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エドワード・J・ワッツ(中西恭子訳) 『ヒュパティア/後期ローマ帝国の女性知識人』

☆mediopos2605  2022.1.3

ヒュパティアのことを知ったのは
いつのことだったか
はっきりとは思い出せないけれど

岡野玲子の陰陽師12巻の六「星を捕らへるもの」に
安倍晴明の前世として
思いがけず登場したのが平成17年のこと

そのときにはすでに関心をもっていたから
それ以前に溯るだろうが
そのときあらためてヒュパティアについて
詳しい資料を探そうとしてそのままになっていた

訳者の中西恭子氏にとっても意外なほど
本書は売れ行きが好調で重版もでるそうだが
それはヒュパティアを主人公にした
映画『アレクサンドリア』の影響なども
あっただろうことなどが
本書の刊行にあたって公開されている
動画チャンネルの「BHチャンネル」で
中西恭子氏ご自身からも語られている

古代においてはとくに稀有であった
女性数学者・哲学者であるということが
ミソジニーや女性知識人の機会均等の問題とも関係し
現代において注目されやすくなっている
ということも多分にあるようだ

ヒュパティアは355年頃に生まれ
4世紀後半から5世紀初頭
ローマ帝国のアレクサンドリアで活躍した
女性の数学者・哲学者・天文学者で
数学者テオンの娘に生まれ女性ながら学塾を率い
「公的知識人」の役割を担った新プラトン主義者だったが
キリスト教徒の政治的対立に巻き込まれ
415年に非業の死を遂げることになる

古代末期ローマ帝国におけるアレクサンドリアは
古代哲学者の理想を体現したヒュパティアが
市民の教師であり模範として活躍し得た時代でもあったが
ヒュパティアの無意味で衝撃的でもある殺害は
古代から継承されまだ残っていた古代の文化や知恵を
キリスト教が攻撃し破壊していく時代への
ターニングポイントともなったようだ

訳者の中西恭子氏の著書には
『ユリアヌスの信仰世界』があるが
ユリアヌスは4世紀のローマ帝国の皇帝で
当時台頭してきていたキリスト教への優遇を改めようとしたが
そのことで後世「背教者」と呼ばれることになる

ヒュパティアもユリアヌスも
古代末期のローマ帝国の時代において
事実上キリスト教によって古代の文化が破壊されていく
そんな時代を象徴しているともいえる

とはいえ本書の魅力の中心は
ヒュパティアを悲劇のヒロインや聖女として美化することなく
時代の制約のなかを生きぬいた女性知識人として
魅力的に描かれていることだ

ヒュパティアについての原資料は限られているそうだが
そんななかでも本書はかつてヒュパティアについて
知りたいと思っていたことについて
さまざまな視点から見ることのできる貴重な資料となっている

■エドワード・J・ワッツ(中西恭子訳)
 『ヒュパティア/後期ローマ帝国の女性知識人』
 (白水社 2021/11)

「ヒュパティアの死はそれほど衝撃的で、それほどおそろしいものだったからこそ、彼女はたちまち、起源後五世紀初頭には失われつつあったように思われる、社会がより円滑に機能していた旧き時代の象徴となった。つづく千六百年を通して、散文作家、詩人、画家、映像作家、そして研究者ら幅広い人々が、ヒュパティアと彼女に代表された時代をときに寿ぎ、ときに弾劾した。彼女は魔女として名誉を剥奪されてきたが、フェミニスト・アイコンと目されることもあれば、殉教者として称揚されることもあった。彼女の死はアレキサンドリアにおける教会の腐敗の、またギリシア的理性の終焉の、そして宗教的原理主義の象徴として用いられた、ヒュパティアの事例はもしかすると今こそこれまで以上に反響をもたらすものでもあろう。Gooole検索によれば、彼女は世界で最も有名な新プラトン哲学者であり、プラトン、ソクラテス、アリストテレス、ピュタゴラスにつづいて、ギリシア哲学者の人気五位に入っている。」

