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古田 徹也『いつもの言葉を哲学する』

☆mediopos2595  2021.12.24

本書の「あとがき」で作者が記しているように
新型コロナ禍における言葉の問題をめぐる
著者の各種メディアでの示唆について
「言葉にこだわるなんて悠長な話だ」
「言葉の問題よりも、もっと喫緊の問題がある」
という声がたびたび届いたそうである

いうまでもなく
かつて古代ギリシアにおいてソフィストたちが
言葉を魔術や呪術になぞらえ」たように
「言葉は非常に面白く、また、ひどく恐ろしい」

言葉はひとりで創りだし使うものではなく
言語共同体において共有されるものだから
そして言語はその言語共同体のなかでの
「思考」をも意味しているから
その「思考」は
私たちの「現実」を生み出しているともいえる

それが些末な問題である場合もたしかにあるだろうが
私たちの社会や生活にとって重要な
政治的なものにかかわるばあい
言葉に意識的であることは必須となる

とくに今回の新型コロナ禍といわれる状況に対して
つくりだされまた使われている言葉をみると
その言葉がどのような「思考」から生み出されているか
その無自覚さや隠れた意図があらわになる

たとえば「自粛を解禁」するという言葉などをみるだけで
そこにあるあまりにもあからさまな無知と意図が見える

自粛を解禁するということは
自粛が禁じられていたのが解かれる
という意味になってしまう

しかもそもそも自粛はみずから自主的に行うものであって
禁じたり解禁したりすることを命ずるようなものではない
「要請」も命ずるようなものではない

そうした言葉の背景にある「思考」は
「ボランティア」を自発的なものであるのとは
まったく矛盾したものとして扱うのとも似ている

それは表向きの意味とは矛盾する行動を促す
ダブルバインド的な思考のもとに
政治が行われていることを意味している
おそらくそれらの背景にあるのは
否応なく命じられる「自己責任」ということだろう

かつて第二次世界大戦中におこなわれた戦意高揚が
現代においてはさらに巧妙に錯誤したかたちで
(ダブルバインド的な表現のもとにということだが)
行われているようにもみえる

言葉は時代とともに変わっていくが
とくに政治において意図的に変えられてしまうとき
「言葉にこだわるなんて悠長な話だ」
ということはできない

私たちの思考と現実は
言葉によって容易に操作されてしまうからである
その意味でも本書のタイトルにある
「いつもの言葉を哲学する」ことが重要となる

■古田 徹也『いつもの言葉を哲学する』
 (朝日新書 朝日新聞出版 2021/12)

(「序章」より)

「古代ギリシアではある時期、「ソフィスト」----元々のギリシア語では、「知者」を意味する「ソピステース」----
を自称する専門的職業人が活躍していた。」
「言葉は人の生活や思考の隅々にまで行き渡っており、陰に陽に甚大な影響を与えている。言葉を巧みに操れば、根拠の弱い主張を強く見せることもできるし、同じ事柄を賞賛することもできれば非難することもできる。自分を偉大に見せ、自分のしたいことに支持を集めることもできる。ソフィストたちは、とくに言葉を魔術や呪術になぞらえもした。」

「かつて哲学者のウィトゲンシュタインは、「すべての哲学は「言語批判」である」と語った。本書もまた「言語批判」を行うものだが、扱うのはいつもの言葉たちだ。すなわち、私たちの生活の中に織り込まれてきた言葉。そして、私たちがいまよく見かける言葉、いま繰り返し用いている言葉を哲学する。
 多様な言葉のもつ多様な側面を見渡し、「批判」しつつ、全体として本書が探求するのは、言葉を大切にするとは実際のところ何をすることなのか、という問いである。その過程で、〈言葉は生活とともにあり、生活の流れの中ではじめて意味をもつ〉という事実を、私たちは何度も確認できるだろう。そしてまた、〈しっくりくる言葉を慎重に探し、言葉の訪れを待つ〉という仕方で自分自身の表現を選び取り、他者と対話を重ねていく実践が、いまの私たちにこそ与える重要性も、次第に浮かび上がってくるだろう。
 かつてソフィストたちが洞察した通り、言葉は非常に面白く、また、ひどく恐ろしい。」

(「第四章 変わる意味、崩れる言葉」〜「4「自粛を解禁」「要請に従う」----言葉の歪曲が損なうもの」より)

