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八木 雄二『1人称単数の哲学: ソクラテスのように考える』

☆mediopos2743  2022.5.22

ヨーロッパの言語には三つの人称がある

「わたし」という1人称
「あなた」という2人称
そしてそうした主体から離された
抽象的な3人称である

そうした人称に対応して
動詞の語尾も変化する
そうした変化がおこるのは
人称によって世界の捉え方が
異なったものとなるからなのだろう

日本語はヨーロッパの言語のようなかたちの
動詞の語尾変化はまったくないし
単数と複数の区別で語尾が変化したりもしない

日本語には主語がないといわれることからすれば
ある意味で人称そのものも述語的なものに規定された
ひじょうに曖昧なものとなっている

そして日本語話者の自我もその影響を受けて
(言霊信仰という背景もあるように)
「ことばの共同世界」(同じ言語世界)から
権威をもって与えられたことばの影響を強く受け
そこから自由になることがむずかしいところがある

現代のようなほとんど宗教化している科学信仰も
「わたし」という1人称単数や
「あなた」という2人称単数から切り離された
「わたしたち」という1人称複数や
抽象化された対象世界の3人称の「ことば」が
絶対化されたものとして強く影響している

本書は『1人称単数の哲学』
副題に「ソクラテスのように考える」とあるが

ソクラテスは「一対一の問答」を交わし
決して政治家のように「大衆相手の説明」も
「スピーチ(演説)」もしなかった

「大衆に通じる社会のことばは、
多数を相手にする「1人称複数のことば」、
ないしは「3人称のことば」だからである」

それらの「ことば」は
「「争いを含むわたしたち」の間で通用する
「共同のことば」であり、それは必然的に、
「欺瞞を含むことば」でしかない」

「わたしたち」の「ことば」には
「一般大衆の権威」による「裏付け」が与えられ
その内でしか「ことば」と
それによって考えることができない

また3人称の世界は
「対象を抽象物として完全に「客観視できる世界」」であり
「自然科学が対象にする事物的世界」であって
主体性をもった1人称2人称の世界からは切り離されている

重要なのは
哲学と科学の違いである

ソクラテスは「徳を教えることはできない」といったが
科学は知識として教えることはできるが
徳は知識ではないからである
ソクラテスの「徳」は
「具体的な場面において個々人の主体性を問うもの」であり
「3人称の客観的真理にはなりえない」

ソクラテスがじぶんを「先生」と呼ばせず
「友人」と呼ばせたのもそこから理解できる
「先生」であるときそこに
「平等な個人の間の問答」は存在できない
ソクラテスは「知識」を与えようとしたのではなかった
むしろ「欺瞞を含むことば」でしかない
「共同のことば」を「友人」とともに吟味しようとした

そして権威として「共同のことば」をもった者たちから
「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた」とされたが
そこで排されたものこそ「1人称単数の哲学」である

現代においても「共同のことば」が
さまざまな「欺瞞を含」みながら教えられつづけ
「権威」を信じて疑わない人たちにとっては
疑い得ないことばとして世論をつくっている
そこには「1人称単数の哲学」は存在せず
「共同のことば」が「正しい」として信仰されている

■八木 雄二『1人称単数の哲学: ソクラテスのように考える』
(春秋社 2022/5)

(「第1章 理性の中の「個人」と「宇宙」と「社会」」より)

「一般的にヨーロッパの言語には三つの人称がある。そのうち1人称と2人称は、「わたし」と「あなた」なので、身近な具体的なものを主語に立てている。それと比べて3人称は、その主語が人間を示す「彼」た「彼女」であっても、発言者から「離れたもの」を指している。とくに、それが物体であれば、精神主体を意味しないだけに、はっきりと「わたし」や「あなた」から「離れたもの」を意味する。つまり「わたしたち」から離れた「まったくの客体」として、わたしの理性がそれを扱えることで、3人称は意味する。

