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宮野 真生子『言葉に出会う現在』

☆mediopos2820  2022.8.7

本書『言葉に出会う現在』は
2019年に亡くなった宮野真生子の
哲学論考集である

かつて九鬼周造に関する論考や恋愛論など
著書のでるのを楽しみにしていたなかで
人類学者・磯野真穂との往復書簡集
『急に具合が悪くなる』(2019年)で
その刊行直前に亡くなっていることを知り
その最後の最後に書かれた
九鬼周造の研究者ならではのこんな言葉にむしろ
ずいぶん励まされたことを覚えている

「ようやく、九鬼が『偶然性の問題』の結論で語った
謎めいた言葉の意味がわかった気がします。
彼は、こう言うのです。
「我の深みへ落ち込むように偶然をして
偶々邂逅せしめるのでなければならない」。
偶然はそれだけで自然に生まれてこない。
偶然を生みだすことが出来たのは、自然発生だけではなく、
そこに私たちがいたからです。
それぞれに引き出す勇気をもち、偶然を必然として引き受ける
覚悟をもって出会えたからです。
だから、不可能だったかもしれない偶然が生まれた。
偶然を「邂逅/出会わせた」のです、
私たちそれぞれの勇気と覚悟が。」

「なんて世界は素晴らしいのだろうと、
私はその「始まり」を前にして愛おしさを感じます。
偶然を運命を通じて、他者と生きる始まりに満ちた世界を愛する。
これが、いま私がたどりついた結論です。」

本書のなかから九鬼周造に関する論考の
さわりの部分を以下で引用してみているが

九鬼哲学の三本柱は偶然論・時間論・押韻論だが
その三つのテーマを結びつけているのは
「永遠の今」の問題である

九鬼周造にとって「永遠の今」は二つある
「現実が生成する偶然の消えゆく一瞬」と
「時間全体が繰り返すことで凝縮された現在」である

その二つの時間経験が交わる位置にあるのが
九鬼周造の最晩年の論考である「押韻論」だという

実作としては日本語における押韻は
詩において展開し難いところがあるのはたしかで
「九鬼の押韻論とは具体的次元をもたない
「夢」にすぎなかったといわざるをえない」のだが
九鬼が夢みていた「永遠の今」を表現する
「詩的言語」への視点は非常に示唆に富むものである

再三ほかのところでもふれてきたが
学問は哲学になったあとポエジーになる
その視点と通底しているように理解される

そしてそれが「生」における「邂逅」として
九鬼周造研究者である宮野真生子に
「偶然を運命を通じ」
上記のような「勇気と覚悟」をもたらしたのだろう

■宮野 真生子『言葉に出会う現在』
 (ナカニシヤ出版 2022/7)

(「第十一章 言葉に出会う現在――永遠の本質を解放する――」より)

「「永遠の今」の問題は、九鬼哲学の三本柱である偶然論・時間論・押韻論の交わるところに位置する。「永遠の今」がこの三つのテーマを結びつけているとも言うこともできるだろう。しかし、「永遠の今」というアイデアは、各著作のなかで散発的かつ解説なしに登場することがほとんどで、詳細に論じられることはない。さらに、語られる文脈が大きく分けて二つあり、一見すると両者の内容にじゃ大きな違いがあるように感じられる。まず「回帰的時間」における「永遠の今」がある。それはある事柄が同一性をもって無限に繰り返される瞬間であり、形而上学的・神秘的体験として語られる。もう一つは偶然性の根拠で開示される「永遠の今」。こちらは、私たちが日常で経験する時間の流れの根底にあって、現実を可能にするものと位置づけられる。本論が目指すのは、この二つの「永遠の今」の関係を詩的言語、とくに押韻の問題から明らかにすることである。」

