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四方田犬彦『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』

☆mediopos3292  2023.11.22

四方田犬彦は子供のころから
台所にいるのが好きだったそうだ

そして教職を退いている現在
「一日のなかでもっとも長く身を置いているのは、
執筆のための書斎を別にすればおそらく台所である。
台所こそがわが領土、わが王国なのだ」という

本書は十年ほど前の
『ひと皿の記憶』に続く料理論集であり
タイトルは料理において重要な
「塩と胡椒」を意味する『サレ・エ・ぺぺ』
序文では著者の「塩」への依存と
そこからの自由について両義的に語られている

「塩分をまったく使用しない料理を作っていたときに
つくづく感じたのは、自分のそれまでの食生活が
いかに塩に依存していたかという事実だった」

「塩も胡椒も用いない料理を作る。それはわれわれの食を
無意識的に統括してきたイデオロギーから、
自分を解き放つ契機となるのではないだろうか」

というのだが本書では
人はなぜ「本物の料理」を求めるのか
なぜ知らない料理を食べたいと思うのか
といったことが問われ

「食べる」ということは
生理的な意味での食物摂取であるというだけではなく
歴史的に形成されてきたものあり
「日本料理」と称されるものなどをはじめ
それらのさまざまな料理という現象なかにおいて
「見えない政治」が働いていることが示唆されている

塩と胡椒への依存とそこからの解放のように
「料理」への依存とそこからの解放ということ
解放といってもその否定ではなく
それへの依存のなかでそれそのものを問うというとである

ここで重要なのは
「本物の料理」といった「料理の真正性」について
「気が付かないうちにその観念の虜となっている」
といった「食」を特権化してしまうようなことへの
批判的な論点であり

それと同時に四方田氏自身が
「食において著しく「本物」志向の人間」であり
「食」に深いこだわりをもっているがゆえに
その場所から「食」を問おうとしているという点だろう

「食」にこだわるがゆえに
そのこだわりそのものを問う意味があるともいえる

ある意味でそうしたスタンスは
「生」に深くこだわっているがゆえに
その煩悩となりかねない有り様を
自問自答していくようでもある

「煩悩即菩提」をめざしてはいないようだが(笑)
それだからこそ四方田氏らしい
多方面への飽くなきアプローチも可能となっている

安易に「菩提」になろうとするよりは
「煩悩」そのもののなかにありながら
その「煩悩」を問い続けることのほうが
ずっと面白い生き方ともなり得るということだ

■四方田犬彦『サレ・エ・ぺぺ 塩と胡椒』(工作舎 2023/10)

(「サレ・エ・ペペ」より)

「「サレ・エ・ペペ」とはイタリア語で塩と胡椒。英語でいうならば、ソルト&ペッパーである。」

「「I」〜「日本料理」の虚偽と神話」より)

「日本料理の根底にあるのは視覚的美しさであり、細々とした調理の気遣いである。昆布と鰹節のダシを中心にして、全体的に脂肪を排除した味覚の大系である。食器と料理の組み合わせの妙であり、調理者の演劇的な身振りである。日本料理こそは料理文化の粋の極地であり、世界三大料理のひとつと呼ばれるのにふさわしいものである。
 私は以上のようなことは一行も書こうとは思わない。ただこうしたステレオタイプの言説については、それが日本国内のみならず、国際的にも神話として蔓延していることの虚偽と愚かしさを指摘するに留めておきたいと思う。日本料理というものは、外国人のために考案された抽象的な料理であり、観光主義と外食ブームがお囃子方になっているにすぎない。現実に日本人が食べてきたのは地方の料理、あえて歴史的な表現をするならば、藩の料理である。もし日本の料理に緊急に解決すべき危機があるとすれば、それはグローバリズムと観光主義の名のもとに、泡粒のようにはかない地方料理が次々と消滅し、あるいは統合的な味覚のなかに呑みこまれてしまう現状である。「日本の食の国際化」という標語は、「美しい日本」という標語以上に空疎であり、虚偽であり、日本文化が本来的に携えてきた豊かな多元性を毀損し、貧しい孤立化へと導いてゆくものである。」

