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加藤文元『数学する精神 正しさの創造、美しさの発見』/松岡正剛『数学的』/ポアンカレ『科学と仮説』

☆mediopos3415  2024.3.24

もし高校生だった頃
ここでご紹介する加藤文元『数学する精神』を
読むことができていたら
ひょっとするとその後の進路として
数学を学ぶ方向を選択していたかもしれない・・・
そんなことを想像する

「数学とは何か」
「数学における正しさとは何か」
という問いにしっかりと向き合えたかもしれないからだ

当時は数学をはじめとした
いわゆる理系科目への関心から
理数系に特化した進学クラスに属し
もっとも関心があったのが数学だったのだが

ぼくにとって重要だったのは
「数学」あるいは「数学的なもの」とは何かであって
「計算」あるいは解答マシーンのような数学の授業は
それらとは矛盾しているとしか感じられなかった

「数」については
小学校に入ったころから
実際に目の前のものを数えるということと
算数で扱われる「数」との関係がどうにも腑に落ちず

自分に納得させるためにむりやりひねりだした答えは
「算数というのはウソの勉強である」
つまり数は目の前の現実にあるのではない
算数で扱われる「数」というのは
「算数という世界」のなかの現実である・・・
というもので
(あながち全くの誤りでもなかったようだが・・・)

そう理解することで
ぼくにとって算数そして後の数学は
魅力的な謎に満ちた不思議の「文学」のようなものになり
その世界で「正しい答え」が出るということに
一種の快感さえ覚えるようになっていったのだが・・・

高校も半ばになって躓いたのが
いわゆる「数学的帰納法」というものだった
それらの問題が解けないというのではなく
むしろするすると解けはするのだけれど
なぜそれが「証明」できたことになるのか
それがわからなくなってきたのである

つまり「数学における正しさとは何か」
という問題である

それはまるで
それまで疑いもなく使っていた文字を眺めていたら
その文字そのものの形や意味が
わからなくなってしまったようなものだった

その頃さらにもっと調べるなどして
ポアンカレの言葉など
読むようになっていたらとも思うのだが
勉強不足のため頓挫してしまうことになる

数学的な「正しさ」にはいろいろな種類があって

「基本的な概念さえ知っていれば」
「「観察」して確かめられる正しさもあれば、
実数の連続性や数学的帰納法のように、
ナイーブな「観察」によっては決して正しさを
立証できない種類のものもある」

そして「その観察できない「正しさ」を
「証明できる」ものとして確立するためには、
より深い概念装置を必要とする」

「それは常識的正しさを立証する「モデル」であり、
それを作るのは人間である」

そのことに思い至っていれば
さらに数学の世界にわけいってみようと
思ったのかもしれないのだが
その後は人間的なものへと向かっていくことになる
(数学も人間的な方向の一面でもあるのだが)

それはともかくとして
数学的な「証明」のことだが

たとえば「自然数論の公理系の無矛盾性は」
「その公理系自身によって示すことはでき」ない

その「公理系の無矛盾性は、まさにそのような
公理系「そのもの」への観察と反省から、
客観的に証明され」なければならず
さらにそれを証明するためには
「さらにメタな論理システムを必要」とする
というように
どこまでもメタレベルの証明が必要とされるため
「結局はどこかで「人間」が
採決を下さなければならない」

それは機械的な意味での「正しさ」ではなく
いわば「人間的な「真理」に対する感覚」だからである

そのことは人間とコンピュータとの関係としても
考えてみることができる

コンピュータには「正しい計算」は可能だが
「その計算をいくら続けても、
決してその「パターン」に気付いて
「後は同様だ」という認識を持つことはない」

数学的帰納法においても
黙々と計算を続ける「作業する自分」と
それをその外から見守る
「メタな自分」(「反省する自分」)がいて
「パターン」を見出せるのは後者である

どんなに高速に計算することができたとしても
コンピュータには少なくとも現在のところ
「反省する自分」はいないのである

さてちょうど松岡正剛の千夜千冊エディションの
『数学的』が刊行されたところである

松岡正剛が「数学的なるものを愉しむにあたって」
「理想のモデルにしてきたのは
一途にアンリ・ポアンカレだった」という

「ポアンカレは「数学とは、異なるものを
同じものとみなす技術である」と考えていた」
というのである

コンピューターには計算することはできても
じぶんが行っている「パターン」を認識して
そこに仮説を作り出すことはできない
仮説とはそれを広義に適用するとある意味で
「異なるものを同じものとみなす技術」でもある

おそらく数学の魅力も可能性も
そしてそこにあらわれてくる「美しさ」も
「異なるものを同じものとみな」しながら
現実を拡張し変容させる可能性でもある

そしてそれはまた
より高次のポエジーともなり得るものだ

■加藤文元『数学する精神/正しさの創造、美しさの発見(増補版)』
 (中公新書 2020/6)
■松岡正剛『数学的』(千夜千冊エディション 角川文庫 令和6年3月)
■ポアンカレ(河野伊三郎訳)『科学と仮説』(岩波文庫 2017/5)

