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吉岡乾「連載 ゲは言語学のゲ⑬癒着する言語と文字」(『群像』)

☆mediopos3533(2024.7.20)

言語学者・吉岡乾の『群像』での連載「ゲは言語学のゲ」
第13回目は「癒着する言語と文字」

吉岡乾は国立民族学博物館に勤めているそうだが
博物館での言語に関する展示は難題だという

「言語はヒトにしかない社会的道具立て」なので
「民俗学の博物館で言語を紹介するのは、的外れではない」のだが
「音声言語には目に見える姿形がない」

文字を展示してもおかしくはないのだが
視覚的に訴えかける文化人類学的な資料に対し
「圧倒的に訴求力の点で不利である」という

しかも「言語=文字」ではない
「「言語=文字」神話は弊害の多い偏見でしかない」のである

文字のない言語のほうが圧倒的に多いのだが
文字を持たない言語はほとんど知られていない

「文字を持たない言語を第一言語としている人たちは
文字を知らないわけではな」く
「世界の男性の9割、女性も8割以上は字を識っている」のだが
「文字が読めることと、書かれている内容が
読み取れる(理解できる)こととは同じではない」
「読めるかも知れないが、言語を識らなくては読み取れない」のである

ちなみにユネスコは両者を「単一の能力として計上」して識字率とし
文字を持たない言語の存在を「完全に無視している」
また点字を読める視覚障碍者は
日本でも全体の1割程度であるにもかかわらず
「識字率100%だと謳っている」

そこにはあきらかに「言語=文字」という偏見が存在している

現代はインターネットが世界中に拡散し
様々な言語を使って「世界の屋根の奥地でも、
若者がスマホを片手にSNSへと投稿」するが
いうまでもなく文字のない言語話者による情報発信はない

「近年、各地の無文字少数言語でも
文字化して発信をしようという動きが出始めている」のだが
そこには文字表記という大きな問題がある

第一言語話者のみの表記であれば問題は少ないが
それが言語の保存活動に関わってくると
「システマチックな表記法」である必要がある

しかもそこには「方言差」があるため
「標準語」が必要となる

また「文字は言語とは別の道具」なので
「何語を何の文字で綴っても構わない」が

文字は「言語なくしては生まれていない道具」であり
その道具を使う表記には「言語の歴史が蓄積される」ことになる

日本でも明治の頃
漢字を使わず日本語をローマ字表記するべきだという考えもあったが
それは決して「理に適っている」とはいえない
(ローマ字表記もできはするがそうならなくてよかった)

言語研究にはさまざまな課題があり
失われていく文字を持たない言語を
どのようにして「保存」し得るかといったことも重要だろうが

少なくとも「言語=文字」ではないこと
そして「文字が読めることと、書かれている内容が
読み取れる(理解できる)こととは同じではない」ことは
ふまえておく必要があると思われる

ここからは記事内容から少しばかり離れるが
さらにいえば
たとえば各種メディアにおける〈読み書き〉においても
「識字」は一様ではないということも忘れてはならないことだろう

書かれていることを読めるということ
そして書かれていることを
書かれていないことも含めて理解できるということは
大きく異なっているからである
それはメディアリテラシーとも深く関わってくる

「言語」は文字表記され情報を伝えもするが
「言語=文字」でも
「文字=内容」でも
「文字内容=理解」でもない

こうして文字を使って書いている(ように見えている)ときにも
じぶんがどれほど「識字」し得ているかさえ定かではないように

■吉岡乾「連載 ゲは言語学のゲ⑬癒着する言語と文字」
 (『群像』2024年8月号)

*「博物館での言語に関する展示を考えていると熟々(つくづく)、目に見えないものの展示というのは難題だなあと思うものである。」

「言語はヒトにしかない社会的道具立てであるので、民俗学の博物館で言語を紹介するのは、的外れではない。

 けれども音声言語には目に見える姿形がない。これは、隣の展示区画でギラギラと魅力を視覚的に訴え掛けてくる文化人類学的な資料に対して、圧倒的に訴求力の点で不利である。手話言語には当然ながら視覚情報が多用されているが、それとて即自的なものであり。発話すればそこに時間を超越して残像が留まるものではない。」

*「世界の幾つかの音声言語には、文字がある。文字自体は言語ではないのだが、それでも言語も副次的な道具として文字が発明され、改良され、無視できない割合の人々によって実用されている。文字を用いることによって言語のほうへと影響を及ぼすことなどもあり、ある言語に一度ある文字表記法が定着したら、その癒着の度合いは看過できないレベルのものになる。」

「言語展示に文字が展示されていてもおかしくはない。(・・・)しかし「言語=文字」という、世の中に瀰漫している誤解を後押ししてしまうのは忍びない。文字のない言語のほうが数としては圧倒的に多く、けれども圧倒的に知られていないのだから、そちらの側に立ちたいという気持ちも溢れんばかりにある。」

*******

*「文字を持たない言語は世の中にたくさんある。けれど、そういった言語の話は、ググってもあまり見付からない。何故なら文字がないからだ。

 文字を持たない言語を第一言語としている人たちは文字を知らないわけではない。そういう人であっても、文字を知っている人のほうが実数は多いかもしれない。いわゆる「識字率」というのを考えてみると、世界の男性の9割、女性も8割以上は字を識っている。