 ところで、認識論で言われる「抽象」(アブストラクト)も、もとのラテン語は「引き離す」ことを意味している。つまり「主体から引き離されるもの」が、「抽象物」である。したがって3人称で指示される「主語」は、一般的に「客体的で、抽象されるもの」だ、と言うことができる。つまり、それは文の中では「主語」の位置にありながら、「主体性格があるものとして」認識されるのではなく、その主語を口にする主体によって「対象物」として扱われている。つまり、「生き物」であっても、3人称で扱われれば、それが持つ「主体性」は、3人称の表現によって「客体化」され、主体性をもつ具体物から切り離されて、「ことば」の中で「対象物」となる。

 これに対して1人称2人称の世界は、その主語となる「わたし」や「あなた」は、主体性をもつものよして理性に迫る。本来からすれば、「ことば」となっているものは、自分自身とは異なる他者として、「このわたし」も、自分の理性に反省的にとらえられて、幾分対象化されているとみられる。しかし、それでも、1人称、2人称の世界は、完全には客体化されない。すなわち、「主観」を免れないでいることを、1人称、2人称の動詞は表している。

 なぜなら、「わたし」は、「わたし」自身にしか発言することができない「主語」だからである。その動詞(述語)は、「わたしのみが見るもの」である。そして「あなた」もまた、「わたしから見て」相対する「主体的相手」でなければ、「あなた」ではない。そしてこの「わたし」や「あなた」が主語となる文は、日常会話に現れる文である。つまり1人称2人称の言語世界は、わたしたち個人の日常の世界である。」

「同じ1人称であっても、「一人称複数」(わたしたち)の世界は、「複数の主体の間」の世界である。その世界は、一見、「わたし」から「離れた世界」に見えるゆえに「3人称の客体世界」として扱いたくなるが、実は「わたし」の主観を確実に含んで「共同主観の世界」である。この世界は、一般に、「社会」とか、「世間」と呼ばれる。ところで、「ことば」は、社会一般に通じるという性格をもっている。それゆえ、「ことば」は、本来、「共同主観の世界」を土台にしている。それゆえまた、「2人称複数」(あなたたち)の世界は、「あなた」の主観を含んだ「別の共同主観の世界」である。それは「異邦人の世界」であり、「別の社会集団がもつ世界」である。

 それに対して、すでに述べたように、3人称の世界は、単数であれ、複数であれ、対象を抽象物として完全に「客観視できる世界」である。それゆえ、3人称の世界は端的に「自然科学が対象にする事物的世界」である。

 それゆえ、「理性」(ロゴス)が「ことば」を意味する古代ギリシアにおいて、合理的(理性と一致する)科学が生じたのは、ギリシア語が3人称の事象を表す動詞を、1人称、2人称とは区別してもつ言語であったからだよ、まずは考えられる。」

「ヨーロッパの科学は、ギリシア語の「ことば」がもつ性格に基づいて、「比」を「真理」と見なして、生まれたものである。周知のように、その成功は、自然世界のコントロールの成功をもたらし、その後のヨーロッパ世界を反映させる力となった。それはヨーロッパによる世界の支配に、大きな力を発揮した。そして、「3人称の世界の真理」が「人間のことば」(ロゴス)で説明されたことによって、3人称の世界(周囲の世界)に対する人間の「不安」は、その分、解消されやた。

 しかし、1人称、2人称の世界は、別の世界である。

 人間と人間の間には「争い」がある。その世界がもつ「欺瞞」は、科学の成功によって駆逐されることはない。科学の成功は客体的な世界の成功なので、みなが同じものを見ることができる。それゆえ、その成功は多数の人々の目に明らかで、わいありやすい。そのためにまた、その成功は1人称2人称の世界の欺瞞を、人々に忘れさせる興奮を引き起こす。すなわち、科学の成功は、人類の夢は、まるですべてかなうことを意味するように解釈され、宣伝される。しかし、科学はけして1人称、2人称の世界の欺瞞を駆逐することはできない。なぜなら、科学は3人称の存在を明らかにするが、1人称2人称の世界を明らかにはしないからである。