**加藤文元『数学する精神』〜「第1章 計算できる記号」より)

*「歴史の中で「数」を捉えるとき、(・・・)数がその本性として持っている二面性、つまり
  「具体的な事物や事象と表裏一体な、量概念としての数」
という側面と
  「事物や事象からいったん離れた、抽象的な記号としての数」
という側面の間の複雑で微妙な駆け引きを目の当たりにする。時系列で見ると確かに前者の立場から次第に後者の立場に人間の視点は移っていくのであるが、どちらか一方のみに偏るということは不可能である。これらの側面は、まるで双頭鷲の頭のように数そのものの本性から離れることはできない。ただ相対的な割合が変化するだけである。」

*「一体、数学は人間を越えた実在の真理の反映なのだろうか。それともそれは人間が作ったものなのだろうか。この問いが、数学における「正しさ」や「美しさ」という観点や、第4章以降に扱われる「二項定理」という具体的な題材を通じて、この本で考えていくことになる大きなテーマである。なにしろテーマが大きすぎるから、筆者の力量ではそれに少しでも「答え「らしきものを与えることはできない。ただそれに対するいくつかの観点を提示することを目標にするのみである。それだって満足にはできないに違いない!」

**加藤文元『数学する精神』〜「第2章 ウサギとカメ」より)

*「実数や空間の「連続性」は、先に見たように極めて捉えがたいものである。7が素数であることは、例えば7の約数を全部書き出してみればわかることなのであるから、十分時間をかけて冷静に考えれば「観察」できる。(・・・)しかし1=0.9999999・・・についてはそうはいかない。それが正しいのか正しくないのかは、どんなに時間をかけてもどんなに冷静になっても「観察」することによっては判定できない。」

「言うなれば、現在の数学が持っている連続的な実数の概念、あるいは「実数論」というものは一つのモデルと捉えられるべきなのである。その「モデルとしての実数論」という視点を確率し、これを「ある模範」の厳密さのレベルにおいて満足のいくものにしたのが19世紀数学の偉大な到達点の一つであった。」

「19世紀に入って「実数の連続性」という概念はようやくそれなりのモデルを得たのであるが、それは当時の数学が「実数」を自然界にすでに存在している数として捉えるのではなく、人間が最初から作り出すべき数なのであるという発想の転換をどこかでやったからである。つまり、(・・・)いったん自然現象から離れて抽象的にそれを構築しようという視点を打ち出したからである。」

「実数からなる数直線のような「空間」という概念に「仮設的な」視点を明示的に打ち出し、上述した発想の大転換を惹起せしめたのは、筆者はリーマン(1826−66)が最初であったと考える。」

「リーマン以前古典的な空間認識は、本質的に現象の直観と表裏一体という考え方に基づいている。そのような古典的認識の中での一つの頂点は、カント哲学における空間認識の解釈であろう。カントにとって幾何学の概念は「物自体」のそれではないが、ア・プリオリな直観形式のひとつである。すなわち、カントによれば空間とは感性的表象力の形式に過ぎず、それゆえ彼は幾何学者が扱う空間の絶対性を主張するのである。」

**加藤文元『数学する精神』〜「第3章 ビールのパラドックス」より)

*「第2章では実数論の「モデル」の話をしたのであるが、実は「自然整数」についても同様のことを考えた人がいる。ペアノ(1858−1932)という人である。つまりこの人は自然数も実数のように、自然界にすでに存在するものとみなすのではなく。人間が(文字通り!)1から作るべき対象であるという発想を持ったのである。

 ペアノは自然整数論を9個の定理からなる「公理系」として構築した。そしてその最後の公理がまさに「数学的帰納法の原理」そのものである!つまり、ペアノは数学的帰納法の原理という論法は、ユークリッドの平行線公理のように証明すべきものとしてではなく「公理」として最初から仮定するという立場をとったのである。」

*「数学における「正しさ」には様々の種類がある。「7は素数である」のような、数についての基本的な概念さえ知っていれば合理的な時間内に「観察」して確かめられる正しさもあれば、実数の連続性や数学的帰納法のように、ナイーブな「観察」によっては決して正しさを立証できない種類のものもある。そしてその観察できない「正しさ」を「証明できる」ものとして確立するためには、より深い概念装置を必要とする。それは常識的正しさを立証する「モデル」であり、それを作るのは人間である。作り手が神や自然本体でなく人間である以上、そのモデルにはなにがしかの暫定的要素が必ずある。そしてそれは将来また別のモデルや発想によってとって代わられる可能性を常に持っているのである。この人間臭さが、しかし、かえって数学という世界を豊穣なものにしているのであると筆者は思う。
 数学に殺伐とした印象しか持たない人たちには、是非ともわかってもらいたいことである。」

