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佐々木 力『数学的真理の迷宮/懐疑主義との格闘』

☆mediopos-2467  2021.8.18

論理的に考えることのできる力を
身につける必要があるのは
論理を絶対化するためではなく
むしろ論理ではとらえられないことについて
考える必要があるからだ

科学や数学もまた同じである
科学主義者が生まれてしまうのは
科学ではとらえられないものが
見えなくなってしまうからであり
数学を絶対的真理であるかのように考えるのも
数学ではとらえられないものが
わからなくなっているからだ

科学や数学について
学ぶ必要があるのは
それらの実用的な側面もあるけれど
それよりもはるかに重要なのは
科学や数学ではとらえられないものについて
考えることのできる力を持つことだ

それはもちろん
恣意的であっていいというのではない
科学的真理や「数学的真理が、
条件的(conditional)」であること
その「条件」を超えた「外」にあるものには
その真理は適用的できないことを理解することだ

個人的なことをいえば
高校の頃は数学がとても好きで
高校生レベルではあるけれど
いろんな数学問題に取り組んでいたことがあるが

あるときある論証問題に取り組んだとき
問題は難なく解け証明もほぼ完璧だったのだが
それで証明できたとは思えなかったことがあった

そしてそのことを数学の教師に
「なぜこれで証明できたといえるのか」
質問したことがあったが
証明がなぜ証明になっているかについて
納得できる説明は返ってこなかった

そのときから
「証明する」ということについて
しばしば懐疑的になるようになったのだが
そのときじぶんなりに出した答えは
「証明」はその条件の適用可能な範囲だけのもので
その範囲を超えれば「証明」は意味をもたなくなる
ということだった

数学や科学はもちろんのこと
あらゆる「証明」については
その「条件」を見てみる必要がある
世の中で「正しい」とされていることも
その「条件」がそうさせているのであって
それが変わったときや
条件の外ではそれはあてはまらない

そのことはごく単純な考えでもあったのだが
やがてウィトゲンシュタインの
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」
という言葉や
その後の言語ゲーム的な在り方に興味をもったのも
なにかが成立しているときには
「条件」を見ると同時に
その「外」を見なければ見たことにはならないことを
試行錯誤しながら考えてきたからでもあった

現在起こっているさまざまな社会現象も
それを成立させている「条件」を見ること
そしてその「外」を調べ考えてみることで
その現象を鵜呑みにしないでいられる

神秘学が必要なのも
まさに通常の認識範囲において
成立しているさまざまなことの
「外」について探求する可能性へと
開かれているからでもある

ひとはじぶんが思っているより
さまざまな「条件」に既定されとらわれ
そこから逃れられないまま
それに疑いをもつことさえできないでいる

これもウィトゲンシュタインの言葉になるが
「哲学の目的はハエ取り壺のハエに出口を示してやること」
だというのがあるが
多くは哲学さえも「ハエ取り壺」から出ていないことが多い
重要なのは「世界」の中にありながらも
「世界」をその「外」から見ることのできる力を
持てるようにすることではないかと思うのだが・・・

■佐々木 力『数学的真理の迷宮/懐疑主義との格闘』
 (北海道大学出版会 2020/12)

「本書は、数学なる知識を、その知識が形成される世界ないし社会の歴史的在り方の構造に規定され、そして、それが、その知識が置かれる世界ないし社会の創成にかかわる仕方をごく一般的に考察する試みである。現代には数学基礎論なる数学の学科が存在するが、そのような学科のたとえば論理主義が数学的知識を基礎づけうるなどとは考えない。そのような考えは、たかだか数学的知識をいわば二次的に整理する試みにすぎない、と見なす。換言すれば、せいぜい画餅にすぎないものと考える。数学的知識を成立せしめる歴史的ないそ社会構造こそが根源的であると見ますのである。」

「数学的真理は、どう特徴づけされるのであろうか? 自然諸科学における真理とどう異なるのであろうか? もしそうだとすると、前者は後者とどう異なるのであろうか?」

「数学における革命によって何が起こるのか? (・・・)数学的真理は、準経験的であり、かつ時間依存的に相違ない。それは、この現実の自然的、社会的世界から隔絶されているわけではないのだ。しかし、同時に、現実の自然の世界や、エドムント・フッサールの哲学的語句を用いて言えば「生活世界」(Lebenswelt)によって、全面的に経験的ないし存在論的に拘束されているわけでもない。それから、数学的真理は、せいぜい条件的真理であることに注意されねばならない。今日的理解によれば、「数学は可能的な理念的構造の科学(scienece of possible idealized structures)と見なされる」。

「数学における真理価値は、ふつうは保持されるとされる。数学は相対的に存在論的に拘束されるわけではないからである。他方、自然諸科学は現実の経験的な自然世界にかかわり、数学よりは、はるかに大きな度合いで、存在論的に拘束される。これが、自然諸科学の旧理論がしばしば単純に遺棄されてしまう理由なのである。たとえば、フロギストン説である。けれども、ある種の理論、たとえば、ニュートン力学は学ばれ続ける。
 ここで、数学的真理について、一般的に注記する必要がある。数学的真理は、一般に論証によってその真理性を保証されるものと理解される。けれども、その論証は、なんらかの前提のもとでなされ、絶対的に真理が保証されるわけではない。論証手続き上からみて、数学的真理が、条件的(conditional)なのである。また、存在論的にも自然諸科学のような経験的拘束を強く受けるわけではない。古代ギリシャのプラトンが明確に指摘していたように、それから20世紀の数理論学者のゲーデルが数学的に証明してみせたように、数学的真理は「不完全」(incomplete)なのである。」

「総合的にまとめるとすれば、われわれが、自然諸科学には革命の概念を認め、数学には求めないとするのは、不自然であり、奇妙である。なぜなら、両者ともに、人間の知的活動の歴史所産であり、たしかな解釈学的基底をもち、理論のラディカルな交替がありうるからである。

「われわれあh、数学においても革命が存在すると論じ、数学的革命における破壊の程度は、常態的なものと、革命的なもののあいだの科学的発展のタイプの差異化は、数学的内容の発展のわれわれのカテゴリーでの(1)漸進的発展と、(2)革命的発展に対応する。

■目 次

序 文
序 論 数学史のなかのルイス・キャロル

【第I部 真理という迷宮――数学と懐疑主義】
第1章 ルイス・キャロルの無垢の幸福――数学的真理の絶対性という神話
第2章 ヴォワイヤン・パスカルの洞見――人間的知識の栄光と悲惨
第3章 「何も知られないこと」――懐疑主義者の数学的理性批判
第4章 「われ惟う、ゆえにわれあり」――デカルトの懐疑主義者への回答
第5章 「可能世界」というものの考え方――数学的真理のライプニッツ的救済
中間考察 基礎づけのない多様な数学的知識――ウィトゲンシュタインにとっての数学的真理

【第II部 古代ギリシャにおける理論数学の成立と数学革命論】
第6章 エウクレイデース公理論数学と懐疑主義――サボー説の改訂
第7章 数学における革命とはどういうものか?――トーマス・S・クーンの科学哲学の光のものとでみた数学的真理

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