 この世界の欺瞞に立ち向かう学問は、「哲学」しかない。」

「人と人との「争い」は、1人称と2人称の世界に起こることである。この「争い」は、1人称2人称の世界に「不安」をもたらし、「迷い」を生じる。そしてその争いの種になるものは、「欺瞞を含むことば」である。わたしたちは、相手の何かに気づいて、それを「ことば」にするとき、そこに自分たちの勝手な解釈を持ち込むことがある。そして一部の人に都合のよい「ことば」がいつのまにか、周囲の人々に広がる。人を中傷することば、人を誤解させることばは、人間どうしの間に生まれた「ことばの共同世界」(同じ言語世界)のなかに、いつのまにか入り込んでしまっている。すなわち、この共同世界に久しく通じている「欺瞞的ことば」こそ、人々の間の争いを終わらせない元凶であり、それにもとづく人々の「判断」、「行動」が、じっさいに争いを生み、継続させている。したがって、わたしたちはこの1人称や2人称の世界においてこそ、「正しいことば」を必要としている。

 しかし、共同世界に通じている「ことば」とは、「わたしたち」という「1人称複数」が共同で抱えている「ことば」である。「わたし一人」(1人称単数)が考えている「ことば」ではない。なぜなら、「ことば」は、もともと「社会のもの」であり、複数の人々に通じるものとして私たちの間に存在しているからである。したがって、ことばはつねに「わたしたちの」ことばである。そして「わたしたちのことば」とは、一般大衆が「認めている考え」を表す「ことば」である。それゆえ、その「ことば」には、「一般大衆の権威」による「裏付け」が与えられている。わたしたちは、この権威に裏付けられた「ことば」を身に付けることによって、ふだん、その共同社会の一員として「考えて、はたらいて、来ている」と言うことができる。

 (・・・)その「ことば」から離れることは、その「社会」から離れることを意味する。したがって、通常、社会がもっている「ことば」の「欺瞞性」を、欺瞞であるとは、わたしたちは考えない。生きていくために必要な真実であると、わたしたちは無自覚に受け取っている。」

「同じ「ことば」を用いる人間は、どの人間も同じ共同世界の住人であり、同じ共同世界から「ことば」を学んでいるから、自分よりも少しでも、より正しいことばを知っている人間を周囲に見つけることは、やはり困難である。つまり、同じ時代の同じ社会のなかで、「だれか」にそれを公的に「教えてもらう」という道は、まずないと言える。

 ソクラテスは、「一対一の問答」を交わしたといわれる。(・・・)

 彼が政治家のように、「大衆相手の説明」をしなかった理由は、大衆を相手にして語られた「スピーチ(演説)のことば」は、同時代の社会の権威をもって使われる「ことば」でしかなかったからだと推測できる。すなわち、ソクラテスによれば、大衆に通じる社会のことばは、多数を相手にする「1人称複数のことば」、ないしは「3人称のことば」だからである。それは「争いを含むわたしたち」の間で通用する「共同のことば」であり、それは必然的に、「欺瞞を含むことば」でしかないからである。

(・・・)

社会は(・・・)、「欺瞞的なことば」に、多数者の権威(社会的権威)を与える。それゆえ、「ことば」が、大衆を相手にするスピーチの場面にとどまっていては、端的に「正しいことば」が発せされることはない。少なくとも、」

(・・・)

 他方、ソクラテスは「一問一答」の対話を行っていた。一つの問題を一方の一人が問いかけ、一つの答えを他方の一人が答えるのである。それは。一人一人が、素になることができる立場で「ことば」を交わし合うことであった。

(・・・)