**加藤文元『数学する精神』〜「第4章コンピューターと人間」より)

*「コンピューターは、(・・・)抽象的な代数演算ができるほどに高度な処理能力を持っている。しかもその処理速度は人間の比ではない。わずかな時間でとてつもない多くの計算をこなす。(・・・)しかし(少なくとも現在の)コンピューターは、その計算をいくら続けても、決してその「パターン」に気付いて「後は同様だ」という認識を持つことはない。そのような「パターンに気付くことができるのは、例えばプログラムを書いた人であったり。あるいはコンピューターがやっている計算を外から眺めて、何をやっているのか判断できる人だ。つまり、外から「観察」する主体がその「パターン」に気付けるのであって、黙々と計算を続ける側は決してそれに気付くことはない。

 先の帰納法の場合は、この「計算の作業をする主体」と「パターンに気付く主体」のどちらも自分の「意識」(もしくは無意識)の中にある主体なので、これらを「作業する自分」と「観察する自分」とに区別することができる。もっともこの場合、どちらも同じ人の中での話だから、後者は「反省する自分」と位置づけてもよい。いずれにしても、黙々と計算を続ける「作業する自分」を、その外から見守る「メタな自分」、「反省する自分」があって初めて「数学的帰納法の原理」に適用できる「パターン」が見出されるのである。

 「メタな自分」がいるというのは、あるいはよく言われる「柔軟な」考え方を持つということでもある。その意味でコンピューターは、まだまだ柔軟な思考をするほどには進歩していない。」

*「このことは第3章で触れた「不完全性定理」にまつわる話とも、若干似たところがあるので面白い。

 例えば第3章では、ペアノによって構築された自然数論の公理系の無矛盾性は、しかしその公理系自身によって示すことはできないと述べた。決められた規則。あるいはルールのみに従って全く「機械的に」命題を主力するという作業は、まさに公理系や計算規則といったプログラムによってコンピューターが黙々と計算する作業に似ている。そこには。その作業を冷静に観察し、判断を下す別の主体というものは存在しない。しかるに公理系の無矛盾性は、まさにそのような公理系「そのもの」への観察と反省から、客観的に証明されるべきものである。であるから、それを可能ならしめるためにはどうしても当の公理系の外に、その公理系を客観的な対象とするメタな論理システムが必要となる。しかし、そのメタな論理システムは、またその無矛盾性のためにさらにメタな論理システムを必要とし、さらに・・・・・・ということになるわけであるから。結局はどこかで「人間」が採決を下さなければならない。その際の判断基準は、もはや機械的な意味での「正しさ」ではないだろう。むしろ人間的な「真理」に対する感覚である。

 このことは数学における「真理」と「定理」の違い、という形で端的に言い表される内容とも関係している。「定理」てゃ「証明できる」という意味で「正しい」ものである。それに対して「真理」はというと(もちろん数学の用語で「真理」というものはあるわけではないので、これは筆者の思い込みに過ぎないのではあるが)証明できるとかできないとは関係なく「正しい」ことである。

 もちろん、これは「自明なこと」という意味では決してない。それはむしろ「美しいこと」とも言い得るものだろうと思う。」

**加藤文元『数学する精神』〜「間奏曲 数学の美しさ」より)

*「研究者にとっては、人間が設定する枠組みや視点にとらあれない意味でも「真の正しさ」とも言うばき「美しさ」に対する感覚は。「モデルの中での正しさ」よりさらに重大であり深刻なものであると思う。そのような「美しさ」の一つの側面を一言で(無理やし)言ってしまうと
 ・整合的であること
であろうと思われる。

 もちろん、これがすべれの美しさを言い当てているとは言えない。美しさは発見や選択のための指針としてのみ重大なのではない。もっと率直に数学を「鑑賞する」という立場から見なければ的確に述べられないような美しさもあるに違いない・

 そこで筆者なりに数学を鑑賞するときに感じる美しさというものをいくつか列挙してみた。
 ・シンプルであること
 ・普遍的であること
 ・背景に奥深さを感じさせること
 ・意外であること
 どれをとっても多分異論の出ることはないだろうが。ある意味当たり障りのないものばかりである。しかし裏を返せば、どれ一つとっても数学の美しさの(少なくとも)一面を表す言葉として、多くの人に賛同してもらえるものであるとも思う。」

**(松岡正剛『数学的』〜「追伸 何かが「数学的なもの」をめざしてきた」より)

*「証明するのは苦手だった。いまだに証明や証文から逸れた日々をおくっている。数学はずっと観照すべきものだった。ピアノもエレキも三味線も弾かないが、バッハやドビュッシーやピンク・フロイドやピアソラに、グレン・グールドやエリック・クラプトンや浄瑠璃に痺れてきたようなものだ。

