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戸谷洋志「スマートな悪/技術と暴力について(最終回)」

☆mediopos-2581  2021.12.10

「人間は常に何かの歯車である」

私たちはなんらかのシステムの一部として
生きていかざるをえないところがある

アイヒマンはみずからの行動を
「組織の命令に従っただけである」としたが
アーレントはそれを「歯車理論」として批判した
「歯車であり続けようとしたこと自体の責任は
避けることができない」というのである

しかしアーレントの「歯車理論」からすれば
私たちは「歯車」として生きるか
そうでないかを選択できることになる
しかし後者を完全に選択することは
現実的にいってきわめてむずかしい

したがって問題はさらに
別の角度からとらえていく必要がある

組織には閉じたメカニズムがあり
そのメカニズムを「よりスマートにする」ためには
不確定要素を排除し閉鎖したシステムとして
みずからを「最適化」していかなければならないから
「スマートなシステムのなかに嵌め込まれた歯車は、
外部との接点を失ってしまう」ことになる

問題は「歯車」であることそのものではなく
「一つの閉じたシステム」(世界観)を唯一のものとして
みずからを最適化した「歯車」としてしまうところにある

もちろん別のシステム(世界観)もまた
「一つの閉じたシステム」ではあるのだが
複数のシステムへと開かれていれば
「絶対的な閉鎖性を乗り越えることができる」

そのためには「歯車」というありようを
とらえなおすことも必要になる
一つのシステムに最適化された「歯車」は
そのシステム内でしか働き得ないからだ

そうした「絶対的な閉鎖性に抵抗する道具のあり方」を
戸谷氏は「ガジェット gadget」と呼んでいる

「ガジェット」は「歯車」のような
一つのシステム内における最適化の道具ではなく
「潜在的に転用可能な道具であり、
究極的に何らかのシステムに還元されない道具」
としてとらえられる

「ガジェット」は「歯車」としても機能し得るが
ある特定のシステムのためだけのものではなく
別のシステムやネットワークにも転用可能な道具なのだ

さて現在ますます強化されつつある管理社会においては
人は特定の「歯車」になることが求められている
つまり社会システムそのものが
「アイヒマン」生産工場へと向かっているともいえる
そして自己責任という名のもとに
「歯車」である責任は
みずからが負わなければならなくなる

学校や会社・団体など特定の組織という
「スマートなシステムのなかに嵌め込まれた歯車」
と化しているとき
ひとは姿を変えた「アイヒマン」となっている

そのためにもわたしたちはみずからを
閉じたシステム内に最適化される「歯車」としてではなく
特定のシステムに還元されない「ガジェット」として位置づけ
複数のシステムへと開かれた存在としていく必要がある
みずからの「世界観」を開かれたものにしていくことで
「アイヒマン」になることを避けることができるのだ

■戸谷洋志「スマートな悪/技術と暴力について(最終回)」
 (『群像 2022年1月号』講談社 所収)

「ハンナ・アーレンは、組織の命令に従っただけであることを理由に、自らの責任を相対化したアドルフ・アイヒマンの主張を、「歯車理論」として批判した。そして、法廷においてその理屈は成り立たないということ、たとえ組織の歯車だったのだとしても、歯車であり続けようとしたこと自体の責任は避けることができないということを、指摘している。
 アーレンとの主張に従うなら、私たちは、歯車として存在するか、歯車でないものとして存在するかを、自分で選択できることになる。そして、もしも組織の歯車となることで悪に加担せざるをえず、それを避けようとするならば、歯車であること自体をやめなければならない、ということになる。歯車になってしまったら、人間の良心は搦めとられてしまう。良心そのものが、歯車の歯と歯に、無数の溝に最適化されてしまうからだ。
 組織を一つの大きな機械として捉えるなら、そこには一つの閉じた機構が、メカニズムが存在する。あるメカニズムをよりスマートにするためには、そのメカニズムのなかに存在しうる不確定要素を可能な限り取り除かなければならない。スマートなシステムはその本質において閉鎖的である。全体を最適化するためには、その全体から、最適化を疎外しうるすべてのものを排除しなければならないのだ。
 だからこそ、スマートなシステムのなかに嵌め込まれた歯車は、外部との接点を失ってしまう。一度、そのシステムへと最適化された人間の良心は、もはやそのシステムを相対化する外の視点を持ち得なくなるのであり、そしてスマートなシステムは、そうした状態が完成することを目指すのである。全体を構成する部分が、立ち止まることなく、絶え間なく、与えられた機能を果たし続けることこそが、システムのスマートさを支えているのだ。」
「スマートなシステムへと良心が最適化され、それによって、悪に加担することから逃れられなくなること----それを本連載では「スマートな悪」と呼んでいた。では、こうした悪に抵抗するために、私たちは自分たちが属しているシステムを、あるいは私たち自身を、どのように理解し、捉え直すべきなのだろうか。」
「再びアイヒマンを例にとってみよう。彼はナチスに自分を最適化させていたのであり、その一つの歯車だった。彼にとってナチスは一つの閉じたシステムを----世界観を----提供するものだったに違いない。しかし、それは彼にとって唯一のシステムではなかったのだ。彼は、自分の行いをナチズムによってではなく、別の世界観のもとで捉え直すこともできたはずだった。もちろんその別の世界観もまた一つの閉じたシステムである。しかし、そうした複数のシステムへと回路を保持していれば、アイヒマンは、少なくともユダヤ人の虐殺に加担することが絶対に正しいという確信を持てなかったはずである。その確信が揺らぐ瞬間に、自分の行為について思考し、判断を下す可能性が開かれる。
 しかしアイヒマンはそうした可能性をつかみ取ることができなかった。それは彼にとってナチズムが、別様でありうる複数のシステムのなかの一つではなく、それ以外が不可能であるようなシステムとして立ち現れていたからである。この意味においてナチズムは絶対的な閉鎖性を体現していたに違いない。」

