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坂口ふみ『〈個〉の誕生/キリスト教教理をつくった人びと』

☆mediopos2999  2023.2.2

坂口ふみ『〈個〉の誕生』が文庫化されている
当初の刊行当時(一九九六年)の感銘は今も忘れられない
そしてやはり屈指の名著であることをあらためて感じさせられる

当時キリスト存在に関しては
シュタイナーの神秘学の関係で
神秘学的事実としてのキリスト
そしてキリスト衝動の重要性については
理解するようになっていたが

なぜキリスト教なのか
とくにキリスト者たちが異端を激しく排斥してきたところや
煩雑そのもののような理解しがたい教義論争など
どうしても腑に落ちないところが少なからずあった

現在もそれは大きく変わっているとはいえないのだが
坂口ふみ『〈個〉の誕生』で描かれている
五・六世紀のローマ帝国末期の教義論争についての話で
キリスト者たちがそうまでして何にこだわりつづけてきたのかについて
やっとその理解の一端を得ることになった

それはキリスト教理論の頂点を形づくった「その原初の水脈」であり
三位一体論をふまえながら
「ヒュポスタシス=ペルソナ」という概念によって
(ヒュポスタシスは存在的・宇宙的なものであり
ペルソナは社会的・人間的なもの)
「普遍に対抗する個の思想」「本質に対抗する存在の思想」として
まとめあげられていったのだ

その根底にあるのは
神であり人であるキリスト・イエスという
矛盾に満ちた不可思議で説明しがたい存在を
どのように教義化すればいいのかという
キリスト者たちの激しいまでの格闘であったといえる

逆に言えば
そうさせてしまうほどに
キリスト・イエスの存在はとらえがたく
とらえがたいにもかかわらず
そうせざるをえない衝動を与えていったということだ

そのなかでキリスト教は
仏教のような我も他者もない縁起的な空を説くのではなく
我や他者が我と他者でありながら
それゆえに「愛」を可能にする
「純粋な個としての個、かけがえのない、一回かぎりの個の尊厳」を
生み出してきたのだといえる
(とはいえそれゆえに個と個は闘争も繰り広げる)

そしてそのドラマはどんなドラマよりも壮大でありながら
かつまただれにとっても切実なまでに近しいものでもあるのだ

キリスト・イエスは平和ではなく剣をもたらすために来た
その剣は「個」であり同時に「愛」でもあった
そしてその舞台は地上であり人そのものでもあり
決してそこを離れたイデアの世界でも超越的な絶対世界でもない
(それゆえにまたキリスト教は無神論をも生み出した)

■坂口ふみ『〈個〉の誕生/キリスト教教理をつくった人びと』
 (岩波現代文庫 学術 460 岩波書店 2023/1)

(「はじめに」より)

「「個としての個」へのもっぱらな眼ざしが、思想の表舞台で、普遍をめざす眼ざしへの意識的な対抗として尖鋭に自らを形づくっていったのは、けっして近代ではなかった。そのはるか以前、西暦紀元のはじめから六世紀ぐらいまでの哲学的努力は、ひたすらそれをめざしていた。それを導いたのは、キリスト教という当時の革新的な宗教であった。」

(「序章 カテゴリー」より)

「キリスト教はどこまでも「愛」という語を捨てない。」

「関係性を存在の根底に置く考えは、仏教の思想の中心にもある。すべての存在は縁起の法の結節点であって、実態はなく、我もなく、他もないというのがその思想の基本であろう。しかし、キリスト教は、けっして我や他者を消しつくすことはなく、さらにそこで愛という語を使い続け、いかに遠いといっても、友愛や親子の愛や、恋愛とのアナロジーを否定しなかった。そしてイエスという、「範型的に愛する人」の具体的なおもかげを、教えの中心から消し去ることをも、けっして許さなかった。
 おそらくそれが、キリスト教に対する人びとの評価を分けるところだろう。私は個人的には、この思想を、その多くの欠点や危険にもかかわらず、好んでいる。」