「問題は九鬼の「永遠の今」における「永遠」の内実と、なぜ、永遠を「今」という時間性で限定せねばならないのかということだった。永遠に関しては、偶然性および回帰的時間の分析から共通した特徴が取り出せた。それは、存在を可能にする生命の根元的な潜勢力であるということだ。生命の力が「このような」現実として生成する、その動性を「現在」という時間で捉えたのが偶然性における「永遠の今」だった。一方、回帰的時間では生命の力が潜勢力となって時間の繰り返しをおこない、その繰り返す時間の全体が「瞬間」に凝縮され「永遠の今」が成立する。

現実が生成する偶然の消えゆく一瞬と、時間全体が繰り返すことで凝縮された現在という二つの「永遠の今」、この二つの時間経験が交わる位置にあるのが押韻論であった。詩は流れる時間を現在への折りたたむことを可能にする。そして、押韻の偶然において言葉と出会うとき、「このようにある」事柄がいきいきと立ちあがると同時に、私は「私」から解放される。それは事柄が一回性を持ちつつも、時間の限定から自由になって無限に開かれるということである。もちろん、押韻の「永遠の今」は回帰的時間で示される同一の現在の繰り返しとまったく同じ現象とは言えない。しかし、言葉と出会う偶然の現在を、ただはかないだけの刹那ではなく、時間を超えた永遠へと接続する方法であったことは間違いない。だからこそ、九鬼は蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という歌に「偶然の問題と循環する時の問題を省察(一/四二四)することを任せたのではないだろうか。」

(「第二章 押韻という夢――ロゴスからメロスへ――」より)

「一九四一年(昭和十六)年に九鬼周造は亡くなった。最後の著作として『文藝論』が残されており、それはこの書の為に「あまりに無理をして健康を害してしまった、しかし『文藝論』を完成し校も略々すんだから死んでも更に憾むところはないと語った」(五・一五二)と親友天野貞祐が証言するとおろ、名実ともに彼の生涯をかけて作品となっや。そのなかでも特に彼が心血を注いだのが同書の約半分を占める「日本詩の押韻」であったことは間違いない。押韻をめぐる問いは九鬼にとって一朝一夕に生じたものではなく、その原型がすでにパリ滞在時(一九二七年)に完成していたことからもわかるように、生涯通じての問題であった。(・・・)なぜ彼はそれほどまでに「詩的言語」を求めたのか。彼は「押韻」が開く「詩的言語」の可能性によって何を目指していたのか。それは決して彼の哲学におけるメインテーマ「偶然性」の問題と無関係ではない。偶然性が成立する刹那を理論的に追求したものが『偶然性の問題』とするならば、偶然性の具体的次元を可能にする一つの実践方法として九鬼が求めたのが詩、そして押韻ではなかっただろうか。」

「実際、押韻の喜元に「呼びかけ」の間柄を見るとき、彼はそこに偶然性が開く自他関係の具体的姿を重ね合わせていた。この偶然性が開く「呼びかけ」の間柄は、どこまでも「独立の二元の邂逅」なのであって、決して一元に辿りつくものではない。だが、押韻のその先において「言霊のさいはう国」と言い、自他を繋ぐ言語を夢みるとき、九鬼の押韻論は「独立の二元」というあり方を踏み外し、偶然性の分裂に宿る「真の意味の個体性」と「根源的社会性」の姿を歪める危険性に陥ってしまった。その背後に見え隠れするのは、素朴な言葉への信頼と完全な言語への憧れである。だがそもそも、自己と他者を直接に繋ぐ完全な言語など可能なのだろうか。表現と表現される対象、そして表現する主体のあいだには必ず常にズレがある。ロゴスと呼ばれるものが、「意味を規定する」ことで、そのズレを隠蔽して表現の安定化を図るものであるとするならb、むしろ「ロゴスを越えたもの」である「メロス」は、そのズレを暴くものであるべきではないのだろうか。そう考えるとき、九鬼の押韻論とは具体的次元をもたない「夢」にすぎなかったといわざるをえないのである。」

《目次》

【エッセイ】恋とはどういうものかしら?