「歴史のなかにはいわれなき不当な死のかたちが無数に存在し、響きあう。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような指導者の殺害は、そのひとが自身の生涯を献げた偉大で高貴な大義への、最後の犠牲のしるしとなる。彼らの生涯と死は同じ物語の一部であり、その殺害は同時に、彼らが根深い不正と闘いつづけたことに光をあて。彼らが背負っていた重荷と闘わねばならなかったことを明るみに出す。この千六百年にわたって、ヒュパティアは喪われた正当な大義での殉教者とみなされてきた。古代においては、彼女は対立するキリスト教の体制の犠牲となった伝統宗教と哲学の擁護者として死んでいった。啓蒙主義のもとでは、彼女はあたかも古典古代の理性が迷信に圧倒される瞬間に、古代世界の慣習の擁護者となった人物であるかのように理解されていた。二十世紀には新しい時代の幕開けにあって、女性の社会的役割とキャリアの選択を制限する家父長制に対する、女性の自立の擁護者ともなった。
 とはいえ、ヒュパティアは象徴である以前にひとりの人間である。彼女は勇敢だったが、その苦難は私的なものであっや。彼女は闘士でもあったが、その闘いの目的は個人的なものだった。彼女が死んだのはおもに、ふさわしくないタイミングでふさわしくない場所にyたからだが、だからといってその死がとるにたりないものになるわけではない。マーティン・ルーサー・キングの生涯と死ほど鮮烈な生を生き、劇的な最期を迎えたひとは少ないが、それで人々の人生が重要でなくなるわけではない。我々が期待するようなかたちではなくても、どの人生の物語のなかにも英雄的な精神は見出されるのだから。
 その死においては、ヒュパティアは数々の正当な大義のために力強い象徴となってきた。しかし、生前彼女が闘ったのは、そのうちのわずかのためにすぎなかった。彼女はむしろ、通常は男性が支配する場所に出入りし、通常男性が唱えてきた思想を教え、通常は男性によって独占されてきた権威を行使した、才能ある哲学者である。どれも先例がないわけではないが、ヒュパティアの同時代の女性でこのすべてを試みた人はいない。ヒュパティアはそれをやった。しかもどれもみごとにやりとげた。駆け出しの哲学者であったころ、彼女の作品によって彼女の生きた都市における知の力学は再定義された。後年、大成してからは、伝統的多神教とキリスト教徒双方の共同体のあいだに信頼と協力を保とうと苦闘する都市に、平和と尊厳をもたらす影響力を担った。ヒュパティアは社会の変革を求めて大々的に闘うことはなかったが、自らが望んだように生きられる場所を切り開くために、無数のささやかな闘いを闘ってきた。彼女は明確な目的をもって人生を生き、たいへんな障害にもかかわらず、すばらしい勇気に支えられて個人的な目標を達成できた。象徴としてのヒュパティアは、ひとりの人間としてのヒュパティアについて我々が知っていることの、ほとんどを覆い隠してしまう。それでもこの人物が完全に失われてしまったわけではない。」
「ヒュパティアの勇敢な行動とは、生涯の終わりで蛮行に遭遇したことではなく、彼女が生涯を通して日々ささやかな障壁を克服していったことである。」

「ヒュパティアは三五五年頃、哲学者テオンとその妻の娘としてアレクサンドリアに生まれた。」
「後期ローマ世界の教育の慣例を(・・・)見ていくと、ヒュパティアが受けていたかもしれない教育が、幅広いものであったことがわかる。(・・・)我々の史料が語るところでは、彼女は父親から「数理科学について充分な訓練を受け」、そこから「ほかの形態の哲学」の研究へと関心を拡げ、父を「さまざまなやりかたで」超えるほどになったという。このことは、彼女が疑う余地なく、言語と文法と哲学を(もっとも広い意味で)修めたことを示唆するが、彼女が父親以外の教師のもとで学んだことがあったかについてはなにも語らない。」

「三十歳の誕生日を迎える頃には、ヒュパティアは畏敬の念をもたれるほどに知の権力をアレクサンドリアで確立していた。」
「ヒュパティアは哲学に献身するために、パッポスやテオンのような四世紀のアレクサンドリアの数学者たちの教説にみられる数学の厳格な特徴と、新プラトン主義者プロティノスとポルピュリオスの哲学大系を結び合わせて学生を教えなければならなかった。」
「ヒュパティアが三八〇年代に父の学校を継いだときのテオンの正確な年齢はわからないが、当時五十五歳を大きく越えてはいなかったようだ。」
「ヒュパティアの指導のもと、この学校は、プラトンとアリストテレスと他の哲学者の教説に関する、さらに包括的な教育を提供するようになった。」

「三八〇年代が三九〇年代に変わる頃、ヒュパティアは現代の専門職の人々の多くのキャリアの途上で遭遇するのと同様の、職業上および個人的な試練に直面した。三十五歳の誕生日までには、アレクサンドリアを代表する数学者たちの厳格さと、プロティノスとポルピュリオスのプラトン主義の洗練とを結合させる哲学の教説という、傑出したブランドを作り上げていた。ヒュパティアの非の打ちどころのない訓練と数学を扱う途方もない技法は、地中海世界における数学と科学の抜きん出や中心地におて、数学と哲学のバランスを変化させることを可能にした。」
「三九〇年代の半ばには、ヒュパティアの学校は、個人の宗教的なアイデンティティよりも、成員どうしの強い絆と社会で果たす役割を強調して、際立った知名度をもつようになっていた。」

「ヒュパティアの教えの特徴である思慮と節制はその学校の人気を高め、さらなる利益をもたらした。古代では、哲学者たちは支配者や要人に率直で公的な助言を行なうことで、ある種の特別な社会的地位を獲得した。哲学者たちはほかに享受する者のまれな言論の自由を与えられた。というのも理論上、哲学を探究すれば哲学者には、結果がどうなろうと権力者に真実を告げる義務が生じたからだ。」

