玉川奈々福 編著『語り芸パースペクティブ/かたる・はなす・よむ・うなる』
☆mediopos-2369 2021.5.12
芸能のはじまりは
神々への捧げ物だったようだ
つまり観客が神々
その後「お客様は神様」となって
人間がその芸能を享受するようになり
そこで多様な語り芸が生まれてくる
玉川奈々福という浪曲師によって
2017年4月から翌年の2月にかけて
「玉川奈々福がたずねる語り芸パースペクティブ
〜この国の物語曼荼羅〜」全11回が行われ
その内容が一冊にまとめられている
(その実際の模様のダイジェストがYouTubeでも視聴できる)
その第1回目が
映画監督の篠田正浩を迎えた
日本の「語り芸の水脈」についてのお話
篠田正浩の『河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶』(2009)には
ずいぶん啓発された記憶があるが
この2021年4月には映画『夜叉が池』リメイク版公開を記念して
泉鏡花をめぐる文章が増補された新版が刊行されたところ
ぼくは日本人とという意識はわりと稀薄なほうなのだけれど
あらためてふりかえってみると
小さな頃からいわゆる伝統芸能を
空気のようにして受け取っていたところがある
その空気にその後現代的な音楽などが重ねられていく
伝統芸能の「語り」について意識するようになったのは
おそらく小沢昭一さんの
『ドキュメント「日本の放浪芸」』に魅せられ
そうした「芸」を意識的にとらえるようになってからだ
そういえば以前ディレクターの仕事で
小沢昭一さんの講演会のお世話をしたとき
ファンだという高齢の方が
持参された「ドキュメント 日本の放浪芸」(CD)に
ぜひサインを!と楽屋に訪ねてこられたことがあった
さて今回『語り芸パースペクティブ』のなかから
「語り」のほんらいを垣間見せてくれる
能についてのところから引用紹介してみた
能のワキ方は
うつつ世とあの世の境にいるという
そして「全力をかけて何もしないこと、
それがワキの役割だ」ともいう
そもそも能は最初は多くの観客をもったが
その後「お客さんから離れていき」
「死者にどんどん近づいていった」という
つまり「能というのは
ここにいない方に向けても発せられて」いる
そしておそらく重要なのは
「能は基本的に詞章があ」るが
「舞になるとまったく詞章がなくな」り
「意味としての言葉がなくなる」
つまり「意味から脱出する」
だからそこで語られる筋そのものが
意味をもっているのではなくなる
おそらくそれは能を見る観客もまた
そこでは「うつつ世とあの世の境」にいることになる
ということなのかもしれない
バッハに『音楽の捧げもの』という曲集があるが
おそらく深いところで
芸能というは私たちの深みにいる存在たちに
捧げられるものだといえるのかもしれない
だからある意味音楽というのは
「意味」に縛られないでいようとするところがある
重要なのは「意味」ではなくその深みにあるものなのだろう
詞が重要であると思われるときでさえ
それは詞を超えたものを響かせている
■玉川奈々福 編著
『語り芸パースペクティブ/かたる・はなす・よむ・うなる』(晶文社 2021.3)
■篠田正浩『河原者ノススメ―死穢と修羅の記憶』(幻戯書房 2009.11)
■小沢昭一『ドキュメント「日本の放浪芸」/小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸~』
(ビクターエンタテインメント 1999.12)
・1971年から1977年までに発売された、小沢昭一「ドキュメント 日本の放浪芸」シリーズ全4部作。
(玉川奈々福「まえがき」より)
「玉川奈々福がたずねる語り芸パースペクティブ〜この国の物語曼荼羅〜」。
二〇一七年四月から、翌年二月にかけて一一回開催した実演と講演の記録を、本にまとめました。」
「この国は伝統芸能がとても多い国ですが、中でも語り芸が多いことは、大きな特徴のように思っております。しかも、中世このかた生まれた多くの語り芸が、いまも現役の芸能として残っております。今回、「語り芸」としてご登場いただいた芸能は、「節談説教」「説経祭文」「ごせ唄」「義太夫節」「講談」「女流義太夫」「上方落語」「能」「浪曲」「江戸落語」……浮沈はあれど、消えていないという……今後はわかりませんが。
これに、今回入れることができなかった語りの芸はまだまだあります・
私は浪曲師です。浪曲は比較的新しい語り芸ですが、今をときめく芸とは言い難い状況です。でも、実演の舞台に日々立ちながら、そこでいただけるものだけで、生活しております。
それを生業にしている芸人がいる、ということは、それを支える観客がいる、ということ。この国の文化政策の貧しさを訴える声を巷間よく聞きます。また、芸によってそれをめぐる状況にさまざま差はあるでしょうが、さほど保護されずとも、木戸銭だけで食べている芸人たちが実際にいて、支える土壌がある……とても豊かなことだと思います。
物語に身をひたし、心あそばせ、しばしうつつを忘れることで。心身が再生される、その作業を、この国の多くの人たちが楽しんでくださっている。視覚優位の時代に、想像力を駆使することを観客に強いる、ミニマム極まる芸能が……ほんとに、なぜでしょうね?