「純粋な個としての個、かけがえのない、一回かぎりの個の尊厳、そういったものが思想的・概念的に確立したのは、近代よりはるか以前のことだったと思われる。遅くとも起源五、六世紀の、あのローマ帝国末期の教義論争のなかで、それははっきりとした独自の顔をあらわし出している。中世を通して生き続けたその顔を、近代はふたたび新たなかたちでとりあげたのである。
 近代は「個」のめざめの時代だったとよく語られてきた。政治的・社会的にはたしかにそれは新しい局面を与えたかもしれない。しかし、思想としての「個」の思想は、ひょっとしたら、西欧の近代ではもうすでにひらかびて、変形してしまったものではなかったろうか。あのローマの教義論争の時代には、近代の個よりは少し茫漠とした、しかし、まだ「意識」に還元されきってはいない、それゆえいかにもみずみずしく、生命にあふれた「顔」の概念が生きてはいなかったろうか。西欧のキリスト教が「思想」と化する長い歴史の中で、その個は明確化はしてきたが、原初のみずみずしい生命力は失っていったように思われる。その原初の水脈を、少し掘り起こしてみたいと思うのだ。」

(「第五章 個の概念・個の思想」より)

「普遍的なものをこそ実在の根拠として、また真実在として考える思想——時間空間の差異を超え、個々人の種々相を超えて、人びとにとって、私たちにとって、共通に真実と考えられる、この不思議にも共同的なものをこそ要請し、求め、そこから個々のものを理解しようとする思想、イデア・実体・形相・法・ロゴス、これが古典古代文化の背景であった。これも人間にとって基本的で重要な夢であり、その重要性は現在に至っても変わらない。ギリシアに基礎をもつ学問も、道徳も、制度も、たぶん芸術も、このようなものを求め、把握したと考え、少なくともその把握への方法をたしかなかたちで見いだしたと考えた。じっさい、古典古代の知識人たちの確定した方法、ソクラテスの論駁法や、プラトンの仮説の方法、オルガノンと呼ばれるアリストテレスの論理学の体系と、公理的学問論は、二十世紀に至るまでの長い間、ヨーロッパの学問探究を支えたのだった。

 このような世界に対決しようとするキリスト教の教えるところは。あらゆる法や制度や価値観を批判するものであり、個たる隣人へのラディカルな愛を説くものである以上、その「理論化」は、どの時代、どの場所でも多かれ少なかれ似たかたちはとったかもしれない。しかし、現実の四ー六世紀の教義論争が辿った鮮明な「普遍との対決」という思想的構図が可能となったのは、一つには古典古代の普遍を中心とする思想がすでに成熟していたという状況をぬきにしては考えられない。二つには、当時、ネオプラトニズムのような、単なる普遍至上とは異質な思想が、イスラエルその他の東方宗教の超越思想をよりどころにして、古典古代の普遍思想の発展でもあり、それへの対決でもあるような体系を、すでにつくっていたということも見逃すことはできない。キリスト教理論化の仕事は、大きな基礎工事がすでに仕上がって目の前にあるのを見たのだった。

 ビザンツ初期のこのような状況の中で、キリスト教は、自らを「普遍に対抗する個の思想」「本質に対抗する存在の思想」として形づくりえたのであった。もしキリスト教が別の時代、別の文化状況のうちで自分を理論化したとすれば、これほど「カテゴリー的なもの」「本性的なもの」「本質的なもの」に尖鋭に対立し、それらではないものの領域を強調する思想というかたちはとらなかった可能性もある。そのため私は「ビザンツ的インパクト」と言ってみたのである。このような思想の基本図式が、現在にいたるまでヨーロッパには生きつづけているのではないかというのが、私の一つの仮説である。

 もちろん、キリスト教の「個への愛」は、ネオプラトニズムにかいま見られる「個への関心」よりも、より鮮烈で、尖鋭で、具体的であった。その衝迫力はネオプラトニズムよりもするどく、またこの具体者と絶対的なものとの同一と断絶のドラマは、ネオプラトニズムの連続的な思想におけるより、はるかに振幅が大きく、緊張に満ちたものであった。ここにおそらく、キリスト教思想の最大の魅力がある。

 三位一体論をふまえて、キリスト教理論の頂点を形づくったキリスト論は、キリスト教思想の「普遍に対する対決」の主張の最終的表現であり、この思想のもつ緊張と逆説と、それを貫く確固とした宗教的・人間的主張とが集成されたものである。したがってそこでは、矛盾しあう多方面な志向と、多様な現実解釈を、ヒュポスタシス=ペルソナという概念によって一つにまとめ上げる、困難な仕事が要求されていた。

 キリスト論は古代に現れた種々な存在論を、ほとんど不可能な仕方で一つに結び併せる。それは、キリストという存在が、もともと不可能な存在だったからである。全く人・全く神。つまり人としては私と種的に同一なもの。しかし個なる私にとっては他者。しかも創造者として種的にも個としても、私の存在の根源であり、私を包み、あらしめているもの。私にとって絶対に他であり私と非連続であり、しかも私とある意味で絶対に同一なもの。物質的・人間的存在であり非物質的・非人間的な神存在。——それはこの世界と絶対者が一つに結合する場所であり、絶対者が自らを世界のために失うところであり、逆に世界が自らを失って絶対者に参与するところである。しかもまた、両者が自己を失わずに差異と区別を保ちつづける場とも考えなければならない。

