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皆川博子「辺境図書館〔31〕」/山本幸司『狡智の文化史/人はなぜ騙すのか』/ミヒャエル・エンデ『エンデのメモ箱』

☆mediopos2854  2022.9.10

ヴァーチャルとリアルを
混同してしまうように
芸術のなかの表現と
現実のなかの表現を混同してしまうと
芸術の意味はなくなってしまう

「善や聖の表現自体が善や聖ではないのと同じ」ように
「悪の表現自体は悪ではない」(エンデ)

かつて伊藤整は
「人間のエゴを醜悪な現実のままに描くという点で
近代文学は古典に及ばないと指摘」しているように

「人間のエゴの醜さを、古典は剥き出しに描くが、
近代文学では倫理観が働いて、
人間は醜悪であっても
美しい反面も持つと描かざるをえな」くなっている

キレイゴトの世界しか許されないということだ
そしてキレイゴトを生きる魂は
みずからのエゴの醜さに気づけない

二十一世紀の今では
「読者に不快感を与えてはならな」らず
「作者自身は正しい倫理観を持っているのだと
どこかで示さねばならな」くさえなっている

現実に倫理的であるならば
作品も倫理的でなければならないとされ
芸術が現実と混同され
現実に引きずり降ろされているのである

しかしそうすることでむしろ
「芸術やポエジーがあたえる効果は生の現実から遠ざかり、
生の現実はさらに架空のもの」となってしまう

皆川博子も「現代の人物を差別語で呼ぶのは当然不可ですが、
過去の時代において明らかに存在したものを非在にしたら、
その時代の上澄みしか書けません」という
上澄みだけの世界は根っこがない空虚な世界である

人間からエンデのいうような
ファンタージエンの世界が失われてしまえば
人間は現実を豊かに育てる大地を失い
不毛を生きる魂となってしまうことになる

芸術における悪の表現が現実のレベルで排されるとき
みずからの内なる悪を見ないがゆえに
むしろ現実世界における悪を
現実化してしまうことにもなるのである

■皆川博子「辺境図書館〔31〕」
 (『群像 2022年 10 月号』講談社 2022/9 所収)
■山本幸司『狡智の文化史/人はなぜ騙すのか』
  (岩波現代文庫 岩波書店 2022/6)
■ ミヒャエル・エンデ(田村都志夫訳)
 『エンデのメモ箱』
  (岩波現代文庫 岩波書店 2013/5)

(皆川博子「辺境図書館〔31〕」より)

「『人はなぜ騙すのか』の「エゴと倫理観」という章を興味深く読みました。創作をしている身として、感じるところがあったからです。
 ホメロスの『オデュッセイア』にオデュッセウスの船が怪物に襲われ、船員六人が食われたエピソードがある。生き残った者たちは必死に漕ぎ続け、ようやく次の島に上陸し、休息し、食事を済ませ満腹してから、怪物に食われて死んだ仲間たちを思い出して泣いた。オルダス・ハックスリーがこれに触れて、近代文学者なら、船員たちは船を漕ぎながら死んだ仲間たちを思って泣いた、などと書くだろう、なぜなら、そのほうが作者の個人的良心が安らかになるからだと言っている。それを伊藤整が『改訂 文学入門』に引き、人間のエゴを醜悪な現実のままに描くという点で近代文学は古典に及ばないと指摘する。著者山本幸司氏はこれらを引いて、人間のエゴの醜さを、古典は剥き出しに描くが、近代文学では倫理観が働いて、人間は醜悪であっても美しい反面も持つと描かざるをえない、という意味のことを記しておられます。本書の主題は人の狡知についての考察で、この章はそれを補強するためにあるのですが、私は表現と倫理を扱っている点に惹かれました。
 現代は、伊藤整が古典に及ばないと記した近代より、表現に対し倫理の枠を嵌める傾向がいっそう強くなっていると感じます。近代文学はまだ、まったく救いのない作を発表できた。当図書館で何度も書いていますが、子供のころに読んだジュール・ルナールの『にんじん』も、ジュリアン・グリーンの『アドリエンヌ・ムジュラ』も、ストリンドベリの諸作も、人間の醜さが抉り出され、ひとかけらの救いもない。だからこそ、これが真実だと当時強く思いました。周囲の大人の裏表、子供の残酷さ、自分自身の中にある醜さ、それらを身にしみて知っていたからです。現代でも、戦後まもないころの日本の創作は、野間宏にしろ安部公房にしろ椎名麟三にしろ石上玄一郎にしろ、暗鬱なものを暗鬱なままに記し、生半可な救いなど寄せ付けない強さがあった。二十一世紀の今は、ラストに救いがある。読後感が爽やか、などが高く評価される傾向がある。作者自身は正しい倫理観を持っているのだとどこかで示さねばならない。読者に不快感を与えてはならない、という枷を感じます。私が幼時を過ごした渋谷の街は汚く、不潔だった。それを示す言葉がみんな差別語、不快語として使用禁止になったので、あからさまに描くことができません。せいぜい、貧窮が露骨に表面に顕れていた、と言えるくらいです。現代の人物を差別語で呼ぶのは当然不可ですが、過去の時代において明らかに存在したものを非在にしたら、その時代の上澄みしか書けません。というようなことを呟いても蟷螂の斧で、自分が潰れるだけです。」

(『エンデのメモ箱』〜「悪の像」より)

「悪の表現自体は悪ではない。善や聖の表現自体が善や聖ではないのと同じである。むろんこれはわかりきったことだが、ここでそれを思い出すのは必要なようだ。芸術や文学をはかる尺度は倫理のカテゴリーとなんら関係がない。それゆえ、本能がもっと確かだった時代には、表現された世界は台座や舞台による、生の現実から切り離されていたし——それは正しかった。今日では、人はこの二つのレベルを混乱させてやむことがない。そこでは淫らの表現はそれ自体淫らであり、いやらしさの描出はそれ自体がいやらしく、残酷さの描写はそれ自体が残酷なのだ——そのさい、そんな作品の作者は通常生の現実とその真実らしさを楯に取るのである。
 このような価値の根本的ちがいは、一つの共通項にすべてを収めようとする、中途半端な教養の頭脳を混乱させた。想像力やポエジーや芸術一般の領域ではもっともであり、いや必要でさえあるものも、そのまま生の現実に当てはめることはできないし、当てはめてはいけない——そして、その逆もそうだ。この境界を愚かにも見過ごしたり、扇動のため、わざと越えれば、ねらいとはちょうど反対のことが起きるのだ。つまり、芸術やポエジーがあたえる効果は生の現実から遠ざかり、生の現実はさらに架空のものとなる。」

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