それだけ多様な語り芸が背負ってきたものは、なんなのか。
その道を生きる方々に、ご修行の形や、大事に思われていることや、その芸の本質をどうとらえておられるかを語っていただきました。それが、そんなミニマムな芸を発達させてきた、この国の想像力の源泉を、多少なりとも照らすことになればと思います。
最初に、篠田正浩監督『河原者ノススメ/死滅と修羅の記憶』から、ひとつの文章を引用させていただきます。
「芸能はそれ自体、混沌(カオス)である。日本の伝統として権威化されている雅楽や能狂言の内実は、中国大陸、朝鮮半島はもちろんのこと、インド、中央アジアやヴェトナム、インドネシアの土俗芸能の合成である。この混合(ハイブリッド)を媒介したのがヒンドゥー教、道教であり、とりわけ六世紀に伝播した仏教による影響の巨大さは計り知れない」
芸能社は、最初は神のご機嫌をうかがい。いつしか、観客のご機嫌をうかがうようになった。あの世とこの世、聖と俗、貴顕と最底辺の間をいつもいつも、行ったり来たり。」
(第7章「能」(安田登・槻宅聡)より)
「《向上》(玉川奈々福)
このシリーズに「能」を入れたことに驚かれた方が多かったようです。はたして、能は、語り芸であるのか。
能は、舞である、との言い方もあり、能は演劇であるという言い方もあり。
能は、語り芸であるか。私は、そう言えると思います、が。」
「なぜシテ方ではなくワキ方の先生に来ていただいたのか。」
「ワキというと脇役のように思われるかもしれませんが、そうではありません。先生はよく扇を例にとられ、扇の表面がうつつ世で裏面があの世だとすると、その境目のこのワキにいるのがワキ方だ、おおっしゃるんです。「全力をかけて何もしないこと、それがワキの役割だ」とおっしゃいます。何もしないことを使命としている人が、お能の舞台にはいるのです。」
「動かずに何をしているのか。ワキ方は、シテ方のこの世に残した思い、残念を全力をかけて聞く人です。語りというのは聞き手があって初めて成立しますから、この「語り芸パースペクティブ」で最古のお能において全力で聞く人、聞く役割の方をお呼びした、というわけです。」
「安田/能は六五〇年ほど前に完成し、その後多少の変化はありつつも、そのまま続いているという珍しい芸能です。言葉も六五〇年前の言葉ですので、わかりづらい。そして能は、年がたつごとに観客から離れていったというおもしろい芸能でもあります。最初の頃はすごく観客に近く、桟敷が壊れるほど人気がありました。それがだんだんお客さんから離れていき、後で詳しくお話しますが、死者にどんどん近づいていったのです。」
「安田/先ほどお話ししたように、能というのはここにいない方に向けても発せられています。特にそれが顕著なのがお囃子です。お囃子は音楽とは違うんですよね。」
「安田/能は基本的に詞章がありますが、舞になるとまったく詞章がなくなりますよね。意味としての言葉がなくなる。
槻宅/意味がないというか、意味から脱出する。