 力学が何かを力学にし、物語るという行為が文学的なるものになってきたように、また神仏への憧憬が神学や仏教の様相を採ってきたように、数学とは何かが数学的なものになってきた背景をもつ。力学や文学や宗教なんてなかったように、数学は数が数学的なものに向かって発生し、転移しつづけてきたのである。この何かが数学的フォーミュラに転じてきたところを見つめるのが、ぼくのような「数学を読む者」の愉しみなのだ。

 そういうことに全力を傾ける数学的群像にも惹かれてきた。ライプニッツやガウスやポアンカレは追想するしかなく、残念ながら高木貞治や岡潔には会えなかったけれど、整数論の彌永昌吉、数学パズルのマーティン・ガードナー、超函数の佐藤幹夫、カオスの津田一郎には出会えて、数学者たちがどんな「何か」を相手に精進してきたのか、かいまみることができた。

 数学的なるものを愉しむにあたって、ぼくが理想のモデルにしてきたのは一途にアンリ・ポアンカレだった。(・・・)ポアンカレは「数学とは、異なるものを同じものとみなす技術である」と考えていた。この技術はARSである。ここにはライプニッツの「アルス・コンビナトリア」が再来する。ぼくにとっての数学は、数学者たちのすぐれた編集的結合術のARSに存分に染まることだった。

 本書は二十世紀の劈頭と後半を彩る二つの大きな事件を浮上させるように構成してみた。ひとつはヒルベルトの超数学とゲーデルの不完全性定理とチューリング・マシンの登場がもたらした連続的な裁判事件、もうひとつは非線形科学とカオスの発見がもたらした密室完全犯罪のような事件だ。

 前者の事件はコンピュータにんとるアルゴリズム全盛が蔓延して、それが数学的な事件だったことさえ忘れられそうになって、あたかも万事が「AIの未来」に託されてしまったようだが、実は「数学は言語である」という肝心な議論が残されている。後者についてはいまだ事件の正体が見定められず、余波が鳴り止まないままにある。津田一郎が早々に指摘したように、カオスを見る数学ではなく、カオスで見る数学がいったいどういうものなのか、いまなお揺動しているからだ。

 おそらくこのあとの数十年、AI派とカオス派の議論が交わることなく進捗するのではないかと心配されるのだが、もしそうだとしたら、数学と科学と工学はかなり不幸な情況に突入することになるだろう。できれば「カオスで見る数学」が広がってほしい。

 加えて本章では、数学的なセンスや数学的情緒がどういうものなのか、少しばかり補っておいた。岡潔、吉田武、森田真生の瑞々しい感覚を借りたけれど、できてばオスカー・ベッカーのフラジャイルな数学的美意識をもっと紹介したかった。壊れやすきものこそ、菫色数学の郷愁なのである。」

**(ポアンカレ『科学と仮説』〜「序文」より)

*「表面だけしか見ない観察者にとっては、科学の真理は疑いの余地のないものである。科学上の論理は誤ることはないし、学者ときおり思いちがいをすることがあっても、それは論理の規則を見そこなったためである。

(・・・)

 少しでも反省したものは、仮説の占める領分が、どんなに広いかということに気がついた。数学者は仮説なしではすまされないし、実験化学者はなおさらだということがわかった。そこで、はたしてこれらのすべての構築が極めて堅固なこのであるかどうかが疑われ、わずかの微風にあっても打ち倒されてしまうと信ずるようになった。こういうふうに懐疑的になるのは、これもまた表面的な考えである。すべてを疑うか、すべてを信ずるかは、二つとも都合のよい解決法である、どちらでも我々は反省しないですむからである。

 だから簡単に判決をくだしたりしないで、仮説の役割を、念いりに検べてみるなきである。」

*「数学の推理の本性は何であるか。それは普通、人が信じているように、ほんとに演繹的なものであるか。深く研究してみると、全くそうではないということがわかる。これにはある程度まで帰納的な性質が加わっていて、それによってこそ多くの結果を挙げ得るのである。」

**(ポアンカレ『科学と仮説』〜「第一章 数学的推理の本性」より)

*「数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次て引き出すことはできるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。」

*「我々は数学的帰納法によらなければ上にのぼることができない。これだけが我々に新しいことを教えるのである。ある点においては物理学の帰納法とちがっても、同じように結果の多いこの数学的帰納法の助けをかりないと、作図も数学を想像する力がないことになる。

 (・・・)この帰納法は同じ際限なく繰り返せるのでなければ、可能ではないことに注意しよう。将棋の理論がいつになっても科学になることがないのはこのためである。というのはひと勝負に使われるさまざまな手は互いに似ていないからである。」

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