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江南亜美子「更新される、「私小説」」 (『文学ムック ことばと vol.5』書肆侃侃房)

☆mediopos2745  2022.5.24

作品が「私小説」であるかどうか
「もはや誰もそんなことを気にしていない」だろう

文学ジャンルは
どこかで作者と読者のために
つくられた制度だろうし
ましてやその制度のなかで
「私−小説」であるかどうかは
そのテキストの働き方に拠るものでしかない

つまりそれが「私小説」であるとすると
問題になるのはその「内容面でなく、
書かれ方(叙述への意識化)」以外の何ものでもない
その内容が事実であるかどうかを問うたところで意味はない

さらにいえばそれが文学であるか
文学ではないテキストであるかということも問題ではない
制度的にジャンル化されたもののなかの典型であったり
ジャンル分けすることが難しいものであったりはするが
要はその「読まれ方」(受容のされ方)次第である

読まれ方次第では
科学論文もさらにいえば辞典や
(いまや滅びつつある)電話帳のようなテキストも
文学として受容することさえできる

いまや「私」的な事実を気にする受容は
有名人や芸能人の告白や
SNSで開陳される語りくらいであり
それさえも「事実」であろうがなかろうが
それに関心をひかれるかどうか以上の意味はない

重要なのは
「私」が「語る」という
その「私」の成立に関わる自我の働きや
その表現メディアである「ことば」が
そこにどのように関わっているかということだろう

そして「私」は
この「私」だけではなく
「あなた」の「私」も「私」であるように
またこの「私」においても
複数性の「私」が意識的無意識的なありようをこえて
「私」を成立させているように
「自他」をこえた「私」という現象が
そこには繰り広げられている

これからも
「私」はさまざまな形で
語られつづけていくだろう
そしてそれは
さまざまな読まれ方がされていく

豊かな可能性が創造されることもあれば
SNSの多くに見られるような
自己露出のようなものもあり
それらは絶えることはないだろう

「私小説」を書きたい人もあり
書かれた「私小説」を読みたい人もいて
それらの受容があるかぎり
それは続いていくだろうし
「私小説」という受容がなくなれば
その「語り」はまた別のジャンル・形式のもとで
新たな書かれ方が求められていくことになる

それもこれも
「私」という現象の
「ことば」を通じた遊戯にほかならない

■江南亜美子「更新される、「私小説」」
(『文学ムック ことばと vol.5』書肆侃侃房  2022/4 所収)

「二〇〇〇年代以降の日本の現代文学シーンを語る際、「私小説」という——自然主義的リアリズムのひとつの達成の形とされ、ながくメインストリームとして日本文学を牽引した文学ジャンルの枠組みは、いまだ有効に働くだろうか。たとえば田山花袋の『蒲団』は弟子である女子学生へと劣情の真率な告白と江戸戯作文体から完全に脱却した文体によって、「私小説」の淵源と評価されてきた作品ではあるが、いまや、ある作家によって書かれた小説が「私小説」であるかどうかは、究極的にはその作家が「私小説である」と表明しなければ読者に判別などつかず、たとえそういわれたところで真に「私小説」であることは担保されない。

 誰でも手軽に発信できるいま、悪事や恥辱の開陳はなにも珍しくはなく、SNS等でこうも有名人の日常がやすく切り売りされては、秘匿の告白もそれほどインパクトをもたらさない。そしてそれが小説という形式である意味とは? 自伝的、私小説的、事実に基づいた、などいろいろと作品を飾る言葉はあり、定義も曖昧で、線引きはいよいよ難しい。もはや誰もそんなことを気にしていないと言ったほうがよさそうだ。

 そんなすたれかけた「私小説」という分類に(すこしズレながら)置き換わるようにして、文学の世界においても、当事者性という言葉が目立つようになってきた。そもそも当事者による自己語りは精神医療の現場から出てきらものだ。ソーシャルワーカーとして「浦河ぺてるの家」で精神疾患を持つ患者と密に接してきた向谷地生良は、それまではタブーとされてきた、自身の(妄想や幻聴も含めた)障害について語ることを促した。他者との水平的な経験の共有によって自己回復をめざすという、支援者からの上から下への治療とは違うアプローチの導入である。

(…)

 エビデンスや統計データなど知ったことではなく、いま「この私」に依拠する身体感覚を存分に語る/描くのだ、と針を振り切ったテキストを包摂するものが当事者研究なのだとしたら、私たち読者はそこにかつて「私小説」と呼ばれていたジャンルのエッセンスを嗅ぎつけることもできるだろう。

(…)
 もちろん、当事者研究と「私小説」として読者に差し出されるものとの決定的なちがいは、後者がストーリー(物語)をもつテキストであることだろう。(…)しかし当事者研究も、それが読まれるものとして書かれる以上は、多かれ少なかれ自分自身によるストーリー化の加工から免れられないのではないか?」

「翻っていえば、オールドスクールな「私小説」観——従来型の、素朴に恥辱の開陳や秘匿の告白、自分のことを書けば私小説になる——をドラスティックに更新させる小説作品は、いま、いくつも生まれているのだ。その更新においてはおのずと内容面でなく、書かれ方(叙述への意識化)が重要になる。」

「「私小説」であるとなんの衒いも留保もなく標榜する作品を、読者が字義通りに受け取ることはもはや難しい。当事者研究的なアプローチが文学において主流となることも想像できない。しかし、ひとりひとりが特異で代替不可能な個人であることを含みながら、この地上に生きる私たちは根源的に複数のなかにあるというアーレンとの「複数性(plurarity)」の概念を借りれば、他者と共生する公的空間にあって「私小説」的な文学の磁場はこれからも働くと考えることができるのではないか。なぜ「この私」は他者とともに生きるのかという根源的な問いをまえにしたとき、「私小説」という文学的なジャンルの定義の更新は起きつづける。」

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