 そこでは、「ことば」が、固有の意味で1人称、2人称の「ことば」として使われる。じっさい、「わたし」と「あなた」の間で「ことば」が語られるとき、自分の社会的地位を意識する必要はない。少なくとも、二人の間が、たんなる友人として、社会的秩序と無関係であるなら、二人は素になって(正直に)問うことができる。そして素になって(正直に)答えることができり。むしろそういう中ではじめて、大衆社会のなかで通じ合っている「ことばの欺瞞性」を吟味することができる。すなわち、一人一人、互いに相手を尊重する友人関係に自分たちを置くことによって、人は社会的秩序をもつ組織から、自分の心を離すことができる。単純に、一個の「わたし」と、一個の「あなた」という関係にのみ、二人は立つことができる。そしてこのことによって、社会がもつ集団組織性から生じる「ことばの欺瞞」に気づき、わたしたちはそれを吟味することができる。

 したがって、ソクラテスが教え子たちに、自分を「先生」と呼ばせずに「友人」と呼ばせた理由は、明らかである。ソクラテスの問答は、友人どうしの平等な個人の間の問答であった。その問答によって日頃耳にしている「欺瞞的ことば」を吟味して、わたしたちが「正しいことば」で「正しく理性をはたらかせる」ことができる人間となることを、彼は目指したのである。」

(「第2章 ことばの社会性と欺瞞性」より)

「意外に思われるかもしれないが、哲学と科学を明晰に分ける、という見方は、ヨーロッパの哲学史において、これまで試みられたことはない。むしろ哲学を「科学的な学問」にする試みが、古来、続けられてきた。(・・・)フッサールがそれを試みた。その前にはスピノザがそれを試みた。そういう試みがヨーロッパで行われていた近代という時代の最中に、日本は明治維新を迎え、「フィロ・ソフィア」が「哲学」と訳された。つまり日本語の「哲・学」には、「哲理」の「学問(科学)」であるという意味が読みとられる。

 ヨーロッパの諸学問は、フィジクス(物理学)などの例外はあるが、科学の名称には、たいていが「サイエンス」か「ロギー」が、その語頭か、あるいは語末に付く。「サイエンス」は「科学」ならびに「知識」を意味するし、「ロギー」は、「ロゴス」(ことば)からきているから「論」を意味する。一般に「論」は、学問世界において「知識」と同じと考えられてきた。それゆえ、サイエンスも、何とかロギーも、そしてそれと同類の論は、「科学」であるか、「科学を目指す論」だと受け取られてきた。それゆえ、哲学も学問の一つなら、それも科学を目指す論に違いないと、一般に受け取られる。

(・・・)

 そもそも哲学と科学は、異なる理性のはたらきである。その区別の源泉は、ソクラテスにある。徳について論じたソクラテスは、「徳を教えることはできない」ことを、鋭い批判を通じて明確にし続けた。ところで、「教えることはできない」とは、「知識ではない」ということと同義である。なぜなら、「知識」とは「分かっていること」であり、「分かっていること」は、同じことを他の人に「分からせること」ができるからである。したがって徳は教えることはできないと言っていたソクラテスは、徳は知識ではないと見つけていた。ところで、ラテン語の「知識」(スキエンス)ということばが英語の「科学」(サイエンス)ということばになった。それゆえ、ソクラテスによれば徳を論じる哲学は断じて科学ではない。それゆえ、いかに徳を論じようとそれは科学(知識)にはならない。」

「理性的であるためには、「正しいことば」で、哲学も科学も構成されなければならない。(・・・)科学のことばは欺瞞性が入り込みにくい数や式によっている。それに対して哲学は、人間の生活のなかでふつうに使われている「ことば」によって語られるほかない。なぜなら、哲学は、人間である「わたし」が「生きて在る」ことに基づいて、「徳を論じる」からである。それゆえ哲学は、科学が不要とした「ことばの吟味」を必要としている。しかし、その吟味を経て、「欺瞞性の無いことば」に達したなら、そこからは、哲学は科学と肩を並べて理性の道を歩むことができる。」

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