってきたとき、その時人間はしかしながら、自分を地上の人間として感じることができたのです。そして個人は一般的な宇宙の知性を包み込む何たる覆いではなかったのです。しかしこれは太陽からきているのです。人間の知性は全て、太陽のミカエルに由来しているのです。

 ところで8世紀、9世紀、10世紀という世紀がやってきたのです。ここでつまり惑星の知性が、地球が変化してそしてまた太陽も変化したという事情を考慮に入れるようになったのです。(・・・)みなさんご存じのようにおよそ11年ごとに太陽の黒点の時期がやってきます。太陽は地球に向かって光っていますが。ある部分が暗いのでし・ある部分がまだらになっているのです。これは昔らそうだったわけではありません。非常に古い時代には、太陽は一様に輝く日輪だったのです。黒点はなかったのです。そしてこれから何千年も経つと、今日よりももっとずっとたくさんの黒点が現れるでしょう。太陽はますますまだらになるのです。これは常に、ミカエルの力つまり知性の宇宙的力がますます衰えていくことの外的な現れなのです。宇宙の発展の中で太陽の黒点がますます増えていくことが、太陽の衰退を表しています。(・・・)そしてある十分な数の1太陽の黒点が現れるとき、他の惑星の知性たちは、彼らがもはや太陽に支配されたくないことを認識しました。彼らは、地球がもはや太陽に依存しているのではなく、直接に全宇宙から依存していることを意図しました。これは大天使たちの惑星会議で決定されたのです。特にオリフィエルの指導のもとに、惑星の知性が太陽知性から解放されたのです。それまでは一体であった宇宙諸力が完全に分離したのです。ミカエルの太陽知性と惑星の知性たちは、宇宙において、だんだんと、お互い対立するようになっていったのです。」

*「ミカエルの領域にとどまった天使位階の存在と繋がっている人間にとって、彼らが理解するべきもののために知性の形式を見出すことが難しくなります。彼らは個人的な知性と、ミカエルに対する尊敬の念とが両立できるように努めます。15世紀と19世紀におけるあの準備に参加した魂たちは地上に降りてきますが、まだミカエルとその領域に対する最も深い欲求を持ち続けているのです。しかしながら彼らは人類の発展原理に従って。個体的、個人的な知性を受容するべきなのです。これには葛藤が付きまといます。しかしこの葛藤は、精神的な発展つまり個人的な活動と、霊的な世界が現在の知性の時代に地上にもたらすものが一体となることによって、解決されるべきなのです。離脱した天使と関わっている人間の場合、これはもちろん、カルマと関係しているのです。つまり、天使が離脱するというのは、それに相応するような人間のカルマと関わっているからなのです。このような天使と結びついている人間たちは、全く当たり前のように、個人的な知性を受け入れます。全く自明のようにです。そのかわりにこの知性は人間の中で自動的に働きます。肉体性を通して働くのです。この知性が働く場合、このような人間たちは考え、利口に考えますが。彼らはどこに参加していないのです。これが、ドミニコ会士とフランシスコ会士の間で長い間続いて、大きな論争でした。ドミニコ会士たちにとっては、個人的な知性の原理を、ミカエルの領域にできる限り忠実に形成する以外の道はありませんでした。フランシスコ会士たちはドゥンス・スコトゥス————スコトゥス・エリウゲナではありませんよ————の信奉者であり、彼らは全く唯名論者になったのです。彼らは言いました。————知性とはただ単に言葉の相対に過ぎない。人間の間でこのように行われた全ては、まさしく本当に一群の天使と、もう一つ別の一群の天使との間で行われた壮大な戦いのイメージなのです。

 ご覧ください、実際にそうなのです。地球原理と結合した天使の位階の存在が、およそ9世紀、10世紀から本当に地上で生きているのです。(・・・)
 地上では物質主義が増大します。そしてまさに一番進歩を遂げた、最も賢い人間たちが霊的なものを否認し、彼らの周囲に、物質的人間と同じように霊的な人間がいるなどということを嘲笑し始めるのです。この物質主義が広まっていく時代に、ますます多くの天使が降りてきて、地上で生きているのです。彼らも参加しているのです。そして特に彼らが、人間の意識が鈍って居るとき、そのような時に、入体して地上で活動するのです。天使の中の大多数の存在は差し控えています。しかし、自分の天使のカルマにおいてアーリマン諸力の一番近くに立っている天使たちは、遠慮せずに人間の中に入体し、ある時期、人間の中に選入するのです。」

**(シュタイナー「ミカエルと龍の戦い〜霊主体従」より)

*「十九世紀中葉、特に四〇年代は、ヨーロッパとアメリカの人びとの意識の進化にとっての重要な転換点でした。その当時、地上における唯物主義的な知性がその頂点に達しました。生きた現実ではなく、死せる現実の知的理解が頂点に達したのです。

 現在の私たちはこの事実の影響下に立っています。これからも長い間そのような影響下に立ち続けるでしょう。けれどもこの事実の深い根拠は、霊界の経過の中に見出せるのです。そして今述べた事実がその外的、地上的な表現であるところの霊界の経過を洞察しようとするなら、その頃に始まった霊界における一種の戦いに眼を向けなければなりません。この戦いは。これまでもたびたび述べてきた一八七九年の秋という時点で一種の集結を見ました。霊界におけるこの戦いは、十九世紀の四〇年代から一八七九年の秋まで続きました。

 このときの戦いは、現代の私たちの戦いとはまったく異質の、霊的存在たちの戦いでしや。一方は大天使ミカエルとその眷属たち、もう一方はアーリマンとその眷属たちでした。ですからこの叩きは、はじめは霊界でも戦いでした。(・・・)

 この戦いは十九世紀の四〇年代、五〇年代、六〇年代、七〇年代と続き、そして一八七九年の秋に、ミカエルとその眷属たちがアーリマンとその眷属たちに対して勝利したことで決着を見たのです。」

「一八七九年以降、多くの人の魂の中に生きている深刻な衝動は、それまでは霊界でのアーリマンの力として働いていたのです。そして今やその力が人間界に降りてきたのです。」

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