 字を識っているとは、どういうことか。

 ユネスコの定義では「日々の短い簡単な文章を読み書きできる人口比率」を識字率と呼んでいる。

 ここで既に「言語=文字」の呪いがある。文字が読めることと、書かれている内容が読み取れる(理解できる)こととは同じではない筈なのに。つまり、文字を識っていれば読めるかも知れないが、言語を識らなくては読み取れないのだ。なのにユネスコさんは堂々とそれらを単一の能力として計上する。」

「そもそも文字を持たない言語については「識字率」という尺度は何も語らない。そういった言語の存在を完全に無視している。」

「しかも「読み書きができる能力」と言うのだから、視覚障碍者にとって残酷この上ない。日本で点字を読める視覚障碍者は全体の1割程度だと言う。ユネスコが年代別であっても識字率100%だと謳っている国々は、視覚障碍者を無視している可能性がないだろうか。それともそれらの国々では、日本と異なり、点字教育が漏れなくなされているのだろうか。教育の浸透具合を見るためのバロメーターとして識字率という概念を用いているのだろうとは思うが、そこで蔑ろにされている存在が多方面にあるならばマトモな物差しだとは思えない。

 この「言語=文字」神話は弊害の多い偏見でしかない。

 この偏見に支配されている人は、「文字を持たない言語は未熟で、劣った集団が用いている下らない言語であろう」と、何となく思っていることが多い。だって文字があってこその言語なんだから、文字がないならそれは言語ではないじゃないか。あるいは言語だとしても缺損しているではないか————という寸法だ。そして「書かれない言語なんて」などと褊(さみ)するのだ。

 その裏返しで、言語運動などで地位向上を目指す人たちも「ならば我々の言語に文字を与えん」と躍起になる。勿論、文字のある言語のほうが死に瀕した際の粘り腰、強靱さを発揮するのだから、言語保存において文字が役立つというのは否めない。けれども、文字を獲得すれば言語としての重要性が高まり、注目度が高まり、運動にプラスに働くのだ、みたいな理屈を盾にして負け犬的に文字化活動をするのは、今は同じ立場にある他の無文字言語の肩身をより狭めるだけである。」

*「世界はグローバル化に向かって突き進み、津々浦々に情報化の波が押し寄せている。世界の屋根の奥地でも、若者がスマホを片手にSNSへと投稿する。インターネットには数多の言語による膨大な情報が揺蕩っていて、掘っても掘っても果てのない鉱脈のようなものだ。

 だが、彼らの言語による情報発信はない。文字がないからだ。

 無文字言語の話者に劣等感を抱かせるのは、インターネット環境を与えるだけで十分なのである。

 近年、各地の無文字少数言語でも文字化して発信をしようという動きが出始めている。」

*「文字表記法を作る時に専門家が絡んでいないと、困ったことが起こる、少し考えればわかることだと思うが、一貫しらシステマチックな表記法にならないという、大問題だ。それでも第一言語話者たちは大いに推測を働かせて使えるかも知れないので、だからこそ客観視して問題を可視化できる専門家の介入が欲しいところである。」

*「本人たち、第一言語話者が使うだけが目的だったら構わないかも知れない。しかし、様々な社会的動機によって大言語が膨らみ、小言語が消えていく昨今のグローバル化の情勢に鑑みると、内に閉じてしまっているスタンスの表記法は、焼け石に水ではないだろうか。外の人も巻き込むための仕組みを考えて行かないと、言語保存活動に使いにくい道具立てにしかならないだろう。

 しかも、どんなに小さい言語であっても、内部が幾つかの下位コミュニティに分かれている限りは方言差がある。」

「だが、文字を与えるとなったら、基本的には標準語が必要である。

 方言毎に全てのバリエーションを包摂できる文字表記を作れたらそれに越したことはないのだが、尠なくとも専門家を交えないで作られる文字体系にそんなことは望めず、ではどうしているかと言えば、文字を作っている当人の出身地の話し方を標準として作っているのである。そしてそれが恰もその言語の最も代表的な変種であるかのような顔をすることになるのだ。」

*******

*「それでも、無文字言語の研究と有文字言語の研究とでどちらがやり易いかと問われれば、ほぼ全ての面で後者のほうがやり易かろうと思う。」

*「文字は言語とは別の道具である。

 なので、何語を何の文字で綴っても構わない。(・・・)

 だがそれでも、文字が言語なくしては生まれていない道具である。言語を書き表すために工夫されて誕生した道具が文字なのである。残念ながら手話言語を書き表す実用的な文字というのは、これまでにないが。文字は、音声言語という社会的道具の、下位道具(サブツール)という位置付けになろう。

 だから言語の展示で文字を示すのは、文字の展示で文字を示すのと同じくらいには、的外れではない。要は示し方の問題なのだろうと思う。」

*******

*「もう一つ、文字による綴り字には言語の歴史が蓄積されるという側面も見逃せない。」

*「日本語をローマに(ラテン文字)で綴ることを切望した者も曾てあった。」

「曰く、ローマ字がより合理的なのだから漢字を使わないようにすべきだとのことであったが、どうにも動利的ではない説明である。恐らくは同音異義語が多いからローマ字表記にしつつ同音異義語を言い換えて・・・・・・などと考えていたようだが、その発想のどこが理に適っているのかが全く解らない。」

「それは、調査地で地元の有志がアラビア文字を使いたがる素朴さと、根本的には同じく見えるのだ。「知の巨人」などと持て囃された偉そうな人が声高に唱えても、それが常に学術的に正しいだなんてことはない。尠なくとも、誰しもが納得するだけの正当性を備えた主張だとは言えないのである。」

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