(…)

この不可思議な存在を、ともかくも「一つの存在」として理解可能にしたこと、この集約の集約ともいうべきものを説明可能にしたこと、それが、ヒュポスタシス=ペルソナという概念の仕事であった。教義時代の思想家たちが長いことかかってあらゆる実体や本性から、この概念を分離抽出したことの成果であった。」

「ヒュポスタシス=ペルソナという概念が、多くのものを含み、豊かであると共に単純に割り切れない概念であることは、すでに第二章でも述べた。ヒュポスタシスつまり「沈殿」のラテン語としてペルソナつまりう「仮面」が可能であったのは、この二つのまったく関係なさそうな概念に共通項があったからである。

 なぜ沈殿イコール仮面なのか? それは先に述べたように、「沈殿」は流動する存在の流れのうちのいっときの留まりであり、仮面は舞台と劇のうちの一役割であり、共に交流の一結節として存在をもつものであり、しかも共に、この時代には「個存在」の意味をもつ語であったからだということは、すでに述べたとおりである。これは静と動を併せ、個存在と交流を併せる、矛盾と多様をうちに含む概念であった。さらにその「動」「静」「交流」「個」はヒュポスタシスでは存在的・宇宙的なもの、ペルソナでは社会的・人間的なものであった。このようにして、この概念ほど包括的なものはまたとないような概念が生じてきた。」

(山本芳久「解説 かけがえのない「個」への導きの書」より)

「坂口ふみ『〈個〉の誕生/キリスト教教理をつくった人びと』は、わが国における古代中世哲学研究が生み出した名著であり、刊行後四半世紀を経て今や「古典」の域に達したと言ってもよい書物である。」

「本書が一九九六年の春に刊行されたことをいち早く私に教えてくださったのは、東京大学を退官されたばかりの坂部恵先生であった。」

「本書は、古代末期のキリスト教の教理論争を背景に生まれてきた古代末期から中世にかけてのキリスト教的な神学・哲学という、一般読者にはほとんど無縁とも思われる分野を、現代を生きる一人ひとりの生と接続させてくれる稀有な書物なのである。」

「本書が主に取り扱っているのは、日本でも比較的よく知られている「西方」のキリスト教ではなく、「東方」のキリスト教であり、「東方」のキリスト教と「西方」のキリスト教の思想構造の対比も行われている。だが、本書を一種の「比較文化論」として理解してしまうと、著者の関心の中心から大きく逸れてしまうだろう。
 著者が試みているんは、特定の時代、特定の地方、特定の宗教、特定の言語における一つの特殊な思想の紹介ではない。「アポリナリス」「キュリルス」「セヴェルス」「レオンチウス」といった、キリスト教にある程度馴染みのある人でさえほとんど聞いたことのない思想家のテクストの分析を通じて著者が浮き彫りにしようとしているのは、そういった「時代」とか「場所」とか「宗教」とか「言語」といった諸々の「属性」の「根源」に厳然と存在する「個」の真相/深層なのである。」

「この世界の根源にある「神」は、孤独な存在ではない。この世界の創造後にはじめて「神」とこの世界との「関係」が成立するのではない。一なる「神」自身のうちに、永遠的な「関係」が含みこまれている。東方のギリシア語では「ヒュポスタシス」、西方のラテン語では「ペルソナ」という言葉で捉えられてきた「父」と「子」と「聖霊」という神の「位格」が、「他」からの自立性ではなく、「他」との関係性をこそ本質とした存在であること、いや、むしろ、「他」との関係性のただかなにおいてこそ自立性を維持し続ける存在であるということを、著者は、「ヒュポスタシス」や「ペルソナ」という言葉の発生現場にまで遡って丹念に捉え直しているのである。
 さらに、著者は、「ヒュポスタシス」や「ペルソナ」という言葉によって捉えられてきた神の「位格」についてのこのような微妙な在り方を、単に「神」についての話として済ませるのではなく、「人間」の「個」の話、すなわち「人格」の話として次のように展開していく。

  三位一体のヒュポスタシスはカパドキア以来変わることなくまさに交流性、関係性によって定義されつづけた。人間の核心をなすものも、そのようなものの似姿なのである。」

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