「歴史的にも、また地理的にも、日本料理とは外国の料理体系と食材の影響のもとに変容を続けている文化にほかならない。この事実を無視してWashokuなるものを国際的観光ブームの供物に仕立て上げることは、日本の食文化のもつ多様性の抑圧である。農林水産省の説く日本料理の四つの特徴とは、実のところ、虚偽に満ちた日本料理の観念的抽象化であり、現実の日本人の食生活と齟齬をきたすばかりか、そもそも音楽や数学と異なり、純粋さ、唯一さといった観念とは無塩である人間の食体験に背馳するものである。それが現代社会における日本食の、もっともグロテスクな神話化であることは言を俟たない。」

「「I」〜「料理の真正性とは何か」より)

「料理における「本物」を論じるさいにまず念頭に置くべきなのは、地上でさまざまな人間の手で現実に調理されている料理には、それ自体として「本物」も「偽物」もないという事実である。」

「「本物」の食べ物とは実在するものではない。どこまでも社会的に構築され、言説の内部にあってのみ成立する現象である。一方に「本物」を生産している農家や漁師、食肉処理者がいて、もう一方に「本物」を賞味する(と思い込んでいる)人たちがいる。彼らは自分たちが「本物」と関わっていることで、それがかなわずにいる他の者たちに対する卓越性を自己確認している。「本物」を生産し「本物」を消費している自分たちこそ、「本物」だという世界観を所持している。とはいうものの、なぜ「本物」だけが他の物との差異化によって、かくも高く価値づけあっれているのか。この差異化のシステムが、単に食物をめぐる言説の次元を超え、現代社会の構造そもののに深く横たわっているという事実を、われわれは改めて考えてみなければならない。」

「わたしは食において著しく「本物」志向の人間なのだ。過去に知っていた正統的な味覚が蔑ろにされてしまい、正しく再現されていない、継承されていないと知ると、深く落胆してしまう不幸な人間なのだ。わたしが十年ほど前に世に問うた『ひと皿の記憶』(ちくま文庫)は、まさにこの喪失された食べ物の記憶をめぐって執筆された書物である。」

「誰もが料理の真正さなる観念が虚構のものとは知りながらも、気が付かないうちにその観念の虜となっている。
 だが個人的な出自や幼少時の食体験を無視するかのように、事態は残酷にも進行していく。大衆消費社会は真正さを口実に食産業を大きく方向づけていく。ある食べ物を偽物として排除し、別の食べ物を本物として喧伝して、それを大々的に神話化していくのだ。このような表現が許されるかどうかはわからないが、メディアの言語のなかで、食物はその本質において搾取されてゆく。わたしは料理雑誌やレストランガイドがそうした言説を過剰に蔓延させ、料理の真正さがつとに神話化されていく現状に、人知れず禍々しいものを感じている。
 とはいうものの、こうした真正なる食べ物を探し求めんとする情熱に囚われる一方で、わたしがまた現実に調理されている料理の多様性、というより非規範性、地域的複数性に圧倒され、単一の正統的な食べ物が地理的に拡散し、時間的に変化していくことを通して、けっしてひとつに統合されない豊かさを体現していることに歓びを感じているのも事実なのである。」

「食材と料理の真正性をめぐる議論のなかで、わたしはつねに両義的な場所に立たされている。この観念が虚構のもの、操作され演出された神話であると認識しながらも、それに魅惑され、失望と諦念を繰り返している自分に気付いているからである。あらゆる観念の所持がそうであるように、幸福感に包まれることは稀有なことである。おそらくわたしの立つ場所の曖昧さは。わたしの人生の立つ場所の曖昧さに、それなりに見合っているのだる。わたしは、そしてわれわれは、真正さと正当さに憧れながらも、それ自体は本質的に真正でも正当でもない生のさなかにいるのであるから。」

「「I」〜「知らないものを食べる」より)

「人はどうして未知の食べ物を食べてみたいと思うのだろうか。
 二通りの人々がいる。知らない国の知らない料理に積極的に関心を示す人と、たとえ異国に行こうともその国の料理に手を付けようとしない人々である。」

「世界に住む実に多くの人々は、自分には見慣れない食物に警戒を示し、それを口にすることに躊躇の姿勢を見せる。自分を育み育ててきた食物に拘り、それが口にできないとすると強いノスタルジアに陥る。」