「ヒュパティアのもっとも有名な学生シュネシオスが、彼女の学校を三九〇年代の半ばに去るころまでには、ヒュパティアは地上最大かつもっとも複雑な都市のひとつに教えられるこの土地で、積極的に政治的な役割を担っていた。ジェンダーのせいで都市の公職の大半には就くことができず、アレクサンドリアでの公権力の行使も阻まれたが、彼女の担った公的な役割はむしろ、教育を受けたエリートの女性はいかにふるまうべきかという無形の期待のほうに規定された。ヒュパティアが成し遂げた事跡の根底にあったのは、ヒュパティアが公に教える場を持ち哲学を実践することによって、男性が圧倒的多数でありつづける環境で働く女性だったという現実である。」
「ヒュパティアの同時代人には、哲学者としての教育を受け、哲学や数学を教えるか、ヒュパティアが果たしたとみられる公の役割を担ったこともある、四人の傑出した女性がいる。」

「ヒュパティアの殺害は帝国じゅうの人々を恐怖に陥れた。殺害に関与した狭い集団の外では、ヒュパティアの殺害を危険な犯罪者の処刑やセラピス像の破壊と同じことだと理解する者はほとんどいなかった。もっと広い世界では、ヒュパティアは犯罪者でも宗教的な象徴でもなかった。彼女は帝国の知的生活に研究をもって意義ある貢献をなし、彼女の都市の政治生活にかたちを与える公的活動を行った、声望高い哲学者であった。何十年にもわたってヒュパティアは、同胞市民の教師として、模範として、また顧問として、古代の哲学者の理想を体現してきた。ヒュパティアへの襲撃は、古代末期の社会に残っていた文化の礎への攻撃でもあった。」

「無意味に殺されて時代の境目となるまでは、ヒュパティアは複雑な変わりゆく後期ローマ世界を現実に生きた人物であった。」
「同時代人たちにとってヒュパティアの死は、アレクサンドリアの主教が自らの利益を脅かされていると感じたら、恐るべき集団を使って強迫する(場合によっては展開させる)ことが確実に可能になった、恐怖の半世紀の幕開けとなった。このようにしてヒュパティア殺害は(・・・)むきだしの力の誇示のような場面の前兆となった。ヒュパティアの死は、ある意味では、災厄の五世紀がアレクサンドリアの教会で理解されはじめた瞬間であった。それはキリスト教の力を違った、もっと穏健なやりかたで用いていた傍観者たちを、恐怖のどん底に陥れた。」
「ヒュパティアの死は、ミソジニーの時代や女性知識人の機会均等の終焉を意味しているのでもない。ヒュパティアと同じ道をたどった女性知識人がほかにいないのは事実だが、それはヒュパティアがより啓蒙の進んだ時代を生きたからではない。ヒュパティアほどの人物は二度と古代世界に現れなかったからである。」

[目次]
大斎の殺人
第1章 アレクサンドリア
第2章 幼年時代と教育
第3章 ヒュパティアの学校
第4章 中年期
第5章 哲学の母とその子どもたち
第6章 公共的知識人
第7章 ヒュパティアの姉妹たち
第8章 路上の殺人
第9章 ヒュパティアの記憶
第10章 近代の象徴
エピローグ 伝説を再考する
謝辞/訳者あとがき/図版一覧/参考文献/原註/索引


☆学術ウェブサイト『ヘルメスの図書館』bibliotheca hermetica(略称BH)から生まれた動画チャンネル「BHチャンネル」で
『ヒュパティア/後期ローマ帝国の女性知識人』の訳者
中西恭子さんの話を聞くことができます。

【対談】古代ローマの女性知識人ヒュパティア!中西恭子さん登場!
各方面でとても好評の翻訳書『ヒュパティア:後期ローマ帝国の女性知識人』を出されたばかりの宗教学者の中西恭子さんを特別ゲストに迎えて、博士論文をもとにした『ユリアヌスの信仰世界:万華鏡のなかの哲人皇帝』、そして今回の翻訳書『ヒュパティア』の背景や注目点について、たっぷりと語っていただきました(2021.12.24)

【話題】巷の反応、卒論からユリアヌス研究、博士論文、新プラトン主義との出会い、『ユリアヌスの信仰世界』、キリスト教と異教、作戦会議、出版社の提案、きっかけは SNS、著者の姿勢・視点、『ヒュパティア』の注目点、同時代の女性知識人たち、日本でのヒュパティアの知名度、ユリアノスとヒュパティア、辻邦夫の小説『背教者ユリアヌス』、女性学・ジェンダー研究への渇望。

■映画『アレクサンドリア』(2009年)予告編


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