安田/そうですね。慣れない方は、意味がわからないと非常に動揺して、意味を見出そうとする。僕たちはやっぱり意味の世界に生きていますから意味がないと困るし、動揺する。でもその困った状態を引き受けて、一〇年ぐらい能を観続けていくと、意味の世界から脱して、なんだか気持ちよくなってきます。能は幽霊の世界が多い。ふだん生きている意味の世界からいかに脱するかが重要なんですね。その解体を行うのが実はお笛です。(…)
槻宅/意味の世界って、結構狭いですよね。
安田/そう、意味の世界は狭いです。後で語りをする夏目漱石も、能を習い始めてから書いた「草枕」の中で、小説は筋なんて読むものじゃない、と言っています。筋のない小説なんて、信じられますか。小説において筋はどうでもいい、ミュートス(筋)ど大事だと考えるアリストテレスと正反対の言い方をしています。それが能の世界です。」
「奈々福/さっき槻宅さんは能に自由を感じたとおっしゃいましたが、伝統という点では最も長い。継承についてはどう意識されていますか。
槻宅/継承。あんまり私は考えていませんね。
安田/僕も考えていません。
奈々福/ほーう。でも、師匠の声とか師匠の笛の音とかを目指すということは、私は考えますよ。
安田/狂言の方は師匠に似ている方が多いですが、能は、師匠とはあまり似ません。ねえ。
槻宅/似ない。
安田/僕もあまり鏑木岑男に似ていないでしょ。
(…)
奈々福/よしとされないんですか。
安田/型にはめるようになると、何か「バーンッ!」というのがなくなってしまう。
奈々福/「バーンッ!」というのが重んじられるわけですか。
安田/そもそも「バーンッ!」が、重要ですね。」
◎「玉川奈々福がたずねる語り芸パースペクティブ〜この国の物語曼荼羅〜」全11回の内容
■第一期 日本芸能総論、節談説教、説経祭文、ごぜ唄
2017年
〇4月17日(月)日本芸能総論 篠田正浩(映画監督)
〇5月26日(金)節談説教
廣陵兼純(説教師・満覚寺住職)釈徹宗(相愛大学教授)
〇6月14日(水)説経祭文+ごぜ唄
渡部八太夫(説経祭文)・萱森直子(ごぜ唄)
■第二期 義太夫節、講談、女流義太夫、能
〇8月15日(火) 義太夫節
豊竹呂勢太夫(人形浄瑠璃文楽太夫)・鶴澤藤蔵(三味線)児玉竜一(早稲田大学教授)
〇8月25日(金)講談
神田愛山(講談師・東京)旭堂南海(講談師・上方)
〇9月26日(火)女流義太夫
竹本駒之助(義太夫・人間国宝)鶴澤寛也(義太夫三味線)児玉竜一(早稲田大学教授)
〇10月30日(月) 能楽
安田登(下掛宝生流ワキ方)槻宅聡(森田流笛方)
■第三期 上方落語 江戸落語、浪曲、そして語りの芸の来し方、これから
〇11月15日(水)上方落語
桂九雀(上方落語)小佐田定雄(落語作家)
〇12月18日(月)浪曲
澤孝子(浪曲師 曲師:佐藤貴美江)稲田和浩(浪曲作家)
〇2018年
1月29日(月)江戸落語は「語り芸」か?
三遊亭萬橘(落語家)和田尚久(演芸研究家)
〇2月19日(月)
語りの芸の来し方、これから 安田登(能楽師)×いとうせいこう(作家)
場所:カメリアプラザ和室(江東区亀戸 カメリアプラザ6F)
第二回のみ、カメリアホール(江東区亀戸 カメリアプラザ3F)
(映像 田島空)
◎語り芸パースペクティブ総合ダイジェスト
◎「語り芸」の語られざる深層を掘り起こす
――見本出来!『語り芸パースペクティブ』
(玉川奈々福 編著)【開封動画】