「アーレンとならこう言うだろう。だったら歯車であることをやめればよい。ではそのとき、歯車であることをやめる、ということは、いったい何を意味しているのだろうか。もしもそれがあらゆる組織から独立し、孤独に思考し判断できる主体になる、ということであれば、少なくともそては多くの人にとって不可能な要求であろう。それができないからこそ、人間は組織を作り、他者と共に生きているからだ。
 もちろん、自分は組織の歯車などではない、と自任している人もいるかもしれない。たとえば、それまで会社員として企業の歯車となって働いていたが、その不自由さに嫌気がさして独立し、フリーランスになった、という人もいるだろう。しかしそうした人も、何らかのビジネスに携わっている限り、顧客との関係においてあるフレームワークの中に嵌まり込んでいるのであり、そのなかでは依然として歯車であり続けている。あるいは納税をしているのであれば、国家の徴税というシステムのなかではやはり歯車であり続けている。
 人間は常に何かの歯車である。人間が歯車でなくなることは、ほとんど想像することが不可能なほど、非現実的である。私たちはそれを前提にせざるをえない。ただしこのことは、だから人間はスマートな悪に抵抗できない、ということを意味するのではない。歯車であらざるをえないからといって、悪への加担から逃れられないとは限らない。
 したがって、考えるべきなのは、歯車でありながらも良心を最適化されないためにはどうしたらよいのか、ということだ。」
「たとえば、あるメカニズムでしか使用することができない歯車は、そのメカニズムのなかに絶対的に閉ざされている。もしも人間がそうした歯車として存在しているのであれば、その人間は悪への加担に抵抗することができない。しかし、たった一つのシステムに閉ざされているのではなく、複数の閉鎖的なシステムへと開かれている歯車であれば、そうした絶対的な閉鎖性を乗り越えることができるだろう。」

「私たちは、こうした絶対的な閉鎖性に抵抗する道具のあり方を、術語的に「ガジェット gadget」と呼ぶことにする。」
「あらゆる道具が閉鎖的なシステムに帰属している。そうしたなかで、ガジェットは、もともと帰属していたシステムから離れることができる道具であり、しかも、そうしたものとして扱われる道具である。ただしそれは、ガジェットが何らかのシステムにも帰属せずに使用される、ということを意味しない。ガジェットが使用されるとき、それは常にあるネットワークのなかに埋め込まれる。しかし、そうであるにもかかわらず、ガジェットは最初からそのネットワークのためだけに存在していたわけではない。だからこそ、潜在的には別のネットワークにも転用可能である。」
「ガジェットを語源的に解釈すれば、それは、潜在的に転用可能な道具であり、究極的に何らかのシステムに還元されない道具として理解されうる。」
「ある閉鎖性のうちに、新しい別の閉鎖性への回路を開くという点にこそ、ガジェットの真価が発揮されるのだ。」

「私たちが、さしあたりは組織の歯車でしかないとして、それでも悪への加担に抵抗するためには、私たちはどんな歯車である必要があるのだろうか。それに対して筆者は次のようなアイデアを提示したい。すなわちその歯車とは、ガジェットとしての歯車である、ということだ。」
「開放性とは、複数の閉鎖性への開放性である。そうした開放性が人間の良心を全体最適化から免れさせる。そして、ガジェットとは、このような意味において開放性を実現する道具である。それが潜在的に無限に転用可能な道具であるからこそ、ガジェットを介在させたシステムが唯一のものではなく、別のシステムがありうるという可能性を、そのシステムのなかに宿らせる。だからこそ、人間が自らをそうした存在として理解できるなら、そのとき人間がスマートなシステムのただなかにありながら、思考の可能性を取り戻すことができる----そのように考えられるのではないだろうか。」

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