「だがこうした多くの人々の対極に、見知らぬ食物を試みることに取り憑かれている人々がいることも事実である。」

「日本において「エスニック料理」なるものが話題となり、メディアがそれをファッションとして取り上げるようになったのは一九八〇年代である。
(・・・)
もっともわたしはこの表現に当初から疑問を抱いていた。エスニックethnicとは英語で「人種的な」「種族的な」「民俗的な」という形容詞である。その当時、アメリカのグルメガイドブックでは、それは「非白人」を意味していた。白人が世界の文化の中心であり、徴なしの存在(ノン・マルケ)であるのに対し、それ以外の人間は「エスニック」という徴を刻印された(マルケ)存在であると見なされていた。「エスニック料理」と同じように、「エスニック・ミュージック」という表現もあった。
 いったい自分が何様のつもりなのかというのが、その当時、この表現を聞いてわたしが抱いた印象であった。フランス料理があり、中国料理があるように「エスニック料理」なるものがあるとでもいうのだろうか。日本人は自分だけは「エスニック」ではないと信じているものだろうか。もしそうだとすれば、それはアメリカの白人の目線を借り受けたというだけのことではないか。(・・・)フランス人が「和食」を典型的なアジアの「エスニック料理」だと見なしていることを、日本人は忘れてはならない。」

「日本において「エスニック料理」を論じる者の多くは、それを調理する者、それを消費する者の存在について語ろうとしない。ただ調理された料理だけを切り離して語ろうとする。彼らは一般に知られていない「本物」の食べ物を知っているという素振りを見せ、自分たちが文化消費の前衛に位置していると信じている。とはいうものの、食の流行というものがどこまでも社会の階層秩序のもとに形成されたものであり、歴史的なものであるという認識に到達することができない。あるいはそれを理解しながらも回避している。その姿は、かつて高級フランス料理のレストラン評を執筆していた美食ライターたちの、世代交代後の零落した姿を連想させる。」

「「I」〜「国民料理とは何か」より)

「料理と国家との関係は、これからどのように変化していくことになるだろうか・
 ただちに日本料理や韓国料理、フランス料理といった一国の料理体系の未来像を思い描くことはできない。ただ明かなのは、一般時がさしたる自覚もないままに日常的に享受している国民食なるものが、この一世紀を見ただけでも、急速に、しかも実に簡単に変化してきたという事実である。これは歴史的に見て、誰にも否定できない事実だろう。」

「国民食において注目すべきなのは、それがいとも軽々と国境を越え、近隣諸国に対抗文化として紹介されるや、ただちに彼の地の食景のなかに地位を占めてしまうことである。」

「国民食に細々とした規範はない。それは場所に応じて自在に単純化されたり、現地の伝統的な味覚体系に重なり合いながら発展してゆく。それは国民料理が強いられている真正さという観念から自由であり、身ひとつで平然と海を渡って行くのだ。ともすれば日本料理のアイデンティティを国民料理という枠組みのなかで思考しがちなわれわれは、日本の食景にあって現実的に中心にあり、いまや世界において遍在へと向かおうとしている国民食を新たなる判断の基軸にすることを求められている。」

「「II」〜「台所にいることの悦び」より)

「教職を退いてから短くない歳月が経過した。七十歳の現在、わたしが一日のなかでもっとも長く身を置いているのは、執筆のための書斎を別にすればおそらく台所である。台所こそがわが領土、わが王国なのだ。
 朝食を完結にすますと後片付けを兼ねて、その日一日の調理のための準備に入る。冷蔵庫を点検し、賞味期限切れの食材や解凍途上の食材の状況を調べる。何日もかけて仕込んである食物の進行状況を確認する。昼食と夕食のため、時間のかかりそうなものの下拵えに入る。(・・・)」

「こんな風に一日を記述してみると、それでは一体いつ仕事をしているのかと尋ねる人が出てくるだろう。ご心配なく。ちゃんと昼食と夕食の間には執筆をしている。」

【目次】
I
「日本料理」の虚偽と神話
料理の真正性とは何か
料理の復元
知らないものを食べる
ツバメの巣と盆菜料理
国民料理とは何か
肉食について
野草を食べる

四方田犬彦が執筆で忙しいときに作る、ものすごく簡単な料理一覧

II
偶景
ぶっかけ飯
缶詰の思い出
韓国の食べ物への信頼
三人の女性
台所にいることの悦び

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