「二〇二〇年一月末に行われた東京大学大学院人文社会系研究家の入学試験において、私の所属する倫理学研究室が出したごく説明問題のひとつは、「三密」の意味を尋ねるものだった。もちろん、この場合の「三密」は伝統的な仏教用語のことである。古来この言葉は密教において、仏の身・口・意の三つの働き、あるいは、人間による同種の三業を指すものだった。しかし、そのわずか二ヶ月後に、この言葉----正確には「3密」----に全く異なる意味が与えられて社会全体に広まり、仕舞いにはその年の「新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれることなど、入試当時は想像もできなかった。
 新型コロナ禍の前後で大きく意味合いを変えた言葉には。この「三密」や、あるいは「濃厚接触」などのほかに、「緊急」や「緊急事態」という言葉も含まれるだろう。
 最初の「緊急事態宣言」では社会に緊張感が行き渡ったが、その後同じ宣言が繰り返されるごとに、人々の行動変容をもたらす効力は薄まっていった。現在では、この宣言のいう「緊急事態」は、文字通り緊急の対策を講じなければならない大災害や大騒乱を意味するというよりも、多くの人にとってはたんに、商業施設の時短営業や休業が行われる不便な事態として理解されるものと化している。「緊急」や「緊急事態」という言葉の相貌は、いまや以前とは異なるものになっていると言えるだろう。
 新型コロナ禍という世界規模の災厄の渦中で私たちは、既存の言葉をこれまでとは異なる意味で理解して使用することを急に迫られている。しかし、これは危険な傾向だ。大抵の言葉は、長い歴史や多様な生活の文脈を背景になり立っており、関連するさまざまな言葉と連関しながら、私たちの生活自体を根底で支えている。にもかかわらず、あたかも自分たちの意のままにできる道具のように言葉を扱い、その意味を好き勝手にころころ変えてしまえば、私たちは自分の拠って立つ基盤を自ら深く損なうことになる。

 たとえば、一回目の緊急事態宣言が解除される頃から、多くのマスメディアで、「自粛を解禁」という見出しや文言が踊るようになった。これは二重の意味で奇妙な言葉だ。
 まず、「解禁」とは文字通り〈禁止が解かれること〉を指す言葉だ。たとえば「鮎漁を解禁」というのは当然、鮎漁の禁止が解かれ、鮎をとる行為が赦されることを意味する。それゆえ、「自粛を解禁」だと、自粛の禁止が解かれること----つまり、自粛が赦されること----を意味することになってしまう。
 そして、さらに奇妙なのは、自粛とは、これも文字通り〈自ら進んで行動を粛むこと〉を意味するということだ。つまり、自粛している事柄は、そもそも禁止が解かれる対象ではないのである。
 とはいえ、こうした誤用にはそれなりの背景もうまがえる。新型コロナ禍において、国や地方の行政府は、感染拡大を食いとめるためのさまざまな「自粛」を市民に対して「要請」してきた。しかし、それは現実には、しばしば強い圧力を伴う「命令」の様相を呈している。実際、これまで大臣や知事、市長といった立場の人々からは。「自粛を徹底させる」、「自粛の要請に従ってもらう」、「要請を守らない場合には」といった言葉が平然と発せられてきた。言うまでもなく、「要請」には応じるものであって、人が従ったり守ったりするのは「命令」であるにもかかわらず。」

「言葉の意味や用法というのは、私たちの社会や生活にとって些末なものでは全くない。むしろ、その生命線であり。急所でもある。新型コロナ禍における言葉の歪曲はこのことをはっきりと私たちに示すものだが、それ以前から、言葉の意味の恣意的な「変更」は、政治をはじめとする公共的な空間で常態化していた。」

「言葉がねじ曲がり、壊れることは、そのまま、言語的なコミュニケーションが不全に陥ることを意味する。言葉を雑に扱わず、その意味や用法に心を配り、自分の言葉に責任をもとうと努めることは、言葉とともにある私たちの社会や生活を支える基礎でもあるのだ。」

(「あとがき」より)

「昨年来、新型コロナ禍における言葉の問題をめぐって各種メディアに何度か寄稿し、インタビューを受け、テレビやラジオにも出演しました。そのたびに、「言葉にこだわるなんて悠長な話だ」、「言葉の問題よりも、もっと喫緊の問題がある」という声が届きました。
 そうではないということを、本書はさまざまな角度から照らし出そうと試みていまうs。言葉は、私たちの生活において常に喫緊の問題です。言葉の面白さと恐ろしさ、そして、言葉に無関心でいることの危うさに、本書が少しでも迫るものになっていてほしい。最後の節を書き終えたいま、私の胸にあるのはこのひとつの願いです。」

【目次】

第一章 言葉とともにある生活
第二章 規格化とお約束に抗して
第三章 新しい言葉の奔流のなかで
第四章 変わる意味、崩れる言葉

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