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対談 國分功一郎×若林正恭「目的もなく遊び続けろ」

☆mediopos-2582  2021.12.11

資本主義は宗教である

その教義の中心にあるのは
なんでもお金に換えよ!

お金への衝動を植え付け
すべてをその目的の手段とすること

ベンヤミンは
「目的なき手段」ということを
いっているそうだが

お金という目的だけではなく
目的そのものを外した手段
ということを考えていくと
それは「遊び」にほかならない

目的に縛られない
目的から自由な「遊び」

「遊びをせんとや生まれけむ」
という『梁塵秘抄』のうたがあるが

私たちがこうして生まれてきたのは
お金をはじめとした
さまざまな目的のためではない
人間の存在意義は「遊び」であって
「遊びを忘れたら、人間はダメに」なる

対談のなかに
『タモリ倶楽部』で
タモリが怒った話を引いておいたが
タモリにとって重要なのは
まさに「手段」の歓びであって
「目的」に堕してしまってはならない
これはタモリが「意味」を避けようと
してきたことにも通じている

現代において
もっとも熱狂的に信仰されている宗教は
冒頭に掲げたように資本主義だが
その「外側の可能性」を考えていくためにも
「目的なき手段」ということが重要な鍵になる

対談のなかで
「日本みたいに世間と八百万の神々、あと経済、
新自由主義っていうのを組みあわせたら、
ものすごく宗教としてはうまくいきますね。
自助と自己責任もあればさらに」
と若林が語るところがあるが
言い得て妙である

わたしたちはその宗教から
自由になることができるだろうか

まずは「目的もなく遊び続け」ること
そこからはじめる必要がある

なぜなら「遊び」こそが
あらゆるシステムの外へとわたしたちを導く
アリアドネの糸ともなり得るからだ

■対談 國分功一郎×若林正恭「目的もなく遊び続けろ」
 (『文學界 2022年1月号』文藝春秋 所収)

「若林/『タモリ倶楽部』での話なんですが、漁の投網をきれいに投げるのにはまった人が作ったサークルの特集の回があって。それを海じゃなくて公園でやっているんですよ。僕が「これ、魚が取れたときが快楽の絶頂のところじゃないですか。なんのためにやってるの」って普通に質問したら、タモリさんがすごい怒った。でも、タモリさんの怒り方も「おまえ、変態をばかにするのか」ってちょっとおかしいんですけどね。その後話題になったのが、タモリさんの友達の話で、女性が好きな人がそれが高じて、女性が履いている靴のフェチになった。その後、履いてる靴じゃなくて、女性の靴が好きになって自分で靴を買っているらしい。タモリさんがそいつは素晴らしい男だって言ってたんです。市場というか経済の中で、合理的はないものに時間を使ってたり、好きだと、もう変態になるじゃないですか。
國分/その投網の話、なんか分かります。目的と手段で物事を考えちゃいけないってことですよね。いまは目的をハッキリさせて、そのために適切な手段を選んでって話ばっかりだから。
若林/そう、実際に自分で投げてみてよさがわかりました。なかなかうまくいかなくて、あ、今のが一番きれいだったってなると気持ちいい。投網は魚を取ることを目的としているはずであるけれど、そこではもうその投網という手段だけが残ってるんですよね。
國分/さっきもベンヤミンの話をしましたが、ベンヤミンって人は「目的なき手段」という訳分かんないことも言ってます。僕は最近これにもすごく関心があるんです。目的がない純粋な手段というのはいったい何なのだろうか。意味はすぐにはよく分からないけれど、この言葉だけでどんどん考えを進めていくといろいろ面白いことが見えてきます。いま思ったんですが、公園での投網は目的なき純粋な手段ですよね。何の目的も達成しない、ただの手段。つまり遊びですよね。でも遊びを忘れたら、人間はダメになっちゃう。
若林/言葉を喋る前の赤ちゃんがずっとティッシュを出しているのとかありますよね。それが楽しい。いないいないばあとかもそうだし、手段だけっていうのは人の根源的な楽しみなのかもしれないですね。
國分/(・・・)現代のビジネスマンが資本主義に追い立てられてるって話は、結局、周囲を目的で埋め尽くされているということではないだろうか。
若林/そうですよね。僕は目的ないことがけっこう好きなんですよ。前も話しましたが、公園で一人でよくバスケットをしています。でもそれを言うと、何目指してるのって聞かれるんですね。それって目指してるものがなきゃいけないと思ってる人の言葉じゃないですか。テレビマンは今、ただでさえ忙しい働いている人に、テレビを見てもらう時間をどう作ってもらうかすごく研究しているらしいんですよ。可処分時間自体は昔より少なくなってる。映画も倍速で見て、二時間あるやつを半分で見たりして、インプットだけをしていくっていう流れがあるわけですよね。
國分/可処分時間は本当に作りにくいですよね。現代社会で一番高級なものは何かといえば、時間だと思うんです。だから時間を使うことが最大のコストを支払っていることになる。」

「若林/さっき國分さんがおっしゃっていた話で、資本主義を信仰と捉えるとしっくりくるのは、勝つことが幸福につながると皆信じているからだと思うんです。信仰を広めるのがすごくうまくいってると思う。だから暇な時間が嘲笑の的になるんですよね。資本主義、新自由主義をみんなに浸透させる教育が、なぜこんなにうまくいったのか。今日の國分さんと僕の会話を例えば一五%の人がしたら、浸透させようという側の人からすると困るわけじゃないですか。
國分/でもそれも多分、資本主義はうまく取り込んでいくんじゃないかな。暇をつくることが大事です、っていうのをお金に換えていく。
若林/稼げそうです、それ(笑)。
國分/なんでこの資本主義っていう宗教がうまくいったのかは、本当に大きな謎です。でも、この宗教にまだ完全に取り込まれていない部分もあると思います。(・・・)
もちろんこれは印象論ですし、そんなに根拠があるわけではないんですが、でも、お金が欲しいというのは決してもともと人間に備わっている本能のようなものではない。だから一定の条件がそろうと、心配、焦り、恐怖で煽ってくるこの宗教からふっと抜けられる瞬間はあるのだと思います。
(・・・)
若林/日本みたいに世間と八百万の神々、あと経済、新自由主義っていうのを組みあわせたら、ものすごく宗教としてはうまくいきますね。自助と自己責任もあればさらに。
國分/日本ではそれがずごく浸透してうまくいっていますよねっていう若林さんの指摘は、とても鋭いと思います。ヨーロッパは田舎性があるんですね。歴史があって古いから、なんかあんまり世界の潮流についていけないところが残っている気がする。昔、浅田彰がアメリカは大人の資本主義、ヨーロッパは老人の資本主義、日本は子どもの資本主義って言ったことがあって、その図式が僕の頭に残っているのかもしれないけれど、ヨーロッパの老人性が新しいものに対して多少、拒絶反応を持っているところはあるように思います。それが、資本主義という宗教の外側につながっているのかもしれない。最近の東アジアは、中国も含めて、子どもが部活を一生懸命やるみたいな感じの資本主義になっているようにも見えますね。資本主義の外側の可能性をこれからも考えていかないといけないですね。」

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