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川野芽生『Lilith(リリス)』

☆mediopos-2489  2021.9.9

「歌集」なるものを
じぶんから手にするようになったのは
つい最近になってからのこと

川野芽生の『Lilith(リリス)』を見つけたのは
『短歌ムック ねむらない樹 vol.7』の第二特集に
川野芽生と山尾悠子の往復書簡が
掲載されていたことがきっかけである

それまで川野芽生の名前も知らず
第一特集の「葛原妙子」の名も知らずにいた
(「葛原妙子」についてはあらためてとりあげてみたい)

山尾悠子はデビュー作の『夢の棲む街』(1978)以来
ずっと隠れファンでもあったので
歌人!とのやりとりがあることに興味をひかれた

山尾悠子の作品には
『角砂糖の日』(1982)という歌集もあり
『Lilith(リリス)』の帯にも
川野芽生の依頼で推薦文も書いている

川野芽生はかつてより山尾悠子のファンで
5年前の『新装版 角砂糖の日』の刊行記念パーティで
山尾悠子に会えてからのつきあいだったようだ
そして『夜想』で山尾悠子特集があったときも
『ラピスラズリ』の評を掲載している

さて今回はそんな川野芽生の第一歌集
『Lilith(リリス)』について

歌集は3部構成となっている
Ⅰ anywhere
Ⅱ out of
Ⅲ the world
つなげると
anywhere out of the world

川野芽生はおそらく
世界の内と外とのあいだで
血を流しながら言葉と格闘している

川野芽生は
「世界は言葉でできている」
「言葉は世界である」
故に
「人間は言葉に仕える司祭としてのみ存在意義を持つ」
そう思っているという

しかし同時に
「言葉」のなかを踏み迷い
「失語にも似た状態に陥」ったりもしたようだ

「言葉はその臣たる人間に似すぎていて、
あまりに卑属で、醜悪で、愚か」だから
「人間という軛を取り去ったとき、
言葉が軽やかに高々と飛翔するのであれば」と願いつつ

「権力そのものになって人間を追い詰めること」も
容易にできる「文学」に
「言葉と差し違える覚悟を持」ちながら
関わっていこうとしているという

山尾悠子の世界は
いわば幻想文学だともいえるだろうが
その異世界ともいえる世界を描く言葉は
記号化され即物化された現実を離れることで
むしろその深みで見えなくされているものを
取り戻すための言葉でもある

川野芽生が山尾悠子の作品から得ているものも
そんな言葉の働きなのだろう
山尾悠子も記しているように
川野芽生は「端正な古語」を使いながら
「川野芽生の若さは不思議」で
「何度も転生した記憶があるのに違いない」という
「転成した記憶」というのはつまり
言葉が重層化された深みを持っているということだ

現代短歌に多く見られるPOPな軽さとは異なり
川野芽生の言葉の奥には
「言葉」への深い「熱」を感じる
「言葉と差し違える覚悟を持」つほどの言葉
ある意味でぼくの使う言葉に欠けているものでもある
(ともすればぼくの言葉は「思考」的になりすぎる)

言葉ははじめ「歌」だったはずだが
現代の言葉はともすれば
「思考」の道具とされてしまうか
垂れ流しのような感情な表現の道具になってしまう

そんな道具と化してしまった言葉から
ほんらいの「歌」を取り戻す必要があるだろう

「世界は言葉でできている」
いまの「世界」の「言葉」が多くゾンビ化しているならば
それを甦らせることのできるような言葉が必要だ
そんな「言葉」の源ともなるような
「歌」に出会えますように

■川野芽生『Lilith』(書肆侃侃房 2020/9)
■『短歌ムック ねむらない樹 vol.7』(書肆侃侃房 2021/8)
■山尾悠子特集編集委員会 編集
 『夜想/特集 山尾悠子』
(ステュディオ・パラボリカ  2021/3)
■山尾悠子『新装版 角砂糖の日』
 (LIBRAIRIE6  2016/12)
■山尾悠子『ラピスラズリ』(国書刊行会 2004/02)

(川野芽生『Lilith』〜「あとがき」より)

「世界は言葉でできていると、私は思っています。言葉は世界であると。
 人は嘘を吐くことがある、とはじめて気付いたとき、深い衝撃を受けたのを覚えています。人間がつねに真実を語ると思っていたわけではなく、むしろその反対で、ただ言葉の臣たる人間がみずからの思索に沿って言葉を捻じ曲げうるなどとは、思ってもみなかったのです。
 人間は言葉に仕える司祭としてのみ存在意義を持つと思っていて、それでも、言葉が人間なしで成り立たないことがときにたまらなく口惜しく、悲しくなります。ダンセイニの掌編に、工事の足場から墜ちていきながら、手にした木材に空しくおのが名を刻む大工の話があり、数秒後には死ぬ人間が、自分よりほんの数週間長く生き延びるだけの木切れに名を刻んでどうするのか----自分よりほんの数世紀長生きするだけの〈文明〉に名を刻もうとする詩人の〈わたし〉もまたしかり、と続くのですが、わたしは言葉が、人間とその文明が滅びたずっと後も独自の生命を持って生き延びてくれることをずっと夢見ています。
 わたしが失語にも似た状態に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、言葉や真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。しかしわたしが愛した神聖な言葉の世界に逃げ帰ろうとしてみると、そこには空虚で、美しくて、誘惑のための言葉しか発しない〈女性〉たちが詰め込まれていて、わたしは一体いままで何を読んでいたのでしょう。何を読まされていたのでしょう。
 言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑属で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに。
 文学は権力そのものになって人間を追い詰めることが容易にできます。しかし私は、言葉に内包する構造にそのまま操られることなく、言葉と差し違える覚悟を持つこと、それこそが文学の役割であると信じています。」