第一章 道具・身体・自然
――宗悦と宗理――
1 近代化と生活する身体
2 柳宗悦における風土的身体
――フィクションとしての自然――
3 柳宗理における風土的身体
――別な自然への視線――

【書評】伊藤徹編『作ることの日本近代―一九一〇― 四〇年代の精神史』世界思想社、二〇一〇年

第二章 押韻という夢
――ロゴスからメロスへ――

1 『日本詩の押韻』という試み
2 呼びかけとしての押韻

【書評】佐藤康邦・清水正之・田中久文編『甦る和辻哲郎――人文科学の再生に向けて』ナカニシヤ出版、一九九九年

第三章 恋愛・いき・ニヒリズム

1 「いき」をめぐる諸言説
2 「恋愛」を求めて
――透谷・泡鳴・有島の試行錯誤――
3 「恋愛」と「他者」をめぐる問題

【エッセイ】ここにいることの不思議

第四章 死と実存協同
―――無常を超えて偶然を生きる――
はじめに
1 「無常」を語る危険性
2 「メメントモリ」
3 「愛」としての「死者からのはたらきかけ」
4 偶然性における実存協同
おわりに

【書評】佐藤啓介『死者と苦しみの宗教哲学――宗教哲学の現代的可能性』晃洋書房、二〇一七年

第五章 恋愛という「宿痾」を生きる
1 問題の所在
2 北村透谷の「恋愛」
3 「コケットリー」とは何か
4 「賭け」の先にあるもの
5 「いき」とは何か
6 「コケットリー」と「いき」
7 「いき」の魅力
8 さいごに

【エッセイ】愛

第六章 近代日本における「愛」の受容
1 「愛」をめぐる問題状況
2 「愛」という言葉は何を意味しているのか
3 「色」から「ラブ」へ
4 恋愛としての「ラブ」に託されたもの
5 恋愛としてのラブの危険性
6 「愛」があれば、どうなるのか
7 「一つになる」愛の果てに
8 さいごに

【エッセイ】性

第七章 母性と幸福
――自己として、女性として生きる――
はじめに
1 母と子の関係をめぐる変化
2 子どもへの違和感
3 「自己」として生きること
4 平塚らいてうの「自己」と「自然」
5 「母性」への転回
6 母性という桎梏、その別の可能性
さいごに

【エッセイ】家族

第八章 「いき」な印象とは何か
――「いき」をめぐる知と型の問題――
はじめに
1 印象とは何か
2 「いき」という美意識
3 「いき」の「意味体験」とは
4 印象を成立させる動性
5 「二次元動的可能性」としての自己と他者
おわりに

【書評】谷口功一・スナック研究会編『日本の夜の公共圏――スナック研究序説』白水社、二〇一七年

第九章 カウンターというつながり
――『深夜食堂』から考える――
はじめに
1 『深夜食堂』以前
2 『深夜食堂』の紹介
3 居酒屋とサードプレイス
4 カウンターという空間
5 『深夜食堂』における食の機能
6 「サードプレイス」の「やわらかな公共性」
さいごに
――ふたたび『深夜食堂』――

【エッセイ】カウンターには何があるのか?

第十章 食の空間とつながりの変容
はじめに
1 どのように共食するか
2 共食に何が託されてきたか
3 どこで食事をするのか
4 「家事」という大問題
5 戦後の「共食」のあり方と現代の「食」

【書評】伊藤邦武『九鬼周造と輪廻のメタフィジックス』ぷねうま舎、二〇一四年

第十一章 言葉に出会う現在
――永遠の本質を解放する――
はじめに
1 偶然性における「永遠の現在の鼓動」
2 回帰的時間における「永遠の今」
3 詩の時間性
4 押韻と偶然性
おわりに

編集後記(奥田太郎)
初出一覧

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