(川野芽生『Lilith』〜「ラピスラズリ 1」より)

「陸(くが)といふくらき瘡蓋の上を渡り傷を見に来ぬ海といふ傷を
 人界を襲はむと来る銀狼の群れ みづ埋めて燦めく波は
 瞼なき魚匿ひて灼かれしか瞼なき海は眼を逸らさざる
 事無くて人と成れるを詰られしのち夏ごとに細りゆく腕
 薔薇園をとざすゆふやみ花の色なべて人には禁色にして
 氷もて微熱をさまし天国の不在証明のごときこの肉体は
 石壁の蔦のやうなる骨浮きてあやふし少女期より痩せゆく
 Lapis-lazuliみがけりからだ削ぎゆかばたましひ見ゆ、と信じたき夜半
 朝風は夜々研がるるをなにゆゑに斬り裂かれたることのなき玻璃
 にんげんに美貌あること哀しめよ顔もつ君は顔伏する世に
 飛行また遊戯に過ぎずつばさるものさへ落ちてくるこの地上
 万華鏡のごときを構え世は打ち砕かれしときのみ美(は)し、と
 ポケットに入れたる鳩の羽搏きの、やまざる、ごとき、このねむたさの、
 ※
 ねむる----とはねむりに随きてゆく水尾(みを)となること 今し水門を越ゆ」

(川野芽生『Lilith』〜山尾悠子「帯文」より)

「抒情の品格、少女神の孤独。
 端正な古語をもって紡ぎ出される清心の青。
 川野芽生の若さは不思議だ。
 何度も転生した記憶があるのに違いない。」

(『短歌ムック ねむらない樹 vol.7』〜「往復書簡 山尾悠子×川野芽生」より)

「(川野芽生)
 山尾悠子さま

 『飛ぶ孔雀』のお茶会を思い出す暑さになってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
 まずは、『新装版 角砂糖の日』の五年ぶりの増刷、おめでとうございます。五年前はあまりに早く売り切れになってしまって、悔しがっている人を大勢見かけたものですから、再び手に入るようになってめでたいことです。山尾さんにお目にかかった『新装版 角砂糖の日』刊行記念パーティももう五年前になるのですね。山尾さんにお会いできるなんて夢のようで、当日はファン心丸出しできゃあきゃあ騒いでしまったのが思い返せばお恥ずかしいことです。
 それにしても はじめての歌集を出すにあたり、なんとかして山尾さんに読んでいただきたい、あわよくば帯文を書いていただきたい、と駄目で元々のお願いをしたところご快諾いただいたこと、おかげで山尾悠子ファンとして認識されたのか、伝説の雑誌「夜想」の「山尾悠子特集」にお声掛けいただいて『ラピスラズリ』についての長い評論を載せていただいたこと、「文學界」で『山の人魚と虚ろの王』の書評を書かせていただいたこと、そして今こうして往復書簡をさせていただく運びとなったこと、いまだに奇跡のよう……と、またファン心全開なことを書いてしまいました。
 「夜想」の「『新装版 角砂糖の日』刊行記念パーティのこと」に書かれていた。「むかしむかしの『ちょっと風変わりな』多くの女性たちはひとりで生きてひとりで死んでいったのだろうなと、尾崎翠のことなども少し思い出していた」「若かったころの私は、男の若手SF作家たちに囲まれた紅一点、という美味な立ち位置にいたことが(ほんの短期間だけ)あった。とても楽しかったけれど、でも当時は作家としてじゃまともに相手にしてもらえませんでしたよね」という部分、心に残っています。
 それでは、ひとまずご挨拶までに。」

「(山尾悠子)
 川野芽生さま

 お手紙ありがとうございます。嬉しく拝読しました。この度の川野さんとの往復書簡、声をかけて頂いて大喜びしているのですよ。川野さんとお話してみたいことはいろいろ。さて何から始めましょうか。
 まずは改めまして、第一歌集『Lilith』の現代歌人協会賞受賞おめでとうございます! 歌集発刊の折には、私のような門外漢の帯文のご依頼を頂きまして、さいしょはむろん躊躇い、でも読ませて頂いて何より煌びやか才能にすっかり魅了されたのでした。そしてここ最近は拙作への書評や評論、こちらこそたいへんお世話になっておりますね。特に「夜想」での、川野さんの『ラピスラズリ』評ですよ。今まではファンタジックな小説としてのみ読まれてきた拙い作ですが、フェミニズムとシスターフッドという新たな観点から豊かに読み解いて頂きました。読み応え十分の評論として、読者からもたいへん好評の様子ですね。多方面に展開する才能、頼もしいことです。
 さいしょに川野さんにお目にかかったのは、そう『新装版 角砂糖の日』刊行記念パーティの折り、もう五年も前のことになるのですね。」

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